本多大夢さんは、浜川路己さんとのアイドルデュオROIROMで活動する歌手・アイドルです。
2025年5月にROIROMの結成を発表し、同年11月には「Dear DIVA」でプレデビュー、2026年5月7日には「CLASSIC WAVE」でメジャーデビューしました。
- 両親が共働きだったため祖母と過ごす時間が多く、祖父母宅のカラオケでは親戚の前で歌っていた。
- 現在の道につながる原点:養成・修業
- 出身地:神奈川県
現在はステージで歌う姿が印象的ですが、子どものころから一直線に歌手を目指していたわけではなく、小学生ではサッカー、中学生ではバスケットボールに夢中になったスポーツ少年でした。
学校の音楽の授業はむしろ苦手だった一方、親戚の前では幼いころから歌を披露し、中学3年でAAAのパフォーマンスを見たことをきっかけに音楽への思いが大きく動き始めます。
高校で初めて両親に「歌を習いたい」と自分から伝えたところから、何年にもわたる挑戦が始まりました。
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本多大夢の生い立ちと家族|祖母と過ごしスポーツに夢中だった子供時代
本多大夢さんは2000年7月10日生まれ、神奈川県出身です。
幼いころから家の中には音楽がありましたが、この時点では芸能界へ向かっていたわけではなく、家族や親戚に囲まれながら外で体を動かして遊ぶ時間を重ねていました。
共働きの両親に代わり祖母と過ごした幼少期
父親と母親は共働きだったため、幼少期は祖母と一緒に過ごす時間が多かったと本人が明かしています。
小さいころは人見知りがほとんどなく、親戚の誰に抱かれても泣かず、むしろ自分から抱かれにいっていたと家族から聞いたそうです。
父親は薬剤関係の仕事に就き、母親も以前は同じ分野で働いていました。
両親の働く姿を見ていたため、小学生のころには将来の仕事として薬剤師を思い浮かべていた時期もありました。
「親の影響で、子供の頃からいろんな音楽を聴いていました。」
anan
家族が聴く音楽を耳にする一方で、このころの毎日の中心にあったのは、歌のレッスンではなく家族との生活や遊びでした。
2歳下の妹とドーベルマン、親戚に囲まれた日々
本多大夢さんには2歳下の妹がいます。
幼いころには妹と一緒に祖母の家へ遊びに行き、自宅では家族が迎えたドーベルマンとも過ごしていました。
後年には、このドーベルマンを家族として迎えたとき、まだ手のひらに乗るほど小さかったことを覚えていると話しています。
犬は本多さんが高校生のころに亡くなり、その後はウサギ、さらに保護猫のクロエとマロンへと、動物のいる生活が続いていきました。
両親、妹、祖母、そして動物たちが身近にいる家庭で育ったことが、本多さんの幼少期の大きな背景になっています。
小学校6年間はサッカー|漫画を描くことも好きだった
小学校では6年間サッカーのクラブチームに入り、体を動かす毎日を送りました。
得意だった教科は体育、図工、国語で、運動だけでなく絵を描くことも好きだったそうです。
ノートには自分で考えた漫画を描いており、現在の音楽活動以外にもつながっていくアートへの興味は、すでにこのころからありました。
一方で、現在は歌を仕事にしているものの、学校の音楽の授業は苦手でした。
リコーダーのテストなど、技術を評価されるような場面に抵抗を感じていたと本人は話しています。
祖父母宅のカラオケでは親戚の前で歌っていた
学校の音楽は得意ではなかった一方、祖父母の家では様子が違いました。
祖父母宅にはカラオケがあり、親戚が集まると本多さんも人前に立って歌っていたそうです。
幼いころには演歌も歌っており、吉幾三さんの曲を披露したこともありました。
歌うと親戚が褒めてくれ、その時間が楽しかったという記憶が、後から振り返ったときに「歌が好きになったきっかけ」として残っています。
学校では音楽が苦手でも、人前で歌って誰かが喜んでくれる時間は幼いころから好きでした。
家族情報
公開情報で確認できている家族について、続柄・職業・補足・出典を整理しています。
中学時代|バスケ少年がAAAを見て「届ける側」に憧れる
小学校卒業が近づくと、本多大夢さんの興味はサッカーから別のスポーツへ移ります。
音楽への進路が見え始めるのも、この中学生の時期でした。
