千葉ロッテマリーンズで背番号6を着ける西川史礁(にしかわ・みしょう)さんは、青山学院大学からドラフト1位でプロ入りし、1年目の2025年にパ・リーグの最優秀新人賞を獲得しました。
プロ2年目の2026年も主力として出場を続け、8月26日終了時点で106試合125安打、打率.300を記録しています。
- 父が自宅敷地に野球練習場を整え、兄とともに日常的に野球へ取り組める環境で育った。
- 高校:龍谷大学付属平安高校/大学:青山学院大学
- 兄の影響で3歳ごろから野球に親しんだ。
豪快に振り切る右打者として知られる現在の姿からは想像しにくいのですが、野球人生の前半では遊撃手としてプレーし、大学でもすぐにレギュラーをつかんだわけではありません。
最初から長打を売りにする外野手として順調に階段を上がった選手ではありません。
その歩みを幼いころまでたどると、和歌山の自宅で父や兄と毎日のようにボールを追っていた時間から、現在のプロ野球選手になるまでの道筋が見えてきます。
西川史礁の生い立ちと家族|和歌山・日高川町で育った少年時代
西川史礁さんは2003年3月25日生まれで、千葉ロッテの公式プロフィールでは出身地を和歌山県としています。
幼いころを過ごしたのは、山と川に囲まれた和歌山県日高川町山野でした。
父・母・姉・兄がいる5人家族の末っ子として育つ
西川さんは、父・凌滋さん、母・マリさん、姉、4学年上の兄・藍畝(らんせ)さんがいる3きょうだいの末っ子として育ちました。
父の凌滋さんは日高郡で建設会社を経営し、母のマリさんも事務として会社を支えていました。
父は息子たちの野球練習に日々付き合う一方、母について西川さんが後年まず思い浮かべたのは、厳しい言葉ではなくその接し方でした。
「一言で言うなら、『優しい』」
日刊スポーツ
野球の練習では父と過ごす場面が多かった一方、家に戻れば母がいるという日常の中で少年時代を過ごしていました。
「史礁」はどう読む?両親が込めた名前の意味
「史礁」は「みしょう」と読み、「史」は歴史の史、「礁」はサンゴ礁の礁です。
大学3年時に取材で名前の由来を尋ねられた際には、本人も詳しい意味を知らず、今度両親に聞いてみると話していました。
その後のドラフト時には、「一生不足なしで、まっすぐ進み、先立ちできるように」という思いが込められた名前だと紹介されています。
幼稚園のころ父が自宅に約20坪の練習場を造る
兄が小学4年生、西川さんがまだ幼稚園児だったころ、父の凌滋さんは約280坪ある自宅敷地の一角に、息子たちが野球を練習できる場所を自分で造りました。
広さは約20坪で、鹿児島から取り寄せた黒土を入れ、少年用と硬式用の投手板、夜間練習用の約2500ワットの照明まで備えていました。
ネットも張られ、軟式から硬式へ進んでも同じ場所で練習できるようになっていました。
父は仕事から帰ると兄弟のティー打撃に付き合い、2人を合わせて一晩に400~500球ほどトスを上げる日もありました。
兄弟の打球が速くなるにつれ、跳ね返った球から身を守るため、父がキャッチャー用の面とヘルメットを用意するほどでした。
「自主練習の環境は、どこの家庭にも負けません」
日刊ゲンダイDIGITAL
父の帰宅が遅い日には兄弟から「いつ帰ってくる?」とLINEが届き、家へ近づくと練習場の照明がつき、2人がバットを振って待っていたこともあったそうです。
4歳上の兄・藍畝さんと山や海で過ごす
野球以外の時間にも、4歳上の藍畝さんは身近な遊び相手でした。
兄弟は日高川町の山や海を駆け回り、父も交えて海へ釣りに出かけることもありました。
西川さんにとって兄は一緒に遊ぶ相手であると同時に、野球では少し先を歩く存在でもありました。
このころから、兄が経験した野球の道を弟が後から進んでいく時間が始まります。
家族情報
公開情報で確認できている家族について、続柄・職業・補足・出典を整理しています。
小中学校時代|山野小から丹生中、和歌山日高ボーイズへ
家庭の中で始まった野球は、小学校に入ると地元のチームへ、中学生になると硬式野球へと広がっていきました。
学校生活と野球が並行する中で、故郷での毎日の過ごし方も少しずつ変わっていきます。
3歳から野球に親しみ、小1で川辺ウィンスターズに入る
青山学院大学の紹介では、西川さんは兄の影響を受けて3歳から野球を始めたとされています。
