中日ドラゴンズの左腕として先発ローテーションを担い、2026年にはWBC日本代表のマウンドにも立った金丸夢斗投手。
大学時代には最速154キロ、関西学生野球リーグ18連勝、さらに72イニング連続自責点0という記録を残し、2024年のドラフト会議では4球団から1位指名を受けました。
- 父の審判としての姿とキャッチボール、母の栄養を考えた食事が野球人生を支えた。
- 高校:神港橘高校/大学:関西大学
- 本人が『僕の野球人生は父とのキャッチボールから始まりました』と語っている。
ところが昔から体が大きく、周囲を圧倒するような投手だったわけではありません。
中学卒業時は160センチに届かないほどの小柄な体で、神港橘高校へ入ったころの最速も120キロほどでした。
その少年のそばにいたのが、甲子園でも球審を務めた父・雄一さんと、食事や送迎で野球生活を支えた母・淳子さんでした。
金丸夢斗の生い立ちと家族|父の球場について行った少年時代
金丸夢斗投手は2003年2月1日、兵庫県生まれです。
中日ドラゴンズの公式プロフィールには、広陵小学校、広陵中学校、神港橘高校、関西大学という球歴が掲載されています。
家族は父・雄一さん、母・淳子さん、兄・翔太さんと金丸投手の4人です。
父・雄一さんの審判先へ通い、キャッチボールから野球を始める
父の雄一さんは、仕事をしながらアマチュア野球の審判を長く務め、高校野球では甲子園大会の審判も経験しました。
雄一さん自身も高校球児でしたが甲子園には届かず、卒業後も聖地に立つ方法として監督か審判かを考え、審判の道を選んだといいます。
金丸投手が幼かったころ、土日になると家族で父が審判を担当する球場へ出かけることがありました。
本人によると、初めのころは野球観戦に積極的だったわけではありません。
「最初は嫌々野球を見せられていたんですけどね…」
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見るだけだった野球との距離が縮まったのは、父とキャッチボールができるようになってからでした。
ボールを投げ合ううちに興味が強くなり、小学1年で広陵少年野球部へ入ります。
後年、関西大学の取材では、自分の野球の始まりについてこう語っています。
「僕の野球人生は父とのキャッチボールから始まりました」
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父・母・兄の4人家族|小学生時代は代打を断るほど小柄だった
現在は177センチのプロ野球投手ですが、小学生のころは体が小さく、試合でも前へ出るタイプではありませんでした。
父・雄一さんによると、試合で「代打に行くか」と言われても、自分ではなく別の子を指して「僕はいい」と遠慮することがあったそうです。
それでも野球そのものは好きで、投手や一塁手をしながら少年野球を続けました。
兄の翔太さんと甲子園へ高校野球を見に行った幼少期の写真も残っており、金丸家にとって甲子園は父だけの場所ではなく、家族で足を運ぶ身近な球場でもありました。
家では自室に閉じこもるより、リビングで家族と話している時間のほうが長かったと、母の淳子さんはプロ初勝利後の手記で明かしています。
小学1年から広陵少年野球へ|父との朝6時の練習が続く
野球を始めてからは、父との時間が観戦から練習へ変わっていきます。
小学1年から中学を卒業するまで、朝6時ごろから父と練習する生活を続けました。
審判だった雄一さんは、実際に球審を務めながら見た高校球児のボールや、甲子園レベルの投手について息子に話すこともありました。
ただ投球フォームを教わるだけではなく、父が試合の中で見てきた投手の姿を日常的に聞ける環境でした。
家族情報
公開情報で確認できている家族について、続柄・職業・補足・出典を整理しています。
金丸夢斗の中学時代|作文「僕のお父さん」に書いた甲子園への夢
広陵小学校を卒業すると、広陵中学校の軟式野球部へ進みます。
このころも、後のドラフト1位候補のような全国的な知名度はありませんでした。
広陵中では軟式野球部に所属し、まだ全国的には無名だった
