田中流嘉州の生い立ちと家族|ブラジルで過ごした中学時代からプロになるまで

田中流嘉州
ひと目でわかるプロフィール 田中流嘉州
たなかるーかす
出身地
三重県
生まれ年代
2000年代生まれ
性別
男性
育った家庭
ブラジル出身でJリーグのGKコーチを務めた父と、バスケットボール選手だった母のもとに生まれた。
キャリアの原点
小学4年生のころ、父からサッカー以外のスポーツを探すよう勧められたことが、バスケットボールへ転向する大きな転機になった。

長崎ヴェルカでプレーする田中流嘉州(たなか・るーかす)さんは、194cmの体格を生かしたリバウンドやディフェンス、コートで見せるパッションが持ち味のフォワードです。

2003年12月11日生まれで、2026年のB.LEAGUEドラフトでは滋賀レイクスから2巡目2位、全体8位で指名されました。

田中流嘉州さんを理解する3つのポイント
  1. 幼少期は父の影響でサッカーに取り組み、小学5年生から母が経験していたバスケットボールを始めた。
  2. 小学4年生のころ、父からサッカー以外のスポーツを探すよう勧められたことが、バスケットボールへ転向する大きな転機になった。
  3. 現在の道につながる原点:学生時代から活動

プロフィールでは「三重県/ブラジル出身」と紹介されることがありますが、実際の歩みをたどると、ブラジルで生まれ、日本で育ち、中学時代には再びブラジルへ渡っています。

さらに最初からバスケットボール一筋だったわけではなく、子どものころに夢中だったのは父親と同じサッカーでした。

中学時代のブラジル生活、日本の高校へ戻る決断、高校時代の養子縁組と日本国籍取得、大学での大きなけがを経て、現在のプロ生活へ進んでいます。

田中流嘉州の生い立ちと家族|ブラジル生まれ、日本で育った幼少期

田中流嘉州さんの競技人生をたどると、父親と母親がそれぞれ経験してきたスポーツが最初の分岐点に登場します。

ブラジルで生まれた流嘉州さんは、誕生後まもなく日本へやって来て、幼少期の大半を日本で過ごしました。

JリーグのGKコーチだった父とバスケット選手の母のもとに生まれる

父親はブラジル出身のジェルソン・シルバ・オルネラスさんです。

アルビレックス新潟、ガンバ大阪、名古屋グランパスなどでGKコーチを務め、日本のプロサッカー界で長く指導に携わってきました。

一方の母親はバスケットボール選手だった人物で、流嘉州さんは二つの競技が身近にある家庭で育っています。

幼いころに最初に選んだのは、母親のバスケットボールではなく父親のサッカーでした。

現在もサッカー観戦が好きで、長崎ヴェルカ加入後のインタビューでも欧州サッカーの話題でチームメートと盛り上がる様子が紹介されています。

小学4年生で父からサッカー以外のスポーツを勧められる

サッカーを続けていた小学4年生のころ、父親から思いがけない言葉をかけられます。

プロの世界でサッカー選手を見続けてきた父は、息子にも率直に別の競技を勧めました。

「違うスポーツ探した方がいい」

長崎ヴェルカ公式note

父親がプロサッカーの指導者でありながら、息子には別の競技を探すよう伝えたことが最初の大きな転機になりました。

後年、流嘉州さんは当時は落ち込んだものの、父親のあの言葉がなければ現在の自分はいなかったと話しています。

小学5年生から名古屋でミニバスを始める

サッカーを離れた翌年の小学5年生になると、今度は母親が経験していたバスケットボールを始めます。

名古屋のミニバスへ入り、ここから現在まで続く競技との関係が始まりました。

母親から見ても、サッカーをしていたころとバスケを始めてからでは様子が違っていたといいます。

サッカーのころには自分から積極的に動こうとする姿が目立たなかった一方、バスケでは早く準備を済ませ、練習へ向かおうとしていました。

この母親は、その後も流嘉州さんのバスケット人生に何度も登場します。

プロになった現在でも、ワークアウトを見てもらうと練習後にシュートについて細かな指摘を受けることがあるほどで、本人は母親を何でも話せる親友のような存在として語っています。

