M-1グランプリ2025王者「たくろう」で、相方・赤木裕さんの独特な言葉を受け止めながら漫才を進めているのが、きむらバンドさんです。
本名は木村太一さんで、1990年1月28日生まれ、吉本興業の公式プロフィールでは愛媛県松山市出身、NSC大阪36期と紹介されています。(吉本興業公式プロフィール)
現在はM-1王者として知られていますが、そこへ至るまでには、高校でのバンド活動、松山大学の落研、大学中退後のフリーター生活、そしてNSC大阪への進学という道のりがありました。
さらにさかのぼると、幼いころを過ごしたのは愛媛県の鬼北町で、当時の同級生は10人ほどだったといいます。
きむらバンドの生い立ちと家族|鬼北町で笑いが身近だった子ども時代
きむらバンドさんは愛媛県鬼北町生まれで、小学4年生まで鬼北町で過ごした後、松山市で育ちました。
吉本興業のプロフィールでは「愛媛県松山市出身」とされていますが、2026年にFANY Magazineが掲載したプロフィールでは「愛媛県鬼北町生まれ、松山市出身」と紹介されています。(FANY Magazine)
同級生は約10人|吉本新喜劇と明石家さんまをまねしていた幼少期
鬼北町で暮らしていたころは子どもの数が少なく、本人によると同級生は10人ほどでした。
地域では大人も子どもも顔見知りのような環境で、家へ帰ると知らないおじいさんが普通に家の中にいることまであったそうです。
近所の大人から声をかけられることも日常的で、年齢の違う人と接することに抵抗のない子ども時代を過ごしていました。
そんな暮らしの中で夢中になったのが、吉本新喜劇と明石家さんまさんでした。
テレビで見た新喜劇や明石家さんまさんのまねをすると周囲が笑ってくれ、本人は当時を「ちょっとでも面白かったらナンバー1」と振り返っています。
テレビで覚えた笑いをすぐ身近な人の前で試し、反応が返ってくる生活が、小学生のころから続いていました。
3歳下の妹ではなく、後年の家族取材で紹介された妹の証言によると、家では妹が見たい番組より『恋のから騒ぎ』や『踊る!さんま御殿!!』が優先されるほど、明石家さんまさんの番組をよく見ていたそうです。
母子家庭で母と暮らし、幼いころは「甘えん坊」だった
家族は母親、きむらバンドさん、3歳下の弟、10歳下の妹の4人で、小学生のころに両親が離婚しています。
母親はその後、きむらバンドさんがNSCへ入るまで子どもたちを育てました。
2026年の『相席食堂』で母親が語った幼少期の姿は、母親のそばにいることが好きな甘えん坊だったというものでした。
ただ、小学5年生ごろからは口答えが増え、反抗期は高校2年生ごろまで続いたといいます。
その時期にも母親は定期的に息子へ手紙を書いており、家での会話とは別に、文字でも思いを伝え続けていました。
本人は2026年の家族インタビューで、小さいころから母親に愛情を注いでもらい、反抗期にも真正面から向き合ってもらったと話しています。(CHANTO WEB)
10歳ごろに松山市へ転校|初日からボケてクラスへ入っていった
生活が大きく変わったのは、10歳ごろ、小学5年生で鬼北町から松山市内の学校へ転校したときでした。
鬼北町では10人ほどだった同級生が、転校先では一気に100人以上になりました。
初日は緊張していたものの、会ったこともない後ろの席の子へ、以前から知っている相手のように声をかけました。
「久しぶり」
CHANTO WEB
周囲から知り合いなのかと聞かれると「知らんねん」と返し、そのやり取りで教室に笑いが起きたそうです。
一方で、最初から目立ったため「調子に乗っている」という空気も出ましたが、学校には2歳上のいとこがおり、そのまま新しい環境へ馴染んでいきました。
知らない人ばかりの転校初日に、最初の会話から笑いを取りにいったというのは、この時期の姿がよく分かる場面です。
中学時代は笑わせながら周囲の輪へ入っていった
松山市での生活が続く中、中学生になってからも、笑わせることは学校での人間関係の中にありました。
番長の武勇伝を聞きながら人間関係を作っていた
本人が後年語っているのは、ヤンキーや番長的な生徒がいる中で、相手を笑わせながらその輪へ入っていたという中学時代です。
番長格の生徒から同じような武勇伝を一日に何度も聞けば、そのたびにリアクションし、そのあと自分の面白い話をするという過ごし方をしていました。
前へ出て対立するより、話を聞き、自分も笑いを返す形で周囲との距離を縮めていたそうです。
テレビのまねから始まった笑いが、中学では実際の学校生活の中で使うものになっていました。
子どものころから「ジャニーズかお笑い」と話していた