小学校は日高川町立山野小学校へ通い、1年生になると少年野球チームの川辺ウィンスターズに入り、6年生まで所属しました。
父によると、小学1年のころには試合当日の朝になると「行きたくない」と泣くこともあったものの、球場へ着くといつも通りプレーしていたそうです。
家では父や兄との練習、外ではチームの練習と試合という生活になっていきました。
丹生中へ約5kmの山道を自転車で通う
小学校卒業後は日高川町立丹生中学校へ進みました。
自宅から学校までは約5kmあり、平坦な道ではなくアップダウンのある山道を毎日自転車で通っていました。
学校の外では軟式から硬式へ移り、兄も所属していた和歌山日高ボーイズで野球を続けます。
和歌山日高ボーイズで全国大会ベスト16を経験する
中学3年だった2017年には、和歌山日高ボーイズの一員として第47回日本少年野球春季全国大会へ出場しました。
チームは全国大会でベスト16に入り、西川さんは日高川町のスポーツ奨励賞にも選ばれています。
小学生のころから父や兄と続けてきた野球は、この時期には地元を離れた全国大会まで広がっていました。
中学3年で肘の外側を痛める
順調に見える中学最後の時期には、肘の外側を痛める故障も経験しました。
当時の細かな経過を本人が詳しく語った資料は多くありませんが、その肘を治して次のステージへ進めた経験は、数年後にもう一度肘を痛めた際に思い出すことになります。
中学校を卒業すると、野球生活の舞台は和歌山から京都へ移りました。
和歌山県日高川町山野。 父が自宅敷地に野球練習場を整え、兄とともに日常的に野球へ取り組める環境で育った。
日刊ゲンダイDIGITAL|ロッテ1位 西川史礁 父の思いが詰まった20坪の『甲子園』大学1・2年時は試合に出られず悔しさを抱えたが、3年時から佐々木泰と自主練習を重ね、ドラフト1位を目標に取り組む中で主力へ成長し、大学野球での飛躍につながった。
日刊ゲンダイDIGITAL|ロッテ1位 西川史礁 父の思いが詰まった20坪の『甲子園』龍谷大平安高校時代|下位打線の遊撃手として甲子園へ
高校進学で選んだのは、京都の名門龍谷大学付属平安高校でした。
現在の外野手というイメージとは異なり、このころの主戦場は遊撃でした。
兄と同じ龍谷大平安へ進み、1年夏は甲子園をスタンドから見る
兄の藍畝さんも龍谷大平安でプレーしており、西川さんも中学卒業後に同じ高校へ進みました。
入学した2018年夏、1年生だった西川さんは甲子園のグラウンドには立たず、先輩たちの試合をスタンドから見ています。
その光景を見ながら、次は自分が甲子園でプレーしたいという思いを持つようになりました。
1年秋になると初めてベンチ入りし、翌春にはその機会が訪れます。
1年秋にベンチ入りし2年春は背番号16でセンバツ8強
2019年春のセンバツでは背番号16を着け、遊撃手として甲子園の土を踏みました。
打順は7番や8番と下位に入り、現在のように長打力を前面に出す役割ではありませんでした。
それでも盛岡大付戦ではタイムリーを放つなど打点を挙げ、チームはベスト8まで進みました。
高校時代の西川さんは、後に大学日本代表の4番を任される打者というより、まず遊撃の守備を担って試合に出る選手でした。
高校3年のコロナ禍で寮を出て和歌山へ戻る
甲子園出場から約1年後、高校3年になった2020年は予定通りに始まりませんでした。
新型コロナウイルスの感染拡大により、龍谷大平安では2月末から部活動を休止し、集団での活動も停止されました。
寮生も学校を離れることになり、西川さんはスーツケースを持って和歌山の実家へ帰りました。
集合予定日が決まっても延期の連絡が届く状態が繰り返され、チーム全員で練習できない日々が続きました。
部員に課された数少ない決まりの一つが、その日に行った練習や考えたことをノートに書き、夜9時までにグループLINEで共有することでした。
父との自宅練習を続ける中、夏の甲子園中止が決まる
高校入学後は京都で過ごしていた西川さんが帰郷したことで、幼いころに父と使っていた自宅の練習場が再び日々の練習場所になりました。
父にトスを上げてもらい、ネットへ向けて何度も打ち返す日々を送りました。
しかし2020年5月、高校最後の夏に目指していた全国高等学校野球選手権大会の中止が決まります。
2年春には実際に甲子園でプレーしていた西川さんにとって、自分たちの代で挑むはずだった夏の舞台そのものがなくなりました。
