渡辺銀次の生い立ちと家族|高校・大学、マンキンタン解散からM-1準優勝まで

渡辺銀次
ひと目でわかるプロフィール 渡辺銀次
わたなべぎんじ
出身地
山口県
生まれ年代
1980年代生まれ
活動ジャンル
お笑い芸人
性別
男性
キャリアの原点
養成・修業

ゆっくりと語りかけながら、いつの間にか客席を独特の空気へ巻き込んでいく漫才で知られるドンデコルテの渡辺銀次さん。

2025年のM-1グランプリで初めて決勝へ進出すると、ファーストラウンド3位から最終決戦へ進み、40歳でM-1準優勝という結果を残しました。

その後は漫才だけでなく、けん玉や靴磨き、長い下積み時代に作り続けたチャーハンなど、これまで本人の日常にあったものまで仕事の中に登場するようになっています。

https://twitter.com/McDonaldsJapan/status/2041780583970279689

現在の落ち着いた語り口だけを見ると昔から同じ芸風だったようにも見えますが、若手時代の渡辺さんはむしろ鋭いツッコミとして周囲から一目置かれていました。

最初のコンビの解散、その次のコンビの解散、ピンで過ごした時期、同期芸人の実家での約10年を経て、今のドンデコルテへたどり着いています。

渡辺銀次の生い立ちと家族|山口県周南市で兄と育った子ども時代

渡辺銀次さんは1985年8月2日生まれで、吉本興業の公式プロフィールでは山口県周南市出身とされています。

子ども時代について本人が書いた文章には、テレビで見る現在の姿からはなかなか想像できない、祖父の家や兄との遊びが具体的に残っています。

4〜5歳、母方祖父の農家で軍鶏に追われた夏

小学校へ入る前の4〜5歳ごろ、夏になると家族で出かけていたのが母方の祖父の家でした。

本人のnoteによると、祖父の家は山に囲まれた田舎の農家で、犬や猫のほか、牛やニワトリなどさまざまな動物がいたといいます。

ある日、家族が出かけることになったものの、幼い渡辺さんだけはついて行かず、祖父の家に残って一人で遊ぶことを選びました。

「二人兄弟の次男である渡辺少年にとって一人遊びは贅沢な時間でした。」

渡辺銀次さんのnote

いつもなら兄が使う大きなプラスチック製の刀を手に取り、一人で思い切り遊べる時間を楽しんでいました。

ところが庭で遊んでいると物音が聞こえ、目の前に現れたのは放されていた軍鶏でした。

追いかけられた渡辺さんは玄関へ駆け込み、祖父が様子を見に来たことで事なきを得ています。

祖父は渡辺さんも家族と一緒に出かけたと思っていたため、普段は囲っていた軍鶏を外へ放していたのでした。

兄がレッドなら自分はブルーか敵役|二人兄弟の次男だった子ども時代

渡辺さんは二人兄弟の次男で、幼いころは兄と一緒にヒーローごっこをして遊んでいました。

ただし配役には兄弟ならではの序列があり、兄が正義の味方やレッドを担当すると、弟の渡辺さんは敵役やブルー、グリーン側に回ることが多かったそうです。

おもちゃの刀も兄が大きいものを使い、渡辺さんは小さいほうを持つという具合でした。

祖父の家で一人になった日は、その兄がいなかったからこそ、いつもは使えない大きな刀を手にしていました。

家族構成だけを見れば「兄がいる次男」ですが、こうした遊び方まで残っていることで、兄の後ろで役や道具を選んでいた幼いころの日常が見えてきます。

『ガキの使い』で腹を抱えて笑った、お笑い好きの原点

成長する中で、渡辺さんは子どものころからお笑い番組を見るようになりました。

特定の芸人へ強い憧れを抱いて最初から職業を決めていたわけではありませんが、後年のインタビューでは、初めて腹を抱えて笑った記憶として『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』を挙げています。

