高校通算140本塁打を記録し、日本のプロ野球を経由せずアメリカの大学へ進んだ佐々木麟太郎さん。
2026年7月にはMLBドラフト8巡目で指名したマイアミ・マーリンズと契約し、大学野球からアメリカのプロ野球へ舞台を移しました。
- 幼いころから父が率いる花巻東高校の野球を見て育ち、甲子園でプレーすることを目標にしていた。
- 高校:花巻東高等学校
- 幼少期から花巻東の野球に憧れ、同校で野球をすることを明確な目標にした。
高校時代から大きな注目を集めてきましたが、時間をさかのぼると、麟太郎さんの野球人生は父が監督を務める花巻東高校のグラウンドへ幼いころから通っていた少年時代から始まっています。
父は菊池雄星投手や大谷翔平選手を高校時代に指導した佐々木洋監督で、年下の妹・秋羽さんも野球を続ける家族の中で育ちました。
それでも、花巻東への進学も、アメリカの大学を選んだことも、マーリンズ入りも、父と同じ道をそのままたどった結果ではありませんでした。
佐々木麟太郎の生い立ちと家族|野球が日常だった少年時代
佐々木麟太郎さんは2005年4月18日生まれで、少年時代を岩手県北上市で過ごしました。
家族は両親と妹の4人で、父の仕事も、兄妹が選んだスポーツも、身近なところにいつも野球がありました。
3歳ごろには花巻東のグラウンドでバットを握っていた
父・洋さんは2000年に花巻東高校へ教員として入り、2002年に硬式野球部監督へ就任しています。
麟太郎さんが生まれた2005年には、父はすでに同校を率いる監督で、その年の夏には花巻東を甲子園へ導いていました。
そのため麟太郎さんにとって花巻東は、高校進学を考えるようになって初めて知った学校ではありません。
幼いころから父がいる花巻東のグラウンドへ出入りし、野球部員が練習する光景を見ながら育ちました。
2025年に少年時代を振り返ったインタビューでは、野球を始めた時期についてこう話しています。
「3歳の頃にはもうバットを握っていたと思います。」
FERGUS
小学1年生の冬になると、地元の江釣子ジュニアスポーツ少年団へ入り、本格的に選手として野球を始めました。
父・佐々木洋監督、母、妹・秋羽と育った4人家族
父の佐々木洋さんは岩手県出身で、国士舘大学を卒業後に指導者の道へ進み、現在も花巻東高校硬式野球部監督を務めています。
麟太郎さんの1歳年下の妹が佐々木秋羽さんで、秋羽さんも江釣子ジュニアスポーツ少年団、金ケ崎リトルシニアを経て花巻東高校女子硬式野球部へ進みました。
秋羽さんが覚えている兄との最初の野球の記憶は、幼稚園の5歳ごろ、おもちゃのトスマシンとプラスチック製のバットを使って一緒にボールを打ったことでした。
兄妹はその後も同じ少年団とシニアで野球を続け、秋羽さんは兄との関係を「親友みたいな関係」と表現しています。
2024年夏には、アメリカでサマーリーグを戦っていた麟太郎さんが予定を前倒しして帰国し、甲子園で行われた女子高校野球選手権決勝まで妹の応援に駆けつけました。
菊池雄星と大谷翔平を身近に見ながら育った
父が花巻東を指導していたことで、麟太郎さんの少年時代には後にMLBへ進む菊池雄星投手と大谷翔平選手も身近にいました。
菊池投手がエースだった2009年のセンバツで花巻東が準優勝したころ、麟太郎さんはまだ3歳でした。
大谷選手が在学していたころにもグラウンドへ足を運び、のちに本人は、体が大きかった自分に菊池投手が靴のお下がりをくれ、大谷選手からも野球道具をもらったと明かしています。
家族で甲子園へ花巻東を応援しに行ったことについて、2024年にはそれが唯一と言える家族旅行だったとも話していました。
ただし、麟太郎さんがMLBを具体的に意識したきっかけは花巻東の先輩だけではなく、小学校高学年のころにYouTubeで見たバリー・ボンズの打撃でした。
映像を見るとすぐ外へ出て、ボンズのスイングをまねしながら素振りをしたといい、「遠くへ飛ばす打者」への興味は小学生のころにはすでにはっきりしていました。
家族情報
公開情報で確認できている家族について、続柄・職業・補足・出典を整理しています。
| 父 |
佐々木洋
花巻東高校野球部監督
監督として公に活動している父親。幼少期から花巻東の野球を身近にする環境をつくった。 |