その後、京都では代替となる独自大会の開催が決まり、3年生にはもう一度チームメートと試合をする機会ができました。
京都独自大会を前に右肘を痛め、最後はベンチを外れる
目標が独自大会へ切り替わり、チーム練習が再開された直後、西川さんは今度は右肘を痛めます。
痛みを抱えたまま1試合には出場したものの、バットを振ることも投げることも難しくなりました。
高校野球最後の大会では、自ら試合出場を諦めてベンチを外れることになりました。
そこで思い出したのが、中学3年時にも肘を痛め、治療を経て高校へ進んだ経験でした。
「ここで野球人生が終わるわけではない」
Number Web
12月に投球を再開しウエートトレーニングの必要性を知る
高校野球を終えたあともすぐには投げられず、本格的にスローイングを再開できたのは2020年12月でした。
時間をかけて肘を休ませたことで痛みはなくなり、大学進学を前に再びボールを投げられるようになりました。
この故障期間に、西川さんはウエートトレーニングで体を鍛えることの必要性を感じるようになります。
高校で感じたこの課題は、大学生活の中で具体的な行動へ変わっていきます。
青山学院大へ|兄の存在と安藤監督との出会いが進路につながる
2021年春、西川さんは青山学院大学法学部法学科へ進学し、硬式野球部に入りました。
高校までと同じように兄とのつながりがある進路でしたが、進学を決めるまでには本人自身が大学の環境を確かめる機会もありました。
兄が主将として1部へ戻した青学大に進学する
兄の藍畝さんは龍谷大平安卒業後に青山学院大学へ進み、西川さんが入学する前年の2020年度には野球部の主将を務めていました。
その年、青学大は東都大学野球の1部復帰を果たしています。
兄からチームの雰囲気や監督について聞く機会があり、西川さんにとって青学大は入学前から内側の様子が分かる大学でもありました。
高校時代に会った安藤監督のもとで「自分の野球」を選ぶ
兄の存在だけで進学先を決めたわけではありません。
高校時代、青学大の安藤寧則監督が視察に訪れ、西川さんは直接話をする機会がありました。
「この監督の下でなら、自分の野球を追求できる」
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選手自身に考えさせる安藤監督の指導方針を知り、兄が歩いた道の先を、自分の進路として選びました。
入学直後は泉口友汰から期待されるも2年秋まで2安打
大学へ入った当初の守備位置は内野手で、主に遊撃を守っていました。
当時の主将だった泉口友汰さんは、入学直後の西川さんについてオープン戦でよく打っていることや、広角に大きな打球を飛ばせることを挙げ、早い段階から名前を出していました。
ところがリーグ戦では、1年秋から2年秋までの4シーズンで11試合の出場にとどまりました。
その間の安打はわずか2本で、本塁打は0本でした。
入学時に期待された打撃が、公式戦の数字にはなかなか表れない2年間が続きます。
出場機会を求めショートから外野へ挑戦する
内野には実績のある選手がそろっていたため、西川さんは試合に出る方法を探し、外野守備にも挑戦しました。
高校まで長く守ってきた遊撃だけにこだわらず、自分が打線へ入るためのポジションを増やしていきます。
現在の「外野手・西川史礁」という形は、大学で出場機会を得ようとした時期に始まっています。
大学2年冬が転機|打ち込みとウエートを重ね4番・左翼へ
2年間でリーグ戦2安打という状態のまま、2022年の秋が終わりました。
ここから翌春までの冬、西川さんは打撃と体づくりの両方に時間を使います。
2022年冬からウエートに本格的に取り組む
高校3年で肘を痛めた時期から必要性を感じていたウエートトレーニングに、この冬から本格的に取り組みました。
食事量も増やし、練習と食事を重ねながら大学野球で打ち負けない体を作っていきます。
青学大が後に公開した本人インタビューでも、1、2年時に結果が出なかったため、スイング量を増やすこととウエートの両方を試しながら課題を潰していったことを明かしています。
納得するまで毎日バットを振った2年冬
打撃練習では、同級生の佐々木泰さんと一緒に自主練習する時間が増えました。
チームの練習メニューを終えてからも打撃練習を続け、構え方やトップの位置などを一つずつ見直していきました。
「2年の冬は死に物狂いでバットを振りました」
4years.