父に薦められた『SLAM DUNK』から3年間バスケ部へ
きっかけは、バスケットボール経験のある父親から薦められた漫画『SLAM DUNK』でした。
読んでみるとバスケットボールに興味を持ち、中学校では3年間バスケットボール部に所属します。
日プ2の公式プロフィールでも、後にバスケットボールを特技として挙げています。
同じ趣味や特技を持つ人物へ横断できます。
小学校の6年間をサッカー、中学校の3年間をバスケに費やしたため、中学途中までは芸能活動よりスポーツのほうが日常に近い存在でした。
妹が教えてくれたAAAが音楽への入口になった
進む方向が変わったのは中学3年生のころです。
2歳下の妹からAAAを教えてもらい、ミュージックビデオを見る機会がありました。
そこで目にしたのは、メンバー全員で一つのパフォーマンスを作り、音楽を客席へ届けていく姿でした。
本多さんはその姿を見て、自分も音楽を「届ける側」に立ちたいと思うようになります。
幼いころから歌うこと自体は好きでしたが、職業として音楽を意識し始めたのはこの時期でした。
初めて自分で買ったCDは清水翔太『Umbrella』
音楽への興味が強くなる中、人生で初めて自分のお金で買ったCDは清水翔太さんのアルバム『Umbrella』でした。
特に惹かれたのは歌詞で、その影響は何年も後まで残っていきます。
ROIROMとして楽曲制作に携わるようになった現在も、清水翔太さんの音楽から受けたエッセンスが自分の制作へ入っていると話しています。
2026年に発売されたROIROMのデビュー・ミニアルバム『CLASSIC WAVE』では、収録曲「AYE」の作詞者に本多大夢さんと浜川路己さんの名前も記載されました。
本多大夢さんは2000年7月10日生まれ、神奈川県出身です。
父親と母親は共働きだったため、幼少期は祖母と一緒に過ごす時間が多かったと本人が明かしています。
小学校では6年間サッカーのクラブチームに入り、体を動かす毎日を送りました。
小学校卒業が近づくと、本多大夢さんの興味はサッカーから別のスポーツへ移ります。
中学3年で音楽を届ける仕事に興味を持った本多大夢さんは、高校進学と同時に初めて具体的な行動へ移ります。
高校で歌一本の進路を決めた本多大夢さんは、卒業するとさらに音楽へ時間を使える環境へ進みました。
高校時代|毎朝5時半に起き海沿いの学校へ通った3年間
中学3年で音楽を届ける仕事に興味を持った本多大夢さんは、高校進学と同時に初めて具体的な行動へ移ります。
学校生活と音楽スクールを並行する3年間が始まりました。
1時間半の通学と、制服のまま友達と入った海
通っていた高校は自宅から少し離れた海沿いの学校でした。
電車を乗り継いで通学には約1時間半かかり、朝は5時半に起きる生活を送っていました。
高校名そのものは本人の公表資料では確認できませんが、学校へ向かう道のりや放課後の過ごし方については詳しく語っています。
海が好きだったため、長い通学時間を苦痛と感じるばかりではなく、学校へ行くことが気分転換にもなっていたそうです。
放課後には友達と海へ寄り、制服のまま海に入ってびしょ濡れになったあと、近くの公園でバスケをすることもありました。
海の家でかき氷を食べることもあり、本人は後年、このころを青春だったと振り返っています。
初めて両親へ「歌を習いたい」と伝えてスクールへ
高校生になるタイミングで、本多さんは音楽スクールへ通いたいと両親へ伝えました。
それまで自分から「これをやりたい」と強く主張することがあまりなかったため、両親にとっても意外な申し出だったそうです。
「歌を習いたい」
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両親は反対せず、スクールへ通わせてくれました。
本人によると、両親は何かやりたいことが出たときに一度は挑戦させてくれる家庭で、その環境があったからこそ自分の希望も伝えられたといいます。
高校2年の後半になるとスクールの予定が増え、学校行事へ参加できない日も出てきました。
それでも担任の先生が事情を理解し、友人たちも活動を応援してくれていました。
家族だけでなく、高校の先生や友人からも応援を受けながら学校生活と音楽を両立していました。
最初の半年は前に出られなかったグループレッスン
スクールでは年齢の近い受講生と一緒に、大人数のグループレッスンを受けました。
