構成作家・武村圭佑の生い立ちと家族|奈良の学生時代から大久保佳代子『らぶぶらLOVE』まで

構成作家・武村圭佑
ひと目でわかるプロフィール 構成作家・武村圭佑
たけむらけいすけ
出身地
奈良県
生まれ年代
1980年代生まれ
活動ジャンル
放送作家
性別
男性
キャリアの原点
養成・修業

TBS Podcast『大久保佳代子とらぶぶらLOVE』で、大久保佳代子さんの話を受けながら時折ツッコミを入れている構成作家の「たけむら」は、公式表記では「竹村」ではなく武村圭佑さんです。

武村圭佑さんは1986年12月19日生まれ、奈良県出身で、2026年9月現在は39歳です。

テレビやラジオ、Podcastなどで企画や台本を考える裏方として仕事を続けてきましたが、『らぶぶらLOVE』では大久保佳代子さんの話し相手として声でも知られるようになりました。

現在の姿から時間を戻すと、大学卒業後にはいったんスーパーマーケットへ就職し、約2か月で退職して構成作家の道へ進んでいます。

その後も大阪で仕事がない時期を過ごし、2014年には引っ越し業者を頼まず、大きなリュックとIKEAの青い袋を抱えて夜行バスで東京へ向かいました。

武村圭佑の生い立ちと家族|奈良で過ごした子ども時代

武村さんは自身のプロフィールで奈良県出身と公表しており、子ども時代の話には両親や学校の先生、少年野球で一緒だった子どもたちが登場します。

家庭について本人が具体的に残しているのは、両親に育てられ、大学まで進学させてもらったという記憶です。

「両親から愛情を受けて育ち、大学まで行かせてもらい」

出典:本人note

少年野球と「目立つ側ではない」感覚が残った小学生時代

幼いころの武村さんは、最初から人前を避けていたわけではありません。

親戚が集まった際に兄弟・いとこ5人で撮った写真では、ほかの4人がカメラに照れる中、武村さんだけが笑顔でダブルピースをしていたそうです。

小学生になると少年野球にも通い、学校やチームでは、自分より人気があったり野球が上手だったりする子どもたちを見ていました。

武村さんは後年、そうした周囲を見ながら、自分は目立つ側の人間ではないと子どもなりに感じ始めたのかもしれないと振り返っています。

一方で、これは現在の自分から昔を振り返った本人自身の分析で、いつから「裏方気質」になったのかについては、本人にもはっきりした答えはないとしています。

放課後に残され、紫陽花の絵を泣きながら描いた日

小学校5、6年生のころには、課題や学校での行動に真面目さが足りないと判断すると、放課後まで残して指導する担任の先生がいました。

細かな経緯はもう覚えていないものの、武村さんの記憶には、放課後の教室で紫陽花の絵を泣きながら描いていた場面が残っています。

同じ先生からは、そのたびに課題へもっと真面目に取り組むよう何度も言われていました。

大人になった武村さんは、周囲が避けがちな雑務でも自分はそれほど嫌がらず、むしろ丁寧にやる傾向があることに気づき、小学生時代のこうした記憶を思い出しています。

両親から受けた愛情と、父のギターがあった家

武村さんの家庭については、父親と母親の存在を本人がたびたび文章に残しています。

父親はビートルズ世代でギターを弾くことができ、自宅にはアコースティックギターがありました。

このギターを本人が実際に触り始めるのは高校生になってからですが、音楽が身近にある家庭の風景として、その後の学生時代の話にも登場します。

また、のちに大学への進路を決める際にも両親の考えが関わっており、武村さんが構成作家になるまでの時間には、家族との生活が何度か顔を出します。

中学・高校時代|ラジオから「構成作家」という仕事を知る

小学校を卒業した武村さんは、中学生になると自分のおもしろさや周囲からの見られ方を意識する出来事を経験します。

同じころにはラジオや音楽にも触れ、現在の職業へ続く言葉を初めて知りました。

中学1年の放課後、「自分はおもしろい」という自信が揺れた

2026年に朝日新聞の「青春コンプレックス」企画で学生時代を取材された際、記事には中学1年のある放課後まで「自分はおもしろい」と信じていた武村さんの姿が紹介されました。