中学卒業時の体格について、本人は後に身長160センチ未満、体重50キロほどだったと振り返っています。
硬式の強豪クラブチームではなく、中学校の軟式野球部でプレーを続けました。
父との朝練も続きましたが、体格だけを見れば、後に150キロを超える左腕になる姿はまだ見えていません。
中学1年で父について作文を書き、甲子園を目指すようになる
中学1年のとき、金丸投手は「僕のお父さん」という題名の作文を書きました。
作文は兵庫県・神戸市立教育研究会の入選作品となり、甲子園で審判をする父についてつづっています。
試合が終われば反省会があり、観客から声を浴びることもある中で、一試合ごとに力を尽くす父の姿を見ていました。
父が審判として立っていた甲子園は、やがて金丸投手自身が高校球児として目指す場所になりました。
しかし、その甲子園への道は高校生活の最後に思いがけない形で閉ざされることになります。
金丸夢斗の高校時代|神港橘で120キロ台の左腕から変わり始める
中学卒業後は、地元兵庫の公立校である神戸市立神港橘高校へ進学しました。
全国から注目される投手として入学したわけではなく、当時の球速は最速120キロほどでした。
中学3年の体験入部で監督が直球のスピンに注目する
神港橘との接点は、中学3年で参加した部活動体験にありました。
ブルペンで投げる金丸投手を見ていた安田涼監督は、まだ球速の出ていない左腕の直球のスピンに目を留めます。
安田監督がどんな感覚で投げているのか尋ねると、金丸投手は球を「ひっかく」ように投げていると説明しました。
私立の野球強豪校から多くの誘いを受けていた選手ではありませんでしたが、安田監督は体ができれば伸びると見ていました。
1年秋から登板し、2年秋にエースへ|体作りを本格化
高校では1年秋から公式戦に登板し、2年秋に初めて背番号1を任されます。
ただ、同級生の中に入っても頭一つ小さく見えるほど細身で、食事量を増やすのも得意ではありませんでした。
2年秋の兵庫大会は地区予選で敗れ、甲子園までの距離は縮まりませんでした。
冬にはスポーツ栄養指導を行う企業の食トレ投手合宿へ参加します。
そこで出された食事を十分に食べ切れないほどでしたが、指導者から球自体の良さと、食事やトレーニングを続ければプロを目指せる可能性を伝えられました。
球速を追う前に、まず投げられる体を作ることが高校2年の冬から大きな課題になりました。
高校3年のコロナ禍で朝の走り込みと筋トレを続け140キロ台へ
体作りを始めた直後、日本では新型コロナウイルスの感染が広がり、学校生活も部活動も止まりました。
高校3年になる春、通常ならチームで練習する時間を、自分で組み立てることになります。
朝は走り、午後は筋力トレーニングに取り組み、1日4時間を超えて体を動かす日もありました。
食事量だけでなく睡眠にも目を向け、自分で生活全体を整えるようになります。
「僕が変わったのはコロナ期間です」
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部活動が再開されたころには、それまで135キロだった自己最速が142キロまで伸びていました。
甲子園中止の夏、兵庫独自大会ベスト8を経て大学でプロを目指す
一方で、高校3年の春のセンバツと夏の全国高校野球選手権大会は中止となりました。
父が審判として立ち、自分も選手として目指してきた甲子園に、高校最後の夏を懸ける機会そのものがなくなりました。
兵庫県では代替となる独自大会が開かれ、神港橘はベスト8まで進出。
金丸投手は1試合で17奪三振を記録するなど、春までとは違うボールを見せました。
このころには大学進学の道も決まりつつありました。
後の関西大学校友会のインタビューでは、高校3年の段階で大学4年間で本気でプロを目指すと決めていたことを明かしています。
金丸夢斗が関西大学を選んだ理由|山口高志との出会い
高校3年になって球速が急上昇したころ、安田監督はある人物へ連絡しました。
神港高校OBで元阪急ブレーブスの投手、当時は関西大学野球部のアドバイザリースタッフを務めていた山口高志さんです。
高校時代から見ていた山口高志が大学での成長に期待
