浜川路己の生い立ちと家族|姉の影響で始めたダンス、韓国練習生からROIROMデビューまで

浜川路己
ひと目でわかるプロフィール 浜川路己
はまがわろい
出身地
沖縄県
生まれ年代
2000年代生まれ
活動ジャンル
男性アイドル
性別
男性
家庭環境
両親と育った
育った家庭
両親と5歳上の姉がいる家庭で育ち、姉が通っていたダンススクールが芸能への入口になった。
キャリアの原点
小学校高学年ごろ、5歳上の姉が通っていたダンススクールで声をかけられ、ダンスを始めた。

ROIROM(ロイロム)のROIとして、本多大夢さんと2人で活動している浜川路己さん。

現在はダンスを大きな強みにステージへ立っていますが、その道の始まりは、沖縄で過ごしていた小学生のころまでさかのぼります。

浜川路己さんを理解する3つのポイント
  1. 幼少期は姉と一緒に遊び、家では食べ物を家族でシェアするような家庭環境で育った。
  2. 小学校高学年ごろ、5歳上の姉が通っていたダンススクールで声をかけられ、ダンスを始めた。
  3. 現在の道につながる原点:スカウト

子どものころは丸坊主でぽっちゃりしており、毎週のように空港へ飛行機を見に行って、将来はパイロットになりたいと思っていました。

姉のダンススクールへの送迎について行ったことが、自分も歌やダンスへ進む入口になりました。

浜川路己の生い立ちと家族|沖縄本島と宮古島で育った子ども時代

浜川路己さんは2006年1月3日生まれ、沖縄県出身です。

幼いころを振り返った本人の話には、両親、5歳上の姉、そして夏休みに会う宮古島の祖父母やいとこたちが何度も登場します。

名前に込められた「自分の道」と、丸坊主でぽっちゃりしていた幼少期

生まれたばかりのころは、母親が泣くたびにミルクを飲ませていたこともあり、医師から注意されるほどの「ビッグベイビー」だったそうです。

その後も12歳くらいまではぽっちゃりした体形で、髪形は丸坊主でした。

「路己」という名前には、「自分の道を進んでほしい」という思いが込められています。

さらに曽祖父の名前は「寛路」で、母親も後から同じ「路」の字が入っていることに気づいたといい、本人も自分の名前を気に入っていると話しています。

幼いころには「あのさー、うんとさー」と話しかけてきたものの、そのまま何も話さないことがあり、母親から後になってそのエピソードを聞いたそうです。

学校でも授業中にじっとしているのが苦手なところがありましたが、母親からは周囲に何でも合わせなくてもいいと教えられて育ちました。

両親・5歳上の姉と暮らし、夏休みは宮古島の祖父母のもとへ

浜川さんには5歳上の姉・浜川結琳さんがいて、幼いころは言い争いをしながら一緒に遊んでいた記憶が残っています。

両親には、布団の中に小さな浜川さんを入れて、ブランコのように揺らして遊んでもらったこともありました。

家では「みんなでシェアする」という考え方があり、アイスバーを買ってもらうときも姉弟で1本を分けて食べていたそうです。

姉は自分がお姉ちゃんだからと弟に多めに譲ることがあり、浜川さんが食べ進めると「ちょっと食べすぎー!」と言い合うような時間もありました。