その記事の見出しになったのが、誰かから投げかけられた「イキってない?」という一言です。

武村さん本人も取材後のnoteで、記事にはそれまで自分以外の誰かへ初めて伝えた話や学生時代の思い出が含まれていると明かしています。

朝日新聞のインタビューは、現在の本人が学生時代を時系列に沿って語った資料の一つになっています。

ラジオや音楽と過ごした中学生時代

学校では、掃除の時間にモップの糸が取れた状態の柄で床を拭いてふざけ、担任から強く叱られたこともありました。

その場面も小学生時代の担任と同じように長く記憶に残り、武村さんは後年、自分が仕事を真面目に進めるようになった背景を考えるとき、この時期の先生たちを思い返しています。

一方、学校の外では音楽やラジオが身近になっていきました。

中高生のころに聴いていたラジオで、「構成作家」という職業が存在することを初めて知ります。

テレビのバラエティ番組で放送されている企画やゲームにも構成作家が関わっていると知り、表に立つ芸人とは別の仕事が見え始めました。

高校卒業後はお笑いの世界へ行きたいと考えていた

中学生のころ、武村さんは勉強へ熱心に取り組むタイプではなかったと自身で振り返っています。

高校へ進んだあとも、卒業後にはお笑いの世界へ入りたいという考えを持っていました。

ただし、その時点で芸人として舞台へ立つ道だけを考えていたわけではなく、中高生で知った構成作家という裏側の仕事も進路の候補になっていました。

実際に高校を卒業するとすぐ業界へ飛び込むのではなく、両親から大学までは卒業するよう勧められ、次の進路を選ぶことになります。

父のギターはFコードで挫折、ラジオから見つけた別の道

高校生になった武村さんは、自宅にあった父親のアコースティックギターを触らせてもらいました。

バンドや音楽への憧れはありましたが、ギターでは初心者がつまずきやすいFコードが壁になります。

「ギターはFコードがうまく押さえられなくて挫折しました。」

出典:本人note

音楽の道はそこで止まりましたが、同じ学生時代に知った構成作家には、本人が「ここで辞める」と判断するような分かりやすい壁がありませんでした。

後年、コント台本が何本もボツになったときも、仕事がほとんどなかったときも、武村さんはこの「Fコードがなかった」という言葉で構成作家を続けてきた時間を振り返っています。

