- 出身地
- 広島県
- 生まれ年代
- 2000年代生まれ
- 活動ジャンル
- バスケットボール選手
- 性別
- 男性
- 育った家庭
- 弟・湧川裕斗と兄弟でバスケットボールを続け、福岡大学附属大濠高校では同じチームで全国大会を目指した。
- きょうだい構成
- 2人きょうだい・本人は1番目
- キャリアの原点
- 幼少期から活動
- 高校
- 福岡大学附属大濠高等学校
三遠ネオフェニックスでプレーする湧川颯斗さんは、197cmのサイズを持ちながらポイントガードを務める若手選手です。
高校年代から世代別日本代表に入り、2025年には男子日本代表のコートにも立つなど、現在は大型ガードとしてさらに上の舞台を目指しています。
- 弟も全国レベルのバスケットボール選手で、兄弟で互いに刺激を受けながら競技を続けた。
- 高校:福岡大学附属大濠高等学校
- 現在の道につながる原点:幼少期から活動
そんな現在の姿からは少し意外ですが、子どものころに最初からバスケット一筋だったわけではなく、父親の影響でサッカーをしていた時期があり、小学2年生で友人に誘われたことからバスケットを始めました。
広島のミニバスから古田中、福岡大学附属大濠高校へ進み、高校最後には大学進学ではなく18歳でプロへ飛び込む道を選んでいます。
湧川颯斗の生い立ちと家族|広島で走り回っていた少年がバスケを始めるまで
湧川颯斗さんは2004年5月2日生まれ、広島県出身です。
所属先の経歴では広島市立宇品小学校、広島市立古田中学校と進んでおり、プロになるまでの土台は広島で作られました。
父の影響でサッカーを始め、家族で観戦へ行っても走り回っていた子ども時代
幼いころは、長い時間じっと座っているよりも体を動かしているような子どもでした。
後年のインタビューでは、置いてある物を触ったり、家族で野球やサッカーを観戦しに行っても、試合を見るだけでなく広い場所を走り回ったりしていたと明かしています。
最初に親しんだ競技はバスケットではなく、父親が経験していたサッカーでした。
父親の影響からサッカークラブへ通い、ボールを追いかけていた時期があります。
「常に走り回っていました」
ジュニアアスリート豊橋
小学2年で友達に誘われ、サッカーよりバスケを選んだ
人生の方向が変わったのは小学2年生のときです。
友人からバスケットへ誘われ、サッカーと並行する形でボールを触り始めました。
やがて、点が次々に入るバスケットの面白さに惹かれていきます。
プロへの最初の入口は、特別なスカウトではなく、小学2年生の友人からの誘いでした。
「たくさん得点が入ることを魅力に感じて」
ジュニアアスリート豊橋
両親・兄・弟・妹の家族|弟・裕斗も同じバスケの道へ
湧川さんには弟の湧川裕斗さんがおり、裕斗さんもバスケット選手として全国の舞台へ進みました。
颯斗さんが福大大濠3年、裕斗さんが1年だった2022年には、兄弟で同じ高校のユニフォームを着いています。
ウインターカップ前の兄弟インタビューでは、颯斗さんが弟について、3ポイントシュートを得意としている部分を尊敬していると話していました。
「自分も負けていられないなと思います」
Seventeen-Web
裕斗さんの側も、広島にいたころは「颯斗の弟」と呼ばれることが多かったと後年語っています。
兄と同じ福大大濠を選んだ理由の一つには「兄を超えたい」という思いがあり、兄弟は同じ競技を続けながら、それぞれ全国レベルへ進んでいきました。
宇品体協ミニバスで全国大会へ|小6で代々木のコートに立つ
小学生時代は宇品体協ミニバスケットボール部でプレーしました。
小学6年生になると全国大会に進み、国立代々木競技場のコートを経験しています。
プロになってから振り返っても、このとき大きな体育館で試合をした感覚は記憶に残っていました。
小学生の段階で、地元の体育館だけではなく全国大会の舞台まで進んでいたことが、その後の中学時代へ続いていきます。
家族情報
公開情報で確認できている家族について、続柄・職業・補足・出典を整理しています。
| 弟 |
湧川裕斗
バスケットボール選手
2022年当時、颯斗が高3、裕斗が高1として同じ福大大濠でプレー。本人が弟の3ポイントを尊敬していると発言。 |
信頼できる媒体 出典を見る |
|---|
古田中で全国準優勝|小学生時代からのライバルを破って全中へ
小学校を卒業した湧川さんは、広島市立古田中学校へ進みました。
この3年間で、広島の有望選手から全国大会の決勝に立つ選手へと進んでいきます。
広島市立古田中で磨いたバスケット
古田中でも中心選手となり、中学3年だった2019年には全国中学校バスケットボール大会を目指しました。