視聴者から届いたハガキに松本人志さんが答えるトークを見て、「この人すごいなぁ」と感じたことも覚えていました。

この時点ではまだ芸人になることを具体的な進路にしておらず、お笑いは子どものころから自然に好きだったものとして身近にありました。

渡辺銀次の高校・大学時代|18歳で山口から東京へ

地元の山口で成長した渡辺さんは、高校時代を経て18歳ごろに東京へ移り、大学生活へ進みます。

後に長く続く芸人人生を選ぶのは、大学卒業が近づいてからでした。

出身高校は山口県立徳山高校|元生徒会長だった高校時代

渡辺さんの出身高校は、地元周南市にある山口県立徳山高等学校です。

母校の徳山高校は渡辺さんを正式に「本校OB」と紹介しており、さらに高校時代には生徒会長を務めていたことも明らかにしています。

現在の漫才では長い言葉を一人で組み立て、客席へ向けて主張を展開していく場面が印象的ですが、高校生のころにはすでに大勢の生徒の前へ立つ役割を経験していました。

一方で、高校時代の部活動や日々の学校生活について本人が詳しく語った資料は多くなく、確認できる範囲では徳山高校卒で元生徒会長というところまでが確かな情報です。

東京都立大学へ進学|やりたいことが見つからないまま進級していた

高校卒業後は山口を離れて東京へ向かい、東京都立大学へ進学しました。

大学へ入った時点で芸人になる道を一直線に進んでいたわけではなく、本人は大学時代について、やりたいことが見つからないまま進級していったと話しています。

周囲の学生が卒業後の仕事を考え、就職活動を始める時期になっても、自分が何を仕事にすればいいのかは定まっていませんでした。

大学の学部・学科については公的なプロフィールなどで確かな記載を確認できませんが、東京都立大学を卒業したことは本人出演番組を扱った報道でも確認されています。

就活をせず「お笑いなら」とNSC東京14期へ|両親は反対した

卒業が近づいたころ、渡辺さんが考えたのは「どんな仕事なら一生続けられるか」ということでした。

「どんな仕事なら一生続けられるだろう、と思ったときに『お笑いなら』という思いがありました。」

マイナビニュース

周囲が就職活動を進める中、渡辺さんは就職活動そのものをしませんでした。

本人は当時について、会社へ入ることのほうに怖さを感じていたと語っています。

「就職する方が怖い」

マイナビニュース

大学まで通わせた両親は芸人になるという選択に反対し、「大学まで行かせたのにもったいない」という反応だったそうです。

それでも進路を変えず、NSC東京校14期としてお笑いの世界へ入りました。

人生年表 渡辺銀次さんの歩み
幼少期
渡辺銀次の生い立ちと家族|山口県周南市で兄と育った子ども時代

渡辺銀次さんは1985年8月2日生まれで、吉本興業の公式プロフィールでは山口県周南市出身とされています。

幼少期
兄がレッドなら自分はブルーか敵役|二人兄弟の次男だった子ども時代

渡辺さんは二人兄弟の次男で、幼いころは兄と一緒にヒーローごっこをして遊んでいました。

高校
渡辺銀次の高校・大学時代|18歳で山口から東京へ

地元の山口で成長した渡辺さんは、高校時代を経て18歳ごろに東京へ移り、大学生活へ進みます。

高校
出身高校は山口県立徳山高校|元生徒会長だった高校時代

渡辺さんの出身高校は、地元周南市にある山口県立徳山高等学校です。

学生時代
東京都立大学へ進学|やりたいことが見つからないまま進級していた

高校卒業後は山口を離れて東京へ向かい、東京都立大学へ進学しました。

原点
『ガキの使い』で腹を抱えて笑った、お笑い好きの原点

成長する中で、渡辺さんは子どものころからお笑い番組を見るようになりました。

現在
朝の寄席で力みを抜いたら大受け|現在の語り口の原型が生まれる

ドンデコルテを組んだあとも、現在のゆったりした話し方がすぐ完成したわけではありません。

現在
M-1準優勝後の現在|昔から続いた趣味と地元が仕事になった

M-1準優勝後はテレビや広告への出演が一気に増えましたが、その中には売れなかった時期から続けていたものがそのまま登場しています。

マンキンタン時代|幼なじみと始めた最初の漫才

NSCへ入った渡辺さんが最初に組んだコンビがマンキンタンでした。

現在のドンデコルテへ至るまでには、ここから複数回のコンビ解散を経験することになります。

