2024年、「さびしさは一個の廃墟」で第56回新潮新人賞を受賞し、小説家として登場した仁科斂(にしな・れん)さん。
2026年には二作目の「丹心(まごころ)」が第175回芥川龍之介賞の候補となり、初の単行本『丹心/まごころ』も刊行されました。
現在は小説だけでなく、東京大学大学院で研究を続けながら、多摩美術大学芸術学科の非常勤講師も務めています。
そんな経歴だけを見ると日本の大学や文学の世界を一直線に歩いてきたようにも見えますが、実際の少年時代はかなり違います。
東京で生まれたあと、香港、上海、日本、イギリスへと生活の場所を移し、大学卒業までの長い期間を海外で過ごしてきました。
英語で小説を書いていた高校時代、日本文学と本格的に出会った大学時代、哲学研究と翻訳に取り組んだ大学院時代を経て、日本語で小説を書く現在へ進んでいます。
仁科斂の生い立ちと家族|東京生まれ、父の仕事で香港・上海へ
仁科斂さんは1994年生まれで、新潮社の公式プロフィールには香港、上海、ロンドンで育ったと記されています。
海外生活が始まったのは、小学校へ上がるころでした。
東京で生まれ、幼稚園までは日本で過ごす
出生地について、仁科さん自身は2024年の新潮新人賞受賞者インタビューで明確に答えています。
「東京です。」
新潮社「第56回新潮新人賞 受賞者インタビュー」
幼稚園までは日本で生活していましたが、小学校に入る時期になると家庭の生活拠点が海外へ移ります。
理由は父親の仕事でした。
父親の具体的な勤務先や職業は公表されていませんが、本人によれば仕事の都合で小学校から香港と上海で暮らすようになりました。
小学校から香港・上海へ、生活の中で中国語にも触れる
香港と上海のどちらへ先に移ったのか、それぞれ何年間生活したのかまでは明らかにされていません。
ただ、小学生のころに中国語を実際に話していたことは本人が後年明かしています。
大人になった現在については自由自在に中国語を使えるわけではないと説明しており、デビュー作に中国語の台詞を書いた際には友人にチェックしてもらったそうです。
幼少期の中国生活を、後年になって語学力だけで大きく見せていないところも興味深い部分です。
母方の実家は宮城県、石巻を幼いころから訪れていた
海外を転々とした一方、日本国内で仁科さんの人生に長く関わってきた場所が宮城県です。
本人によれば、母方の実家は宮城県で解体業を営んでいました。
石巻日日新聞社の「石巻Days」では、母方の実家が石巻市新舘にある「石巻ゆかりの小説家」として仁科さんを紹介しています。
幼少期から石巻をたびたび訪れていたとされ、海外の都市だけでなく、宮城県にも子どものころから繰り返し戻る場所がありました。
母方の家業だった解体業との接点は、のちにデビュー作で「廃墟」を描く際にも具体的に顔を出します。
小学校後半からイギリスへ|日本のインターナショナルスクールを経た少年時代
中国での生活は、そのまま大学まで続いたわけではありません。
小学4年生になるころ、一度日本へ戻っています。
小学4年生で一度帰国し、約2年半インターナショナルスクールへ
帰国後に通ったのは、日本国内のインターナショナルスクールでした。
学校名は公表されていませんが、本人は通学期間を約2年半と説明しています。
東京で幼稚園までを過ごし、香港・上海へ渡ったあと、また日本の学校生活へ戻ったことになります。
ただし日本の一般的な小中学校ではなく、帰国後もインターナショナルスクールという環境を選んでいました。
再び海外へ渡り、大学卒業までイギリスで暮らす
約2年半の日本生活を終えると、次の生活拠点はイギリスになりました。
その後はオックスフォード大学の学部を卒業するまでイギリスで生活しています。
イギリスへ渡った当初、話していた英語は本人によれば標準的なアメリカ英語の発音でした。
ところが半年ほどで発音がイギリス英語へ変わり、後年にはアメリカ英語の発音のほうを忘れてしまったと話しています。
さまざまな国で暮らすなかで、日常的に最も自然に出てくる言葉も英語になっていきました。
「とっさには英語が一番自然」
新潮社「第56回新潮新人賞 受賞者インタビュー」