家族情報

公開情報で確認できている家族について、続柄・職業・補足・出典を整理しています。

父 ジェルソン・シルバ・オルネラス サッカーGKコーチ

Jリーグ複数クラブでGKコーチを務めた父。

公式情報 出典を見る
母 元バスケットボール選手

本人が競技転向後もバスケット面で影響を受けた母。氏名は登録しない。

公式情報 出典を見る

田中流嘉州の中学時代|ブラジルへ渡ってプロを意識する

小学5年生から日本でバスケを始めた生活は、中学校へ進むと大きく変わります。

名古屋の中学校へ入学したものの、そのまま日本で3年間を過ごしたわけではありません。

名古屋の中学校へ入学するも数か月後にブラジルへ

中学校へ進んで数か月がたったころ、流嘉州さんは日本を離れ、ブラジルで暮らすことになりました。

B.LEAGUEドラフトの公式経歴では、2016年4月から2019年3月までClube Internacional de Regatas Basqueteでプレーした経歴が記録されています。

ブラジルで生活した地域は港町のサントスで、2026年には約8年ぶりに現地へ帰っています。

ちなみに長崎へ加入した後、サントスと長崎が姉妹都市で、サントスでは長崎から贈られた路面電車が走っていることにも触れています。

子ども時代を日本で過ごしながら、中学の3年間はブラジルで生活したため、単純に一つの市町村だけを「育った場所」とするのが難しい経歴です。

長崎ヴェルカやB.LEAGUEのプロフィールでは出身地に三重県やブラジルと記載されていますが、本人によると三重県で暮らした経験はなく、三重県は後に養子となった家族が暮らしていた場所です。