人生年表 構成作家・武村圭佑さんの歩み
幼少期
武村圭佑の生い立ちと家族|奈良で過ごした子ども時代

武村さんは自身のプロフィールで奈良県出身と公表しており、子ども時代の話には両親や学校の先生、少年野球で一緒だった子どもたちが登場します。

高校
中学・高校時代|ラジオから「構成作家」という仕事を知る

小学校を卒業した武村さんは、中学生になると自分のおもしろさや周囲からの見られ方を意識する出来事を経験します。

高校
高校卒業後はお笑いの世界へ行きたいと考えていた

中学生のころ、武村さんは勉強へ熱心に取り組むタイプではなかったと自身で振り返っています。

学生時代
少年野球と「目立つ側ではない」感覚が残った小学生時代

幼いころの武村さんは、最初から人前を避けていたわけではありません。

学生時代
ラジオや音楽と過ごした中学生時代

学校では、掃除の時間にモップの糸が取れた状態の柄で床を拭いてふざけ、担任から強く叱られたこともありました。

学生時代
大学進学と放送作家養成塾|就職するか、作家になるか

高校卒業が近づくと、すぐお笑いの世界へ入るという考えと、まず大学へ進むという家族の考えが並ぶことになります。

学生時代
両親の「大学だけは卒業して」で指定校推薦へ

本人によると、高校時代には卒業後にお笑いの世界へ入りたいと思っていた一方、両親からは大学までは卒業しておくように勧められていました。

学生時代
大学4年の秋、かわら長介放送作家魁塾へ通い始める

就職活動は大学3年の秋から始め、企業説明会へ参加したりエントリーシートを提出したりしていました。

大学進学と放送作家養成塾|就職するか、作家になるか

高校卒業が近づくと、すぐお笑いの世界へ入るという考えと、まず大学へ進むという家族の考えが並ぶことになります。

武村さんは大学へ進学しますが、在学中も構成作家になりたいという考えは消えませんでした。

両親の「大学だけは卒業して」で指定校推薦へ

本人によると、高校時代には卒業後にお笑いの世界へ入りたいと思っていた一方、両親からは大学までは卒業しておくように勧められていました。

そこで選んだのが指定校推薦による大学進学でした。

武村さん自身は、特に学びたい内容があって選んだ学部ではなかったと後年振り返っており、そのまま4年間を大学生として過ごします。

大学時代にはスーパーマーケットでアルバイトをしており、この経験が卒業前の就職活動にもつながりました。

大学4年の秋、かわら長介放送作家魁塾へ通い始める

就職活動は大学3年の秋から始め、企業説明会へ参加したりエントリーシートを提出したりしていました。

その一方、構成作家になりたい気持ちは残っていたため、大学4年の秋から約半年間、放送作家・かわら長介さんが講師を務める作家養成塾へ通います。

のちにプロフィールにも記載される「かわら長介放送作家魁塾」です。

授業や卒業公演で大きな手応えを得たわけではなかったものの、授業そのものや、みんなで公演を作っていく時間を楽しいと感じ、構成作家を目指す気持ちは強くなっていきました。

新卒でスーパーに入り、淡路島で入社研修を受ける

それでも卒業時点では構成作家一本に決めず、学生時代のアルバイト経験もあったスーパーマーケットから内定を得て新卒入社しました。

入社後には淡路島での入社合宿へ参加し、座学でサービス業について学びます。

店舗へ出ればレジを打ち、品出しをするという、構成作家とはまったく違う毎日が始まりました。

仕事そのものが嫌だったわけでも、人間関係に問題があったわけでもなく、4月と5月は会社員として真面目に働いていたと本人は記しています。

同期の活動を知り、入社約2か月でスーパーを退職

会社で働いている間にも、作家養成塾の同期から「あの芸人とネタ作りを始めた」「イベントのスタッフになった」といった話が入ってきました。

同期が現場へ入り始める一方で、自分は入社研修を受け、レジや品出しをしている状況に武村さんは焦りを感じます。

そして6月15日付で会社を退職し、入社から約2か月で進路を構成作家へ切り替えました。

「作家やりたい!やるしかない!なら辞めるしかない!」

出典:本人note

会社員と構成作家の二足のわらじを続けるのではなく、ここで初めて作家側へ一本化します。

退職後はすぐに構成作家だけで生活できたわけではなく、アルバイトをしながら現場へ出る20代が始まりました。

大阪で始まった構成作家生活|仕事がない20代の下積み

スーパーを辞めた武村さんは、アルバイトで生活費を補いながら構成作家として現場へ入るようになります。

ここから約5年間、活動の中心となったのが大阪でした。

2009年、アルバイトをしながら構成作家を名乗り始める

2009年4月、武村さんは大阪で構成作家を名乗って活動を始めました。

1年目から構成作家の収入だけで生活できたわけではなく、アルバイトとの並行が続きます。

それでも1年目より2年目、2年目より3年目と、構成作家として動く時間は少しずつ増え、受け取るギャラも増えていきました。

当時の本人は、このまま大阪で構成作家を続けていくのだろうと考えていたそうです。

コントはボツ続き、吉本の若手劇場でも仕事をつかめなかった

構成作家を名乗ったからといって、すぐ企画や台本が採用されるわけではありませんでした。

師匠のかわら長介さんが主宰するコントライブでは、武村さんが提出するコント台本が次々にボツになったといいます。

さらに紹介を受けて大阪吉本の若手劇場へ入ったものの、企画をうまく出せず、先輩とのコミュニケーションにも苦戦し、ほとんど仕事がない時期もありました。

作家としての仕事が少ない間はアルバイトを続けながら、かわらさんや周囲の先輩から仕事を教わっていきます。

構成作家になった直後に何か一つの仕事で道が開けたのではなく、企画が通らない時期と現場へ呼ばれない時期を含んだ大阪生活でした。

2013年、仕事・人間関係・お金が重なり作家を辞めかける

状況が大きく変わったのは2013年です。

構成作家としての稼働は増えていたため十分にアルバイトを入れられない一方、作家の収入だけでは生活費が足りず、武村さんは両親へお金について相談するようになりました。

同じ年の春に先輩の紹介で入った新しい仕事場では、暗黙のルールを把握できず、自身の未熟さから失敗して叱られる日も続きました。

本人の回想には、深夜0時から5時ごろまで先輩から話を受けたことや、仕事場へ向かうエレベーターに乗る前にえずいていたことまで記されています。

仕事、人間関係、金銭面が同時に重なり、このころ初めて構成作家そのものを辞めることを考えました。

残った選択肢は、作家を辞めるか、大阪を離れて東京で作家を続けるかでした。

2014年の上京|IKEAの青袋にテレビを入れて夜行バスへ

プロフィールだけを見ると「2014年に活動拠点を東京へ移した」と短く書ける出来事ですが、本人が後年残した文章では、その前に大阪から離れるかどうかを決める数か月があります。