一方、日本語は最初に覚えた言葉だったため母語ではあるものの、現在の本人には少し離れた感覚もあります。
「母語ですが、客観的にいって外国語です。」
新潮社「第56回新潮新人賞 受賞者インタビュー」
デビュー時の受賞者インタビューに「母語である外国語=日本語」という題名が付けられた背景には、この生育環境があります。
高校では英語で小説を書き、校内コンクールで受賞
小説を書くこと自体は、日本で作家デビューするずっと前から始まっていました。
高校時代には英語で小説を書き、校内の小説コンクールで受賞した経験があります。
当時は英語の小説を読んでいた一方、日本文学にはほとんど接していませんでした。
のちに日本語で新潮新人賞を受賞する人物が、高校時代には英語で創作していたというのは、仁科さんの経歴の中でも大きな違いが見える部分です。
仁科斂さんは1994年生まれで、新潮社の公式プロフィールには香港、上海、ロンドンで育ったと記されています。
香港と上海のどちらへ先に移ったのか、それぞれ何年間生活したのかまでは明らかにされていません。
中国での生活は、そのまま大学まで続いたわけではありません。
小説を書くこと自体は、日本で作家デビューするずっと前から始まっていました。
約2年半の日本生活を終えると、次の生活拠点はイギリスになりました。
大学はイギリスのオックスフォード大学へ進学しました。
オックスフォード大学を卒業した仁科さんは、日本で学問を続けます。
大学卒業後に進んだのは東北大学大学院文学研究科です。
震災を機に日本へ目が向く|オックスフォード大と東大を行き来した学部時代
イギリスで学生生活を送っていた仁科さんの視線が日本へ向き始めたのは、大学進学を控えたころでした。
その時期に起きたのが2011年の東日本大震災です。
東日本大震災の前後から日本への関心が芽生える
仁科さんは、震災を機に大学へ入る前後から日本への関心が芽生えたと語っています。
母方の実家が宮城県で解体業を営んでいたこともあり、震災後には被災した建造物を目にする機会がありました。
さらに家業に関係する資格も取得しており、建築を大学で専門的に学んだわけではないものの、建物を取り壊す仕事の世界と本人との間には具体的な接点がありました。
海外で長く育った仁科さんが日本へ意識を向けた時期と、宮城の家族に関わる土地が大きく変わった時期が重なっています。
オックスフォード大学で哲学・政治・経済を学ぶ
大学はイギリスのオックスフォード大学へ進学しました。
所属したのはセント・ジョーンズ・カレッジで、専攻はPPEと呼ばれる哲学・政治・経済のコースです。
2016年にはWren Nishina名義で哲学論文「The space of the subject: An étude」を発表しており、当時の所属にはUniversity of OxfordとUniversity of Tokyoの双方が記されています。
「仁科斂」は小説家になってから作った名前ではなく、本人によればアカデミズムの世界で論文を書くころから、本名とは異なる「ニシナレン」という筆名を使っていました。
学部時代に約1年半東大へ、日本文学を読み始める
オックスフォード大学に在籍していた学部時代には、約1年半、東京大学で過ごした時期もありました。
本人にとっては楽しい時間だった一方、周囲との距離感については短くこう振り返っています。
「お客様扱いでしたね。」
新潮社「第56回新潮新人賞 受賞者インタビュー」
日本へ戻った仁科さんは、日本語の勉強のため書店へ行き、当時流行していた小説などを読み始めます。
その中にあったのが、民俗学者・国文学者として知られる折口信夫の本でした。
最初から内容を理解できたわけではありません。
「当初はまったく読めていませんでした。」
新潮社「第56回新潮新人賞 受賞者インタビュー」
意味を追うというより、最初は目で言葉のリズムを流しているような読み方だったそうです。
そこから徐々に折口の文章が読めるようになり、土地の風習や方言といった具体的なものから抽象的な思考へ進んでいく方法に刺激を受けていきました。
中上健次の「岬」も、仁科さんが日本語で読んだほぼ最初期の小説の一つでした。