試合に出られなかった時間を終えた直後の冬に、打つ量と体を作る量を同時に増やしました。
3年春に4番・左翼をつかみリーグMVP
冬を越えた2023年春、西川さんは4番・左翼でレギュラーをつかみます。
東都大学野球春季リーグでは打率.364、3本塁打、10打点を記録し、青学大の33季ぶりとなるリーグ優勝に貢献しました。
前年までリーグ戦で2安打だった選手が、3年春には最高殊勲選手(MVP)とベストナインを獲得しました。
続く全日本大学野球選手権でも4試合で7安打を放ち、チームは18年ぶり5度目の大学日本一になりました。
大学日本一から大学日本代表の4番へ進む
大学日本一を経験した2023年夏には、侍ジャパン大学日本代表に選ばれました。
日米大学野球選手権では全5試合で4番を任され、大学球界を代表する打者の一人として国際試合に出場します。
青学大で定位置をつかんだ春からわずか数か月後には、大学日本代表の4番を打っていました。
秋も青学大は東都リーグを制し、西川さんの立場は「試合に出る場所を探す選手」から「打線の中心を任される選手」へ変わっていました。
大学4年|侍ジャパン、右手骨折、ドラフト1位、最後は大学4冠
最終学年の2024年は、大学野球の枠を越えた舞台から始まりました。
一方、秋にはドラフトを目前にして再び故障があり、最後の数か月も予定通りには進みませんでした。
2024年3月に大学生野手として侍ジャパントップチームへ
2024年3月、西川さんは欧州代表との強化試合に臨む侍ジャパントップチームへ選ばれました。
プロ野球選手が並ぶベンチでは本人もかなり緊張していましたが、代走から中堅の守備へ入り、フェンスへぶつかりながら打球を捕球したことで緊張がほぐれたと後に語っています。
その後の打席では安打を放ち、大学生としてトップチームの試合で結果を残しました。
9月の死球で右手人さし指を骨折する
大学最後の秋、2024年9月25日の日本大学戦で右手に死球を受けました。
診断は右手人さし指の骨折で、その後は試合から離れることになります。
ドラフト会議まで約1か月という時期に、打者にとって重要な右手を負傷しました。
10月上旬には手術も受け、リーグ戦終盤はグラウンドで打席に立てないままドラフトの日を迎えます。
10月24日、オリックスとロッテがドラフト1位で競合する
2024年10月24日のプロ野球ドラフト会議では、オリックス・バファローズと千葉ロッテマリーンズが西川さんを1位指名しました。
2球団の競合となり、抽選の結果、千葉ロッテが交渉権を獲得しました。
小さいころから思い描いてきた進路が決まった直後、西川さんはこう話しています。
「野球を始めた頃からプロ野球選手になるという思いでやってきた」
日刊スポーツ
高校時代は下位打線を打つ遊撃手だった西川さんが、大学4年でドラフト1位指名を受けました。
11月に代打で復帰し、大学最後は史上5校目の4冠
ドラフトから1か月後の11月24日、明治神宮野球大会の天理大学戦で代打として公式戦へ復帰しました。
翌25日の創価大学との決勝にも出場し、青学大は7対3で勝利しました。
この優勝で、東都大学野球の春季・秋季リーグ、全日本大学野球選手権、明治神宮野球大会をすべて制覇しました。
青学大は史上5校目となる「大学4冠」を達成し、西川さんの学生野球が終わりました。
骨折前にプロ入りを決めたのではなく、骨折した状態でドラフトを迎え、指名後に大学最後の公式戦へ戻るという順番でした。
プロ入り後|原点のチームへの恩返しから新人王、2年目へ
大学野球を終えると、背番号6を着けて千葉ロッテでの生活が始まりました。
プロとして最初のシーズンを迎える前には、和歌山で野球を始めたころに関わる出来事もありました。
プロ1年目の春に川辺ウィンスターズへ打撃マシンを贈る
2025年2月、西川さんは小学1年から6年まで所属した川辺ウィンスターズへ、軟式用のバッティングマシン1台を贈りました。