安田監督から「いい投手がいる」と連絡を受け、山口さんは神港橘の金丸投手を見に来ました。
この縁から、金丸投手は関西大学の推薦枠を得ます。
金丸投手自身も、山口さんが高校の先輩だったことや、高校3年時に試合を見てもらったことが関西大学進学の理由になったと説明しています。
高校で球速が上がった直後に、その先を見てくれる指導者との縁もつながりました。
自主性を重んじる関大の環境を選び、1年秋からリーグ戦へ
2021年、金丸投手は関西大学文学部へ進学しました。
高校では監督から練習メニューを与えられることが多かった一方、関大では自分の課題を考え、自分で必要な練習を選ぶ要素が増えました。
高校3年の休校中に一人でトレーニングを組み立てた経験もあり、この環境の中で試すことを増やしていきます。
リーグ戦には1年秋から登板しました。
金丸夢斗の大学時代|フォームと自己管理を磨き大学トップ左腕へ
関西大学での成長は、球速だけではありませんでした。
フォーム、体の使い方、食事、日々の確認方法まで、投げるための準備を細かく作っていきます。
山口高志の助言で投球フォームを変更する
技術面で大きな存在となったのが、進学のきっかけにもなった山口高志さんでした。
金丸投手は、現在につながる投球フォームへの変更を提案したのも山口さんだったと関西大学の取材で語っています。
山口さんからは投手としての技術だけでなく、マウンドに立つ上での考え方も学びました。
大学で球速は150キロを超え、最速154キロまで伸びていきます。
食事・呼吸・トレーニングまで自分で管理するようになる
高校時代には食事量を増やすことに苦戦していましたが、大学では食べる量だけでなく何を食べるかまで細かく考えるようになりました。
関西大学の取材では、試合前は食あたりの可能性も考えて生魚や生野菜を避け、揚げ物や糖質の多い飲み物にも気を配っていたことが紹介されています。
体内で足りていない栄養素も調べ、必要なものを補うというところまで管理していました。
さらに呼吸に関わる筋肉を鍛えるためのトレーニングなども試し、マウンド上の投球とは直接見えない部分にも時間を使っています。
高校3年の春に始まった自己管理が、大学では食事や体の状態を細部まで確認する習慣へ変わっていました。
眞銅和馬に「卒業まで全部受けて」と頼んだ毎日のキャッチボール
フォームを確かめる方法にも、金丸投手らしい工夫がありました。
大学でキャッチボールの相手になっていたのが、同学年の眞銅和馬さんです。
金丸投手はキャッチボールにも1時間以上を使うことがあり、自分の良い日の球筋を知っている相手に毎日の変化を見てもらいたいと考えました。
そこで眞銅さんに、卒業まで自分のキャッチボールをすべて受けてほしいと頼みます。
2人は授業の時間まで合わせながら、キャッチボール相手を固定しました。
眞銅さんは、右足を上げたときの立ち姿や右肩の角度、腹に力が入っているかといった小さな違いに気付くと、その都度伝えました。
4年春に金丸投手が腰を痛めた際も、球を受けた眞銅さんは普段との見え方の違いを感じ取っています。
18連勝と侍ジャパン選出でドラフト最上位候補になる
積み重ねはリーグ戦の数字にも表れました。
関西学生野球ではリーグ新記録となる18連勝を達成し、大学最後の1年間では72イニングを投げて自責点0を記録しました。
大学リーグ通算では20勝3敗、防御率0.83という成績を残しています。
2024年3月には、大学生ながらトップチームの侍ジャパンに選ばれ、欧州代表との強化試合へ登板しました。
プロの選手と同じ代表チームに入り、国際試合のマウンドも経験します。
その一方、大学4年の5月には甲子園で行われた関学大戦の途中で腰に違和感を覚え、自ら降板しました。
診断は腰の骨挫傷で、春の残りの登板を回避。
秋は約4カ月ぶりに実戦復帰しましたが、先発ではなく短いイニングの救援を中心に登板しながらドラフト会議を迎えることになりました。
復帰直後にも150キロを計測し、故障後も各球団からの評価は下がりませんでした。
2024年10月27日、大学最後の試合を終えた金丸投手は自身のInstagramで学生野球の終了を報告し、次のステージへ進むことを伝えました。