信頼できる媒体 出典を見る |
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小中学校時代|江釣子から金ケ崎リトルシニアへ
小学校では地元の少年団、中学校では硬式野球のクラブチームへ進み、野球に使う時間はさらに増えていきました。
一方、学校では野球だけをしていたわけではなく、中学3年になると別の役割も引き受けています。
小学1年冬に少年団へ入り、ボンズを見てMLBを意識した
江釣子小学校に通っていた麟太郎さんは、小学1年の冬に江釣子ジュニアスポーツ少年団へ入りました。
好きな選手として挙げていたのは菊池雄星投手、大谷翔平選手、バリー・ボンズで、読書や歴史にも興味を持つ少年でした。
体は小さいころから大きく、中学時代には1度の食事で白米を丼3杯とラーメン3人前食べたり、5合炊きの炊飯器を1人で空にしたこともあったと伝えられています。
食事量も練習量も増えていく中で、中学校からは軟式の学校野球部ではなく金ケ崎リトルシニアで硬式野球を続けました。
江釣子中では生徒会長、野球ではキャプテンを務めた
江釣子中学校に進学した麟太郎さんは、金ケ崎リトルシニアで大谷翔平選手の父・大谷徹さんから指導を受けました。
中学3年ではシニアのキャプテンを務めただけでなく、学校では生徒会長も務めています。
本人は後年、チームをまとめる役を率先して担いたい気持ちが強かったと振り返っており、野球の練習だけで一日が終わる中学生ではありませんでした。
金ケ崎リトルシニアでは2019年の日本リトルシニア東日本選抜野球大会で優勝し、中学卒業が近づくころには高校進学後の打撃も注目されるようになります。
自宅で毎日約800球|父から教わった「優先順位」と「状況判断」
中学時代の生活で特に具体的なのが、自宅で続けていたティー打撃です。
ミカンやリンゴに使われていた箱へ1箱約120球を入れ、それを6〜8箱分、毎日打っていました。
単純計算でも1日700〜900球ほどになり、本人は約800球と説明しています。
父から繰り返し言われていたのが「優先順位」と「状況判断」で、疲れて打ちたくない日でも、世界で戦う打者になりたいなら今何を先にするべきかを考えていたといいます。
遊びたい日も、まずその日の打撃を終わらせてから自分の時間へ移る生活を中学生のころから続けていました。
大谷翔平の父・徹さんが見た中学生の佐々木麟太郎
中学時代を間近で見た大谷徹さんは、3年生だった麟太郎さんの打撃について、社会人クラスと感じるほどの力があり、芯で捉えたときの打球速度と飛距離を評価していました。
そして中学卒業後の進路を考えたとき、麟太郎さんが希望した学校が花巻東でした。
ところが、その選択に最初から積極的だったわけではなかったのが、ほかでもない父・洋さんでした。
幼いころから父が率いる花巻東高校の野球を見て育ち、甲子園でプレーすることを目標にしていた。
Number Web|父は監督『他校の野球部を勧めていた』…佐々木麟太郎が花巻東進学を強く希望したワケ父・佐々木洋氏の指導や花巻東の野球環境が、野球人生の原点になった。
Number Web|父は監督『他校の野球部を勧めていた』…佐々木麟太郎が花巻東進学を強く希望したワケ佐々木麟太郎さんは2005年4月18日生まれで、少年時代を岩手県北上市で過ごしました。
小学校では地元の少年団、中学校では硬式野球のクラブチームへ進み、野球に使う時間はさらに増えていきました。
父が監督を務め、菊池雄星投手や大谷翔平選手が卒業した花巻東は、麟太郎さんが幼いころから憧れてきた学校でした。
2021年に花巻東へ入学すると、1年春からベンチ入りし、秋には主軸打者として全国から注目されるようになりました。
幼少期から花巻東の野球に憧れ、同校で野球をすることを明確な目標にした。
Number Web|父は監督『他校の野球部を勧めていた』…佐々木麟太郎が花巻東進学を強く希望したワケ花巻東高校時代|父に反対されても選んだ学校
父が監督を務め、菊池雄星投手や大谷翔平選手が卒業した花巻東は、麟太郎さんが幼いころから憧れてきた学校でした。
その一方で、親子が監督と選手として同じチームに入ることには、父も本人も難しさを感じていました。
