2026年1月、鳥山まことさんの『時の家』が第174回芥川龍之介賞を受賞しました。
鳥山さんは小説家であると同時に、現在も一級建築士として設計の仕事を続けています。
文学を専門に学んできた人ではなく、高校では理系を選び、大学と大学院では建築を学び、卒業後は東京の設計事務所へ就職しました。
社会人1年目になってから本格的に小説を書き始め、建築士として働きながら50作以上を文学賞へ送り続けたという経歴があります。
その道の途中には、芸大へ進んだ3歳上の姉、京都の製図室で過ごした仲間、九州大学大学院で取り組んだ環境工学、そして妻と建てた自宅がありました。
鳥山まことの生い立ちと家族|宝塚で育ち芸大へ進んだ姉に憧れる
鳥山まことさんは1992年、兵庫県宝塚市で生まれました。
父親や母親の職業、幼少期に同居していた家族全員の構成などは詳しく公表されていませんが、後の進路をたどると、家族の中では3歳上の姉の存在がたびたび登場します。
1992年に兵庫県宝塚市で生まれる
宝塚で育った子どものころ、鳥山さんが早くから意識していたものの一つが「言葉」でした。
周囲には変顔や大きな動きで笑いを取る人がいましたが、自分には同じことはできないと感じていた一方、会話の中でちょうどいいタイミングに比喩を入れると、人が笑ってくれることがあったそうです。
関西でのそうしたやり取りを通じて、言葉を置くタイミングや選び方で相手の反応が変わることを面白く感じるようになりました。
小説を書き始めるのは20代になってからですが、文章よりずっと前に、日常会話の中で言葉の手触りを知る経験がありました。
3歳上の姉は芸大へ|芸術を身近に感じた家族環境
鳥山さんには3歳上の姉がいます。
姉は芸術大学へ進み、自分の好きなことを追究する道を選びました。
鳥山さん自身ももともと芸術全般に興味があり、手を動かしながら何かを少しずつ作り上げていくことが好きでした。
ただ、姉と同じ芸術系へそのまま進むのではなく、自分が得意だった理系科目と芸術への関心を組み合わせる方向へ進んでいきます。
福井の祖母が後の「最初の小説」にもつながる
家族の記憶は、鳥山さんが社会人になって初めて書き上げる小説にも現れました。
最初の作品で描いたのは、社会人2〜3年目の主人公が福井に住む祖母を訪ねる物語です。
認知症が始まった祖母が会話のできるロボットを孫のようにかわいがり、人と機械の少しずれた会話が不思議とかみ合っていくという内容でした。
この時点ではまだ作家デビュー前ですが、後に「あるもの」や『時の家』でも繰り返し扱うことになる記憶が、最初の一作から作品の中に入り込んでいます。
鳥山まことの高校時代|物理と数学が得意な理系から建築へ
高校に進むと、鳥山さんの興味は具体的な進路へ変わっていきました。
ここで選んだ建築が、その後の大学、大学院、仕事、そして小説まで長く続いていきます。
高校名は公表されていない|理系で物理と数学が得意だった
出身高校の学校名は、本人プロフィールや大学、文学賞主催団体などの公表資料では明らかにされていません。
一方、高校時代の得意分野については本人がはっきり語っています。
「高校は理系で、物理とか数学が得意でした。」
集英社オンライン
文学や国語を中心に進路を組み立てたのではなく、理系科目を得意とする高校生でした。
「理系+芸術=建築」姉への憧れから進路が決まる
理系を選びながらも、芸大へ進んだ姉への憧れは残っていました。
そこで鳥山さんの中にできたのが、物理や数学の得意分野と芸術への興味を一つにする考え方でした。
「理系と芸術のセンスをかけ合わせると建築になる」
集英社オンライン
高校時代に見つけた「理系と芸術の交点」として、建築が進路の候補になりました。
この選択を受けて、卒業後は京都府立大学で建築を学ぶことになります。
鳥山まことさんは1992年、兵庫県宝塚市で生まれました。
高校に進むと、鳥山さんの興味は具体的な進路へ変わっていきました。
出身高校の学校名は、本人プロフィールや大学、文学賞主催団体などの公表資料では明らかにされていません。
高校卒業後、鳥山さんは京都府立大学生命環境学部・環境デザイン学科へ進みました。
京都府立大学を卒業した鳥山さんは、建築の学びをさらに続けるため九州大学大学院へ進みました。
大学院では、意匠だけを見るのではなく、建物の中で起きる物理現象へ視線を向けました。
芥川賞を受賞したあとも、鳥山さんは建築の仕事を辞めて専業作家になる道を選んでいません。
京都府立大学で建築を学ぶ|製図室で仲間と過ごした学生時代
高校卒業後、鳥山さんは京都府立大学生命環境学部・環境デザイン学科へ進みました。