芸能界への興味は、進路を考える年齢になるよりずっと前から口にしていました。
本人によると、子どものころは周囲へ「ジャニーズかお笑い」のどちらかをやりたいと話していたそうです。
小学3年生ごろ、前歯が一本出てきたことで「ジャニーズは無理かな」と考え、それなら吉本かな、と子どもなりに話していたというエピソードも残っています。
木村拓哉さんも昔から好きで、妹は兄の部屋に木村拓哉さんのグッズやCDが置かれていたのを覚えていました。
「ずっと笑いはやるって思ってました。それ以外の選択肢が自分の中にはなかったですね。」
月刊芸人
ただし、この時点ですでに漫才のネタを書いたり舞台へ立ったりしていたわけではなく、学校や日常の中で人を笑わせることが先にありました。
きむらバンドさんは愛媛県鬼北町生まれで、小学4年生まで鬼北町で過ごした後、松山市で育ちました。
鬼北町で暮らしていたころは子どもの数が少なく、本人によると同級生は10人ほどでした。
松山市での生活が続く中、中学生になってからも、笑わせることは学校での人間関係の中にありました。
高校は愛媛県立松山中央高等学校へ進み、ここでお笑いと並ぶほど大きな存在になったのが音楽でした。
進路を考えたとき、本人は、お笑いの世界には面白い人が大勢いる一方で、面白いベーシストという立ち位置なら競争相手が少ないのではないかと考えました。
バンドを続けるつもりで始まった松山大学生活でしたが、入学して間もなく落語研究部を見つけます。
落研や地元での活動が広がる一方、大学の授業は別の状況になっていました。
大学を離れたあと、すぐに大阪へ移ったわけではありません。
きむらバンドの高校時代|松山中央高校でベースに熱中
高校は愛媛県立松山中央高等学校へ進み、ここでお笑いと並ぶほど大きな存在になったのが音楽でした。
2026年には母校で愛媛朝日テレビ『寝耳にたくろう』の収録も行われており、学校公式サイトにも、きむらバンドさんと赤木裕さんから届いたサインが紹介されています。(愛媛県立松山中央高等学校)
「サディスティック・ジョーカー」でベースを担当
高校では「サディスティック・ジョーカー」というバンドを組み、ベースを担当していました。
演奏だけを続けるバンドではなく、ほかのバンドが5曲演奏するような場面でも、自分たちは3曲ほどにして、その分きむらバンドさんがよくしゃべることもあったそうです。
ステージ上でも、音楽と話すことがすでに混ざっていました。
「一番おもしろいベーシストになろうと思ってたんです」
愛でたい四国
高校時代のきむらバンドさんは、芸人だけを目指していたのではなく、本気でバンドでも売れたいと考えていました。
進路希望は飼育員や保育士、それでも根底には吉本があった
高校3年生になり、学校で進路希望を書く時期が来ても、本人の中には吉本へ行きたいという思いが残っていました。
しかし、進路希望にそのまま「吉本」と書くことはできず、動物が好きだったことから動物園の飼育員、子どもが好きだったことから保育士などを書いたと話しています。
一方、そのころはバンド活動にも熱中していたため、卒業後の現実的な進路を考える段階では、音楽の比重がさらに大きくなっていきました。
「面白いベーシスト」を目指して松山大学へ進学
進路を考えたとき、本人は、お笑いの世界には面白い人が大勢いる一方で、面白いベーシストという立ち位置なら競争相手が少ないのではないかと考えました。
そこで、バンド仲間と一緒に松山大学へ進学します。
大学へ進んだ理由の一つはバンドを続けることでしたが、入学後に見つけた別のサークルが、その後の進路を大きく変えます。
松山大学の落研でお笑い一本へ|地元のローカルスターになった大学時代
バンドを続けるつもりで始まった松山大学生活でしたが、入学して間もなく落語研究部を見つけます。
それまで「落研」という存在自体をほとんど知らなかったきむらバンドさんは、ここで初めて漫才やコントを本格的に経験することになりました。
バンドを続けるはずが、廃部寸前の落語研究部を見つけた
当時の落語研究部は、部員が少なく廃部寸前でした。
一学年上の女性部長が新入生へ熱心に声をかけており、きむらバンドさんもその勧誘を受けます。
落語のできる部員もおらず、「落語でなくても漫才やコントをやればいい」という状態だったため、そのまま入部しました。
高校まで人を笑わせることは好きでも、漫才そのものをやった経験はほとんどなく、松山大学の落研で初めて漫才とコントへ本格的に触れました。
すると、バンドよりも落研へ時間を使うようになり、本人の中で「お笑いで食べていきたい」という考えがはっきりしていきました。
バンドで売れることを考えて入った大学で、芸人になる進路が具体的になったのです。