そこへたどり着く前にも、広島県内で勝ち抜かなければならない試合がありました。
県予選決勝で小学生時代からのライバルと激戦
本人が特に覚えているのが、全国大会出場をかけた県予選の決勝です。
相手には小学生時代から競い合ってきた選手がおり、簡単に差がつく試合ではなく一進一退の展開になりました。
その接戦を古田中が制し、全国大会への切符をつかみます。
広島県勢初の全中決勝進出、全国準優勝を経験
全国大会に入っても古田中は勝ち進み、ついに決勝へ進出しました。
男子の広島県勢として初めて全国中学校大会の決勝へ進出し、最終結果は準優勝でした。
小6の全国大会に続き、中3では学校の仲間たちと全国の最後まで残る経験をしています。
この大会を終えるころには、高校でも全国トップレベルで競技を続ける進路が現実的なものになっていました。
湧川颯斗さんは2004年5月2日生まれ、広島県出身です。
幼いころは、長い時間じっと座っているよりも体を動かしているような子どもでした。
2年生になると、湧川さんは大濠の主力として存在感を強めていきました。
3年生になった湧川さんは、すでに全国屈指の得点力を持つ選手でした。
小学校を卒業した湧川さんは、広島市立古田中学校へ進みました。
本人が特に覚えているのが、全国大会出場をかけた県予選の決勝です。
福大大濠へ進学|片峯聡太監督の指導に惹かれて広島を離れる
中学卒業後、湧川さんは広島を離れ、福岡県の福岡大学附属大濠高校へ進学しました。
全国の強豪校が選択肢にある中で、大濠を選んだ背景には練習参加で受けた印象がありました。
強豪校の選択肢から福大大濠を選んだ理由
高校選びでは洛南高校なども選択肢として考えられる中、大濠の練習へ参加しました。
そこで強く惹かれたのが、片峯聡太監督の指導でした。
「指導の熱とかコミュニケーションに魅了されて」
BASKET COUNT
学校名や実績だけで決めたのではなく、実際の練習で監督と接したことが進学を決める材料になりました。
1年生から先発へ|先輩に「もっと行け」と言われた頃
大濠に入ると、1年生のうちから試合で大きな役割を任されます。
ただ、入学直後から遠慮なく自分のプレーを出せていたわけではありません。
練習試合ではプレーに遠慮が出ることがあり、先輩たちから「もっと行け」と声をかけられていました。
福岡第一との試合では、それまでとは違ってドライブや3ポイントを積極的に狙った一方、激しいフィジカルと運動量を相手に第1クォーターから足がつりそうになるほど消耗しました。
中学で全国準優勝を経験していても、全国トップクラスの高校バスケでは、また違う強度が待っていました。
初めてのウインターカップで残った悔しさ
高校1年の2020年、福大大濠はウインターカップへ出場しましたが、3回戦で大会を終えました。
全国大会へ出場するだけでなく、大濠では優勝を求められます。
その経験を経た翌年、湧川さん自身の立場も大きく変わります。
高校2年で日本一|エースナンバー14を背負う選手へ
2年生になると、湧川さんは大濠の主力として存在感を強めていきました。
背負った番号は14番です。
2年生で託された大濠の「14番」
得点力と身体能力を生かし、当時は現在のような司令塔というより、フォワードとしてゴールへ向かうプレーが目立つ選手でした。
ドライブでペイントエリアへ入り、リバウンドにも絡み、自分で得点できることが大きな武器でした。
高校1年のころからYouTubeなどで参考にしていた選手の一人が、ポイントガードのテーブス海選手です。
この時点ではまだ自分が本格的にポイントガードへ変わる前でしたが、ピックの使い方などを映像から見ていました。
2021年ウインターカップ優勝と大会ベスト5
2021年12月、福大大濠はウインターカップの決勝へ進み、帝京長岡高校との接戦を制しました。
福大大濠にとって28年ぶり3回目となるウインターカップ優勝でした。
2年生だった湧川さんは大会ベスト5にも選ばれ、全国優勝チームの中心選手の一人となりました。
高校2年生で全国優勝と大会ベスト5を経験したことで、次の1年は連覇を狙うだけでなく、自身の将来のポジションを考える時期にもなっていきます。
弟・裕斗が大濠へ入り、兄弟で同じユニフォームを着る
2022年春には、弟の裕斗さんが福大大濠へ入学しました。
颯斗さんが3年生、裕斗さんが1年生となり、兄弟で同じチームに所属する期間が生まれます。
裕斗さんは兄と同じ道へ進みながら、ただ後を追うだけではなく、自分の名前で知られる選手になることを目指していました。
高校最後の1年を迎えた颯斗さんの側でも、全国大会だけを見ていたそれまでとは違い、卒業後まで見据えた変化が始まります。