ここから、建築を考えるだけではなく、図面を引き、仲間と案を見せ合い、形にする日々が始まります。
環境デザイン学科へ進み初めて親元を離れて京都で暮らす
大学進学を機に、鳥山さんは初めて親元を離れて京都で暮らし始めました。
住んでいたのは、一乗寺周辺でした。
後年その街を歩いたときには、初めて自分のお金でDVDを借りた店や、学生時代には気づかなかった書店の選書まで思い出しています。
大学へ通うことだけではなく、自分で暮らしながら京都の街を歩く時間も、この時期の日常になりました。
製図室で同級生とエスキスや図面に取り組む
建築を学ぶ学生生活の中心には製図室がありました。
エスキスと呼ばれる設計案の検討を重ね、同級生と同じ空間で図面を引く時間を過ごします。
「製図室で同級生と共にエスキスに励み図面を引いた日々」
京都府立大学
鳥山さんは芥川賞受賞後、こうした日々を『時の家』を書くためにも欠かせない経験だったと母校へコメントしています。
完成した建物を見るだけでなく、線を引き、案を修正し、空間が形になる前の過程を経験した4年間でした。
小さなキャンパスでできた4人の親しい友人
京都府立大学は大規模なキャンパスではなく、同じ学科の学生同士が授業や製図で顔を合わせやすい環境でした。
鳥山さんは大学時代に特に親しくなった4人の友人について、卒業後も本人のエッセイで一人ずつ触れています。
製図室での時間だけでなく、少人数の学科で日常をともにした人間関係も長く残りました。
九州大学大学院へ進学|建物の熱や水分を研究する
京都府立大学を卒業した鳥山さんは、建築の学びをさらに続けるため九州大学大学院へ進みました。
所属したのは人間環境学府空間システム専攻で、修士課程を修了しています。
建築をさらに学ぶため大学院進学を選ぶ
大学院では、意匠だけを見るのではなく、建物の中で起きる物理現象へ視線を向けました。
外の環境や建物内部に使う素材によって、熱・水分・温度・湿度が室内でどう変化するのかを研究しています。
建物を外観や間取りとして見るだけではなく、人が実際に暮らす内部環境を数値や現象から考える研究でした。
環境工学を研究し設備設計の道へ進む
大学院時代の恩師である九州大学の尾崎明仁教授は、当時の鳥山さんについて、学生時代から居住者の視点で都市や建築を捉え、生活・健康・エネルギーに関わる環境工学から建築空間を考えていたと振り返っています。
卒業後の仕事では、建築の中でも設備設計の道を選びました。
大学で図面を引き、大学院で建物内部の環境を研究した経験が、そのまま建築士としての実務へつながりました。
この段階では、小説はまだ職業でも日常の中心でもありませんでした。
東京の設計事務所へ就職|社会人1年目に小説を書き始める
2017年、鳥山さんは東京の設計事務所へ建築士として就職しました。
勤務先の正式な会社名は本人の主要プロフィールやインタビューでは明かされていませんが、設計の仕事が忙しい中で社会人生活を始めたことは本人が語っています。
建築士として忙しく働く中で「もう一つの軸」を探した
一日の大半を仕事に使う生活が始まると、鳥山さんはこのまま何十年も建築だけを続けた先の自分を考えるようになりました。
「自分のなかに建築以外にもうひとつ軸になるものが欲しい」
文藝春秋PLUS
建築を辞めるのではなく、建築とは別にもう一本、自分の生活を支えるものを持とうとしたところから次の行動が始まります。
家具作りなどを試し一番夢中になったのが小説だった
すぐに「小説家になろう」と決めたわけではありません。
もともと手を動かして何かを作るのが好きだったため、家具作りなど、仕事以外にいくつものことを試しました。
その中で最も夢中になれたのが小説を書くことでした。
建築の仕事へ行く前の朝や昼休みも使いながら、少しずつ文章を書き進める生活が始まります。
初めて書いた150枚の中編が文藝賞2次選考を通過する
初めて最後まで書き上げた小説は、原稿用紙で約150枚の中編でした。
福井に住む祖母を社会人2〜3年目の主人公が訪ね、祖母が会話ロボットを孫のようにかわいがる物語です。
書き終えた夜は興奮して眠れないほどで、そのとき鳥山さんの中に、それまで試してきた趣味とは違う感覚が生まれました。
「たぶんこれは人生を賭けてやることになる、と思いました」
好書好日
その作品を文藝賞へ送ると、2次選考を通過し、文芸誌に初めて自分の名前が載りました。
一作目を完成させた直後に「書き続ける」方向が定まり、文学賞への応募が日常の中へ入っていきました。
50作以上を応募した6年間|建築士を続けながら作家を目指す
最初の作品が2次選考まで進んだあと、鳥山さんは建築士として働きながら公募へ作品を送り続けました。