現在のステージでの姿とは違い、始めたばかりのころはなかなか自分から前へ出られず、半年ほど緊張した状態が続いたそうです。
周囲が積極的に参加する中で、自分から動かなければレッスンで得られるものも少なくなると感じ、少しずつ前へ出るよう意識を変えていきました。
レッスンやスクール内の発表会を経験するうちに、人前で歌う機会そのものも増えていきます。
この時期にはボーカルへの思いが強く、当初は一人で歌うボーカリストを思い描いていました。
全校生徒の前で一人で歌い、音楽一本の進路を決める
高校生活の終盤、本多さんには進路を決める大きな機会が訪れます。
高校で毎年行われていた卒業生を送る会で、何千人もの全校生徒を前に一人で歌うことになりました。
選んだ曲は秦基博さんの「朝が来る前に」でした。
スクールの発表会などで人前に立つ経験を重ねていたものの、大人数を前にしたソロ歌唱だけに緊張はありました。
そこへ友人たちも応援に駆けつけ、本多さんは最後まで歌い切ります。
ちょうどこのころ、卒業後も歌を続けるのか、それとも以前から興味のあったデザインやアートの分野へ向かうのか迷っていました。
「やっぱり歌一本でいこう!」
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全校生徒の前で歌い切った経験を境に、音楽を仕事にする進路が固まりました。
高校卒業後|音楽の専門学校と韓国練習生生活
高校で歌一本の進路を決めた本多大夢さんは、卒業するとさらに音楽へ時間を使える環境へ進みました。
ここからは、学生として歌を学ぶだけではなく、実際にデビューの機会を探す時期へ入ります。
大学ではなくボーカル専攻の専門学校を選んだ理由
高校卒業後に選んだ進路は、ボーカルを専攻できる音楽の専門学校でした。
高校までの「歌が好き」という段階から、音楽を実際に仕事にすることを意識して学ぶ生活へ変わります。
専門学校では歌を中心に学びながら、パフォーマンスに必要な経験も重ねていきました。
高校時代に興味を持っていたデザインやアートではなく音楽を選んだため、ここでは進路の迷いよりも、どうすれば仕事につなげられるかが次の課題になっていきます。
ソロ志望から「グループで音楽をしたい」へ変わった瞬間
音楽を始めた当初、本多さんの中心にあったのは歌でした。
ところがスクールやステージでほかのパフォーマーと一緒になる経験を通して、一人で歌うだけではない面白さを知ります。
ダンサーと一緒にステージへ立った際、一人で歌うときとは違う楽しさを感じ、ユニットやグループで音楽をすることも目標へ入っていきました。
最初はソロのボーカリストを思い描いていた本多さんが、誰かと一緒にパフォーマンスを作る方向へ動いた時期でした。
専門学校在学中に韓国で練習生生活を経験
専門学校に在籍していた時期には、韓国で練習生生活を経験しています。
日本とは言葉も環境も違う場所で、周囲と意思疎通を取りながらパフォーマンスを完成させる経験は初めてでした。
歌を習い始めた高校時代には、まずグループレッスンで前に出ること自体に緊張していた本多さんが、今度は国外の環境で課題に取り組む段階まで進んでいます。
ただし、この韓国での経験がそのままデビューへ結びついたわけではありません。
その後も複数のオーディションを受けながら、歌とパフォーマンスを続けていくことになります。
本多大夢のデビュー前|日プ2から中国オーディションへ
専門学校や韓国での経験を経た本多大夢さんは、より大きなデビューの機会を求めてオーディション番組へ挑戦していきます。
ここから先は、一度の挑戦で結果が決まるのではなく、落選したあとも次の機会を探す時期が続きました。
2021年『PRODUCE 101 JAPAN SEASON2』に挑戦
2021年、本多さんは『PRODUCE 101 JAPAN SEASON2』へ参加しました。
公式プロフィールでは身長175cm、趣味はギターと映画鑑賞、特技にはバスケットボールと「感情を込めて歌う事」を挙げています。
番組では、101人の候補からまずオンライン投票を通じて番組へ進む60人が選ばれる仕組みが採用されていました。
本多さんはこのオンタクト能力評価の段階で番組本編への進出には届きませんでしたが、公式サイトにはボーカル自由曲、ダンス課題曲、1分PR、10問10答など当時のコンテンツが残っています。