「大阪から逃げて東京に来ました。」

出典:本人note

2013年9月、東京の先輩と同期へ相談するため夜行バスに乗る

大阪で仕事を続けることが難しいと感じていた武村さんには、すでに東京へ移っていた先輩と作家養成塾の同期がいました。

2013年9月、東京の構成作家事情を聞くため、その2人に会おうと夜行バスへ乗ります。

東京へ向かうバスの中では、先輩や同期から予定を調整するメールが届く一方、大阪で一緒に仕事をしていた先輩からも仕事の発注メールが届きました。

そのメールを見たことで、大阪で同じ相手と仕事を続けることはできないという考えが固まったと本人は振り返っています。

東京で先輩と同期から話を聞いて上京を決めると、大阪で受ける構成作家の仕事を極力減らし、再びアルバイトをして移動に必要な最低限のお金を貯めました。

2014年1月31日、最低限の荷物を持ってシェアハウスへ

東京で選んだ住まいは、初期費用を抑えられるシェアハウスでした。

ただし、引っ越し業者へ頼めるだけのお金までは用意できませんでした。

そこで大きなリュックサックとIKEAの大きな青い袋に荷物を詰め、再び夜行バスに乗ります。

青い袋にはテレビまで入れていたと本人は書いています。

2014年1月31日、武村さんはその荷物を持って東京へ移りました。

東京の下積み時代|リサーチを辞め、一本の電話で踏みとどまる

東京へ移ったことで、大阪で抱えていた問題からは離れることができました。

ただし、上京した直後から企画や台本の仕事だけで生活できるようになったわけではありません。

ネットと図書館を回る番組リサーチを約1年間担当

上京後の武村さんが担当した仕事の一つが、構成作家の下積み業務である「リサーチ」でした。

たとえば番組の企画に合う店をインターネットで探し、必要な発言や昔の情報を見つけるために図書館へ出向き、過去の雑誌や書籍を調べます。

テレビ番組の経験がほとんどなかった武村さんは、一つの番組でこのリサーチ業務を約1年間続けました。

報酬は大きくなかったものの、番組がどのように材料を集め、企画を作っていくのかを現場で経験する時間になりました。

後年の本人コラムでは、丁寧にリサーチをする若手として人から紹介されたことが、その後の仕事につながっていったとも記しています。

2015年夏、番組を辞めてアルバイトを増やそうとする

上京から2年目となった2015年夏、リサーチを担当していた番組で状況が変わります。

上司にあたる先輩作家からの発注や注文が厳しくなり、武村さんは肉体的にも精神的にも続けることが難しくなって、その番組を辞めたいと伝えました。

大阪で仕事が苦しくなって東京へ移ったあと、東京でも一つの番組を続けられなかったことで、構成作家としての自信も失っていきます。

番組を離れれば空く時間が増えるため、当初はアルバイトの日数を増やして生活費を稼ぐつもりでした。

大阪時代の先輩との電話後、新しい仕事から人脈が広がる

そんなとき、大阪時代から世話になっていた先輩から突然電話がかかってきました。

特別に武村さんを励ますための電話ではなく、普段と同じような他愛のない話だったそうです。

会話の中で武村さんがアルバイトを増やそうと思っていると伝えると、先輩は自分自身のお金や仕事について話したあと、武村さんにも作家を続けるよう言葉をかけました。

「アルバイトを増やすのは辞めようと思った記憶が鮮明に残っています。」

出典:本人note

電話のあと、武村さんはアルバイトを増やさない方を選びます。

ほどなく別の仕事が決まり、その仕事で出会った人から新しい人間関係が広がり、少しずつ構成作家の仕事が増えていきました。

やがてアルバイトを辞め、構成作家の仕事で生活できる状態へ移っていきます。

大久保佳代子『らぶぶらLOVE』へ|裏方から声でも知られる存在に

東京で仕事が増えると、武村さんはテレビやラジオなどで構成作家として活動を続けます。

中高生のころにラジオで知った構成作家という仕事を続ける中、30代後半には、自分自身の声もリスナーへ届く仕事が始まりました。

テレビ・ラジオへ広がった構成作家の仕事

武村さん自身の説明によると、構成作家はテレビやラジオで企画を考えたり台本を書いたりし、YouTubeでは企画に加えて編集を担当することもあります。

イベントやお笑いライブでは全体の流れを考え、ゲームコーナーのルールを作り、進行用の台本を書くこともあります。

