市原吏音の生い立ちと家族|父・兄の影響、浦和北高校から大宮・AZへ進むまで

市原吏音
ひと目でわかるプロフィール 市原吏音
いちはらりおん
出身地
埼玉県
生まれ年代
2000年代生まれ
活動ジャンル
サッカー選手
性別
男性
家庭環境
両親と育った
育った家庭
父・母・2歳上の兄がいる4人家族。父と兄もサッカー経験者で、本人は『サッカー一家』と語っている。
きょうだい構成
2人きょうだい・本人は2番目
キャリアの原点
2歳上の兄・市原未藍がサッカーをしていたことが、競技を始めた直接のきっかけになった。
人生の転機
大学進学も考えていたが、トップチームで試合に出た経験からプロでやれる自信を持ち、「日本代表にはこっちの方が近い」と考えて大宮のトップ昇格を選ん…

オランダ1部のAZアルクマールでプレーする市原吏音さんは、2005年7月7日生まれのセンターバックです。

2026年8月現在は21歳で、AZのトップチームでは背番号31を着けています。

市原吏音さんを理解する3つのポイント
  1. 幼いころから家にボールがあり、兄と父の影響で3〜5歳ごろにはすでにボールに触れていた。
  2. 2歳上の兄・市原未藍がサッカーをしていたことが、競技を始めた直接のきっかけになった。
  3. 大学進学も考えていたが、トップチームで試合に出た経験からプロでやれる自信を持ち、「日本代表にはこっちの方が近い」と考えて大宮のトップ昇格を選んだ。

年代別日本代表ではキャプテンを任されてきましたが、その始まりをたどると、兄の練習について行ってボールを蹴っていた幼いころまでさかのぼります。

父はサッカー経験のある体育教師で、2歳上の兄も大宮のアカデミーでプレーし、市原さん自身は小学生のときに大宮のセレクションへ挑んで一度落選していました。

高校ではアカデミーの最高学年としてプレーする一方、学校の成績で学年1位になった時期もあり、18歳になると高校へ通いながらJリーグのピッチに立つ生活が始まります。

市原吏音さんの公式Instagram投稿を見る

市原吏音の生い立ちと家族|兄を追ってボールを蹴った幼少期

市原吏音さんは埼玉県さいたま市で生まれ、幼いころから家の中にサッカーボールがある環境で育りました。

本人の記憶では3歳、4歳、5歳ごろにはすでにボールに触れており、小学校へ上がる前からサッカーのある生活が始まっていました。

父は体育教師でサッカー指導者|兄・未藍を追って始めたサッカー

父は大学までサッカーを続け、その後は体育教師としてサッカー部の指導にも携わってきました。

2歳上の兄・市原未藍さんもサッカーをしており、市原さんが最初にボールを追いかけた理由は、その兄の存在でした。

兄が通っていた大宮流星サッカースポーツ少年団の練習へ小学校入学前から参加させてもらい、そのまま自然に自分もサッカーを続けるようになります。

父自身が指導者であっても、市原さんのプレーへ細かく口を出すことはなかったと本人は話しており、母も本人の選択を見守っていました。

両親はともに教師でしたが、勉強についても細かな指示を出すのではなく、最後は自分で判断するよう促していたそうです。

大宮流星SSSではFWからGKまで|食が細かった少年を母が支えた

大宮流星SSSでは、現在のセンターバックの姿からは少し意外なほど、さまざまなポジションを経験しています。

フォワードでは背番号11を着け、コーナーキックを蹴ることもあり、ゴールキーパーまで本人がやりたいポジションを経験させてもらいました。

当時好きだった海外クラブはバルセロナで、カルレス・プジョルやジェラール・ピケ、ハビエル・マスチェラーノ、セルヒオ・ブスケツらのプレーを見ていました。

一方、家で母を悩ませていたのが食事でした。

小学生のころはチームでもかなり食が細いほうで、食べ切れずに泣きながら食事をすることもあったといいます。

母は毎日の食事を用意し、少しでも食べられるように工夫を続けました。

ピッチではFWからGKまで動き回り、家では食事を食べ切ることに苦戦していたのが、小学生時代の市原さんでした。

小3でセレクションに落選、小4で大宮アカデミーへ入った

自宅から大宮の練習場までは、自転車で2〜3分ほどの距離だったといいます。

NACK5スタジアム大宮にも幼いころから足を運び、大宮アルディージャはプロになる前から生活圏の中にあるクラブでした。

小学3年生になると大宮のU12セレクションを受けましたが、最終選考で一度不合格になっています。

翌年も挑戦し、小学4年生で合格しました。

アカデミー加入後のオリエンテーションでは、プロサッカー選手になる難しさを説明されましたが、その話を聞いた市原さんは逆に気持ちを強くしたそうです。

「『プロになりたい』と思った瞬間でした」

サカママ

練習では、ただ味方へパスを通すだけでなく、どちらの足へ、どの程度の強さで出すのかまで考えるよう求められました。

小学生のころから「考えてプレーする」習慣を身につけながら、U12からU15へと進んでいきます。

家族情報

公開情報で確認できている家族について、続柄・職業・補足・出典を整理しています。

父 体育教師・サッカー部顧問

本人が父は大学までサッカーを続け、体育教師としてサッカー部顧問を務めていると説明。

本人・家族本人の発言 出典を見る
母 学校教師

両親とも学校教師と報道。氏名等の非公表情報は登録しない。

信頼できる媒体 出典を見る
兄 市原未藍 サッカー選手経験

2歳上。大宮アカデミー出身で、本人がサッカーを始めたきっかけ。

公式情報 出典を見る

市原吏音の中学時代|ボランチ転向からU-15日本代表候補へ

大宮アルディージャU15へ進んだ中学年代では、現在とは違うポジションで過ごす時間が増えていきます。

そこで指導者から求められたのは、センターバックの後方だけでプレーせず、より多くの方向から相手の圧力を受ける場所へ出ることでした。

センターバックで「楽をする癖」を指摘され、走るボランチへ

中学時代の市原さんは、センターバックとボランチを半分ずつほど経験しています。

本人は当初、前後左右を確認し続けなければならず、運動量も求められるボランチをあまり好んでいませんでした。

当時のコーチは、後方では余裕を持ってプレーできる市原さんに、もっと難しい環境で挑戦するよう促しました。

ボランチでは背後からも相手が来るため、ボールを受ける前に周囲を確認し、次のプレーを早く決めなければなりません。

中盤で360度を見ながらプレーした時間は、その後センターバックへ戻ってからのボールの持ち方や視野にも残りました。

県トレセン経験なしから中3の12月にU-15日本代表候補へ追加招集

クラブでは試合に出ていたものの、中学1年、中学2年と年代別日本代表へ呼ばれることはありませんでした。

埼玉県トレセンやナショナルトレセンの経験もなく、周囲に代表クラスの選手がいるなかで、自分に何が足りないのかを考えていた時期もあったといいます。

流れが変わったのは中学3年生だった2020年12月でした。

U-15日本代表候補キャンプに参加予定だった選手がけがをしたことで、市原さんに追加招集の連絡が届きます。

県トレセンを経験しないまま、U-15日本代表候補へ直接呼ばれる形になりました。

JFAも2020年12月1日、大宮アルディージャU15所属のDF市原吏音さんを追加招集すると正式に発表しています。

初めて参加した代表活動では、本人が手応えを感じる時間を過ごし、翌年から大宮U18へ進みました。

人生年表 市原吏音さんの歩み
幼少期
市原吏音の生い立ちと家族|兄を追ってボールを蹴った幼少期

市原吏音さんは埼玉県さいたま市で生まれ、幼いころから家の中にサッカーボールがある環境で育りました。

中学校
市原吏音の中学時代|ボランチ転向からU-15日本代表候補へ

大宮アルディージャU15へ進んだ中学年代では、現在とは違うポジションで過ごす時間が増えていきます。

高校
市原吏音の出身高校は浦和北高校|学年1位と大宮U18を両立

高校へ進学すると、学校生活と大宮U18での活動が同時に進むようになります。

高校
高校1年からU18の上級カテゴリーへ|学校では一時学年1位

大宮U18へ昇格した高校1年生の時点から、高円宮杯JFA U-18プレミアリーグでスタメンに入る機会を得ました。

市原吏音の出身高校は浦和北高校|学年1位と大宮U18を両立

高校へ進学すると、学校生活と大宮U18での活動が同時に進むようになります。

市原さんの出身高校は埼玉県立浦和北高校で、埼玉県スポーツ協会の2023年度表彰資料にも同校の生徒として名前が記載されています。

高校1年からU18の上級カテゴリーへ|学校では一時学年1位

大宮U18へ昇格した高校1年生の時点から、高円宮杯JFA U-18プレミアリーグでスタメンに入る機会を得ました。

高校年代でもセンターバックだけに固定されていたわけではなく、チーム事情によってボランチへ入る時期もありました。

サッカーでは一学年上の選手たちと全国最高峰のリーグを戦う一方、学校では勉強も続けています。

2023年のクラブ公式インタビューで高校時代の成績を尋ねられると、市原さんは短く答えています。

「はい、一学期は学年1位でした」

RB大宮アルディージャ公式サイト

大宮U18でプレーしながら、一時は浦和北高校で学年1位という高校生活を送っていました。

両親から「勉強しなさい」と言われていたわけではなく、本人は先に課題を済ませ、後で楽をするような進め方を子どものころからしていたそうです。

学校行事では団長役|歴史と英語が好きだった高校生活

学校では静かに過ごすタイプではなく、行事にも参加していました。

浦和北高校では生徒が4つの「団」に分かれる行事があり、市原さんはそのうち1つの団のリーダーを担当しています。

高校3年だった2023年には文化祭が9月9日に予定されていましたが、翌日の10日にはJ2のジュビロ磐田戦があり、トップチームに帯同すれば学校行事へ出られない状況でした。

好きな教科として挙げていたのは歴史と英語です。

英語は試験のためだけではなく、外国籍選手と実際に話すためにも使っており、新幹線で隣になった外国籍選手へ英語で話しかけることもありました。

トップチームで試合に出るようになったあとも学校との関係は続き、担任の先生がNACK5スタジアム大宮へ試合を見に来たこともあります。

高校3年でU18主将|トップチームの試合へ呼ばれる日々が始まった

高校3年になると大宮U18のキャプテンを任され、プレミアリーグでは背番号4を着けて最終ラインに入りました。

2023年6月には2種登録され、高校生のままトップチームの公式戦へ出場できる立場になります。

7月の天皇杯・セレッソ大阪戦を前に、U18の森田浩史監督から先発の可能性があることを伝えられたのは、試合のわずか3日ほど前でした。

そこからトップチームの練習へ参加したのは約2日で、本番では浦上仁騎選手、大森理生選手らと3バックを組み、ゴールにはベテランの南雄太選手が入りました。

南選手からは試合中も声をかけてもらいながら、市原さんはトップチームのピッチでプレーを続けました。

この試合で18歳5日のトップチームデビューを果たし、当時のクラブ史上最年少記録となりました。

最初のボールタッチがなかなか来ず、本人はプレーへ入るために走り続けていたと後に話しています。

数日前までU18で過ごしていた高校生が、トップ練習をほとんど経験しないまま公式戦の先発へ入ったのが最初の一歩でした。

大学進学も考えた進路から18歳でトップデビューへ

天皇杯のあと、市原さんはJ2リーグでも出場機会を得るようになり、2023年シーズン後半のリーグ戦17試合すべてに先発フル出場しました。

一方で高校卒業後の進路については、最初からプロ一本に決めていたわけではありません。

大学へ進む案も具体的に考え、進学する場合には4年間をそのまま過ごすのではなく、2〜3年ほどで必要な単位を取りながら身体を鍛え、その先へ進む構想まで持っていました。