ブラジルで3年間バスケに打ち込みU14代表候補に入る

ブラジルへ渡った中学時代は、バスケットボールが趣味から将来の仕事へ変わっていった時期でもあります。

現地で3年間プレーするなかで競技への気持ちが強くなり、中学3年生ごろにはプロバスケットボール選手を意識するようになりました。

ブラジルではU14代表候補にも入り、日本でミニバスを始めてから数年で競技のレベルが一気に上がっていきます。

このころは現在ほど練習を細かく分析するというより、まずバスケットそのものを楽しむことを大切にしていたと後年話しています。

それでもプロを意識するにつれ、ただ練習するだけでは上へ行けないと考え始めました。

現地チームから声が掛かる中、日本の高校へ戻ることを決める

中学卒業が近づくころには、ブラジルでそのまま競技を続ける道も見え始めていました。

本人が「ほぼセミプロ」と表現する現地のチームから声を掛けられていたため、ブラジルに残る選択肢もありました。

ここで再び進路に関わったのが父親です。

日本でサッカー指導者として仕事をしてきた父親から、日本へ戻ってバスケを続けることを勧められました。

流嘉州さん自身も、子どものころから日本で育ち、日本に支えられてきたという思いがありました。

ブラジルのクラブに残る道ではなく、日本の高校バスケへ進み、日本代表を目指す道を選びます。

人生年表 田中流嘉州さんの歩み
幼少期
田中流嘉州の生い立ちと家族|ブラジル生まれ、日本で育った幼少期

田中流嘉州さんの競技人生をたどると、父親と母親がそれぞれ経験してきたスポーツが最初の分岐点に登場します。

中学校
田中流嘉州の中学時代|ブラジルへ渡ってプロを意識する

小学5年生から日本でバスケを始めた生活は、中学校へ進むと大きく変わります。

中学校
名古屋の中学校へ入学するも数か月後にブラジルへ

中学校へ進んで数か月がたったころ、流嘉州さんは日本を離れ、ブラジルで暮らすことになりました。

高校
現地チームから声が掛かる中、日本の高校へ戻ることを決める

中学卒業が近づくころには、ブラジルでそのまま競技を続ける道も見え始めていました。

高校
中部大第一高校へ進学|「田中」の姓を得て日本一を経験

2019年春、日本へ戻った流嘉州さんは愛知県の中部大学第一高等学校へ進学しました。

中部大第一高校へ進学|「田中」の姓を得て日本一を経験

2019年春、日本へ戻った流嘉州さんは愛知県の中部大学第一高等学校へ進学しました。

全国大会を狙う強豪校での3年間は、競技面だけでなく現在の「田中流嘉州」という名前につながる時期でもあります。

日本代表を目指して中部大学第一高校へ進む

ブラジルで3年間プレーしてきた流嘉州さんにとって、日本の高校バスケは新しい環境でした。

中学時代には楽しむことを大切にしていましたが、高校では一つ一つの練習が試合のどの場面へつながるのかを考えるようになったといいます。

ランニングなら試合のどこで生きるのか、ドリブルならどの場面で使うのかというように、練習の目的を自分なりに整理していました。

この習慣はプロになった後も残っており、2026年に高校生向けのクリニックへ参加した際には、練習が何につながっているかを考えるよう選手たちへ問いかけています。

高校の先輩の家族の養子となり「田中流嘉州」になる

高校時代には、競技とは別の大きな出来事もありました。

日本代表を目指すなかで日本国籍取得を進めることになりましたが、ブラジルで暮らした期間があったため、本人が説明する当時の要件ではそのまま手続きを進められませんでした。