「花巻東でできないなら」父とは違う考えで決めた進路
中学卒業が近づくと、父は麟太郎さんへほかの高校という選択肢を何度も示しました。
しかし本人の気持ちはほとんど動かず、小さいころから見てきた花巻東のユニホームを着って野球をすることを望んでいました。
父に対して、花巻東でできないなら野球をやめるかもしれないというほどの意思を見せています。
そこで間に入ったのが、金ケ崎リトルシニアで麟太郎さんを指導した大谷徹さんや、花巻東のコーチ・部長ら周囲の大人たちでした。
大谷徹さんは洋監督のもとを訪れ、麟太郎さんを花巻東へ入れてもらえないかと頼んだことを後に明かしています。
「父が監督だから花巻東へ入った」のではなく、むしろ父が慎重になる中で本人が花巻東を選びました。
1年春からベンチ入り|高校通算140本塁打へ進んだ3年間
2021年に花巻東へ入学すると、1年春からベンチ入りし、秋には主軸打者として全国から注目されるようになりました。
1年秋には高校通算40本を大きく超え、明治神宮大会でも本塁打を放っています。
ただ、順調に本塁打だけを増やした3年間ではありません。
中学時代から腕のしびれや脱力感を伴う胸郭出口症候群の症状があり、1年冬には時期を見計らって両肩の手術を受けました。
リハビリを経て2年春のセンバツへ出場し、3年夏には花巻東を甲子園ベスト8まで進めています。
高校最後の本塁打数は通算140本となり、高校野球で注目される長距離打者になりました。
1日約1000球の打撃練習と、故障を支えた周囲の人たち
高校に入ってからも打つ量は減らず、卒業前に練習場を案内した際には、最も多いときで1日に1000球ほど打っていたと説明しています。
ウエートトレーニングでは重量挙げで実績を持つ冨田史子さんから指導を受け、筋力だけでなく、その力を打撃で瞬間的に出すためのトレーニングにも取り組みました。
一方、故障した体の管理には花巻東の専属トレーナー・昆太一さんや、寮の近くで整骨院を営む小菅智美さんらが関わっていました。
昆さんによると、麟太郎さんは指示された内容をこなすだけでなく、自分がどう考えているかを話し、「こういう方法はどうですか」と自分から案を出すこともあったそうです。
小菅さんにも体の状態を具体的に言葉で伝えており、打撃練習と同時に、自分の体がどうなっているかを周囲へ説明することも高校生のころから行っていました。
38人全員が野球部だった3年G組と寮生活
花巻東での学校生活も一般的な高校生とは少し違っていました。
3年時に在籍した3年G組は約38人全員が野球部員でした。
授業を受ける相手も、練習する相手も、寮で生活する相手もほとんど同じで、本人は卒業前に一般の生徒と話す機会があまりなかったと振り返っています。
寮では約2年半を過ごし、夜になると仲間の部屋へ集まって話したり、食堂で映画を見たり、風呂で長く話し込んだりしていました。
チームメートの部屋で話しているうちにそのまま寝てしまったり、別の部屋でカラオケを始めたりしたこともあり、グラウンド外では高校生らしい時間も過ごしています。
高校卒業前に変わった進路|プロ志望届を出さずアメリカへ
高校通算140本塁打まで数字を伸ばした3年秋、次に注目されたのはプロ野球ドラフトでした。
ところが麟太郎さんはプロ志望届を提出せず、日本のプロ野球とは別の進路を探し始めます。
「花巻東フィロソフィー」に書いていた野球後までの人生計画
進路を考える土台の一つになったのが、花巻東野球部で毎日書いていた「花巻東フィロソフィー」という日誌でした。
そこには前日の反省、当日の目標、練習課題やライバルだけでなく、年齢ごとの将来像を書くページもあります。
入学したころの麟太郎さんは、日本のドラフトでプロへ入り、その後MLBへ進む道を想定し、「ドラフト1位」など具体的な目標も書いていました。
しかし、ページは野球選手としての予定で終わらず、本人は40歳ごろまで現役を続け、その後どう生きるかまで記入していました。
卒業が近づくにつれ、目の前のドラフトだけでなく、その先にある大学での勉強や引退後の生活も進路選びへ入ってきます。
「野球人生だけではないというのが第一です」
テレビ朝日「羽鳥慎一50の質問」