2017年から2023年の新人賞受賞までに、応募した作品は50作以上にのぼります。
2017年から年間10作以上を文学賞へ応募した時期もあった
鳥山さんはスマートフォンに「経過」というファイルを作り、いつ、どの賞へ、どの作品を送り、どこまで残ったかを記録していました。
応募を始めた最初の数年間は、5大文芸誌の賞から地方の文学賞まで、1年に10作以上送った年もあります。
当時は書き上げる速度が速く、推敲をほとんどせず、完成した作品の枚数と締め切りが合う賞へ次々と出していました。
「書く」「応募する」「結果を残す」という行動を、仕事を続けながら何年も止めませんでした。
書く速さより1作品の強度を上げる方法へ変わっていく
応募を重ねるうちに、やり方は少しずつ変わります。
年間10作以上だったペースは、後半になると1年に3作ほどまで減りました。
作品数を増やすより、一作に時間をかけ、推敲し、作品そのものの強度を上げる方向へ移っていったためです。
落選しても、年に1〜2本は比較的よいところまで残ることがあり、それが次の作品を書く動機にもなっていました。
2023年「あるもの」で三田文學新人賞を受賞する
応募開始から6年が過ぎた2023年、「あるもの」で第29回三田文學新人賞を受賞しました。
50作以上を送った末に、初めて新人賞の受賞へ届いた作品です。
「あるもの」は、町民支援センターに勤める主人公が、認知症の高齢女性から頼まれ、思い出の場所が今も残っているかを確かめに行く物語でした。
最初の150枚の作品でも扱った「記憶」が、この受賞作にも姿を変えて現れています。
建築を初めて小説の中心へ|「アウトライン」から『時の家』へ
三田文學新人賞を受賞すると、「あるもの」を読んだ『群像』編集部から次作の依頼が届きました。
ここで、建築士として過ごしてきた時間と小説を書く時間が、作品の中で初めて本格的に重なり始めます。
建築士の自分と小説を書く自分をつなげ始める
それまで鳥山さんは、建築の仕事をする自分と小説を書く自分を別々のものとして考えていました。
ところが、自分にしか書けないものを探すため、自分の中にある要素を書き出していくと「記憶」と「建築」が残りました。
幼いころから小説家になる準備をしていたわけではなく、大学以降ずっと時間を使ってきた建築そのものが、自分の文章で使える材料だと気づきます。
仕事と創作を分けていたところから、「建築なら自分にしか見えないものを書ける」と考える段階へ進みました。
建材メーカーを舞台にした「アウトライン」を書く
その考えを形にしたのが、2024年に『群像』で発表した「アウトライン」です。
主人公を建材メーカーで働く女性に設定し、建材や建物を小説の中へ持ち込みました。
建築を明確な中心に置いて書いたことで、編集者とのやり取りも建築の描写や構成へ踏み込むものになっていきました。
「アウトライン」を書いた経験の次に、さらに自分の実体験に近い「家」が作品の中心へ入ってきます。
妻と自宅を設計|建築現場で見たものが『時の家』になる
小説を書く一方で、私生活では大きな建築が進んでいました。
鳥山さんと妻はともに建築士で、自分たちで設計した家を建てるため、土地探しから家づくりを始めました。
建築士の妻と土地探しから3年かけて自宅をつくる
土地探しでは神戸周辺のさまざまな駅で降り、夫婦で街を歩きました。
その途中で明石駅に降りたとき、駅の北側にある石垣と木々の多い公園、海岸公園の景色、魚の棚商店街のにぎわいに触れます。
夫婦が土地探しで重視していたのは「文化を感じられる街」であることでした。
明石を歩くうちに暮らす場所として選び、自宅の計画を進めていきます。
家が完成するまでには、土地探しから約3年かかりました。
どこに住むのか、誰に建ててもらうのか、どの素材を使うのか、工務店選び、設計、納まりの検討、現場での打ち合わせ、コスト調整まで、一つずつ夫婦で決めています。
完成したのは延べ床30坪に満たない木造2階建ての家でした。
完成すれば隠れる職人の手仕事を写真に残した
現場へ通う中で鳥山さんが目にしたのは、完成写真には残りにくい場面でした。
作りかけの窓辺に職人2人が並び、外を眺めながら弁当を食べていたことがありました。
別の日には、壁の下地となるボードに、大工が納まりを考えるために描いたらしい走り書きのスケッチが残っていました。
その線は仕上げの漆喰が塗られれば、二度と見えなくなります。
図面には完成後の形が残っても、現場で交わされた会話や職人の動き、途中だけ存在した線までは残りません。
建物が完成するほど、その途中にあったものが見えなくなっていくことを、自宅の現場で間近に見ました。