両親は2人とも宮古島の出身で、沖縄本島で生活していた浜川さんにとって、夏休みに訪れる宮古島は祖父母やいとこたちと過ごす場所でした。

初めて宮古島の桟橋へ降りたときには、目の前に広がる海の美しさに驚いたことを今も覚えているといいます。

祖父の庭では、いとこたちと小さなトラックの荷台に乗せてもらい、そのまま海へ向かったこともありました。

「軽トラという名前のオープンカーに乗って(笑)」

VOCE

朝に祖母が食事を作っている音や、いとこたちと一緒に過ごした時間まで、宮古島の夏は浜川さんの幼少期を形づくる具体的な記憶として残っています。

毎週空港へ通い、将来の夢はパイロットだった

歌やダンスより先に憧れていた仕事は、パイロットでした。

飛行機を見ることが大好きで、家族の休みには毎週のように空港の展望デッキへ連れて行ってもらい、離着陸する飛行機を眺めていたそうです。

一方で、音楽はすでに日常の中にあり、保育園のころには車の中でマイケル・ジャクソンのCDを繰り返し聴いていました。

当時はまだ本人のことをよく知らなかったものの、「Thriller」や「Beat It」を聴いた記憶は残っています。

小学校では習字と塾に通い、スポーツよりも社会や歴史が好きで、給食に沖縄らしいマンゴーが出る日を楽しみにしていました。

家族情報

公開情報で確認できている家族について、続柄・職業・補足・出典を整理しています。

姉 ダンス経験者

5歳上。姉が通っていたダンススクールが本人のダンス開始のきっかけ。氏名は登録しない。

信頼できる媒体 出典を見る

小学校高学年|姉のアイドル活動を追いかけてダンスの世界へ

小学校高学年になるころ、家族の中で先に芸能活動へ踏み出したのは姉でした。

その活動について行くうちに、それまで見る側だった浜川さん自身にも少しずつ出番が生まれていきます。

父の送迎について行き、車内とスクールのテラスで歌っていた

姉がアイドルとして活動を始めると、父親がダンススクールまで送迎するようになり、浜川さんも「俺も行くー」と毎日のようについて行っていました。

車の中では姉が所属するグループの曲を歌い、スクールに着いてからはレッスンが終わるまで待つ時間を過ごします。

待っている間には、スクールのテラスから大通りの方へ向かって歌うこともありました。

自分から芸能事務所の扉を叩いたのではなく、姉の送迎について行く日常の中で歌っていたことから話が動き始めます。

姉の事務所から声をかけられ「ぽっちゃり枠」で活動を始める

当時はまだ丸坊主でぽっちゃりしており、ダンススクールでは親しみを込めて「おにぎり君」と呼ばれていました。

「スクールの人たちからは『おにぎり君』と呼ばれていました(笑)」

VOCE

そんな姿で歌っていた浜川さんに、姉が所属する事務所の関係者から「興味があるなら、やってみる?」と声がかかりました。

その事務所には子どもから大人まで俳優やモデルなど幅広い所属者がおり、本人は自分について「ぽっちゃり枠」だったと説明しています。

この時期について「キッズモデル」と紹介されることもありますが、本人が公に説明している内容では、具体的なモデル作品名や「キッズモデル」という肩書までは示されていません。

まず地元で芸能活動に触れ、その中で自分が夢中になれるものとしてダンスが前へ出てきました。

ダンスレッスンに夢中になり、中学生になると体づくりも始めた

小学校5年生ごろから姉のダンススクールで踊り始め、レッスンを重ねるうちに、浜川さん自身がダンスへ夢中になっていきます。

中学生になると体形も変わり、ダイエットをしながら歌とダンスに向き合う時間が増えました。

後年のインタビューでは、練習すれば少しずつ上達するダンスが、初めて「やればできる」と自信を持てたものだったと振り返っています。

「シンプルにダンスが好きだから、向き合うことが苦じゃなかったです」

CanCam.jp
人生年表 浜川路己さんの歩み
幼少期
浜川路己の生い立ちと家族|沖縄本島と宮古島で育った子ども時代

浜川路己さんは2006年1月3日生まれ、沖縄県出身です。

幼少期
名前に込められた「自分の道」と、丸坊主でぽっちゃりしていた幼少期

生まれたばかりのころは、母親が泣くたびにミルクを飲ませていたこともあり、医師から注意されるほどの「ビッグベイビー」だったそうです。

小学校
小学校高学年|姉のアイドル活動を追いかけてダンスの世界へ

小学校高学年になるころ、家族の中で先に芸能活動へ踏み出したのは姉でした。

中学校
中学時代のステージ出演をきっかけに韓国事務所から声がかかる

中学1年生ごろ、姉が沖縄で行われたバスケットボールの試合のハーフタイムショーへ出演し、浜川さんもバックダンサーとしてステージに立ちました。

高校
中学〜高校|14歳で韓国からスカウト、高校を休学して練習生生活へ

ダンスを始めたころは、本人も「芸能人になれたらいいな」くらいの感覚だったと話しています。

中学〜高校|14歳で韓国からスカウト、高校を休学して練習生生活へ

ダンスを始めたころは、本人も「芸能人になれたらいいな」くらいの感覚だったと話しています。

その意識が大きく変わったのが、中学生になって経験した韓国の芸能事務所からのスカウトでした。

中学時代のステージ出演をきっかけに韓国事務所から声がかかる

中学1年生ごろ、姉が沖縄で行われたバスケットボールの試合のハーフタイムショーへ出演し、浜川さんもバックダンサーとしてステージに立ちました。

その姿を韓国の芸能事務所の関係者が見ており、スカウトにつながったと本人は説明しています。

14歳で韓国の事務所から声をかけられたことが、芸能活動を「叶うかもしれない夢」として本気で考える転機になりました。

それまで地元で続けてきたレッスンから、活動の舞台が海外へ広がっていきます。

日本と韓国を行き来しながら歌とダンスへ打ち込む

中学時代には英検準2級を取得しており、高校受験で使えることを考えて勉強していました。

ところが本人によると、中学3年生の途中から海外へ行く生活になったため、その資格を高校受験で十分に生かす形にはならなかったそうです。

韓国の事務所へ入ってからは、歌とダンスをより本格的に学び、約2年間、日本と韓国を行き来しながら練習生として過ごしました。

海外でのレッスンやオーディションが続く一方、両親からのサポートを受けながら活動する時間も長くなっていきました。

このころは学校生活と芸能活動を同時に進めるより、歌とダンスへ比重を移す選択をしています。

高校を休学して活動を優先、3年目に韓国事務所との契約が終了

高校へ進んだあと、浜川さんは高校を休学し、歌とダンスへ打ち込む道を選びました。

父親は、高卒認定は後から取得することもできる一方で今しかできないこともあると話し、本人が後悔しない方を選べるよう背中を押していました。

そのため、この時期について「高校留年」とするより、本人が明確に語っている「高校を休学」という経歴で捉えるのが正確です。

韓国での練習生生活はそのままデビューへ直結したわけではなく、本人は後に、契約3年目で事務所との契約が解除になったと明かしています。

契約終了の具体的な理由については本人の公表発言で細かく説明されていませんが、そこで芸能活動そのものを終えることはしませんでした。

17歳|沖縄へ戻り、中国「ASIA SUPER YOUNG」へ

17歳でいったん沖縄へ戻った浜川さんは、そこで次のオーディションへ向けた時間を過ごします。

この時期に同じ環境でレッスンを重ねていたのが、後にROIROMの相方となる本多大夢さんと、タイプロにも参加する西山智樹さんでした。

本多大夢・西山智樹と沖縄でレッスンを重ねて中国へ向かう

浜川さん、本多さん、西山さんの3人は、沖縄の芸能プロダクションCAT’S EYEのレッスン環境で時間を重ね、中国のボーイズグループオーディション番組へ向かいました。

2023年8月にはCAT’S EYE公式Xでも、3人が中国のオーディション番組へ出演すると発表されています。

後年、2人が沖縄で当時の場所を訪れた際には、レッスンの合間によく立ち寄っていた那覇の「軽食の店 ルビー」も登場しました。

浜川さんはダイエット中にも選んでいたという豆腐チャンプルーを定番にしており、海外へ向かう前にも歌やダンスだけで一日が終わるわけではない、沖縄での日常がありました。

「猫眼三兄弟」として挑戦し、本多大夢とはルームメイトに

中国のオーディション番組「ASIA SUPER YOUNG」では、初回から浜川さん、本多さん、西山さんの3人でパフォーマンスを披露しました。

CAT’S EYEから参加した3人は「猫眼三兄弟」とも呼ばれ、海外でデビュー枠を競う生活へ入っていきます。

当時の浜川さんは今以上にコミュニケーションが苦手だったといい、言葉も環境も違う中国では、自分の意見を伝えることの必要性を強く感じました。

本多さんとは同じ部屋で生活し、悩みも話せるルームメイトとして半年以上にわたり共同生活を経験します。

オーディションではライバルでありながら、後半になると浜川さんが本多さんへダンスの助言をし、高音が苦手な浜川さんは本多さんに歌を見てもらうなど、互いの得意分野を補い合っていました。