漫才とコントにのめり込み、部員は約20人まで増えた
入部後は漫才やコントにのめり込み、廃部しかけていた落語研究部の活動も次第に広がっていきました。
本人によると、最初は上級生もわずかだった部に人が集まり、最終的には20人ほどの部員がいる状態になったそうです。
大学から部費も出るようになり、なくなりかけていた部が再び活動できる形になっていきました。
2026年の『相席食堂』では、当時きむらバンドさんを落研へ誘った元部長とも再会しており、元部長はその後マジシャンとして活動していることも紹介されました。(朝日放送テレビ)
ケーブルテレビの特集やMC仕事が入り、愛媛で知られる存在に
大学時代はサークル内だけで漫才をしていたわけではありません。
地元のケーブルテレビから取材を受け、本人を取り上げる特集が組まれたり、MCの仕事が入ったりするようになりました。
サークルのお笑い大会でも結果を残し、本人が後年「ローカルスター」と表現するほど、地元で顔を知られるようになっていきます。
NSCへ入る前の大学生の段階で、愛媛ではテレビ取材やMCの仕事を経験していました。
お笑い以外では車で出かけることも好きで、学生時代には友人たちと下灘の海岸線や四国カルストをドライブしたと、2026年のインタビューで話しています。
授業にはほぼ出ず、4年間在籍した末に大学を中退
落研や地元での活動が広がる一方、大学の授業は別の状況になっていました。
本人によると、学校へ行っても講義ではなく喫煙所へ向かい、友人とパチンコやパチスロへ行くことも多かったそうです。
2回生のころには単位が足りない状態になっていました。
それでもすぐ大学を離れたわけではなく、4年間在籍し、卒業式の時期まで大学生活を続けています。
最終的には松山大学を卒業せず、中退という形で大学生活を終えました。
大学中退後は1年間フリーター|大阪NSCへ進むまで
大学を離れたあと、すぐに大阪へ移ったわけではありません。
NSCへ進むため、まず1年間フリーターとして働いてお金を貯める期間を置きました。
NSCの資金を貯め、大阪36期へ入学
芸人になることについて、家族から強い反対を受けることはありませんでした。
母親も、挑戦せずに終わるくらいなら一度やってみればいいという形で送り出しています。
「やってみたら?ダメなら帰ってきたらいい」
CHANTO WEB
貯めたお金を持って進んだのが、NSC大阪36期でした。
東京ではなく大阪を選んだ背景には、子どものころから見ていた吉本新喜劇や明石家さんまさんに加え、今田耕司さん、フットボールアワー、チュートリアル、ブラックマヨネーズら大阪NSC出身の先輩への憧れがありました。
鬼北町でテレビ越しに見ていた吉本の世界へ、大学中退と1年間のフリーター生活を経て実際に入ったのです。
一人しゃべり1位で自信を持つも、同期を見て現実を知った
大阪へ出た直後は、手応えを感じる出来事もありました。
NSCで最初に受けた一人しゃべりの授業で1位になり、大阪でもやっていけるかもしれないと思ったそうです。
ところが数か月たつと、同期のネタを見る機会が増え、印象は変わっていきました。
同期の8.6秒バズーカーのネタを初めて見たときには、それまで見たことのないものに衝撃を受け、さらに授業の一環でプロの舞台を見るうち、自分との差も感じるようになりました。
最初の授業で1位になった直後から、大阪には自分が知らなかったタイプの芸人が次々といることを知る時期へ入ります。
最初のコンビ活動を経て、赤木裕と出会う
NSC在学中にはコンビを組んでいましたが、卒業と同時に解散し、その後はいったん本名の「木村太一」でピンとして舞台へ出ていました。
そのころ、チェリー大作戦の宗安さんから「芸名をつけてみては」と勧められます。
高校時代からバンドをやっており、音楽の仕事にもつながればという話から生まれたのが「きむらバンド」という芸名でした。(よしもと漫才劇場)
その後「バンドワゴン」というコンビも組みましたが約1年で解散し、芸名だけはそのまま残りました。
現在の「きむらバンド」という名前には、芸人になる前に続けていた音楽経験がそのまま残っています。
そして宗安さんを通じて知ることになったのが、NSC大阪37期の赤木裕さんでした。
赤木裕を誘い「たくろう」結成|現在の漫才へつながる形ができる
きむらバンドさんよりNSCで1期下だった赤木裕さんは、愛媛で過ごしてきた中では出会ったことがないタイプに見えたそうです。
最初に強く興味を持ったのは、きむらバンドさんの側でした。
赤木を見て「すぐ組みたい」と思ったきむらバンド
赤木さんと初めて会ったとき、きむらバンドさんはその見た目を含めて面白さを感じ、すぐコンビを組みたいと思ったと話しています。
