2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』で、豊臣秀吉と秀長の妹・あさひを演じている倉沢杏菜さん。
2024年には『光る君へ』で藤原妍子、2025年には連続テレビ小説『ばけばけ』でチヨを演じ、NHKの時代ものでも顔を見る機会が増えました。
- 緑の多い住宅街で外遊びをしながら、家では母が見せた『ハイスクール・ミュージカル』を妹と繰り返し見ていた。
- 高校2年生の進路迷いの時期に、母の後押しもあり主役オーディションへ応募したことが俳優への入口になった。
- 現在の道につながる原点:オーディション
ところが、倉沢さんが本格的に芝居を始めたのは高校生になってからで、演技経験のない高校生から、約4年で2度目の大河ドラマへ進んでいます。
それ以前の生活をたどると、5歳から続けたクラシックバレエ、学校の会議に参加したくて立候補したクラス委員、生徒会や茶華道部、英語弁論大会、高校のダンス部と、芸能界とは別の場所でさまざまな経験を重ねていました。
そして高校2年生のとき、いつものように見ていたInstagramのストーリーズに流れてきた一つの広告から、俳優になるまでの流れが動き始めます。
倉沢杏菜の生い立ちと家族|横浜の緑の中で遊んだ幼少期
倉沢杏菜さんは2005年3月18日生まれ、神奈川県出身です。
所属事務所のプロフィールでは神奈川県出身とされ、本人は子ども時代について「横浜出身」と話しており、横浜の住宅街で過ごした思い出を数多く語っています。
父・母・3歳下の妹と愛犬|秘密基地や木登りで遊んだ子ども時代
子どものころの家族は、父親、母親、倉沢さん、3歳年下の妹に愛犬を加えた暮らしでした。
家の周辺は高い建物があまりなく、近くには土手や緑道もある環境で、公園へ行けば友達と秘密基地を作ったり、木に登ったりして遊んでいました。
家では妹と『プリキュア』ごっこやおままごとをすることもありましたが、静かに座って本を読み続けるより、外へ出て体を動かす遊びを好んでいたそうです。
習い事では公文にも通い、得意な教科がある一方、算数の宿題をなかなかやらず母親に叱られたこともありました。
母が見せた『ハイスクール・ミュージカル』を妹と車で大熱唱
倉沢さんが幼稚園のころ、母親が家で見せてくれたのが映画『ハイスクール・ミュージカル』でした。
DVDは一度見て終わりではなく、シリーズ3作品をほぼ毎日のように繰り返し見るほど夢中になり、歌やダンスだけでなく英語にも興味が広がっていきます。
妹とは車の中でもサウンドトラックを流し、耳で覚えた英語の歌を一緒に歌っていました。
「よく妹と車で『ハイスクール・ミュージカル』のサウンドトラックを流しながら大熱唱していました(笑)」
STREAM
このころに気になり始めた英語は、中学校の弁論大会や、その後の大学進学にも続いていきます。
5歳でクラシックバレエを始め、舞台に立つ楽しさを知る
もう一つ、幼いころから長く続いたのがクラシックバレエでした。
母親自身にもバレエ経験があり、5歳ごろの倉沢さんを体験レッスンへ連れて行ったところ、本人が自分から「やりたい」と決めました。
練習では緊張することもありましたが、発表会になると気持ちが切り替わり、きらびやかな衣装やトウシューズを身につけ、大きな舞台で体いっぱいに表現する時間を楽しんでいました。
踊ったあとに家族や友達の母親たちが喜んでくれることも、舞台に立つ楽しさの一つになっていました。
家族情報
公開情報で確認できている家族について、続柄・職業・補足・出典を整理しています。
小学校時代|週6〜7日のバレエと「会議に出たい」クラス委員
小学生になると、バレエは「習い事」という言葉では収まらないほど生活の大きな部分を占めるようになります。
一方の学校では、舞台とはまったく違う理由から人が集まる場所へ参加していました。