金丸夢斗が中日ドラフト1位になるまで|4球団競合でプロへ
2024年10月24日、プロ野球ドラフト会議の日を迎えました。
大学野球を代表する左腕となった金丸投手には、中日、DeNA、阪神、巨人の4球団が1位指名で競合しました。
大学4年は72イニング自責点0、4球団が1位指名
抽選の結果、交渉権を引き当てたのは中日ドラゴンズの井上一樹監督でした。
高校入学時には最速120キロほどだった左腕を、6年後には4つのプロ球団が同時に1位で指名しました。
ドラフト当日は普段のように昼食を食べられないほど落ち着かなかったと、後の関西大学校友会インタビューで明かしています。
指名を確認したあとには、関西大学野球部の仲間たちから胴上げされました。
父から「これからがスタートだぞ」と言われ中日へ入団
ドラフト後、父の雄一さんが息子へかけたのは、ここまでの道のりだけを祝う言葉ではありませんでした。
「良かったな。でもこれからがスタートだぞ」
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中学1年の作文に登場した父との野球は、プロ入りが決まった日にも続いていました。
母の淳子さんも、野球の送迎や食事を長く支えてきました。
高校時代、金丸投手は母へ手紙を書き、自宅に何げなく置いていたそうです。
「大学で頑張って、プロにいって必ず恩返しします」
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淳子さんはその手紙を捨てず、冷蔵庫に貼って保管していました。
2024年12月の中日新入団選手発表では、背番号21を着けることも決まりました。
憧れてきた今永昇太投手がDeNA時代に背負った番号であり、自身の誕生日が2月1日であることも希望した理由でした。
プロ入りした金丸夢斗|初勝利を経てWBC日本代表へ
2025年、中日ドラゴンズでプロ生活が始まりました。
大学4年に痛めた腰の状態を見ながら調整し、5月5日のDeNA戦で一軍初登板・初先発を果たします。
2025年は10度目の先発でプロ初勝利をつかむ
プロ初登板から安定した投球を見せる試合はありましたが、なかなか勝利投手には届きませんでした。
7月8日の巨人戦では7回2失点で勝利投手の権利を持って降板したものの、9回に同点となり初勝利が消えました。
7月21日の巨人戦でも自己最長の8回を1失点に抑えながら、勝敗は付きませんでした。
そして8月7日の阪神戦。
プロ10度目の先発で8回3失点と投げ、中日が8対3で勝利してプロ初勝利を挙げました。
この試合も父・雄一さんと母・淳子さんがスタンドで見守っていました。
母が高校時代から取っておいた「プロにいって必ず恩返しします」という手紙から数年後、両親の前で最初の白星をつかみました。
ルーキーイヤーは15試合すべてに先発し、2勝6敗、防御率2.61で終了しました。
2026年WBCに追加招集され、日本代表のマウンドに立つ
プロ2年目を迎えた2026年2月、金丸投手はWBC日本代表へ追加招集されました。
大学生だった2024年にトップチームへ初選出されてから2年後、今度はプロ野球選手としてWBCの日本代表に入ります。
3月10日の1次ラウンド・チェコ戦では7回から登板。
2イニングを無安打に抑え、対戦した6人から5三振を奪いました。
日本は準々決勝でベネズエラに敗れましたが、金丸投手は初めてのWBCで国際大会のマウンドを経験しました。
2026年8月29日時点では、中日で21試合に登板して5勝9敗、防御率2.59。
プロ入り後も先発投手として登板を重ねています。
父とのキャッチボールから始まった野球は、神港橘高校で体を作り直した時期を境に大きく動き始めました。
関西大学では山口高志さんや毎日の球を受けた眞銅和馬さんと出会い、フォームや自己管理を細かく積み重ねた先に、4球団競合のドラフト1位が待っていました。
そして現在は、中日ドラゴンズの先発左腕として、少年時代にはまだ遠かったプロ野球と日本代表のマウンドに立っています。
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