最終24位でデビューを逃し、再び次の進路を考える

浜川さんは「ASIA SUPER YOUNG」で最終的に24位となり、日本人参加者の中では最高順位まで進みましたが、デビューメンバーには入りませんでした。

一方で、本人にとって中国で大きかったのは順位だけではなく、外国のオーディションでは自分の意見をはっきり言葉にする必要があると知ったことでした。

韓国での契約終了に続いて中国でもデビューには届かず、18歳を迎えるころには、芸能活動をいつまで続けるのか自分の中で期限を決めるようになります。

18〜19歳|timelesz projectを「最後のチャンス」に選ぶ

韓国、中国と挑戦を続けてもデビューには届かず、浜川さんは18歳で自分なりの期限を決めました。

19歳になるまでに先が見えなければ別の道へ進むと考えていた時期に知ったのが、timeleszの新メンバーを探す「timelesz project -AUDITION-」でした。

「19才になるまでの1年間で、光が見えなかったら、スパッとやめて別の道を歩もうと決心」

Ray

タイプロは、浜川さんが「最後のチャンス」という気持ちで応募したオーディションでした。

3次審査で本多大夢・西山智樹と再会する

オーディションが進み3次審査へ入ると、浜川さんは本多大夢さん、西山智樹さんと再会します。

人見知りが強く、知らない人ばかりの輪へ入ることが得意ではなかった浜川さんにとって、中国へ一緒に向かった2人が同じ会場にいたことは心強かったと後に語っています。

タイプロ参加中も高校は休学した状態で、18歳まで歌とダンスを中心に生活してきたため、支えてくれた周囲へ結果で返したいという思いも抱えていました。

審査を重ねる中で順位を上げ、5次審査では1位となり、最終審査へ残る8人の一人になります。

課題曲で殻を破り、「自分なりの表現」へ意識が変わる

5次審査では課題曲への理解を深めるため、「ウエスト・サイド・ストーリー」や少年隊が影響を受けた作品までさかのぼって調べ、自分の中へ落とし込んでいきました。

佐藤勝利さんからDVDを借りて作品を見る一方、自信を失っていたときには「もっと頼っていいよ」と声をかけられたこともありました。

浜川さんは後に、オーディション中のある課題曲でメンバー、指導者、チームの空気がかみ合ったとき、自分の殻を破ることができたと振り返っています。

「自分なりの表現を突き詰めて行きたい」

SPUR

それまで技術へ意識が向きやすかった浜川さんに、ステージを楽しみながら自分の表現を見せるという視点が加わっていきました。

ファイナルでtimelesz加入ならず、単一の落選理由は公表されていない

2025年2月のファイナルまで進んだものの、浜川さんはtimeleszの新メンバーには選ばれませんでした。

5次審査で1位になったあとでの結果だったこともあり理由が注目されましたが、浜川さんが選ばれなかった理由として、審査側から一つの原因が公式に発表されたわけではありません。

歌、ダンス、年齢、性格などの一要素だけを取り上げて「これが落選理由だった」と断定できる公表情報はありません。

むしろ最終審査後、佐藤勝利さんは浜川さんの今後について言葉をかけています。

「僕らを追い越していってほしい」

ABEMA TIMES

タイプロでの加入は実現しませんでしたが、浜川さんが18歳のときに自分で決めた期限の先には、別の形で活動を続ける話がすぐに動き始めました。

2025年|本多大夢とROIROM結成、2人で活動を始める

タイプロ終了後、浜川さんと本多大夢さんは、それぞれ今後の活動先を探していました。

そこで2人が選ぼうとしていた先が重なり、中国で同じ部屋に暮らしていた関係が、今度は2人組としての活動へ変わっていきます。

オーディション後、同じ事務所で活動しようとする考えが重なる

本多さんは後のインタビューで、オーディション終了後に個人で活動を模索する中、中国の番組へ出る以前から支えてくれていた事務所で活動することを決めたと説明しています。