『シンデレラ』では妖精役、バレリーナを夢見てほぼ毎日教室へ
バレエの発表会で特に覚えている作品の一つが『シンデレラ』で、同年代の子どもたちと一緒に妖精役を踊りました。
小学校高学年になるころには、子どものころの夢としてバレリーナを思い描くようになり、レッスンの回数も増えていきます。
多い時期には週6〜7回、ほぼ毎日のようにバレエ教室へ通っていました。
「小学校高学年のときは週6~7回と、ほぼ毎日通っていました。」
STREAM
学校が終われば教室へ向かう日が続き、幼いころに始めたバレエは、小学生の生活そのものに深く入り込んでいました。
特別クラスで泣く日々を経験し、8年間続けたバレエから離れる
高学年では友達と一緒に特別クラスへ選ばれ、レッスンの厳しさも変わりました。
一緒に選ばれた友達は怒られないのに、自分は先生から毎日のように強く指導され、教室へ行く前にも帰宅したあとにも泣くことがあったといいます。
それでもすぐに辞めたわけではなく続けましたが、中学校へ入るころ、5歳から8年間続けてきたバレエを離れました。
後年になって当時を振り返ると、厳しかった先生も自分を上達させようとしていたのだと受け止められるようになったそうです。
月1回の学校会議に出たくて、友達とクラス委員になった
バレエに多くの時間を使っていた一方、小学校高学年ではクラス委員にもなりました。
きっかけは「リーダーとして目立ちたい」というものではなく、月に1度開かれていた学校全体の会議へ出てみたかったからでした。
友達と一緒に委員へ立候補し、みんなで考えていたものが会議を経て少しずつ形になっていく過程を楽しんでいました。
倉沢杏菜さんは2005年3月18日生まれ、神奈川県出身です。
子どものころの家族は、父親、母親、倉沢さん、3歳年下の妹に愛犬を加えた暮らしでした。
小学生になると、バレエは「習い事」という言葉では収まらないほど生活の大きな部分を占めるようになります。
中学生になった倉沢さんの放課後は、それまで大きな割合を占めていたバレエから少しずつ別の活動へ移っていきます。
高校へ進学したころの倉沢さんは、まだ芸能界を具体的な進路に決めていたわけではありませんでした。
中学校時代|バレエを離れ、生徒会・茶華道・英語へ
中学生になった倉沢さんの放課後は、それまで大きな割合を占めていたバレエから少しずつ別の活動へ移っていきます。
生徒会、茶華道、百人一首、英語と、この3年間には後の仕事で再び顔を出す経験がいくつもありました。
バレエを辞めてもストレッチやシューズを手放せなかった時期
8年間続けたバレエを辞めたからといって、次の日から完全に離れられたわけではありませんでした。
もうレッスンへ行く必要はないのにストレッチをしたり、バレエの映像を見たり、ときにはシューズを履いたりしていました。
本人が後に「バレエロス」と表現する時期を経て、空いた放課後の時間に新しい活動が増えていきます。
生徒会で卒業準備|遅くまで会議し、廊下を飾った
中学校では、小学校で一緒にクラス委員をしていた友達と生徒会へ入りました。
ここでも会議そのものを楽しみ、何もないところからみんなで考え、学校行事を形にしていく時間を過ごします。
3年生を送り出す時期には、学校へ遅くまで残って会議をし、卒業生を迎えるために廊下の飾り付けもしていました。
当時の先生からは、倉沢さんが会議にいると場が和むという趣旨の言葉をかけられたことも本人が覚えています。
茶華道部で着付けとお茶、百人一首大会では準優勝
部活動では茶華道部を選びました。
もともとはバレエと両立しやすい週1回ほどの活動を考えて選んだ部でしたが、バレエを離れたあともそのまま続けています。
部ではお茶や生け花だけでなく、着物の着付け、畳の上での作法、百人一首などにも触れました。
夏の活動では練り切りを作ることもあり、日本文化に触れる時間が増えていきます。