一方の赤木さんは以前のコンビを解散したばかりで、NSCには解散後しばらく新しいコンビを組めないルールもあったため、最初はインディーズライブなどで一緒に舞台へ立ちながら様子を見る期間がありました。
赤木さんが相方を選ぶうえで重視したのは、解散を繰り返さず長く一緒に活動できそうか、そして人として付き合っていけるかという部分でした。
2016年、2人は正式に「たくろう」を結成しました。
コンビ名は、きむらバンドさんが好きな木村拓哉さんと、赤木さんが好きなイチローさんの名前を組み合わせて付けられています。
結成約3か月で「無理をしない」漫才の形が見つかった
コンビ結成後、現在につながる漫才の形ができるまでには、それほど長い時間はかかりませんでした。
きむらバンドさんによると、赤木さんの発言を基本的に肯定しながら進めるスタイルは、結成から3か月ほどでできてきたそうです。
赤木さんを一般的な形へ無理に寄せるのではなく、そのままの反応や言葉を漫才の中へ残していく形になっていきました。
きむらバンドさんが赤木さんを誘い、赤木さんの持ち味を消さない形を早い段階で選んだことが、コンビ初期の特徴でした。
2018年のM-1敗者復活から2025年の優勝まで
結成3年目の2018年、たくろうはM-1グランプリ準決勝へ進み、敗者復活戦にも出場しました。
このころの露出が一つの変化になり、きむらバンドさんは後年、2018年のM-1をきっかけにアルバイトを辞められたと話しています。
ただ、そのまま決勝へ一直線に進んだわけではなく、その後は準々決勝や3回戦で大会を終える年も続きました。
初めて準決勝へ進んだ2018年から、初決勝となる2025年まで7年が経っています。
2025年はM-1出場10回目となり、ついに決勝進出を決めました。
同年の大会は過去最多11,521組がエントリーし、たくろうはファーストラウンドで861点を獲得して上位3組による最終決戦へ進みます。(M-1グランプリ公式サイト)
最後はエバース、ドンデコルテとの最終決戦を制し、M-1グランプリ2025第21代王者となりました。
M-1公式YouTubeでは、その後「赤木を信じ続けた男 きむらバンド」と題した映像も公開され、コンビの歩みや優勝直後の姿が収められています。
M-1優勝後も愛媛へ|母との再会と初冠番組
M-1優勝後は仕事が一気に増えましたが、2026年に入ると、昔のきむらバンドさんを知る人たちと再び顔を合わせる機会も続きました。
その中には、松山大学時代の落研の先輩と母親もいました。
母の手紙を読み「恩返しのパートが始まる」と語った
2026年2月、『相席食堂』のロケで赤木さんと愛媛県松山市へ戻り、M-1優勝後初めて実家を訪れました。
そこで再会した母親は当時64歳で、昔と同じように息子へ手紙を用意していました。
きむらバンドさんはその手紙を声に出さずに読み終え、母親を前にこう話しています。
「こっからやっとね、恩返しのパートが始まるというかね」
ABCマガジン
さらに母親について、自分だけでなく「たくろうにとってもおかあちゃんみたいな」と話していました。
小学5年生ごろから高校2年生ごろまで続いた反抗期にも手紙を書いていた母親から、M-1王者になったあと再び手紙を受け取る場面となりました。
大学時代から続く愛媛との縁が冠番組へつながった
2026年春には、たくろうは長く活動してきた大阪を離れ、活動拠点を東京へ移しました。
ただ、東京進出後もきむらバンドさんと愛媛の関係は続いています。
たくろうは2020年から愛媛朝日テレビ『なるちか!』へレギュラー出演してきましたが、2026年7月5日には2人にとって初の冠レギュラー番組『寝耳にたくろう ~僕らは何も知りません!~』が愛媛でスタートしました。
松山大学時代に地元テレビの取材やMCを経験したきむらバンドさんが、M-1優勝後には愛媛で自分たちの冠番組を持つところまで進みました。
「夢の冠番組が大好きな地元愛媛で始まりました!」
FANY Magazine
鬼北町と松山市で過ごした時間は、東京へ活動拠点を移したあとも仕事の中に残っています。
鬼北町で周囲を笑わせていた子ども時代から、松山市での学校生活を経て、高校ではベースを手にしました。
松山大学で落研を見つけたことで進む方向が変わり、フリーター生活とNSCを経て、赤木裕さんとの「たくろう」が生まれました。
M-1王者となった現在も、きむらバンドさんの仕事には、長く過ごした愛媛とのつながりが続いています。
きむらバンドと似た生い立ちの人物は?
出身地・年代・人生の原点などの共通点から探せます。












コメントを残す