高校3年でポイントガードへ|日本代表と海外経験で将来像が変わる
3年生になった湧川さんは、すでに全国屈指の得点力を持つ選手でした。
その状態から、あえて新しい役割へ挑戦します。
将来を考えて未経験のPG転向を自ら志願
転向先はポイントガードでした。
それまで主にフォワードとしてプレーしていたため、ボールを運び、味方を動かし、試合全体を組み立てる役割は新しい挑戦でした。
しかも、これは周囲に突然変えられたものではありません。
将来を考えた湧川さん自身が、ポイントガードへの転向を希望しました。
片峯監督も、1年時には「勇ましい」、2年時には「たくましい」と変化してきた教え子が、さらに別の役割へ進もうとしている様子を見ていました。
U18日本代表とNBA・FIBAのキャンプで世界を経験
高校3年の2022年は、学校外でも新しい経験が増えました。
FIBA U18アジア選手権2022の日本代表に選ばれ、国際大会を経験しています。
同年にはNBAとFIBAによるバスケットボール・ウィズアウト・ボーダーズ・アジアキャンプにも参加しました。
国内だけではなく、海外の同世代と実際にプレーしたことで、自分が将来どのポジションで世界を目指すのかがより具体的になっていきます。
「日本代表のPGでオリンピックへ」という目標
高校3年時には、卒業後の目標として海外挑戦や日本代表をはっきり口にするようになっていました。
ポイントガードへの転向も、この将来像と切り離されたものではありません。
「日本代表のポイントガードとしてオリンピックで活躍する」
BASKET COUNT
現在の大型ポイントガードという形は、プロ入り後に偶然できたものではなく、高校時代から本人が選び始めていた道でした。
高校最後のウインターカップを終え、次の進路を選ぶ
高校最後となった2022年のウインターカップでは、大濠は連覇を目指しましたがベスト8で大会を終えます。
大会を終えれば、多くの高校生選手は大学へ進み、大学バスケで4年間を過ごす進路が候補になります。
湧川さんも当初から高校卒業後すぐプロになることだけを考えていたわけではありませんでした。
大学へ進まず高卒プロへ|18歳で滋賀レイクスを選んだ理由
高校生活の終盤、湧川さんの前に大学を経ずプロへ進む選択肢が浮上します。
それは本人だけで決めて終わるような話ではなく、家族とも向き合う進路選択になりました。
想定していなかった「高校からプロ」という選択肢
2022年12月30日、滋賀レイクスは福大大濠3年の湧川さんを特別指定選手として獲得すると発表しました。
同時に、高校卒業後のプロ契約についても合意していることが発表されます。
滋賀の発表では、出身地を広島県広島市、経歴を古田中から福大大濠として紹介しており、高校卒業と同時に大学ではなくBリーグへ進むことになりました。
Bリーグ開幕後、高校卒業からそのままプロ契約へ進む珍しい進路でもありました。
両親の反対を経て、自分の意思でプロ入りを決断
すぐに家族全員が賛成したわけではありません。
本人によると、両親からは当初プロ入りに反対されました。
それでも話し合いを重ね、最後には自分で決めたのならやってこいと送り出されます。
「自分の意志でプロに行くと決めた」
びわ湖大津経済新聞
高校卒業後は大学へ進まず、18歳でプロバスケットボール選手として生きる道を選びました。
高校1年から見ていたテーブス海の近くで学ぶため滋賀へ
プロになるだけなら、選択肢は滋賀に限りません。
その中で滋賀を選んだ理由として本人が挙げたのが、当時在籍していたテーブス海選手でした。
高校1年のころからプレー映像を見ていたポイントガードと、今度は同じチームで競争できる場所を選びました。
高校時代に映像で研究していた選手の存在が、卒業時にはプロチームを選ぶ理由の一つになりました。
ウインターカップ終了2週間後、Bリーグデビューで7得点
進路を決めてから、プロの試合まで長い準備期間があったわけではありません。
高校最後のウインターカップが終わって約2週間後の2023年1月7日、秋田ノーザンハピネッツ戦でBリーグデビューを果たしました。
初出場ながら14分53秒プレーして7得点。
そしてプロ初得点となった3ポイントをアシストしたのは、滋賀を選ぶ理由にもなったテーブス海選手でした。
滋賀で過ごした高卒ルーキー時代|67試合を戦ってガードとして成長
特別指定選手として始まった2022-23シーズン、滋賀は苦しい戦いの末にB2降格が決まりました。
高校からプロへ来たばかりの湧川さんは、その翌年にB2からB1へ戻るシーズンを最初から最後まで戦うことになります。
B2降格から始まった初めてのフルシーズン