東北大から東大大学院へ|哲学研究と翻訳を続けたデビュー前
オックスフォード大学を卒業した仁科さんは、日本で学問を続けます。
小説家として名前が知られるより前に、研究と翻訳の世界ですでに活動していました。
オックスフォード卒業後、東北大学大学院で倫理学を専攻
大学卒業後に進んだのは東北大学大学院文学研究科です。
ここでは倫理学を専攻し、修士課程を修了しました。
高校時代に英語で小説を書いていた創作経験が、そのまますぐ職業としての小説執筆に移ったわけではありません。
20代の仁科さんの表立った仕事では、哲学研究と英語への翻訳が先に形になっています。
國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』を英訳する
2020年には、哲学者・國分功一郎さんの著書を英訳した『The Principles of Deleuzian Philosophy』が刊行されました。
Cambridge Coreの書誌では、翻訳者としてWren Nishina、所属としてTohoku University, Japanと記録されています。
日本語で書かれた哲学書を読み取り、英語の読者へ渡す仕事をしていた時期です。
幼いころから複数の言語環境を移り、高校では英語で小説を書いていた仁科さんにとって、翻訳はそれまでの言語経験を実際の仕事として使う場にもなりました。
Cambridge Coreの書誌では、2020年刊行の英訳書として確認できます。
東京大学大学院で折口信夫とハンナ・アーレントを研究
その後は東京大学大学院総合文化研究科の博士課程へ進みました。
所属するのは超域文化科学専攻の比較文学比較文化で、研究対象として挙げられているのが折口信夫と政治思想家ハンナ・アーレントです。
日本文学をほとんど読んでいなかった学生が日本語を学ぶため偶然のように手に取った折口の文章を、大学院では専門的に研究するようになりました。
英語で創作した高校時代、日本語を学び直した学部時代、哲学研究と翻訳を続けた大学院時代を通過してから、日本語の小説家としてのデビューが訪れます。
小説家への転機|島唄と奄美から「さびしさは一個の廃墟」が生まれる
日本語の小説家として仁科さんの名前が初めて大きく世に出たのは2024年でした。
ただ、その作品を生んだ材料は応募直前に集めたものばかりではありません。
島唄を7〜8年聴き、土地を知るため奄美へ向かう
「さびしさは一個の廃墟」の舞台となったのは奄美です。
奄美との入り口になったのは、もともと好きだった島唄でした。
仁科さんは元ちとせさんや中孝介さんの歌声をきっかけに島唄へ進み、受賞時にはすでに7〜8年ほど聴き続けていたと説明しています。
音楽を聴くだけで終わらず、島唄がどのような土地から生まれたのかを知るため、実際に奄美へ足を運びました。
そこで受けた土地の印象が、のちに作品の舞台へ入っていきます。
家業に関係する資格と震災後の建物が「廃墟」へ重なる
作品のもう一つの重要なモチーフが建築と廃墟です。
ここで、幼いころから関わりがあった宮城県の家族の話が再び登場します。
震災後に被災した建造物を見る経験があり、さらに母方の家業である解体業に関連した資格も取得していました。
「さびしさは一個の廃墟」の主人公レンは建築家を志す人物で、仁科さん自身も本人インタビューで、資格の部分で主人公との属性が重なると説明しています。
中上健次、島尾敏雄、島唄、奄美、宮城の家業、震災後に見た建物という別々の経験が、デビュー作の中で同じ場所に入りました。
2024年、新潮新人賞を受賞して小説家デビュー
「さびしさは一個の廃墟」は第56回新潮新人賞へ応募され、2024年に受賞作となりました。
同年10月7日発売の『新潮』2024年11月号に作品が掲載されます。
本人のXでは、掲載を知らせる投稿が「Xになってから初投稿が宣伝」という一言から始まっていました。
研究者・翻訳者として活動してきた仁科さんが、30歳前後で日本語の小説家として本格的に表舞台へ出た瞬間でした。
受賞後も研究を離れたわけではなく、小説と学術活動を並行していきます。
『丹心/まごころ』へ|中国で育った経験が二作目の舞台に戻る