幼なじみと組んだ最初のコンビ「マンキンタン」

マンキンタンの相方は地元から知る幼なじみで、渡辺さんにとって芸人人生の最初の相方でした。

2009年にはマンキンタンとしてM-1グランプリへ出場し、24歳ごろにはすでに漫才師として舞台に立っています。

当時の渡辺さんは現在とは立ち位置が逆で、担当していたのはツッコミでした。

結成初期から結果も出始め、若手のころにM-1の3回戦まで進んでいます。

若手時代は鋭いツッコミ|川瀬名人が覚えていた朝5時の差し入れ

このころの渡辺さんを間近で見ていた一人が、後輩のゆにばーす・川瀬名人さんです。

川瀬さんが芸歴1年目だったころ、深夜になってもネタができず朝5時ごろまで残っていると、渡辺さんはいったん「お疲れ」と帰りました。

ところが約30分後、食べ物を差し入れに持って戻り、まだネタを書いているなら手伝うと声をかけたそうです。

川瀬さんは当時の渡辺さんについて、うまいツッコミとしての「総合力」を強く感じ、勝負を挑もうという気持ちにさえならなかったと後年語っています。

構成作家の飯塚さんも、マンキンタンには山口の方言を生かした男臭い格好よさがあり、若手ながら完成されたコンビに見えていたと振り返っています。

相方が「人前に出たくない」と解散を決めた

順調に続くように見えたマンキンタンですが、相方から突然、人前に出たくないという意思を伝えられました。

芸人を続けるための方向性を変える話ではなく、舞台に立つこと自体をやめたいという申し出だったため、コンビは解散します。

「嫌でしたけど、解散しましたね。そこからですよ、暗黒時代」

ORICON NEWS

評価され始めていた最初のコンビは、売れないからではなく相方が舞台を離れることで終わりました。

エマ解散から益々荘へ|コンビが続かず家を失った30歳前後

マンキンタンが終わっても渡辺さんは芸人を辞めず、次の相方を探しました。

ここから仕事が安定しない期間が長くなり、やがて住む場所まで変わっていきます。

次のコンビ「エマ」も解散|ピンで舞台に立った時期へ

マンキンタンの次に組んだコンビがエマです。

当時は現在の「渡辺銀次」ではなく、芸人の公式記録などに渡辺博基という名義で残っています。

しかしエマも約3年で解散し、再び一人になりました。

コンビがなくなった後は仕事も減り、ピンネタを作ってR-1へ出場しながら、次の形を探す時期へ入ります。

後に本人がR-1を特別な大会として語る背景には、このコンビを組まず一人でネタを作っていた長い期間がありました。

山添寛・青山フォール勝ちとの共同生活と家賃更新の顛末

30歳前後のころ、渡辺さんは同期の相席スタート・山添寛さん、ネルソンズ・青山フォール勝ちさんと一緒に暮らしていました。

やがて青山さんが家を出て、残った渡辺さんと山添さんで生活を続けます。

ところがアパートの更新時期になると、更新に必要なお金を用意できませんでした。

そこで声をかけたのが、同期のカゲヤマ・益田康平さんでした。

益田家で面接、山添と1人2万7500円で「益々荘」生活が始まる

益田さんから「ウチくる!?」と誘われた2人は、そのまま無条件で住み始めたわけではありません。

益田さんの実家で家族との面接を受け、そこで暮らすことが決まりました。

家賃は2人で5万5000円ほどを負担し、渡辺さんと山添さんが1人2万7500円ずつ支払う形でした。

カゲヤマ益田さんの実家を舞台にしたこの生活は、後に「益々荘」と呼ばれるようになります。

自分のアパートを更新できなかったところから、同期芸人の実家で暮らす生活が始まりました。

益々荘で続いた約10年|同期が売れていく横で過ごした30代

住む場所が決まったことで生活は落ち着きましたが、芸人としての状況が同じ速さで動いたわけではありませんでした。

むしろ益々荘では、自分のすぐそばにいる芸人たちが先に賞レースで結果を出していきます。

山添寛のM-1決勝を、本人不在の山添の部屋で見た

益々荘での生活が始まった年の暮れ、同居していた山添さんが相席スタートとしてM-1グランプリ決勝へ進出しました。

渡辺さんがその舞台を見た場所は、自分も暮らしている益々荘の中でした。

しかも本人がテレビへ出演している間、渡辺さんは山添さんの部屋で山添さんのM-1決勝を見ていたといいます。

