「ソリティアおじさんがいた頃」で第131回文學界新人賞を受賞し、同作が第175回芥川賞候補にもなった小説家・村司侑さん。
1979年生まれの福岡県出身で、九州大学文学部を卒業し、現在は京都府で暮らしています。
2026年に作品が広く知られるようになりましたが、小説を書き始めたのは高校時代で、そこからデビューまでは長い時間がありました。
その途中には、会社員として働き、妻が先に小説家としてデビューし、35歳で「小説家になる」という目標をいったん手放した時期もあります。
村司侑の生い立ちと家族|福岡で本を読むことが好きだった少年時代
村司侑さんは1979年生まれで、公式プロフィールでは福岡県出身とされています。
出生した市町村までを示す公式プロフィールはありませんが、のちに京都で暮らすようになってからも本人は自らを「福岡出身」と語っています。
1979年生まれ、福岡県出身で子どもの頃から読書が好きだった
現在につながる少年時代の手がかりとして本人が明かしているのが、子どもの頃から本を読むことが好きだったということです。
このころから小説家を目指していたわけではなく、「読む側」から自分で書く側へ移ったのは高校へ進んでからでした。
両親や兄弟姉妹など幼少期の家族情報はどこまで分かっている?
村司さんの父親・母親・兄弟姉妹については、名前や職業、詳しい家族構成は公表されていません。
そのため、幼少期に誰と暮らしていたのか、両親がどのような仕事をしていたのかといった部分までは明らかになっていません。
成人後の家族として知られているのが、のちに大学で出会う小説家・サイエンスライターの寒竹泉美さんです。
村司侑の高校時代|物理部に入ったことから小説を書き始める
村司さんの高校名そのものは公表されていませんが、学校生活については本人がかなり具体的に振り返っています。
作家としての原点は文芸部へ一直線に入ったことではなく、別の文化部の扉を最初に開いたところから始まりました。
文化部を見て回るつもりが最初に訪れた物理部へ入部
高校へ入ると、村司さんは何か文化系の部活動に入ろうと考えました。
最初から部活を決めていたわけではなく、一通り見てから選ぶつもりで、文化部棟の1階にあり校舎から一番近かった物理部を最初に訪ねています。
ところが、本人の表現ではそこで「そのまま捕まり」、物理部へ入ることになりました。
先輩を通じて文芸部を知り、自分でも詩や小説を書き始める
物理部へ入ったことが、思いがけず創作との接点になります。
部の先輩が文芸部の生徒と親しくしており、そこで村司さんは詩や小説は読むだけでなく、自分でも書くものなのだと知りました。
それまで読書を楽しんでいた高校生が、このころから自分でも作品を書くようになります。
高校時代には実際に書いた小説を賞へ応募しましたが、結果は一次選考を通過できませんでした。
「大学受験がイヤ」が小説家を意識した最初のきっかけだった
小説を書くようになった村司さんが当初「小説家」を意識した理由は、現在から振り返るとかなり率直なものでした。
「受験勉強がイヤで、小説家になれば大学に行かなくて済むんじゃないかと思ったのがはじまり」
好書好日
ところが高校で応募した小説は一次選考を通らず、卒業後は大学へ行かない道ではなく、むしろ小説をもっと上手に書くため大学で文学を学ぶ道へ進みました。
村司侑さんは1979年生まれで、公式プロフィールでは福岡県出身とされています。
村司さんの父親・母親・兄弟姉妹については、名前や職業、詳しい家族構成は公表されていません。
村司さんの高校名そのものは公表されていませんが、学校生活については本人がかなり具体的に振り返っています。
小説を書くようになった村司さんが当初「小説家」を意識した理由は、現在から振り返るとかなり率直なものでした。
高校卒業後に進んだのは九州大学文学部でした。
大学4年生になると、村司さんの作品はある地方文学賞で佳作に選ばれました。
大学卒業が近づくころ、寒竹さんは京都大学大学院を受験しました。
2009年、村司さんが30歳のころ、大学の文芸部から一緒に小説を書いてきた寒竹さんが先に転機を迎えます。
九州大学文学部へ進学|小説を学びながら寒竹泉美と出会う
高校卒業後に進んだのは九州大学文学部でした。
大学では授業だけでなく文芸部にも入り、小説を書く生活を続けています。
小説をうまく書くため文学部と文芸部を選ぶ