大阪時代には若手劇場でほとんど仕事を得られない時期もありましたが、東京でリサーチや構成の仕事を積み重ね、テレビやラジオで仕事を受けられるようになりました。

長く「裏側」を仕事場にしてきた武村さんが、そのままの肩書きで声を出すようになった番組の一つが『大久保佳代子とらぶぶらLOVE』です。

2022年、『大久保佳代子とらぶぶらLOVE』がスタート

『大久保佳代子とらぶぶらLOVE』は2022年12月にスタートしました。

大久保佳代子さんがリスナーから届いた恋愛や人間関係の話を取り上げる番組で、武村さんは構成作家でありながら、番組内では聞き役として大久保さんと会話します。

構成作家として台本の裏側にいるだけではなく、リスナーには武村さんの声や大久保さんとのやり取りそのものが届くようになりました。

TBSラジオの公式媒体で番組人気について聞かれた武村さんは、SNSで大きくバズったというより、友人から勧められて聴き始めたという人がいるなど、口コミで広がっている感覚を語っています。

本人によると、番組に届くメールには匿名希望も多く、Podcastランキングで上位になってもSNS上の書き込みだけからはリスナーの多さを把握しにくい状態だったそうです。

2025年、声だけだった構成作家が初めてイベントの舞台へ

番組開始から約2年が過ぎた2025年2月14日、品川プリンスホテル内のClub eXで『大久保佳代子とらぶぶらLOVE 第一回はぬーんサミット IN 品川』が開催されました。

Podcastでは声だけで出演していたため、このイベントが武村さんにとって『らぶぶらLOVE』で初めて顔を見せる場になりました。

ステージへ出ると、声しか知らなかった武村さんの登場に客席から歓声が上がり、大久保さんは早速「構成作家・武村は思っていたより良いか」を来場者へ尋ねるリアルタイムアンケートを始めています。

武村さんはイベント前、数百人の観客を前に自分がきちんと話せるのか、声が上ずらないかと考えながら本番を迎えたことも後日明かしました。

「人生で初めて人前に立つイベントに出ました。」

出典:本人note

構成作家として長く舞台の外側にいた武村さんが、38歳で観客の前に出演者として立った出来事でした。

『イヌとカバ。』や『鼓膜企画』でも自ら発信する現在

『らぶぶらLOVE』で話し始めたことは、武村さん自身が出演する別の活動にも続きました。

2024年2月には、長年の友人で元お笑い芸人のさかぽちさんとYouTubeチャンネル『イヌとカバ。』を開設しています。

2人は以前、同じマンションの上下階に住んでいた時期もあり、さかぽちさんが芸人だったころには一緒にネタを考えたこともありました。

2020年にもYouTube企画へ挑戦していましたが、そのときは武村さん自身が出演するのではなく、別の出演者を立てて企画や構成を担当する形でした。

ところが2022年末から『らぶぶらLOVE』で話すようになって反応が届いたことや、自身の仕事に停滞感を感じていたことから、2024年には自分も出演する形で再びチャンネルを始めます。

2026年には放送作家・脚本家の上野大輔さんとPodcast『鼓膜企画 -コマクキカク-』にも出演し、構成作家という肩書きのまま、自分の言葉を届ける場所が増えています。

同年2月13日には『らぶぶらLOVE』の2回目となるリアルイベント「はぬんタインデー in 品川」が開催され、TBSラジオや人力舎の公式案内には「大久保佳代子、武村圭佑(構成作家)」と2人の名前が出演者として並びました。

前年に初めて客席の前へ出たところから、翌年には公式の出演者欄にも名前が載る形へ変わっています。

奈良県出身の中高生だった武村さんは、ラジオを聴く中で構成作家という裏側の仕事を知りました。

会社員と作家の間で進路を変え、大阪から東京へ移ったあとも仕事が途切れかける時期を経て、現在まで構成作家を続けています。

いま『らぶぶらLOVE』で聞こえる武村さんの声まで時間をたどると、その前には、人前に出るより長く番組の裏側で過ごしてきた年月があります。

参考・出典 この記事で参照した主な資料

構成作家・武村圭佑と似た生い立ちの人物は?

出身地・年代・人生の原点などの共通点から探せます。

似た人物を探す →
最近見た人物・保存一覧を見る →

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA