日本代表のストライカーとして初めてワールドカップのピッチにも立った塩貝健人さんは、2005年3月26日生まれのサッカー選手です。
慶應義塾大学在学中にJ1へ出場し、19歳でオランダへ渡り、20歳ではドイツのVfLヴォルフスブルクへ進みました。
- 3歳年上の兄・亮太が先にサッカーをしており、そのプレーを見て「自分の方がいける」と思ったことが、サッカーを始めるきっかけになった。
- 高校:國學院大學久我山高校/大学:慶應義塾大学
- 現在の道につながる原点:幼少期から活動
ところが、その道のりを昔までたどると、横浜FCジュニアユースでは出番を得られない時期があり、高校1年でもCチームが主な活動場所でした。
サッカーとは別に、國學院大學久我山高校では主要科目で3年間オール5を取り、慶應義塾大学法学部政治学科へ進んでいます。
塩貝健人の生い立ちと家族|小学1年から始まったサッカー
塩貝健人さんは東京都出身で、小学1年からサッカーを始めています。
現在の得点を狙い続けるスタイルは、かなり早い時期からその一端が見えていました。
東京都出身、小学生時代はバディSC江東と大森FCでプレー
JFAに残る所属歴では、小学生年代にバディサッカークラブ江東でプレーし、途中で大森FCを経験したあと、再びバディSC江東へ所属しています。
当時を知るバディSC江東の高橋健コーチは、まだ小学生だった塩貝さんについて、ゴールへの意識が強く、シュートを打てる隙があれば狙っていたと後年振り返っています。
ポジションや身体の大きさが現在と同じだったわけではありませんが、点を取りたいという行動はこのころから表れていました。
幼いころから活躍を喜び、味方であり続けた父と母
塩貝さんは大学1年のときに書いた慶應義塾体育会ソッカー部の公式ブログで、幼いころから応援してくれた人たちの中でも、特に父親と母親への感謝を書いています。
父母は、本人の活躍を誰よりも喜び、どんな時期にも味方であり続けてくれた存在だったといいます。
後に中学、高校と出場機会に恵まれない時期を経験することになりますが、本人の記憶の中では、家庭は結果が出たときだけ応援する場所ではありませんでした。
兄・亮太が明かした父母の姿|父は外資系投資銀行に15年勤務
塩貝家には健人さんの3歳上の兄・塩貝亮太さんがおり、亮太さんもサッカーを続け、のちに慶應義塾体育会ソッカー部へ進みました。
亮太さんは慶應公式ブログで父親について、外資系投資銀行で15年間働いていたと明かしています。
ただし、ネット上で名前が挙がる特定の金融機関について、亮太さんの文章では企業名までは記されていません。
そのブログでは、父親がサッカー未経験から競技について勉強し、亮太さんの練習に付き合ったり、試合を撮影して一緒に見直したりしていた少年時代も紹介されています。
母親についても、亮太さんは食事や洗濯、送迎、試合の応援などを振り返り、自身の身体の強さやスピードにはテニスを続ける母親の影響もあるのではないかと書いています。
これらは亮太さん自身が体験した家族の記憶であり、健人さんにもまったく同じ練習や送迎が行われていたと置き換えることはできませんが、兄弟が育った家庭で父母がスポーツに関わっていた様子は伝わってきます。
横浜FCジュニアユース時代|出番を待ち続け、ユース昇格を逃す
小学生年代を終えると、塩貝さんは横浜FCジュニアユースへ進みました。
プロクラブの育成組織へ入った一方で、中学時代は公式戦で中心選手として出続けていたわけではありません。
大量リードの試合で自分だけ最後まで呼ばれなかった
本人が大学進学後も鮮明に覚えていたのが、ジュニアユース時代のクラブユース関東予選での出来事です。
チームは得点を重ね、ベンチの選手たちにも次々と交代の声が掛かりましたが、早い時間からアップを始めていた塩貝さんには最後まで出番が来ませんでした。
「コート脇で半泣きになりながらステップをしていた」
慶應義塾体育会ソッカー部「負けず嫌い」
大差がついた試合でベンチのほかの選手が出ていくなか、自分だけがピッチへ入れなかった場面を、何年もたってから自分の文章に残しています。
中学3年でも2年生チームでプレーしていた
高校卒業を控えた時期のインタビューでは、中学3年生になっても2年生チームでプレーしていたことを本人が明かしています。