高校時代の応募では一次選考を通れなかったため、村司さんは小説をもっと上手に書きたいと考えて文学部を選びました。
大学の文芸部で出会った一人が、のちに妻となる寒竹泉美さんです。
寒竹さん自身も九州大学を卒業しており、のちに小説家とサイエンスライターの両方で活動することになります。
九州大学文芸部(文藝部)の村司侑さんに関する公式投稿
九州大学文芸部も、文學界新人賞受賞後の公式Instagramで村司さんを同部のOBとして紹介しています。
文学研究ではなく文化人類学を専攻した理由
文学部へ入った村司さんですが、専門に選んだのは作家や作品を研究する文学研究ではなく、文化人類学でした。
「文学研究を専門にすると、誰かの後追いになってしまうと思い、文化人類学を選択」
好書好日
文化人類学を学んだ作家として本人が挙げているのが、アメリカの小説家カート・ヴォネガットです。
大学時代に選んだこの専攻は、約20年後に自身のものの見方について語るときにも登場することになります。
大学4年で地方文学賞佳作、それでも授賞式には行かなかった
大学4年生になると、村司さんの作品はある地方文学賞で佳作に選ばれました。
高校時代には一次選考を通過できなかったため、初めて外部から具体的な評価を受けた時期の一つです。
ところが本人は「卒論が忙しい」と授賞式へ行かず、後年になって「あのとき行っておけばよかった」という趣旨で振り返っています。
大学で出会った寒竹泉美が京都大学大学院へ進み、一緒に京都へ
大学卒業が近づくころ、寒竹さんは京都大学大学院を受験しました。
村司さんは寒竹さんが合格すれば自分も京都で就職するという話をしており、実際に合格が決まると、二人で福岡を離れて京都へ移りました。
寒竹さんは京都大学大学院医学研究科へ進み、のちに医学博士号を取得しています。
寒竹泉美さんによる村司侑さんの文學界新人賞受賞に関する投稿
寒竹さんは2026年の受賞時、大学の文芸部で出会ったころから二人が長く「ライバル」であり「同志」でもあったことを自身のInstagramで明かしています。
京都で就職|会社員になると小説を書けない時期が続いた
京都へ移った村司さんは企業へ就職し、会社員として働き始めました。
勤務先の企業名や具体的な職種は公表されていませんが、この時期は仕事と創作のバランスが大きく変化しています。
京都で働き始め、仕事の忙しさと文体へのこだわりで作品を完成できなくなる
就職すると仕事が忙しくなり、高校、大学と続けてきた読書や執筆の量が減っていきました。
さらに当時はミニマリズム的な文体へ傾き、どんなことでも記述できる理想的な文体を探そうとしていたといいます。
書き始めても途中で面白くなくなってやめてしまい、約10年間で純文学の賞へ応募したのは4回ほどだったそうです。
応募しても手応えを持てず、結果を確認しないことさえあり、書く量よりも文体へのこだわりや野心が大きくなっていた時期でした。
会社員時代を知る野村雅夫が覚えていた村司侑の姿
デビュー前の村司さんを実際に知っていた人物の一人が、FM COCOLOでDJを務める野村雅夫さんです。
野村さんは寒竹さんを通じて村司さんと知り合い、当時の村司さんが企業で働きながら執筆していたと記憶しています。
「口数は多くないけれど、口を開けば、独自の観点で鋭くユニークなことを話す人」
FM COCOLO
30歳で妻・寒竹泉美が先に小説家デビューする
2009年、村司さんが30歳のころ、大学の文芸部から一緒に小説を書いてきた寒竹さんが先に転機を迎えます。
寒竹さんは講談社Birthの小説部門で受賞し、『月野さんのギター』で小説家デビューしました。
村司さんは、そのときの自分について後年かなり率直に話しています。
「やさぐれちゃって、素直にお祝いできませんでした。」
好書好日
八つ当たりもしたと本人は明かしており、同じ大学の文芸部から始まった二人のうち、寒竹さんが先に商業出版へ進みました。
35歳で小説家になる夢をいったん諦めた
寒竹さんのデビューから5年後の2014年、村司さんにも応募歴の中で初めて目立った変化がありました。
ただし、この時点の本人は夢を続けるために勢いをつけていたわけではありませんでした。
退職中に「これで最後」と文學界新人賞へ応募
35歳だった村司さんは、ちょうど仕事を辞めていた時期に文學界新人賞へ作品を送りました。
応募時に決めていたのは、これを小説家になるための最後の挑戦にするということでした。