自分の家を建てた経験から『時の家』を書き始める
2024年、自宅が完成すると、鳥山さんは家づくりの過程で見たものが早くも薄れていく感覚を持ちました。
写真に残すだけではなく、自分の方法でも残したいと考えたとき、選んだのが小説でした。
大学で建築を学び、大学院で研究し、会社で設計に携わり、自宅を自分で建てるところまで進んだ経験が、一本の作品の材料として集まり始めます。
自宅ができるまでの過程で目にした「完成すると消えてしまうもの」が、『時の家』を書く直接の出発点になりました。
『時の家』で野間文芸新人賞・芥川賞へ
こうして書かれた『時の家』は、一軒の家と、そこに異なる時期に関わった人たちの記憶をたどる作品になりました。
建築の専門知識を説明するためだけではなく、家の柱や床、温度や時間、人が残した痕跡そのものが物語を動かしていきます。
2025年に野間文芸新人賞を受賞する
『時の家』は2025年に第47回野間文芸新人賞を受賞しました。
三田文學新人賞のあと、「アウトライン」を経て書いた作品が、次の文学賞へ届いたことになります。
鳥山さんはこの受賞時の一日をかなり細かく覚えており、翌年の芥川賞選考日には、その日の行動を再現することにしました。
2026年に第174回芥川賞を受賞する
芥川賞の待ち会の日、服装、起床時間、電車、新幹線の座席、昼食を取る店、途中で寄る書店、カフェでの注文まで、野間文芸新人賞の日と同じ流れをたどりました。
最後に同じモンブランだけが店になく、そこだけは再現できなかったそうです。
2026年1月14日、『時の家』は畠山丑雄さんの「叫び」とともに第174回芥川龍之介賞に選ばれました。
同じ作品で野間文芸新人賞と芥川賞の両方を受賞するのは史上初でした。
京都府立大学で図面を引いた経験については母校へ、九州大学大学院で学んだ環境工学については九州大学へ、それぞれ『時の家』の文体や構成につながったとコメントしています。
息子が生まれ仕事・家庭・小説の時間配分も変わる
『時の家』を書く時期から受賞へ進むころ、鳥山さんの家庭にも新しい変化があり、息子が生まれました。
それまで仕事・暮らし・小説という3つの軸で時間を分けていましたが、子どもが生まれると家庭に使う時間が大きくなります。
エッセイや書評は通勤中に書き、小説は朝5時に起きて毎日1時間取り組む形へ変えました。
ただ、息子が早く起きる日はその1時間も取れず、執筆時間を固定すること自体が難しくなっています。
建築士の仕事を続け、家族と暮らしながら小説を書く現在は、社会人1年目に「もう一つの軸」を探していたころとは時間の使い方も変わりました。
建築士を続けながら小説を書く現在
芥川賞を受賞したあとも、鳥山さんは建築の仕事を辞めて専業作家になる道を選んでいません。
建築と文学を同時に続けながら、その間にある題材を探しています。
建築を辞めず「建築と文学の間」で次の作品を書く
『時の家』では住宅を描きましたが、鳥山さんが現在見ている建築は家だけではありません。
オフィスビルや公共建築、意匠だけでは見えない構造や設備にも、まだ小説にできるものがあると考えています。
芥川賞受賞後も建築士として設計業務を続けながら、執筆を続けるという現在地は変わっていません。
高校で選んだ建築を捨てて文学へ移ったのではなく、長く続けた建築の中へ文学が入ってきた形です。
明石で暮らし「あかし本のまち大使」へ
現在の生活拠点は、妻と自宅を建てた兵庫県明石市です。
明石公園や大蔵海岸公園、魚の棚商店街などを歩くことが日課になり、明石公園の剛の池ではベンチに座って周囲の景色を言葉で写生することもあります。
2026年7月4日には、明石市から「あかし本のまち大使」に委嘱されました。
「明石の豊かさ、文化を残していきたい」
明石市
土地を探して歩いた街は、自宅を建てた場所になり、『時の家』が生まれた場所になり、その後は地域で本に関わる活動をする場所にもなりました。
宝塚で育ち、高校時代に物理・数学と芸術への興味から建築を選んだ鳥山まことさんは、京都と九州で建築を学び、設計の仕事へ進みました。
社会人1年目に始めた小説は、50作以上の応募、「あるもの」と「アウトライン」、妻との自宅建築を経て『時の家』へたどり着きました。
現在も明石で暮らし、建築士として働きながら、建築と文学の間で次の作品を書いています。
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出身地・年代・人生の原点などの共通点から探せます。












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