校内の百人一首大会では、部員たちと放課後まで残って練習し、「ちはやふるみたい」に本気で取り組んだ結果、準優勝しました。
英語弁論大会に挑戦|英語劇を見た母から「女優」という選択肢
中学校では、英語の先生から声をかけられて横浜市の英語弁論大会にも出場しました。
夏休みを使って本格的にスピーチを練習したことで、それまで映画や音楽から入っていた英語を、さらに学びたいと思うようになります。
同じ中学時代には授業参観で英語劇を披露する機会もあり、それを見た母親から「女優さんをやってみたら?」という選択肢を示されました。
その場ですぐ芸能活動を始めたわけではありませんが、「俳優」が初めて職業の候補として本人の中に入った出来事でした。
高校時代|ダンス部と留学断念、Instagramの広告が転機に
高校へ進学したころの倉沢さんは、まだ芸能界を具体的な進路に決めていたわけではありませんでした。
好きだった音楽からダンスを続け、海外への興味から留学も考えながら、ごく普通に高校卒業後の進路を探していました。
TWICEに憧れてダンス部へ|ガールズヒップホップを踊った高校生活
倉沢さんの家では母親がBIGBANGのファンだったため、小学生のころからK-POPを耳にする機会がありました。
中学生になるとTWICEが好きになり、休み時間に友達と振り付けを踊ることも増えていきます。
高校ではそのままダンス部へ入り、ガールズヒップホップを中心に踊っていました。
ただし高校生活はコロナ禍と重なり、文化祭には入場制限があり、他校の友達を呼んで大勢の前で踊るような機会は多くありませんでした。
留学制度のある高校を選ぶも、コロナ禍で留学できず
高校を選ぶ段階では、幼いころから興味を持っていた英語をもっと学ぶため、留学制度のある学校を選んでいました。
ところが入学後は新型コロナウイルスの影響が続き、予定していた留学は実現しませんでした。
海外へ行く計画がなくなったまま高校生活が進み、2年生になると卒業後に何をするのかを考える時期がやってきます。
高校2年の進路迷い|母のひと言で主役オーディションへ
高校2年生になった倉沢さんには、まだ「この職業に進みたい」とはっきり言えるものがありませんでした。
バレエを続けていたころから表現することへの興味は残っていましたが、それをそのまま仕事へ結びつけて考えていたわけでもありません。
そんな時期、Instagramのストーリーズにレプロエンタテインメントの主役オーディションの広告が流れてきました。
以前から好きだったモデルが所属している事務所だったこともあり広告が目に留まり、母親へ相談すると「せっかくだから受けてみれば」と背中を押されます。
中学時代に母から初めて示された「女優」という道が、高校2年生で実際の応募先として目の前に現れました。
「人生一度きりだし挑戦してみたい」
レプロ主役オーディション
初めての本格演技が「純粋に楽しい」まま最終ワークショップへ
選考が進み、最後の約1か月は参加者が演技に取り組むワークショップ形式になりました。
学校の英語劇を除けば、倉沢さんにとって本格的に芝居へ取り組むのはこのときが初めてでした。
最終日には浅草の劇場で事務所の社員が見守る前に芝居をする場面もありましたが、審査されている緊張より、芝居をする時間の楽しさのほうが強く残りました。
それまで経験のなかった演技を、最終選考まで「純粋に楽しい」と感じながら続けていました。
約5000人の主役オーディションに合格|高校生のまま俳優へ
長い選考が終わると、倉沢さんと母親は合否について期待を膨らませるより、「すごく良い経験ができたね」と話していました。
本人も自分が選ばれるとは思っていなかった中で、結果が届きます。
演技未経験から合格|担当マネージャーが選考中に見ていた変化
2022年の「レプロ30周年主役オーディション」には約5000人が応募し、倉沢さんはその中から合格者に選ばれました。