2021年の時点ですでに、歌だけでなくアイドルグループとしてデビューするオーディションへ挑んでいました。
アルバイトをしながらオーディションと練習を続けた日々
日プ2でデビューに届かなかったあとも、音楽から離れたわけではありませんでした。
生活のためにアルバイトをしながら、次に応募できるオーディションを探し、歌の練習を続ける時間が続きます。
高校卒業時に音楽一本へ進むと決めてから時間が経っても、すぐに所属グループやデビュー曲が決まったわけではありません。
その間にも新しいオーディションへ応募し、国内だけでなく活動の場所を海外にも広げていきました。
中国『ASIA SUPER YOUNG』で浜川路己・西山智樹と挑戦
その次の大きな挑戦の一つが、中国のオーディション番組『ASIA SUPER YOUNG』でした。
ここで本多さんは、後にROIROMを組む浜川路己さん、さらに後のタイプロにも参加する西山智樹さんと一緒になります。
初回では3人でグループを組んでパフォーマンスを披露しました。
浜川さんは後年、当時は今以上にコミュニケーションが苦手だったものの、本多さんと西山さんが接してくれたことで助けられたと話しています。
さらに、本多さんと浜川さんは中国滞在中に同じ部屋で生活していました。
浜川さんによると、二人で悩み事を共有することもあり、信頼して話せる関係になっていったそうです。
この時点では、数年後に二人だけのユニットとしてデビューすることはまだ決まっていませんでした。
票数の差を目の前にし、帰国後は無心で歌を練習した
中国のオーディションでは、パフォーマンス後に候補者の票数がスクリーンへ表示される場面がありました。
本多さんは、人気の高い参加者と自分の間にある大きな票差をその場で目にし、これまで参加した中でも特に精神的に厳しいオーディションだったと語っています。
当時は事務所のスタッフが中国まで応援に来ており、そのスタッフへ泣きついたこともありました。
同じ場所には浜川さんもいて、慣れない外国での生活と競争を一緒に経験しています。
帰国後、本多さんが続けたのは歌の練習でした。
結果が出なかった直後も、別の分野へ進むのではなく、再び歌に時間を使っています。
日プ2、韓国での練習生経験、中国でのオーディションと、違う環境へ移っても挑戦は途切れませんでした。
timelesz project|何度目かの挑戦で最終候補まで進む
中国から帰国した本多大夢さんのもとへ、これまで参加してきたものとは違う形式のオーディション情報が入ってきます。
timeleszが新メンバーを募集する『timelesz project -AUDITION-』、通称タイプロでした。
年齢を重ねる中で出会った「既存グループ加入」のオーディション
タイプロには18,922件の応募が集まりました。
新しいグループを一から作るのではなく、すでに活動しているtimeleszへ新メンバーとして加わるという、それまでの本多さんには経験のない形でした。
それでも応募を決め、審査を進んでいきます。
2024年12月にはNetflix Japan公式Xでも4次審査候補生15人の一人として紹介されました。
高校で歌を習い始めてから、専門学校、韓国、日プ2、中国と進んできた時間を経て、再び日本の大規模オーディションで名前が知られていくことになります。
過去のオーディションとは違った「仲間と戦う」感覚
タイプロで本人が強く感じた違いの一つが、候補生同士の関係でした。
既存グループへ加入するオーディションでしたが、timeleszのメンバーが候補生を丁寧に迎え、候補生同士でも単純な競争相手という感覚より仲間意識が強かったと話しています。
中国のオーディションでは票数が可視化され、その差に強く打ちのめされた経験がありましたが、タイプロでは別の空気を感じていました。
「歌で自分の誠意が伝わればと思っています」
anan
審査を通して本多さんの歌声に注目が集まり、最終的には最終審査まで残る8人の一人になりました。
日プ2では番組本編進出前に終わった挑戦が、タイプロでは最終候補まで進むところまで変わっていました。
最終審査で名前を呼ばれなかった後に残ったもの
2025年2月、タイプロの最終結果が発表されました。