「小説家を目指すのはこれで最後」
好書好日
その作品は、それまでの応募では届かなかった3次予選まで進みました。
初の3次予選通過を知ったころにはすでに再就職していた
ところが、結果が分かったころには村司さんはすでに再就職していました。
初めて3次予選を通ったことを「このまま続ければデビューできる」という材料にはせず、当初決めていた通り、小説家になるという目標には区切りをつけました。
当時は「35歳でデビューしても」と考え、30歳を過ぎれば能力のピークも過ぎていると思い込んでいたことも後年明かしています。
小説家を目指すのをやめても、趣味として書くことはやめなかった
小説家になる夢を諦めても、村司さんは小説そのものを書かなくなったわけではありませんでした。
以後はデビューのためではなく、自分の腕を磨くための趣味として書くようになります。
目標としていた肩書きを外したあとにも、創作だけは生活の中に残りました。
一次落ちと最終候補を繰り返しながら40代も書き続けた
2014年に小説家を目指すことをやめたあとも、村司さんは作品ができると文學界新人賞へ送り続けました。
ただし、選考結果は受賞へ向かって一段ずつ上がっていったわけではありません。
2016年・2020年は一次落ち、2020年の失敗から物語の作り方を見直す
2016年と2020年に応募した作品は、いずれも一次選考を通過できませんでした。
2020年に送ったのは、ドイツやアルゼンチンを舞台にした大きな構成の作品でしたが、本人が思い描いていたようには書けなかったといいます。
ここで気づいたのが、文章そのものを考えることに意識が寄りすぎ、一つの物語として組み立てることがおろそかになっていたという点でした。
以降は文体だけでなく、作品全体を「ひとかたまりの物語」として作ることを意識するようになります。
川端康成を読み直したことが創作の転機になる
同じころ、村司さんは以前とは違う読み方で川端康成の作品に触れていました。
大学時代には引き算の多い文章を「雑」に感じていたものの、後年に『舞姫』を読み直すと、登場人物の配置や視点の運びまで細かく設計されていることに気づいたそうです。
文章の表面だけではなく、物語全体がどう作られているのかを見るようになった時期でした。
2023年「やがて消える」で初めて文學界新人賞最終候補へ
2020年の一次落ちから3年後、2023年に応募した「やがて消える」で、村司さんは初めて文學界新人賞の最終候補に入りました。
高校時代から小説を書き始め、2014年には一度小説家になる夢を諦めていましたが、応募を始めてから長い時間を経て最終選考まで進みます。
翌2024年は再び一次落ちする
最終候補に入った翌年の2024年も応募しましたが、今度は一次選考で落選しました。
最終候補の翌年に再び一次落ちという結果になり、評価は一直線には進みませんでした。
それでも次の応募作につながる題名は、この2024年にすでにSNS上へ現れていました。
「ソリティアおじさんがいた頃」で47歳前後にデビュー
2024年の一次落ちのあと、村司さんの次の作品は、物語ではなくタイトルから始まりました。
その言葉が、のちに新人賞受賞作の題名になります。
SNSで思いついたタイトルを一年ほど寝かせて小説にする
SNSで「思いついた小説のタイトルを書いてみる」というハッシュタグを目にした村司さんは、深く構想を決めないまま「ソリティアおじさんがいた頃」と投稿しました。
投稿した時点では、本当にその題名で小説を書くかどうかも決めていませんでした。
ところが一年ほど題名を忘れている間に、恋人の帰宅を料理を作って待つ海史という人物が浮かび、作品の形ができ始めます。
海史には自分自身に近い部分がありましたが、以前の作品で自分を重ねた人物を書いた際に自己憐憫のようになった経験から、今度はそこを断ち切ろうとしました。
その結果、恋人の古井瀬瑠奈の側が前へ出て、瑠奈の一人語りで物語が進む作品になりました。
妻の仕事が忙しくなり、家事を増やして自分の仕事をペースダウン
このころ、村司さんの生活にも執筆時間を増やせる変化がありました。
医学博士号を持ちサイエンスライターとして働く寒竹さんの仕事が忙しくなったため、村司さんは自分の仕事量を抑え、家事を多めに担当するようになります。
「だったらこっちが仕事量を抑えて家事を多めにやろうと。そして空いた時間は小説を書く。」