演技経験がほとんどない高校生のまま、約5000人が集まったオーディションを通過したことが俳優生活の出発点です。
選考に関わり、その後担当マネージャーとなった若生るいさんは、最初に会ったときの明るさや表情の豊かさ、体の使い方に加え、数週間の選考中に見えた変化を挙げています。
「オーディションの中で、毎回成長しているのがわかるほど吸収力がありました。」
レプロ主役オーディション
最終選考では事務所内でも意見が一致し、若生さんはオーディションの段階から倉沢さんを自分が担当したいと考えていました。
2023年『パパとなっちゃんのお弁当』で俳優デビュー
所属後も高校生活と芸能活動を両立し、2023年、日本テレビ系『ZIP!』内で放送されたドラマ『パパとなっちゃんのお弁当』で俳優デビューしました。
演じたのは牧尾奈菜で、高校卒業を控えていた時期に映像作品の現場へ入るようになります。
オーディションのワークショップで初めて本格的な芝居に触れてから、1年もたたないうちに撮影現場で役を演じる側へ移っていました。
『18歳、つむぎます』2週間の福山ロケ|初めて長く親元を離れる
高校卒業の時期には、「私の卒業」プロジェクト第4期の映画『18歳、つむぎます 私の卒業-第4期-』に田中敬子役で参加しました。
福山市でのロケは約2週間に及び、撮影メンバーとホテルで暮らす時間も続きました。
地元のパン屋から差し入れをもらった日は出演者がホテルの部屋へ集まり、パンを食べながら過去の「私の卒業」シリーズを見て語り合っています。
撮影のない日には仲間と鉄板焼き店やロケで使ったパン屋へ出かけ、作品の外でも一緒に過ごす時間が増えていきました。
一方では、撮影現場へスマートフォンを置いたままホテルまで帰ってしまい、タクシーで取りに戻ったこともあります。
それまで2週間も親元を離れて生活した経験がなく、この福山ロケが長く家族と離れて過ごす初めての機会になりました。
「わたしは2週間も親元を離れたことがなくて」
Steenz
ワークショップで周囲の出演者の熱量に圧倒されたときには、自分の役だけを考えるのではなく、現場で笑顔を見せたり声を掛けたりすることから始めるようになりました。
小学生のころ学校の会議で楽しんでいた「みんなで何かを作る時間」が、今度は映像作品の現場に変わっていました。
大学進学と2024年|英文学を学びながら俳優として役を広げる
高校卒業後は芸能活動一本に絞らず、以前から考えていた大学進学も実現しました。
大学生活が始まった翌2024年には映像作品への出演が続き、仕事と学業を並行する生活になります。
大学名は公表されていない|英文学を専攻し、韓国語も学ぶ
倉沢さんが通っている大学名は本人や所属事務所から公表されていません。
一方で、大学では文学部で学び、英文学を専攻していることは本人インタビューで明らかになっています。
第二外国語には韓国語を選び、英語だけでなく別の言語にも触れています。
高校で実現しなかった留学への興味も消えたわけではなく、将来は英語や韓国語を使う海外作品への出演にも関心を持っています。
大学にはK-POPのカバーダンスをするサークルもあり、俳優の仕事がある中でも、学生として音楽やダンスと接する時間が続きました。
『VRおじさんの初恋』ナオキ役|バレエで培った身体表現も生きる
2024年4月にはNHK夜ドラ『VRおじさんの初恋』でナオキ役を演じました。
前年10月ごろに受けたオーディションでは緊張が強く、自信を持てない状態だったため、合格を知ったときは本人も驚いたといいます。
撮影前の本読みでは野間口徹さんや井桁弘恵さんらと席を囲み、野間口さんがナオキの台詞を読んで見せたことから役のイメージをつかんでいきました。
役を作る際には、現代とは違う世代の背景を調べたり、両親へ話を聞いたり、街を歩く人の姿を観察したりする作業も増えました。