当時の横浜FCアカデミー関係者によると、中学卒業時の身長は160cm台で、身体の大きな相手へドリブルで向かっては、はね返される場面もありました。
それでも相手が大きいからプレーを変えるというより、何度もボールを運ぼうとしていた姿が記憶に残っているといいます。
そして中学卒業時、横浜FCユースへの昇格はかないませんでした。
「サッカーも勉強も一番」を目指して國學院久我山へ
高校進学で選んだのは、東京都杉並区にある國學院大學久我山高校でした。
本人は当時、サッカーだけに絞るのではなく、勉強でも競技でも上を目指したいと考えて進路を選んでいます。
横浜FCのユースチームへそのまま上がる道が途切れたところから、学校の部活動という新しい環境へ移りました。
塩貝健人さんは東京都出身で、小学1年からサッカーを始めています。
國學院久我山にはスポーツ推薦で入学しましたが、ここでも最初からトップチームへ入ったわけではありません。
高校最後の全国選手権は、後に大会を制する岡山学芸館との3回戦でPK戦にもつれました。
サッカーで全国大会まで進んだ高校生活の一方、進学先を決めるうえでは学業も大きな要素でした。
JFAに残る所属歴では、小学生年代にバディサッカークラブ江東でプレーし、途中で大森FCを経験したあと、再びバディSC江東へ所属しています。
國學院久我山高校時代|Cチームから日本高校選抜まで
國學院久我山にはスポーツ推薦で入学しましたが、ここでも最初からトップチームへ入ったわけではありません。
むしろ高校1年のころは、ジュニアユース時代とは別の形で再びチーム内の競争を追う側に回りました。
スポーツ推薦で入学しても高1はCチームだった
高校1年時の主な活動場所はCチームでした。
本人によれば、周囲の選手が上のカテゴリーへ進んでいくなかで自分はCチームに残り、監督から名前ではなくビブスの番号で呼ばれることまであったといいます。
スポーツ推薦で入ったという事実だけを見ると順調なスタートにも見えますが、高校でも最初に与えられた立場はトップチームから離れた場所でした。
坂道ダッシュを始め、YouTubeと論文で走り方を研究
Cチームに残った高1のころ、塩貝さんが改善しようとしたものの一つがスピードでした。
自分より先にカテゴリーを上げていく選手たちを見て、足を速くしようと考え、坂道を使ったダッシュを始めています。
さらに、キリアン・エンバペら足の速い選手の走りをYouTubeで見るだけでなく、走り方に関する論文まで読んでフォームを調べていました。
中学卒業時には160cm台だった身体も成長し、元指導者が高校3年で再会したときには約180cmまで伸び、高校2年ごろからフィジカル面でも周囲に追いつき始めたと振り返られています。
高3で背番号10、東京都大会8得点から全国選手権へ
高校3年になると立場は大きく変わり、國學院久我山で背番号10をつけて前線を担いました。
全国高校サッカー選手権の東京都大会では8得点を記録し、チームは全国大会への出場権を獲得します。
全国大会ではキャプテンとして出場し、2回戦の近大和歌山戦で前半42分にゴールを決め、JFAの大会記録では2試合160分出場、1得点を残しました。
高1でCチームだった選手が、高3では全国大会で10番を背負うところまで上がっていました。
選手権のPK失敗を抱えたまま日本高校選抜へ進んだ
高校最後の全国選手権は、後に大会を制する岡山学芸館との3回戦でPK戦にもつれました。
塩貝さんのキックは相手GKに止められ、國學院久我山はここで大会を終えています。
卒業直前の取材でも、そのPKを繰り返し思い出すことがあり、練習へ向かう材料にしていることを本人は話していました。
その後は大会優秀選手に選ばれ、日本高校サッカー選抜へ進みます。
高校選抜では横浜F・マリノスユースとの試合で途中出場し、試合終盤に同点ゴールも決めましたが、本人が口にしたのはゴールの喜びだけではなく、勝てなかったことや、もう1点取れたという悔しさでした。
高校3年間は主要科目オール5|慶應法学部を選んだ進路
サッカーで全国大会まで進んだ高校生活の一方、進学先を決めるうえでは学業も大きな要素でした。
國學院久我山での学校成績には、競技とは別の結果が残っています。
AO入試で慶應義塾大学法学部政治学科に合格
高校3年間、塩貝さんは主要科目でオール5を維持していました。