新メンバーとして選ばれたのは橋本将生さん、寺西拓人さん、猪俣周杜さん、篠塚大輝さん、原嘉孝さんの5人で、本多さんの名前は呼ばれませんでした。
何年もオーディションを続け、今回は最終候補まで進んだものの、ここでもその場でのデビューには届きませんでした。
ただ、後年この瞬間を振り返った本人は、悔しさだけではなく、番組で出会った人たちや得た経験への感謝も大きかったと話しています。
タイプロで選ばれなかったあと、本多さんの活動が止まることはありませんでした。
浜川路己とROIROMへ|中国で同室だった2人がユニットを結成
タイプロ終了から約3か月後、本多大夢さんの名前は再び大きく発表されます。
一緒に活動する相手は、タイプロで初めて会った人物ではありませんでした。
中国オーディションで悩みを共有した浜川路己との関係
本多さんと浜川路己さんが初めて同じオーディションへ参加したのは、タイプロより前の『ASIA SUPER YOUNG』でした。
中国では初回パフォーマンスを一緒に行っただけでなく、同室で生活し、悩みを話す関係になっていました。
その後、それぞれが中国から帰国し、タイプロの3次審査で再会します。
浜川さんは当時、知らない候補生が多い場所で、本多さんや西山智樹さんと再会できたことが心強かったと語っています。
タイプロが終了した時点でも、本多さんは浜川さんと二人でユニットを組むことになるとは考えていなかったそうです。
後のインタビューでは、浜川さんを「本当の弟みたいな存在」と表現しています。
2025年5月、ROIROMとして新しい活動を開始
2025年5月8日、本多大夢さんと浜川路己さんによる2人組ユニットROIROMの結成が発表されました。
タイプロ最終審査から約3か月後、中国のオーディションでも一緒だった二人が今度は同じユニットとして歩き始めました。
2025年11月19日にはビクターエンタテインメントから「Dear DIVA」を配信し、プレデビューします。
同月23日には有明アリーナで「ROIROM debut showcase~dear cHaRm~」を開催し、約2万人を動員しました。
一人で歌うボーカリストを思い描いていた高校時代を経て、グループで表現する楽しさを知った本多さんが、浜川さんと二人で音楽を作るところまで進みました。
2026年、メジャーデビューでようやくたどり着いた現在地
ROIROMは「Dear DIVA」に続き、2025年12月に「My Princess」、2026年3月には「DRESS CODE」をプレデビュー作品として配信しました。
そして結成から約1年となる2026年5月7日、ビクターエンタテインメントから「CLASSIC WAVE」を配信し、メジャーデビューします。
高校で「歌一本」と決めてから、国内外のオーディションを何度も経験した末のメジャーデビューでした。
同年6月に発売されたデビュー・ミニアルバム『CLASSIC WAVE』では、本多さんと浜川さんが「AYE」の作詞にも参加しています。
7月には新曲「GHOST HOUSE」も配信され、音楽活動はデビュー後も続いています。
家族との関係にも変化があり、2026年には実家を出て一人暮らしを始めたことを明かしました。
「最近、実家を出て一人暮らしを始めたんです。」
文春オンライン
実家では現在、保護猫のクロエとマロンが暮らしており、猫の誕生日になると両親や妹と1年分の写真を見ながら、家族投票で翌年のカレンダーに使う写真を選んでいるそうです。
母親は以前の薬剤関係の仕事から転じ、現在は和牛を扱うキッチンカーを経営し、週末には父親も手伝っています。
幼いころ祖母の家で親戚に歌を聴いてもらっていた本多さんは、現在ではROIROMとして多くの観客の前で歌い、自分たちの楽曲制作にも関わるようになりました。
学校の音楽は苦手だったスポーツ少年が、中学で音楽を届ける側に憧れ、高校で進路を決め、何度ものオーディションを経て歌を仕事にしています。
全校生徒の前で一人で歌った高校時代、中国で結果を突きつけられた時期、タイプロの最終審査と、そのたびに次の出来事へ進んだ先にROIROMがありました。
2026年にはメジャーデビューまで進み、子どものころから好きだった歌だけでなく、作詞やアートを含めた表現へ活動の幅を広げています。
本多大夢と似た生い立ちの人物は?
出身地・年代・人生の原点などの共通点から探せます。