沖縄で春季キャンプ中だったため、地元で行われた贈呈式には父の凌滋さんが代理で出席しました。
寄贈を決めた理由として伝えられたのは、自分を育ててもらったチームへ何か恩返しをしたいという思いでした。
中学時代に所属した和歌山日高ボーイズにも、硬式用のバッティングマシンを贈ることになりました。
2025年3月25日には青山学院大学の卒業式を迎え、その翌日、千葉ロッテ公式YouTubeでも卒業直後の様子が公開されました。
2025年は一軍と二軍を行き来しながら新人王を獲得
ルーキーイヤーはオープン戦で打率4割を超え、3月28日のソフトバンクとの開幕戦に1番・左翼で先発出場しました。
開幕直後は安打を重ねましたが、その後は打撃の状態を落とし、シーズン中に2度の二軍降格も経験します。
6月下旬に一軍へ戻ってからは打率.311を記録し、最終的には108試合で117安打、打率.281、3本塁打、37打点でシーズンを終えました。
11月26日には2025年度パ・リーグ最優秀新人賞を受賞しました。
青学大2年まで公式戦でほとんど打席をつかめなかった選手が、プロ1年目には新人王の表彰を受けました。
2年目は故障から復帰し再び一軍でプレーを続ける
2026年2月には春季キャンプの守備練習中に右前腕へ違和感が出て、右前腕屈筋損傷と診断されました。
そこから実戦へ戻り、7月28日のマイナビオールスターゲーム第1戦では初出場ながら代打で登場し、初打席で本塁打を放って敢闘選手賞を受賞しています。
そして2026年8月26日終了時点では規定打席に到達し、打率.300、125安打、7本塁打、42打点を記録しています。
和歌山で父や兄とボールを追った時間から始まり、守る場所や体の作り方を変えながら、西川さんの野球は高校、大学、プロへと進んできました。
高校最後の夏に試合へ出られず、大学でも最初の2年間は結果が出なかった一方、その先で4番をつかみ、ドラフト1位まで進みました。
現在は、少年時代に使った練習環境から遠く離れたプロの舞台で、千葉ロッテの外野手として打席に立ち続けています。
まとめ|西川史礁の生い立ち・原点
西川史礁さんの歩みを振り返ると、現在の強打者としての姿だけでは見えにくい土台がいくつもあります。和歌山・日高川町で父が自宅に造った練習場、4歳上の兄と同じ野球環境、龍谷大平安での甲子園経験と高校最後の右肘故障、青山学院大学での2年間の停滞と外野転向、そして2年冬の打ち込みとウエートトレーニングです。
「最初から強打の外野手だった」のではなく、守備位置・体づくり・打撃への向き合い方を何度も変えながら現在の形に近づいてきたことが、西川さんの生い立ちを追ううえで大きなポイントです。
子どものころ父や兄と出かけた海が、現在の趣味にもつながっている
同じ趣味や特技を持つ人物へ横断できます。
幼いころの西川さんは、兄と山や海で遊び、父も交えて釣りへ出かけていました。プロ入り前後の人物紹介でも趣味は海釣りとされ、別の媒体ではイカ釣りと紹介されています。
野球とは直接関係のない小さな情報ですが、子どものころ家族と過ごした海での時間が、大学・プロへ進んだあとも本人の趣味として残っていることが分かります。
出典:日刊スポーツ / スポニチ Sponichi Annex
同世代の野球選手と生い立ちを比べる
同じ2000年代生まれの野球選手でも、原点はそれぞれ違います。父との朝練や学校環境を軸に歩みを追える金丸夢斗さんの生い立ち、父との毎日の練習から広陵・明治大学へ進んだ宗山塁さんの生い立ちもあわせて見ると、家庭環境・学校・転機の違いを比較できます。
西川さんの場合は、父が練習環境そのものを自宅に作ったこと、高校最後の故障を大学での体づくりへつなげたこと、大学2年冬に打撃と体づくりを同時に変えたことが、その後の4番定着とプロ入りへつながる大きな流れになっています。
西川史礁と似た生い立ちの人物は?
出身地・年代・人生の原点などの共通点から探せます。