高校卒業後すぐプロへ入る道から、野球と学業を同時に続けられる大学へ進む道へ考えが変わりました。
英語は苦手でも、野球と勉強を求めて米大学を選んだ
進学先として検討したのは日本の大学だけではなく、アメリカの大学でした。
本人によると、日本の大学、NPB、アメリカの大学、さらにマイナー契約を前提としたMLB球団からの話など複数の選択肢がありました。
花巻東の先輩・菊池雄星投手から聞いたアメリカの野球環境も判断材料になり、自分の長所である打撃を伸ばせる環境を考えるようになります。
父からは、目先だけではなく長期で人生を見るようにという助言も受けました。
ただし、アメリカを選んだ時点で英語が得意だったわけではありません。
「英語力はほぼゼロ。全く聞き取れませんでした」
Full-Count
高校では社会系の科目を得意としていた一方、英語は好きではなく苦手だったと話しており、部活動引退後は週3〜4回ほどオンライン英会話にも取り組みました。
通訳を付けてもよいと提案する大学もあったものの、それも断り、自分から英語を話さなければならない環境へ入る道を選んでいます。
スタンフォード大学と契約し、高校卒業後に渡米した
2024年2月、進学先はカリフォルニア州のスタンフォード大学に決まりました。
野球部を率いるデービッド・エスカー監督は、強打だけでなく大学教育とMLBを目指す道の両方を求めている点も含めて麟太郎さんを迎えています。
3月に花巻東を卒業すると渡米し、春にはStanford Baseballの練習へ参加しました。
この時期は大学公式戦には出場せず、夏になるとTrenton ThunderでMLB Draft Leagueに出場し、その後はAppalachian LeagueのGreeneville Flyboysでも実戦経験を積みました。
日本の高校野球からいきなり大学公式戦へ入るのではなく、2024年はアメリカでの生活と野球に体を慣らす期間を挟んでいます。
スタンフォード大学時代|野球と学業を同時に始める
スタンフォードでの生活が本格化すると、高校時代とは別の忙しさが始まりました。
広いキャンパスを移動し、英語で授業を受け、午後は野球部で練習や試合に参加する生活です。
2024年は練習参加から始まり、米サマーリーグで実戦へ
スタンフォードのキャンパスは非常に広く、麟太郎さんは普段の移動にロードバイクを使うようになりました。
授業には大人数の講義もある一方、本人が受けていた科目には少人数で会話しながら進めるものもありました。
英語での会話が十分にできなかった当初は、チームメートとGoogle翻訳を開いたスマートフォンを渡し合って会話することもありました。
それでも通訳へ頼るのではなく、分かる範囲で自分から話すことを続け、チームメートと授業を一緒に受けたり、互いに勉強を助けたりする関係ができていきます。
2025年は全52試合に先発し、学業でもACC表彰を受けた
2025年2月、大学1年目の公式シーズンが始まると、麟太郎さんは開幕から全52試合に先発出場しました。
最初の大学本塁打が出たのは3月15日のデューク大学戦です。
この日は大学公式戦初本塁打に続いてもう1本を放ち、2本目は10点差のコールド勝ちを決めるサヨナラ3ランになりました。
シーズン成績は打率.269、7本塁打、41打点でした。
野球だけでなく、シーズン後にはACC All-Academic Teamにも選ばれています。
大学スポーツを続けながら一定以上の学業成績も満たした選手が対象となる表彰で、高校卒業時に求めていた「野球と勉強の両立」が実際の大学生活に入っていきました。
長距離遠征の機内でも宿題|英語で暮らす大学生活
スタンフォードが所属するACCにはアメリカ東部の大学も多く、西海岸のキャンパスから長距離移動を繰り返す必要があります。
本人によると、シーズン中は約2週間に1度のペースで東海岸への遠征があり、片道約6時間のフライトになることもありました。
その機内は休憩時間ではなく宿題を進める時間になり、飛行機の中でほとんど寝た記憶がない時期もあったといいます。
試合がある日でも午前中に授業を受け、午後に球場へ移動してトレーニングを行い、そのままナイトゲームに入る日がありました。