そのタイミングで浜川さんも同じように考えていることが分かり、「なら2人でやってみようか」という話になりました。

新しく相方を探したのではなく、中国時代から互いの得意・不得意まで知る2人が同じ活動先を選ぼうとしたことからユニットの形が生まれています。

中国でのルームメイトが2人組「ROIROM」になる

2025年5月8日、浜川路己さんと本多大夢さんによる2人組「ROIROM」の始動が正式に発表されました。

韓国、中国、タイプロと別々の審査を経てきた浜川さんは、本多さんと2人で新しい活動を始めることになります。

浜川さんはユニット結成時、本多さんについて、中国でルームメイトだったことに触れながら、すでに信頼できる関係だったと話しています。

2人の役割については、自分がダンス、本多さんがボーカルをメインにしつつ、2人で歌って踊る活動をしていきたいと語りました。

ユニット名にも2人の歩みが入り、ファンから2人を呼ぶときに使われていた「ROIROM」がそのまま正式名称になりました。

11月「Dear DIVA」でプレデビューする

ROIROM結成から約半年後の2025年11月19日、ビクターエンタテインメントから「Dear DIVA」を配信し、プレデビューしました。

この「Dear DIVA」はプレデビュー曲であり、正式なメジャーデビューは翌2026年5月です。

11月23日には有明アリーナで「ROIROM debut showcase~dear cHaRm~」を開催し、2人の名前で音楽を届ける活動が本格的に始まりました。

韓国や中国ではデビュー枠を目指す側だった浜川さんが、この時点では自分たちのユニット、自分たちの楽曲を持ってステージへ立っています。

2026年|「CLASSIC WAVE」でメジャーデビューし現在へ

2026年に入ってからもROIROMはプレデビュー期間を続け、3月25日には「DRESS CODE」をリリースしました。

プレデビュー曲「Dear DIVA」のパフォーマンス映像も公式SNSで公開され、前年から積み重ねてきた2人の楽曲が増えていきます。

結成1周年の5月7日にビクターからメジャーデビュー

ROIROM結成からちょうど1年となる2026年5月7日、デジタルシングル「CLASSIC WAVE」が配信されました。

この日が、ROIROMの正式なメジャーデビュー日です。

ビクターエンタテインメントは4月14日の時点で、結成1周年の日にメジャーデビューすることと、6月10日に同名のデビューミニアルバムを発売することを発表していました。

2025年11月の「Dear DIVA」でプレデビューし、2026年5月7日の「CLASSIC WAVE」でメジャーデビューしたというのが、ROIROMの音楽活動の時系列です。

ダンスを軸に、歌や作詞へも表現の幅を広げる

ROIROM結成時、浜川さん自身が語っていた大きな役割はダンスでした。

小学校高学年から続け、韓国、中国、タイプロでも磨いてきたダンスは現在の活動でも中心にありますが、ROIROMではそこだけに役割を限定していません。

2026年6月10日に発売されたデビューミニアルバム「CLASSIC WAVE」では、収録曲「AYE」の作詞者として、本多大夢さんとともに浜川路己の名前もクレジットされています。

踊る側として始まった浜川さんの活動は、自分たちの楽曲の言葉を作るところまで広がっています。

子どものころに車内でマイケル・ジャクソンを聴き、姉を待ちながらスクールで歌っていた時間から、歌とダンスを仕事にするまでには十数年の出来事が重なっています。

沖縄で家族と飛行機を眺め、姉の送迎について行くうちに始まったダンスは、10代半ばから韓国、中国へと活動の場所を広げていきました。

韓国での契約終了、中国でのオーディション、最後のチャンスと決めたタイプロを経て、2025年には本多大夢さんとROIROMを結成しました。

そして2026年5月7日、浜川路己さんは「CLASSIC WAVE」でメジャーデビューし、子どものころから続いてきた歌とダンスを自分たちの音楽として届けています。

参考・出典 この記事で参照した主な資料
正本DB確認日:2026-09-15

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