半年間Jリーグで試合を経験したことで、プロの世界で続けていける感触も得ていました。

「『プロに行かせてください』とトップチームに上がることを決めました」

footballista

両親は大学とプロのどちらを選んでも背中を押すと伝え、大学側の先生からもプロを勧められたといいます。

こうして2023年の高校生活を終え、市原さんは大宮でプロとして続ける道を選びました。

市原吏音が高校卒業後にプロへ|19歳で大宮の副主将になった

2024年1月2日、大宮は市原さんのトップチーム昇格を正式に発表しました。

高校時代の出場時間ですでに条件を満たしていたため、プロ生活はプロA契約から始まります。

市原吏音さんの公式Instagram投稿を見る

2024年にプロA契約|大学進学より大宮トップチームを選んだ

市原さんが高校卒業後に進んだのは大学ではなく、大宮アルディージャのトップチームでした。

筑波大学へ進学した経歴はなく、2024年は背番号4のプロサッカー選手としてシーズンを迎えています。

進路を決める際には複数の選択肢があり、本人もかなり迷ったと話しています。

最終的には、センターバックとして試合に出ることと、できるだけ早く日本代表へ近づくことを考え、大宮に残りました。

高校卒業時点ですでにJ2で17試合を経験した状態から、プロ1年目へ入ったことになります。

18歳で副主将を任されJ3優勝|ベストイレブンにも選出

2024年2月18日には、さらに大きな役割が発表されました。

プロ1年目でまだ18歳だった市原さんが、石川俊輝選手をキャプテンとするチームの副キャプテンに選ばれたのです。

高校を卒業する前の18歳で、プロチームの副主将を任されました。

前年にJ3へ降格した大宮は、1年でJ2へ戻ることを目指すシーズンに入っていました。

市原さんはリーグ戦31試合に出場して4得点を記録し、大宮はJ3優勝とJ2昇格を決めます。

シーズン終了後には2024 J3リーグアウォーズのベストイレブンにも選ばれました。

プロ1年目は副主将として始まり、チームのJ3優勝と個人のベストイレブンで終わりました。

J2へ戻った2025年、年代別日本代表でも主将を任される

2025年、大宮はJ2へ戻り、市原さんは20歳になるシーズンも副キャプテンを務めました。

このころスマートフォンには、これまで指導者からかけられた言葉や、試合当日の自分へ向けたメモを書きためていました。

本人はそのメモを「明日への手紙」のようなものと表現し、試合のたびに読み返しているため、内容は少しずつ長くなっていると話しています。

クラブで副主将を務めながら、年代別日本代表でもキャプテンマークを巻くようになりました。

2025年2月のAFC U20アジアカップでは、日本がU-20ワールドカップの出場権を懸けてイランとの準々決勝へ進みます。

120分を1-1で終えた試合はPK戦に入り、市原さんはキャプテンとしてコイントスを行い、最後の5人目のキッカーも担当しました。

日本はPK戦を4-3で制し、世界大会への出場権を獲得しています。

「僕が蹴りますよ」

RB大宮アルディージャ公式サイト

クラブでは副主将、代表では主将という立場を同時に担うシーズンになりました。

市原吏音が日本代表世代の主将からAZへ|オランダ挑戦まで

2025年後半から2026年初めにかけて、市原さんの活動範囲は大宮から年代別日本代表、そして海外へ広がっていきます。

高校時代から口にしていた海外挑戦が、具体的な進路として近づいていきました。

U-20W杯ではキャプテン|チリ戦で見せたパネンカ

2025年9月、チリで開催されたFIFA U-20ワールドカップに、市原さんは日本代表のキャプテンとして出場しました。

初戦のエジプト戦ではPKを決めて先制し、日本は2-0で勝利します。

続く開催国チリ戦は4万人を超える観客が集まる完全アウェーの環境となりました。

前半に日本が得た最初のPKは高岡伶颯選手が蹴って止められましたが、後半に再びPKを得ると、今度は市原さんがボールをセットします。

相手GKが先に動くと読んだ市原さんは、ゴール中央へボールを浮かせるパネンカを選びました。

開催国の大観衆を前に、センターバックの主将がパネンカで先制点を決めました。