進学先は慶應義塾大学法学部政治学科で、当時の報道ではAO入試による合格とされています。
本人は、けがをしたりサッカーで結果を残せなかったりする可能性も考えたうえで、学業面でも難しい環境へ進むことを選びました。
「慶應だから頭がいい」という結果だけではなく、高校時代から競技と学校成績を並行していたことが進路の前提にありました。
「1年目から3部で無双」と関東3部の慶應を選んだ
当時の慶應義塾体育会ソッカー部は、関東大学サッカーリーグ3部で新シーズンを迎える状況でした。
高校選手権や日本高校選抜を経た選手にとって、より上位カテゴリーの大学を選ぶ道も考えられるなか、本人は環境のカテゴリーそのものを理由に慶應を外しませんでした。
「1年目から3部で無双すればいい。」
日刊スポーツ
卒業前にはJ1クラブの練習にも参加しましたが、高校選手権を終えて自信を持っていた時期にもかかわらず、本人はそこでほとんど何もできなかったと感じ、大学1年の夏にもう一度挑戦しようと考えていました。
慶應義塾大学1年|10番を背負い、兄と同じピッチへ
2023年4月、塩貝さんは慶應義塾大学へ進学し、体育会ソッカー部で大学サッカーを始めました。
高校までとは違い、大学では入学直後からトップチームの試合へ絡んでいきます。
1年生から10番、守備やサボり癖も指摘された
大学1年で与えられた背番号は10番でした。
4月29日の東京農業大学戦では2得点を挙げるなど早い時期からゴールを記録しましたが、本人の公式ブログには、監督やコーチ、先輩から守備の苦手さや「サボり癖」を繰り返し指摘されていたことも書かれています。
得点だけを評価されていたわけではなく、大学ではそれまでとは別の課題を修正しながら試合へ出ていました。
兄・亮太と早慶戦に先発し、公式戦では兄の決勝点をアシスト
慶應にはすでに4年生となっていた兄・亮太さんがおり、2023年7月7日の早慶サッカー定期戦では兄弟がそろって先発しました。
慶應公式の試合記録にも前線からプレスをかける「塩貝兄弟」として登場し、健人さんはクロスバーを叩くシュートや、オフサイドとなった得点場面も作っています。
7月30日の城西大学戦では、健人さんのパスを受けた亮太さんが後半6分に決勝点を決め、公式記録には「塩貝亮太(塩貝健人)」と兄弟の名前が並びました。
「まだチームメイトであり、得点王を競うライバルであり、兄貴です。」
慶應義塾体育会ソッカー部「誓い」
15得点で3部得点王、新人賞とベストイレブンも受賞
入学1年目の2023年、関東大学サッカーリーグ3部で塩貝さんが記録したのは15得点でした。
3部得点王となり、新人賞とベストイレブンにも選出されています。
高校卒業前に口にしていた「3部で結果を出す」という進路は、大学最初のシーズンから数字として表れました。
同じ年にはU-19日本代表やU-18日本代表にも選ばれ、大学リーグの外でも年代別代表の活動が始まっています。
横浜F・マリノスでJ1へ|大学在学中に公式戦デビュー
大学1年のシーズンを終えると、進路は大学卒業後まで先に決まりました。
高校選抜時代にも対戦していた横浜F・マリノスが加入先になります。
大学1年で2027年シーズンの加入内定が決まった
2024年1月、横浜F・マリノスは、当時大学1年だった塩貝さんが2027年シーズンから加入することを発表しました。
同時期にJFA・Jリーグ特別指定選手にも認定され、大学へ籍を置いたままJリーグの公式戦へ出場できるようになります。
「一刻でも早くJ1リーグ得点王を取れるように精進していきたい」
横浜F・マリノス
大学卒業後の2027年という未来の所属先まで決まった状態で、2024年のシーズンが始まりました。
特別指定選手としてJ1に出場し、初先発で初ゴール
J1デビューは2024年4月10日のガンバ大阪戦で、19歳になったばかりの塩貝さんは後半途中からピッチへ入りました。
その3日後、湘南ベルマーレ戦でJ1初先発を果たします。
前半21分、水沼宏太さんが右から送ったクロスに入り込み、先発デビュー戦でJ1初ゴールを決めました。
マリノス加入内定を解除してNECへ|19歳で選んだ欧州
2024年夏になると、すでに決まっていた2027年の予定をそのまま待つのとは別の選択肢が現れます。