2026年になると、朝から晩までの予定を30分単位で組みながら、授業、ウエート、全体練習、個人練習を動かしていました。
高校では寮と教室とグラウンドを同じ仲間と動いていた生活が、アメリカでは授業・遠征・英語まで自分で管理する生活へ変わりました。
2026年は16本塁打、サヨナラ満塁弾を放って次の進路へ
大学2年目の2026年は、54試合すべてに先発しました。
打率.262、47得点、11二塁打、16本塁打、47打点を記録し、出塁率は.403、四球はチーム最多の45個でした。
4月26日の全米8位フロリダ州立大学戦では、3対4で迎えた9回裏無死満塁の場面で打席へ入りました。
2ボールから左中間へ打球を運び、逆転サヨナラ満塁本塁打で3連戦のスイープを決めています。
6月のMLBドラフト・コンバインでは約140メートルの本塁打を放ち、最速115.4マイル、約186キロの打球速度も計測されました。
大学2年間を終えたところで、再び日本とアメリカのプロ野球を含む大きな進路選択を迎えます。
2つのドラフトと佐々木麟太郎の現在|ソフトバンクからマーリンズへ
最初に動いたのは日本のプロ野球でした。
大学1年目のシーズンを終えた2025年秋、麟太郎さんはアメリカの大学に在籍したままNPBドラフトの対象になります。
2025年にソフトバンクがドラフト1位で交渉権を獲得
2025年10月のNPBドラフトでは、福岡ソフトバンクホークスと横浜DeNAベイスターズがともに1巡目で佐々木麟太郎さんを指名しました。
抽選の結果、ソフトバンクが独占交渉権を獲得しました。
ただし、この時点でソフトバンクへの入団が決まったわけではありません。
翌2026年にはMLBドラフトの対象となるため、ソフトバンクも球団公式で「入団しない可能性」を理解したうえで指名する価値がある選手だと説明していました。
2026年夏まで大学でプレーを続けた麟太郎さんには、ソフトバンク、MLB球団、スタンフォード残留という複数の選択肢が残っていました。
2026年MLBドラフト8巡目でマーリンズから指名された
2026年7月12日、MLBドラフトでマイアミ・マーリンズが麟太郎さんを8巡目で指名しました。
全体では235位でした。
日本ではドラフト1位、アメリカでは8巡目という大きく違う順位になりましたが、どちらへ進むかを決める時間が始まります。
さらにスタンフォードへ残って大学野球を続けることも可能だったため、2026年夏は高校卒業時とは違う形で3つの道が並びました。
最終的に麟太郎さんが選んだのは、幼いころから目標にしていたMLBへ直接つながるマーリンズの道でした。
「マイアミ・マーリンズでプレーする決断をしました」
MLB.com
マーリンズと契約しFCLへ|大学卒業について語っていること
マーリンズとは2026年7月に正式契約し、MLB公式によると契約金は21万200ドルでした。
7月23日に球団との契約が登録され、翌24日にルーキー級のFCL Marlinsへ配属、29日にActiveとなっています。
2026年8月30日時点のMiLB公式プロフィールではステータスはActiveですが、プロ公式戦の打撃成績はまだ掲載されていません。
入団会見では、打撃だけでなく守備、走塁、フィジカルを含めて改善したいと話し、大学で身につけた英語に続いてスペイン語にも挑戦したいという目標を口にしました。
一方、スタンフォードでの学業を終えたわけではありません。
プロ入り前には、将来的に大学へ戻り、最終的にはスタンフォードを卒業したいという考えも明かしています。
3歳ごろには花巻東のグラウンドでバットを握り、中学生になると自宅で何箱ものボールを毎日打っていた佐々木麟太郎さん。
高校卒業を前に一度決めていたプロへの道を変更してアメリカへ渡り、スタンフォードで野球と学業を続けた先で、今度はマーリンズ傘下からMLBを目指すプロ生活を選びました。
父のいる花巻東で始まった野球人生は、日本の高校、アメリカの大学を通り、現在は幼いころから見ていたメジャーリーグへつながる場所まで進んでいます。
佐々木麟太郎と似た生い立ちの人物は?
出身地・年代・人生の原点などの共通点から探せます。