日本は2-0でチリを破り、市原さんは初戦に続いて2試合連続でゴールを記録しました。

2試合連続でプレーヤー・オブ・ザ・マッチにも選ばれ、日本は早い段階で決勝トーナメント進出を決めています。

その後、日本はラウンド16でフランスと延長戦まで戦い、0-1で大会を終えました。

U-23アジア杯優勝を経て2026年1月にAZへ完全移籍

年が明けた2026年1月、市原さんはAFC U23アジアカップへ出場しました。

大会では再びキャプテンを務め、日本は1月24日の決勝で中国と対戦します。

市原さんはセンターバックで先発し、日本は前半に2点、後半にも2点を加えて4-0で勝利しました。

年代別日本代表の主将としてU23アジアカップ優勝を経験しました。

その1週間後の2026年1月31日、RB大宮アルディージャは市原さんがオランダ1部のAZへ完全移籍すると発表しました。

AZとの契約期間は2031年夏までです。

大宮では2023年にJ2で17試合、2024年にJ3で31試合、2025年にJ2で29試合へ出場し、リーグ戦だけで77試合を経験してから日本を離れました。

小学生から約15年間過ごした大宮を離れ、20歳で初めて海外クラブへ移ることになりました。

「大宮の街に生まれ、大宮の街で育ち」

RB大宮アルディージャ公式サイト

移籍時の長文コメントでは、兄の背中を追って6歳でスクール生となり、10歳からアカデミーへ入ったことにも触れています。

https://twitter.com/Ardija_Official/status/2017495305005240647

子どものころから身近だった大宮を離れ、オランダでA代表を目指す現在

AZは市原さんを、ボールを扱える右利きのセンターバックとして獲得しました。

加入当初は背番号18と発表されましたが、2026-27シーズンのAZ公式トップチーム登録では背番号31となっています。

2026年3月22日のFCフローニンゲン戦では、82分から途中出場しました。

これがAZトップチームでの公式戦デビューとなり、日本でプロデビューしてから約2年8か月後にエールディビジのピッチへ立ちました。

高校3年だった2023年には、A代表へ入るために海外でプレーする必要があるという考えをすでに口にしていました。

そのころは浦和北高校へ通いながら大宮の試合に出ていた選手が、2026年にはアルクマールでトップチームのポジションを争っています。

オランダのスタンドを訪れた両親|成人後も続く家族とのサッカー

2026年8月10日、市原さんはAZのリザーブチームであるヨングAZの一員として、オランダ2部のFCアイントホーフェン戦へフル出場しました。

0-0で迎えた後半、味方GKがボールを奪われてゴールが空くピンチになると、市原さんは離れた位置からゴールラインまで戻ります。

相手がシュートする直前まであえてコースを残し、最後にスライディングへ入ってボールをブロックしました。

この試合をスタンドで見ていたのが父・雄心さんと母でした。

父の雄心さんは2026年時点で埼玉県の叡明高校サッカー部監督を務めており、試合後には息子のゴールライン上でのブロックを評価しながら、空中戦で競り負けた場面についても細かく見ていました。

隣で聞いていた母が「でも初戦だからね」と言うと、その場には笑いが起きたと現地取材で伝えられています。

小学生のころ食事を支えていた母と、サッカー指導者でありながらプレーへ口を出しすぎなかった父は、息子が21歳になった夏にはオランダのスタンドにいました。

兄を追ってボールを蹴り始め、小学3年のセレクション落選を経て、大宮のアカデミーで長い時間を過ごした市原吏音さん。

高校生でJリーグへ入り、クラブと年代別日本代表でキャプテンを担う時期を経て、2026年には生活の中心だった大宮を離れてオランダへ渡りました。

21歳になった現在はAZでプレーを続けながら、子どものころから口にしてきたA代表とワールドカップを次の目標にしています。

参考・出典 この記事で参照した主な資料
正本DB確認日:2026-09-15

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