2023-24シーズンは、初めてプロ選手として開幕からシーズンを迎えました。
レギュラーシーズン60試合で平均20分15秒に出場し、7.2得点、3.2リバウンド、2.9アシスト、1.0スティールを記録しています。
さらにプレーオフ7試合にも出場し、レギュラーシーズンとプレーオフを合わせた全67試合に出場しました。
高校では1年間の大会ごとに山場がありましたが、プロでは何カ月も試合を続けながら体を整えなければなりません。
本人も初めて1シーズンを通したことで、体の作り方やオフの過ごし方を学んだと話しています。
練習後も残り、最初の1カ月はパスを重点的に磨く
高校3年で始めたポイントガードへの挑戦は、プロに入った時点でもまだ途中でした。
滋賀を率いたダビー・ゴメスHCによると、湧川さんはチーム練習が終わったあとも1時間ほど個人練習を続けることがありました。
特に最初の1カ月ほど重点的に取り組んだのがパスです。
両手だけで出すのではなく、長い腕を生かして片手で出すパスや、ピックを使ったあとのパス、オフボールからの判断を繰り返し練習しました。
高校時代に始めたポイントガードへの転向が、プロでは「パスをどう出すか」という細かな技術まで掘り下げられていきました。
B2ファイナル終盤を任され、B1昇格を経験
シーズン後半になると、ポイントガードとしてボールを持つ時間が増えていきます。
接戦の終盤でもコートに残り、ゲームを組み立てる役割を任される試合が出てきました。
滋賀は2024年のB2プレーオフを勝ち抜き、B2優勝とB1復帰を達成しました。
ファイナルでも湧川さんはコートに立ち、守備やゲームメークに関わっています。
「だいぶ成長できたかなと思います」
B.LEAGUE公式
高校卒業からわずか1年余りで、フルシーズン67試合を経験し、B1昇格を争う試合の終盤まで任されるガードになりました。
三遠ネオフェニックスへ|高校時代に描いた日本代表PGへ近づく
滋賀でB1復帰を果たしたあと、湧川さんは次の環境へ進みます。
2024-25シーズンからの所属先は三遠ネオフェニックスです。
20歳で滋賀から三遠へ移籍
2024年、滋賀を離れて三遠へ移籍しました。
高校卒業直後に飛び込んだ滋賀で、降格、B2でのフルシーズン、優勝、B1復帰までを経験したうえでの移籍でした。
三遠では背番号14を着け、ポイントガードとして新しい競争へ入ります。
三遠で出場機会をつかみ、197cmの大型ガードへ
2024-25シーズンはB1で56試合に出場し、翌2025-26シーズンには60試合中37試合でスターターを務めました。
2025-26シーズンは平均17分48秒出場し、5.9得点、2.6リバウンド、2.0アシストを記録しています。
現在の公式登録は197cm・90kg、PG/SGです。
高校3年でポイントガードへ移ったころから比べても、長身を生かしながらボールを扱うスタイルがよりはっきりしています。
2025年に男子日本代表のコートへ
高校時代から口にしていた日本代表への道も、少しずつ現実のものになっていきました。
2022年のU18日本代表、2023年のU19ワールドカップを経て、2025年には男子日本代表候補へ入ります。
そして2025年7月5日のオランダ戦で、21歳で男子日本代表デビューを果たしました。
この試合には、U19ワールドカップを一緒に戦ったジェイコブス晶選手や、高校時代の後輩でもある川島悠翔選手もいました。
湧川さんは同世代の選手たちについて、代表の席を争う相手として意識していることも明かしています。
197cmの大型ガードとして2026年も日本代表候補に
2026年に入っても日本代表カテゴリーとの接点は続いています。
5月にはアジア競技大会選考を兼ねた男子日本代表第1次強化合宿へ招集され、7月には第45回ウィリアムジョーンズカップ事前合宿のメンバーにも選ばれました。
三遠との契約も2026-27シーズンまで継続しています。
高校3年で描いていた「日本代表のポイントガード」という目標に対し、現在は197cmのPGとして実際に代表候補へ入り続けています。
広島で友人に誘われてバスケットを始めた湧川颯斗さんは、古田中で全国準優勝を経験し、福大大濠では高校日本一のコートに立ちました。
そこから得点型のフォワードにとどまらずポイントガードへ役割を変え、大学進学ではなく高卒プロを選んだことで、18歳からBリーグの中でガードとしての経験を積んでいます。
高校時代に思い描いていた日本代表のポイントガードという目標は、三遠でプレーする現在も続いています。
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