「さびしさは一個の廃墟」に続いて仁科さんが発表した小説では、幼少期を過ごした中国が大きな舞台になりました。
作品名は「丹心(まごころ)」です。
2026年、中国の爛尾楼を舞台に「丹心」を発表
「丹心」は『新潮』2026年4月号に200枚の小説として掲載されました。
物語は、建築家の助手レンが中国・寧波へ渡り、建設途中で放棄された爛尾楼(ランウェイロゥ)を美術館へ作り替える計画に関わるところから動き始めます。
デビュー作と同じ「レン」やQといった人物が登場し、前作から続く物語でもあります。
最初の作品では奄美の土地と中国人たちを描き、次の作品では中国大陸そのものへ場所が移りました。
小学生のころ暮らしていた中国が、作家デビュー後の二作目で主要な舞台として現れています。
初単行本『丹心/まごころ』が2026年7月に刊行
2026年7月15日には、初の単行本『丹心/まごころ』が新潮社から発売されました。
表題作に加え、新潮新人賞受賞作「さびしさは一個の廃墟」も収録されています。
単行本のカバー写真には島尾伸三さんが2000年代初頭に香港で撮影した写真が使われました。
香港で育った仁科さんの初単行本に、別の写真家がかつて香港で撮った一枚が使われることになりました。
刊行を前に、新潮社が発表した著者コメントは短いものでした。
「いま書けるすべてを書き尽くしました」
新潮社プレスリリース
第175回芥川賞候補となるが受賞には至らず
単行本の刊行直前、「丹心」は第175回芥川龍之介賞の候補作に選ばれました。
候補発表を受け、仁科さんの名前や『丹心』を目にする機会も一気に増えました。
ただし、仁科斂さんは第175回芥川賞の受賞者ではありません。
2026年7月15日の選考で受賞したのは、小砂川チトさんの「ゾンビ回収婦」でした。
日本文学振興会の公式記録でも、「丹心」は候補作品、小砂川チトさんが第175回の受賞者として掲載されています。
仁科さんにとっては、新潮新人賞でデビューしてから約2年で芥川賞候補に進んだことになります。
現在|研究・教育と小説を並行する仁科斂
芥川賞候補となったあとも、仁科さんの活動は小説だけに絞られていません。
学生時代から続いてきた研究の仕事も現在まで並行しています。
東京大学大学院に在籍し、多摩美術大学で非常勤講師を務める
2026年現在も東京大学大学院総合文化研究科の博士課程に在籍しています。
多摩美術大学芸術学科では非常勤講師を務め、大学の教員紹介では現代西洋哲学のハンナ・アーレントと、近現代日本文学の折口信夫が研究領域として挙げられています。
同大学では「哲学設計」の授業にも携わっています。
小説家、研究者、翻訳者、大学講師という複数の活動が、2026年現在も同時に続いています。
哲学・文学・翻訳と小説を横断して活動する
仁科さんが現在書いている日本語は、幼稚園まで日本で育ったあと一度距離ができ、大学時代から改めて読み込んできた言葉でもあります。
高校では英語で小説を書き、オックスフォードでは哲学・政治・経済を学び、東北大学大学院では倫理学へ進み、英訳書を手がけました。
その途中で読み始めた折口信夫や中上健次、長年聴いてきた島唄、石巻につながる家族と解体業、香港・上海で過ごした子ども時代が、その後に書いた二つの小説へそれぞれ異なる形で現れています。
日本文学との出会いより先に海外生活と英語での創作があり、そのさらに後に日本語の小説家としてデビューした人物という順序で見ると、仁科斂さんの現在までの道のりが見えやすくなります。
東京で始まった仁科斂さんの少年時代は、香港、上海、日本、イギリスへと場所を変えながら続きました。
震災を機に日本へ目が向き、日本文学、哲学研究、翻訳を経て書いた「さびしさは一個の廃墟」で小説家となり、二作目「丹心」は芥川賞候補まで進みました。
現在も大学院で研究を続けながら教壇に立ち、日本語で次の小説を書く活動が続いています。
仁科斂と似た生い立ちの人物は?
出身地・年代・人生の原点などの共通点から探せます。












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