オランダ1部のN.E.C.ナイメヘンから話が届き、慶應の中町公祐監督とは約2週間、ほぼ毎日のように進路について話し合ったと後に明かされています。
2024年8月、2027年加入内定と特別指定を解除
8月28日、NECは当時19歳の塩貝さんを獲得したことを発表しました。
その直後の8月31日、横浜F・マリノスから特別指定選手の認定解除と2027年シーズン加入内定の解除が正式に発表されます。
マリノスではこの時点までにJ1で7試合1得点を記録していました。
3年後の加入先まで決まっていた状態から、その予定を途中で変えて直接欧州へ進むことになりました。
慶應2年でNECナイメヘンへ移籍
NECとは2028年夏までの4年契約を結び、慶應義塾大学法学部政治学科2年の時期にオランダでの生活を始めました。
大学の休学について伝える報道もありますが、移籍発表時の慶應公式情報では「法学部政治学科2年」とされており、ここでは在学中の海外移籍という事実までを押さえます。
「この度、海外挑戦する決断をいたしました。」
慶應義塾体育会ソッカー部
途中出場から得点を重ね、ヴォルフスブルク移籍をつかんだ
オランダでの公式戦初ゴールは、加入から約2カ月後の2024年10月29日に行われた国内カップのPECズウォレ戦でした。
後半途中から入り、2-2で迎えた延長前半に右サイドからゴールを決め、NECで最初の得点を記録しています。
リーグでも途中出場から得点する形が増え、ヴォルフスブルクへ移るまでの約1年半で、NEC公式による通算成績は42試合14得点となりました。
そのうちエールディヴィジで挙げた11得点はすべて途中出場からで、先発時には得点せずに途中出場だけでリーグ11得点という珍しい記録も残しています。
2025年夏にはオーストリアのレッドブル・ザルツブルクへの移籍が進みましたが、メディカルチェックで負傷が確認され、移籍は成立せずNECへ戻りました。
そのシーズンも得点を重ね、2026年1月にはドイツのVfLヴォルフスブルクへの完全移籍が決まりました。
ヴォルフスブルクと日本代表へ|20歳でドイツ、21歳で初W杯
NECへ渡ってから約1年半で、塩貝さんの所属リーグはオランダからドイツへ変わりました。
同じ2026年には、クラブだけでなく日本代表でも大きな変化が続きます。
2026年1月にヴォルフスブルクと2030年までの契約
2026年1月20日、ヴォルフスブルクはNECから塩貝さんを獲得したことを正式発表しました。
契約期間は2030年6月30日までで、背番号は7です。
中学卒業時には身体の大きな選手にはね返され、高1では走り方を調べていた選手が、20歳で欧州主要リーグのクラブと長期契約を結ぶところまで進みました。
さらに2026年3月、SAMURAI BLUEへ初招集され、スコットランド代表との試合でA代表デビューを果たします。
初のワールドカップを経て、2026-27シーズンはドイツ2部へ
5月にはFIFAワールドカップ2026の日本代表メンバーに入り、21歳で初めて世界大会へ向かいました。
6月14日のグループステージ・オランダ代表戦では、2-2で迎えた後半39分に上田綺世さんとの交代で入り、ワールドカップ初出場を記録しました。
大会で実際にピッチへ立ったのはこの試合となり、日本はその後ラウンド32でブラジル代表に敗れて大会を終えています。
一方のヴォルフスブルクは2025-26シーズン終了後の入れ替え戦で敗れ、長く在籍していたドイツ1部から降格しました。
そのため、2026-27シーズン現在はドイツ2部の2. Bundesligaで戦っており、塩貝さんも背番号7でトップチームに登録されています。
日本代表入りだけを切り取れば急に現れた若手にも見えますが、その前には出場できなかった中学時代、Cチームから始まった高校生活、大学3部、J1、オランダと、環境が何度も変わっています。
小学1年で始めたサッカーは、出番を得られない時期や進路の変更を挟みながら、大学在学中の欧州挑戦へ続きました。
高校と慶應で環境を変えながら得点を重ね、20歳でドイツへ渡っています。
2026年には初めて日本代表としてワールドカップのピッチにも立ち、現在はヴォルフスブルクで次のシーズンを戦っています。
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