一番近いところにいた同期が大舞台へ進んだ状況について、本人は後年「さすがにショックだった」と語っています。

翌春には山添さんが益々荘を出ますが、益田家からは家賃を1人分の2万7500円のままでいいと言われ、渡辺さんはそのまま暮らし続けました。

その後に入居した同期のタザアクチュアリーさんのコンビもABCお笑いグランプリ決勝へ進み、また同じ家から先に大きな舞台へ向かう芸人が現れました。

33歳、「社会の一員・歯車になれていない」と感じ始める

衣食住が確保された状態で芸人を続けるうち、渡辺さんは33歳ごろに別の不安を抱くようになりました。

「社会の一員、歯車になれていない」

ABEMA『しくじり先生』

続けて本人の頭に浮かんでいたのは、「いつまで俺は俺の人生を生きているんだ」という感覚でした。

歴代の同居人が賞レースへ進み、自分は同じ家に残っているという時間が重なっていました。

テレビも漫画も見られず、けん玉・靴磨き・ギター・チャーハンへ

芸歴が長くなり、同期たちが賞レースで結果を出すようになると、渡辺さんはテレビや小説、漫画などの創作物を見ることさえつらくなった時期がありました。

作品に触れると、自分自身が「やらないのか」と問いかけられているように感じてしまったといいます。

そこで「見る」ことから離れ、自分の手を動かす趣味へ向かいました。

けん玉を練習し、革靴を磨き、ギターを触り、深夜には走りに出て、チャーハンも繰り返し作りました。

走る時間帯は午前2時や3時になることもあり、ランナーズハイが来るのを待ちながら走っていたそうです。

特にチャーハンは、作ることへ集中していればお笑いの情報を頭に入れずに済むというところから、長い時間をかけて腕を上げていきました。

2025年末には益々荘のYouTubeでそのチャーハン作りが公開され、さらに川瀬名人さんを招いて昔のコンビや若手時代を話す動画へと続いています。

定期バイトを続けず仕送りを受けた時期|親が山を一つ売った話

芸人として収入が少なかった時期の渡辺さんは、決まったシフトで定期的にアルバイトを続ける生活もしていませんでした。

本人によると、本当にお金が必要なときには単発の仕事をしながら、生活の一部を両親からの仕送りに頼っていました。

後に芸人仲間から明かされたのが、仕送りを続けるために親が所有していた山を一つ売ったという話です。

「山は本当です」

テレ朝POST

渡辺さん自身も否定せず、親から支援を受けながら芸人を続けていた事実として話しています。

そのため「実家が太い」という一言だけで家庭環境を決めつけるより、長く売れなかった息子へ両親が実際に仕送りを続けていたというところまでが確認できる具体的な家族の話です。

小橋共作とのnews38からドンデコルテへ|ツッコミからボケへ

コンビを組めずにいた渡辺さんの芸人人生が再び動くきっかけを作ったのが、後に相方となる小橋共作さんでした。

しかも小橋さんが注目したのは、それまで高く評価されていた渡辺さんのツッコミではありませんでした。

小橋が別のライブで見つけていた「渡辺のボケ」

まだ別々に活動していたころ、小橋さんはあるライブで普段はツッコミの渡辺さんがボケを担当する姿を見ました。

そのボケを気に入った小橋さんは、渡辺さんへ「コンビであの感じのボケをやってください」と伝えています。

渡辺さん本人は最初、その提案をかなり嫌がっていました。

それでも試すうちに少しずつ笑いが増え、マンキンタン時代から続けてきたツッコミではなく、ボケ側へ回ることになります。

2018年のお試しコンビ「news38」から2019年に正式コンビへ

2人は2018年、まず「news38」というユニットとして漫才を始めました。

M-1グランプリの公式記録では、news38の結成日は2018年7月8日となっており、渡辺さんは当時「渡辺博基」の名義で登録されています。

その後も一緒に漫才を続け、2019年にはコンビ名をドンデコルテへ変更しました。

現在のM-1公式プロフィールでは結成日を2019年11月20日としています。

さらに2022年元日、渡辺さんは「渡辺銀次」への改名を自ら発表しました。

本人は後に、錦鯉がM-1グランプリ2021で優勝し、同じ「渡辺」姓の渡辺隆さんが広く知られるようになったことも、呼びやすい名前を付けようと考えた理由だったと明かしています。