そこで高校の先輩の家族が養子として受け入れ、その家族から「田中」という姓を受けます。

高校在学中に養子縁組を行い、日本国籍を取得して現在の「田中流嘉州」という名前になりました。

実の両親との関係に問題があったためではなく、本人は父親と母親とも話し合って決めたことを明確にしています。

「感謝という言葉を、僕は人生で一番大事にしています」

B.LEAGUE公式 B.MAGAZINE

2026年のB.LEAGUE公式インタビューでも、実の家族と自分を受け入れた田中家の双方に恩返しをしたいと語っています。

黒川才徳と毎日自主練し、インターハイ初優勝へ

高校3年生となった2021年、中部大学第一は全国高校総体(インターハイ)へ出場しました。

チームは勝ち上がり、同校にとって初となるインターハイ全国優勝を達成します。

全国優勝後も、流嘉州さんの日常はそこで一区切りにはなりませんでした。

当時キャプテンだった黒川才徳さんとは毎日のように自主練習を行い、互いに意見を言い合うこともあったと高校時代のインタビューで明かしています。

全国大会で結果を残した後も、放課後には黒川さんと自主練を続ける高校生活を送っていました。

高校最後のウインターカップまで全国の舞台を戦う

インターハイを終えると、高校最後の全国大会となるウインターカップへ向けた時間が始まりました。

このころには196cm前後の大型フォワードとして注目され、ゴール下だけでなく高い身体能力を生かしたプレーを見せています。

高校卒業を控えた2022年春には、大学入学前から大東文化大学の一員として実戦に参加している姿も紹介されました。

ブラジルから日本へ戻って始まった3年間を終え、次は大学バスケットへ進みます。

大東文化大学時代|故障と挫折でバスケとの向き合い方が変わる

2022年4月、流嘉州さんは大東文化大学へ進学しました。

大学公式の男子バスケットボール部は週6日で活動し、原則全寮制という環境です。

高校で全国優勝を経験した流嘉州さんでしたが、大学4年間は順調な試合だけで進んだわけではありません。

大学1年からU22日本代表で海外遠征を経験する

大学1年の段階から年代別代表にも名前が入りました。

2022年度の男子U22日本代表では、当時1年生ながらメンバーに入り、オーストラリア遠征で3試合すべてに先発しています。

自身の役割をリバウンドと捉え、世界の高さを相手に試合を重ねるなかで、2戦目には6本、3戦目には5本のリバウンドを記録しました。

日本の大学とは違う選手たちを相手にし、競技だけでなく身体づくりや練習環境にも目を向けるようになります。

学生時代にはアメリカのバスケットボールキャンプにも参加し、インディアナ大学でアスリートごとに必要なカロリーや食事内容まで示される環境を見ています。

新人インカレでキャプテンを務め、追い込まれた時期もあった

大学ではチームを引っ張る役割も経験します。

本人によると、大東文化大学で初めてキャプテンを務め、人前で話すことが得意ではない自分に務まるのかと最初は考えていました。

その際には、父親が名古屋グランパスにいたころから家族ぐるみの縁があった田中マルクス闘莉王さんへリーダーシップについて相談しています。

闘莉王さんから聞いたのは、一人だけで責任を負おうとするのではなく、周囲から信頼される関係をつくるという考え方でした。

一方、大学時代には新人インカレで1回戦敗退を経験した時期もありました。

自分に強いプレッシャーをかけ続けていた流嘉州さんは、このころ精神的にも追い込まれていきます。

「もう俺バスケット選手になれない」

長崎ヴェルカ公式note

この言葉は、限界を感じたときに母親へ電話して口にしたものでした。

高校まで全国の舞台で結果を残してきた一方、大学では競技を続ける自信を失うところまで気持ちが落ちた時期がありました。

大学2年夏に前十字靭帯を断裂しリハビリ生活へ

さらに大学2年生の夏には、右膝の前十字靭帯を断裂します。

長期間コートを離れることになり、それまで毎日のようにバスケットのことばかり考えていた生活も変わりました。

本人は後年、このけがを「自分の考えを目覚めさせる」きっかけとして捉えています。

プレーすることだけでなく、自分の身体をどう管理するかまで考え始めたのが前十字靭帯断裂後の時期でした。

リハビリ中には、母親が支えてくれた人たちをまとめた動画も作っていました。

動画にはトレーニングや復帰を支えた人たちに加え、ブラジルから流嘉州さんの心を支えた人物も登場します。

ブラジルの専門家によるメンタルケアを受けて競技へ戻る

競技への自信を失った時期には、ブラジルにいるメンタルケアの専門家からサポートを受けました。

電話で話しながら、自分の置かれている状況や物事をどう考えるかについて助言を受けています。

最初は専門家を頼ることに恥ずかしさも感じていたそうですが、少しずつ弱音も含めて話せるようになりました。

2026年に久しぶりにブラジルへ帰った際には、その人物とも再会しています。

高校時代に養子となって日本国籍を取得したことへの感謝があるからこそ、結果を出さなければというプレッシャーも強かったことを本人は明かしています。

大学では、けがから身体について考え直すことと、専門家との対話を通じて気持ちの持ち方を整えることが同じ時期に進んでいきました。

身体づくりと練習への考え方を変え、4年時までプレーする

復帰後は大学のコートへ戻り、最終学年までプレーを続けました。

2024年のリーグ戦では、春シーズンをけがで欠場した後に復帰し、大学3年生として再び試合へ出場しています。

大学4年となった2025年には194cm・94kg前後の身体で、リバウンドやフィジカルを生かすフォワードとして大東文化大学の中心メンバーに入りました。

関東大学バスケットボール連盟の企画では、自分の得意なプレーとして「元気を出すこと」、リバウンド、ドライブを挙げています。