好書好日
仕事をペースダウンし、家事を担いながら空いた時間に小説を書く生活ができ、執筆へ使える時間が増えました。
寒竹さんは村司さんの作品を最初に読む、ほぼ唯一の読者でもあり、「ソリティアおじさんがいた頃」には寒竹さんの意見を取り入れた部分もあります。
最終候補を知らせる電話をセールスだと思い番号検索していた
2025年に応募した「ソリティアおじさんがいた頃」が選考を進み、村司さんのもとへ最終候補入りを知らせる電話がかかってきました。
2年前にも最終候補になっていたため連絡が来そうな時期は分かっていましたが、その前年には知らない番号からセールス電話が2度かかってきていました。
そのため今度もすぐには出ず、電話番号をインターネットで検索しているうちに着信が切れてしまいます。
その日の連絡はもうないと思って食事を始めたところ再び電話があり、今度はむせながら電話に出て、最終候補入りを知らされました。
換気扇を掃除して本を読んでいる最中に新人賞受賞の電話が届く
最終選考の日、村司さんは結果を待ちながら気持ちを落ち着けるために台所の換気扇を掃除しました。
掃除を終えると、途中まで読んでいたエマ・ストーネクスの『光を灯す男たち』を開き、その続きを読んでいました。
その最中に受賞を知らせる電話が入り、2026年3月3日の選考で、応募総数2725篇の中から「ソリティアおじさんがいた頃」が第131回文學界新人賞受賞作に決まりました。
2009年に自分より先に小説家デビューした寒竹さんは、このとき涙ぐんで受賞を喜んだといいます。
京都で過ごした20年と文化人類学が現在の小説へ
高校で小説を書き始めてから、村司さんは大学、就職、退職と再就職、40代での応募を経て新人賞へたどり着きました。
受賞作には、その長い時間の中で暮らした京都と、大学で選んだ文化人類学も具体的に入り込んでいます。
福岡出身の村司侑が京都弁の小説に初めて挑戦した理由
「ソリティアおじさんがいた頃」の主人公・瑠奈は京都弁で語ります。
村司さん自身は福岡県出身で、京都弁を母語として育ったわけではありません。
それでも京都へ移ってから約20年が過ぎ、本人は文化人類学の言葉を使って、京都で長く「参与観察」してきたのだからと考えて挑戦しました。
方言を使って小説を書いたのは「ソリティアおじさんがいた頃」が初めてでした。
若いころには海外で読まれることを考え、翻訳しやすいよう標準語で書こうとしていた時期もあったため、京都弁による一人語りは以前の書き方からの変化でもありました。
第131回文學界新人賞受賞から第175回芥川賞候補へ
受賞作は『文學界』2026年5月号に掲載され、同年7月7日には文藝春秋から単行本『ソリティアおじさんがいた頃』が刊行されました。
さらに2026年6月、同作は第175回芥川龍之介賞の候補作に選ばれました。
芥川賞の選考会は2026年7月15日に行われ、第175回の受賞作は小砂川チトさんの「ゾンビ回収婦」に決まったため、村司さんは受賞ではなく候補となっています。
「小説家」は後から認定されるものと考える現在の村司侑
新人賞を受賞し、単行本が刊行され、芥川賞候補にもなったあとも、村司さんは「小説家」という肩書きを固定した身分のようには捉えていません。
「『小説家』っていうのは後からみたら小説家やったなって認定できるもの」
好書好日
大学で学んだ文化人類学についても、自分自身を人類の長い歴史の中で考える癖につながっていると本人は話しています。
新人賞や単行本という結果が出たあとでも、本人にとって「小説家」は現在進行形で確定する肩書きではないという感覚です。
子どもの頃に本を読み、高校の物理部での出会いから自分でも小説を書き始めた村司さんは、九州大学を経て京都へ移り、会社員として働きながら創作を続けてきました。
35歳で小説家になる夢をいったん手放したあとも書くことは残り、一次落ちや最終候補を繰り返した先で「ソリティアおじさんがいた頃」が文學界新人賞受賞作になりました。
高校時代に始まった創作は、京都での約20年の生活や大学で学んだ文化人類学も取り込みながら、現在の作品へ続いています。
村司侑と似た生い立ちの人物は?
出身地・年代・人生の原点などの共通点から探せます。












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