朝の寄席で力みを抜いたら大受け|現在の語り口の原型が生まれる

ドンデコルテを組んだあとも、現在のゆったりした話し方がすぐ完成したわけではありません。

当初の渡辺さんは、今より力を込めて強く話すスタイルで漫才をしていました。

転機の一つになったのが、朝早い時間帯に出演した寄席でした。

朝から強く力説するネタをするのも違うと考え、普段話すときに近いテンションまで力を抜いたところ、それまで以上に大きな笑いが起こりました。

力を加えたことで完成したのではなく、力を抜いた舞台が現在の語り口の原型になりました。

40歳でM-1準優勝|長かった芸人人生の流れが変わる

ドンデコルテとして劇場へ立ち続ける中、渡辺さんの長く語るボケと、それを横から受ける小橋さんという現在の形が少しずつ固まっていきました。

結成から数年たった2024年、賞レースでの結果も大きく動きます。

2024年、“セミナースタイル”が形になりM-1準決勝へ

2024年ごろには、渡辺さんが客席へ向けて一つのテーマを長く語り、小橋さんがその横に立つ“セミナー”“演説”のような漫才が形になっていきました。

同年のM-1グランプリでは、ドンデコルテとして初めて準決勝へ進みます。

マンキンタン時代に評価されていた鋭いツッコミから、長いピン期を挟み、小橋さんに勧められたボケへ移り、さらに朝の寄席で話し方を変えた先での準決勝でした。

M-1グランプリ2025で初の決勝、準優勝

翌2025年、ドンデコルテはM-1グランプリ決勝へ初進出しました。

決勝のファーストラウンドでは845点を獲得して3位となり、エバース、たくろうとともに最終決戦へ進みます。

最終投票の結果、優勝はたくろうとなり、ドンデコルテはM-1グランプリ2025準優勝となりました。

エントリー数1万1521組の大会で、40歳の渡辺さんは芸歴17年目にして2位まで進みました。

決勝前の公式インタビューでは、同期が先に売れていったことについて「ずっと置いていかれているという心象」とも話していました。

M-1が終わった深夜、帰った先は長年暮らしてきた益々荘で、益田さんが食べ物を用意して待っていました。

芸歴1年目から見ていた川瀬名人へ、益々荘で銀次チャーハンを振る舞う

M-1のアナザーストーリーでは、若手時代から渡辺さんを慕ってきた川瀬名人さんとの関係も改めて取り上げられました。

渡辺さんは決勝進出後、長い間自分を芸人として扱い続けてくれた川瀬さんを、ようやく食事へ誘いたいと話しています。

決勝翌日には劇場で川瀬さんと会い、「年明け飯に行こう」と声をかけました。

そして2026年1月、川瀬さんが益々荘を訪れ、外食ではなく渡辺さん自身のチャーハンを囲みながらマンキンタンやエマのころの話をする動画が公開されました。

M-1準優勝後の現在|昔から続いた趣味と地元が仕事になった

M-1準優勝後はテレビや広告への出演が一気に増えましたが、その中には売れなかった時期から続けていたものがそのまま登場しています。

2026年に入ると、コンビだけでなく渡辺さん一人でも大きな賞レースの舞台へ進みました。

R-1グランプリ2026で初の決勝へ

2026年3月、渡辺さんはR-1グランプリで初めて決勝進出を果たしました。

出場者6171人の中から9人のファイナリストに残り、ファーストステージを突破して上位3人によるファイナルステージへ進出します。

最終的には今井らいぱちさんが優勝し、渡辺さんは準優勝となりました。

渡辺さんにとってR-1は、M-1で注目されたあとに初めて本格的に挑んだ大会ではありません。

コンビがなく仕事も少なかったころから、ピンネタを作って出続けてきた大会でした。

「命綱です。」

カンテレ公式エンタメNEWS「みよか」

本人は決勝前、R-1について「かつての自分を救ってやる大会」とも表現していました。

けん玉や靴磨きまで映像になったマクドナルド「もう一度ダブチ」

2026年4月には、マクドナルドの「もう一度ダブチ」企画に渡辺さんが登場しました。

WEBムービーでは、渡辺さんが長い下積みの中で続けてきたけん玉や靴磨きなどの日常も映像の中へ取り込まれています。

吉本興業の公式プロフィールでも現在、趣味にはけん玉、読書、日本文学、民俗学、日本語学、革靴などが並び、けん玉は特技としても記載されています。

30代に「時間を溶かしたい」と始めたものの一部が、M-1準優勝後には本人を表す題材として広告にも登場するようになりました。

2026年、山口ふるさと大使として故郷へ戻る

2026年8月2日には、小橋さんとともに母校の徳山高校を訪れました。

この日は渡辺さんの41歳の誕生日でもあり、母校では高校時代の同級生や在校生たちが迎えています。

徳山高校が渡辺さんを「本校OBで元生徒会長」と公式に紹介したのも、この学校訪問を伝えた記事でした。

翌8月3日には、山口県から「山口ふるさと大使」の委嘱状を受けました。

山口県の公式ページでも渡辺さんの「出身地等」は周南市と記載され、県外で活動する山口県ゆかりの著名人として県の魅力を発信する役割を担っています。

山口県周南市で兄と育った渡辺銀次さんは、大学卒業を前に就職ではなくお笑いを一生続ける仕事として選びました。

最初のコンビが解散したあとも形を変えながら舞台に残り、ツッコミからボケへ回ったドンデコルテで40歳のM-1準優勝まで進みました。

2026年にはR-1決勝、長く続けた趣味を生かした仕事、そして山口ふるさと大使と、昔から抱えてきたものがそれぞれ別の場所で現在の活動に現れています。

参考・出典 この記事で参照した主な資料

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