5歳から続けたバレエについても、言葉を使わず身体で役や物語を表現する経験が、俳優として体を使うときに生きていると話しています。
倉沢さん自身が後に『VRおじさんの初恋』を俳優としての転機になった作品として挙げるほど、大きな現場になりました。
『ビリオン×スクール』で学生のうちに学園ドラマへ
同じ2024年7月期には、フジテレビ系『ビリオン×スクール』に松下リナ役でレギュラー出演しました。
当時は自分自身も大学生で、少し前まで高校に通っていた中、以前から憧れていた学園ドラマで生徒役を演じることになりました。
2023年のデビュー直後には同年代の高校生を演じていましたが、ここでは地上波ゴールデン帯の連続ドラマへ仕事の場が広がっています。
『光る君へ』藤原妍子役|中学の着付け経験が大河の所作へ
さらに2024年、NHK大河ドラマ『光る君へ』で藤原道長の次女・藤原妍子を演じました。
大河ドラマの現場では着物を着た動きや時代に合った所作の稽古がありましたが、ここで中学校の茶華道部で経験したことが役立ちます。
中学時代に習った着付けや畳の上での作法が、数年後の平安時代を描く作品で実際に使える経験になりました。
本人によれば、衣装に関わる稽古でも着物を自分で着られる部分があり、和装での動きにも強い抵抗なく入れたそうです。
バレエで身につけた身体表現だけでなく、芸能活動を始める前に選んだ部活動まで、現場で別の形になって戻ってきました。
朝ドラ『ばけばけ』から『豊臣兄弟!』へ|俳優4年目の現在
初めての大河を経験したあとも、大学生活と並行しながら出演作が続きました。
2025年から2026年にかけては朝ドラ、そして再び大河ドラマへと進みます。
2025年『ばけばけ』チヨ役で朝ドラ初出演
2025年度後期のNHK連続テレビ小説『ばけばけ』では、倉沢さんにとって初めての朝ドラ出演となりました。
演じたチヨは、髙石あかりさん演じる松野トキと織物工場で働く仲間の一人です。
『光る君へ』では平安時代の貴族の娘を演じた一方、『ばけばけ』では明治の松江で働く若い女性となり、同じNHKの時代作品でも違う生活を送る人物を演じました。
『豊臣兄弟!』あさひ役|オーディション前に京都・静岡へ向かった
2026年にはNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』へ出演し、豊臣秀吉と秀長の妹・あさひを演じています。
あさひ役もオーディションで決まりましたが、2022年に初めて芝居のオーディションを受けたときとは、選考へ向かう前の行動が大きく変わっていました。
倉沢さんは選考前の段階で人物について本を読み、さらに京都と静岡へ足を運んで、あさひにゆかりのある墓を訪ねました。
まだ役を得られるか分からない時点で、先に史料を読み、ゆかりの土地まで訪ねてからオーディションへ向かったのです。
「あさひさんの役作りをすべて終えて挑みたい」
Real Sound
墓前ではオーディションを受けることを伝え、その旅自体を「役作り旅」にして、あさひの人生を調べながら選考へ備えました。
高校2年生ではInstagramの広告を見て初めて芝居の世界へ入り、俳優4年目には役を得る前から人物の生涯を追って現地へ向かうようになっていました。
横浜で木に登り、妹と歌い、バレエ教室へほぼ毎日通っていた子ども時代から、学校では生徒会や茶華道、英語、ダンスへと経験するものが増えていきました。
高校2年生で偶然目にしたオーディションが俳優になる転機となり、それまで別々に続けてきた身体表現や語学、日本文化との経験も撮影現場で使う機会が生まれています。
現在は『豊臣兄弟!』のあさひ役で再び大河ドラマに出演し、高校時代に初めて芝居へ触れたところから続く俳優生活を歩んでいます。
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