大学最終シーズンには関東1部リーグで1試合平均7.7得点、6.5リバウンド、1.9アシストを記録しました。

また、2025年度の李相佰盃日・韓大学代表バスケットボール競技大会に向けた男子大学日本代表の強化メンバーにも選ばれています。

大東文化大学公式YouTubeには、4年生となった2025年にチームの目標を語る姿も残っています。

故障を経験した後は、フィジカルに自信を持ちながらも、Bリーグでより幅広いポジションに対応するためアジリティも意識してトレーニングを続けました。

Bリーグドラフトで滋賀レイクスから指名|長崎でプロ生活が始まる

大学生活が終盤に入ると、子どものころから目指していたプロ入りが現実の予定として近づきます。

B.LEAGUEドラフト2026にエントリーし、公式コンバインにも参加しました。

2026年ドラフト2巡目2位、全体8位で指名される

2026年1月29日に行われたB.LEAGUE DRAFT 2026で、滋賀レイクスが流嘉州さんを2巡目2位、全体8位で指名しました。

ドラフト公式プロフィールでは、卓越したリバウンド力、複数ポジションを守れるディフェンス、運動量、3ポイントなどが特徴として挙げられています。

小学5年生から始めたバスケットボールで、22歳のときにプロへの交渉権を得ました。

指名後には、これまで支えてくれた家族や周囲への感謝を忘れずに進みたいと話しました。

育成契約選手制度で長崎ヴェルカへ加入する

ドラフトでは滋賀から指名されましたが、最初にBリーグのコートへ立つクラブは別の場所になりました。

滋賀レイクスと長崎ヴェルカが育成契約選手制度を活用した連携を行い、2026年2月には大学在学中の特別指定選手として長崎ヴェルカへ加入しました。

「自分の強みであるパッションを出して行きたいです!」

長崎ヴェルカ

大学では試合へ出ることが当たり前だった一方、B1の長崎ではすぐに長いプレータイムを得られたわけではありません。

2025-26シーズンのレギュラーシーズン出場は4試合で、合計プレー時間は23分4秒でした。

それでもベンチや練習で、馬場雄大さんをはじめとしたプロ選手が試合へ向けて身体、食事、休養まで準備する姿を間近で見る時間ができました。

京都戦でプロ初得点を記録する

2026年5月3日、レギュラーシーズン最終戦の京都ハンナリーズ戦では大きな出場機会が訪れます。

この日は長崎市で大規模停電が発生し、試合会場でもハーフタイムに電気が消えるという珍しい状況になりました。

非常灯だけになった薄暗い廊下で身体を動かし、後半から出場します。

後半だけで18分56秒プレーし、プロ初得点、初アシスト、初スティールを記録しました。

いつ出場機会が来るか分からないプロの環境で、大学までとは異なる「準備」の意味を実戦でも経験した試合になりました。

ブラジルと日本で積んだ経験を持って次のシーズンへ

2025-26シーズン終了後、滋賀レイクスとは2028-29シーズンまでの3年契約を締結し、2026-27シーズンは育成契約選手制度によって長崎ヴェルカへ期限付き移籍することが正式に決まりました。

プロ1年目の短い出場時間で見たものは、大学時代に大きなけがを経験した流嘉州さんにとって、身体との付き合い方をもう一度考える材料にもなっています。

学生時代から続けてきた「練習の意味を考える」習慣

高校時代から続いているのが、一つ一つの練習を試合の場面へ結びつけて考える習慣です。

大学で前十字靭帯を断裂すると、そこに身体づくりや休養という視点も加わりました。

プロではさらに、試合へ出ている時間だけでなく、食事、睡眠、ケアまで含めた準備を先輩選手から見ています。

2026年8月のB.LEAGUE公式インタビューでは、周囲の選手と比べるよりも、自分自身の変化を見る考えを話しました。

「比べるべきは『昨日の自分』」

B.LEAGUE公式 B.MAGAZINE

2026年夏には若手有望選手を集めたB.LEAGUE UNITEDのオーストラリア遠征にも参加し、NBLのチームとの試合で先発を経験しました。

その後はウィリアム・ジョーンズカップへ向けた日本代表チームの活動にも加わり、プロになってからも海外の選手と対戦する機会が続いています。

日本代表を目標に長崎ヴェルカで新しいシーズンへ進む

流嘉州さんが現在掲げている目標の一つが日本代表です。

中学卒業時にブラジルへ残る道から日本へ戻ったころにも、日本で育ててもらったという思いとともに日本代表を目指していました。

高校時代には日本国籍を取得し、大学ではU22日本代表や男子代表ディベロップメントキャンプなどを経験しています。

2026年には、将来の目標として日本代表でプレーし、いつかオリンピックの舞台でブラジル代表と対戦したいという夢も語りました。

日本とブラジルのどちらも自分にとって大切な場所だからこそ、その二つの国を代表するチームが同じコートに立つ試合を目標にしています。

父親が乗っていたランドクルーザーに憧れ、いつか自分も乗りたいという話や、将来は両親へ家や旅行をプレゼントしたいという目標もあります。

小学生のころに父から別のスポーツを探すよう勧められたところから始まった道は、家族から離れるのではなく、実の家族と田中家の双方とのつながりを持ちながら続いています。

ブラジルで生まれ、日本でサッカーに親しんだ少年時代から、バスケットボールを始め、中学では再びブラジルへ渡りました。

日本へ戻った高校時代には現在の名前と日本国籍を得て、大学では大きな故障や競技を続ける自信を失った時期を経験した後、B.LEAGUEドラフトで指名を受けています。

現在は長崎ヴェルカでプロとしての時間を重ねながら、子どものころから目標にしてきた日本代表、その先の海外でのプレーへ進もうとしています。

参考・出典 この記事で参照した主な資料
正本DB確認日:2026-09-15

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