- 出身地
- 新潟県
- 生まれ年代
- 2000年代生まれ
- 活動ジャンル
- フィギュアスケート選手
- 性別
- 女性
- キャリアの原点
- 5歳のころ、浅田真央の演技に憧れたことをきっかけに新潟市でフィギュアスケートを始めた。
- 高校
- 勇志国際高等学校
2026年ミラノ・コルティナ五輪の女子シングルで銅メダルを獲得した中井亜美さんは、トリプルアクセルを武器に世界で戦うフィギュアスケート選手です。
初めての五輪ではショートプログラムで78.71点を出して首位に立ち、フリーとの合計219.16点で表彰台に上がり、17歳10カ月で日本女子フィギュア史上最年少の五輪メダリストとなりました。
- 新潟で幼少期を過ごし、子どものころからスケートを楽しむことを大切にしてきた。
- 高校:勇志国際高等学校
- 5歳のころ、浅田真央の演技に憧れたことをきっかけに新潟市でフィギュアスケートを始めた。
そんな現在からさかのぼると、スケートを始める前には新体操を習い、小学生になると毎日の練習を書き込むノートを作り、中学進学では父と姉を新潟に残して母と千葉へ移るという道を歩いています。
小学生のころの練習ノートには、すでに「オリンピックにでること!」という目標が残されていました。
2026年5月に本人が開設した公式Instagramでは、五輪を終えた現在の中井亜美さんの姿を見ることができます。
中井亜美の生い立ちと家族|新潟で浅田真央に憧れた幼少期
中井亜美さんは2008年4月27日、新潟県新潟市に生まれました。
現在の競技生活は氷の上が中心ですが、幼いころから最初の習い事までをたどると、スケートだけに一直線だったわけではありません。
2歳でテレビの踊りをまねし、リンクがない時期は新体操へ
2歳ごろにはテレビで踊っている人を見ながら動きをまねし、「これをやりたい」と家族に話すことがあったといいます。
4歳ごろになると、テレビで浅田真央さんの演技を見てフィギュアスケートに興味を持ちました。
ただ、当時は自宅の近くに通えるスケートリンクがなく、すぐにフィギュアスケートを始めることはできませんでした。
そこで先に習い始めたのが、身体を動かすという点でスケートにも近かった新体操です。
「小さい頃に浅田真央さんの演技を見て、はじめたいと思いました。」
J SPORTS
5歳でスケートを開始|「練習すれば上手くなる」ことが楽しかった
翌年、自宅から車で数分ほどの場所にスケートリンクができると、5歳だった中井さんはクラブに入りました。
フィギュアスケートを始めたのは2013年、5歳のころです。
始めたばかりのころに強く感じていたのは、大会や順位よりも、練習した分だけ昨日できなかった動きができるようになる面白さでした。
「楽しかったです。陸上と違って、練習すればするほど上手くなるのが楽しかったです。」
J SPORTS
その感覚のままリンクへ通い続け、ジャンプを覚えるスピードも少しずつ上がっていきました。
父・母・姉の家族|小学生までは新潟で育つ
中井さんの家族は父親・母親・姉・中井さんの4人家族です。
父親や母親、姉は競技者として前に出る家族ではありませんが、後に中井さんが千葉へ練習拠点を移すときには、家族全体の暮らし方が変わることになります。
父親の具体的な職業については本人側から明らかにされておらず、勤務先や職種を断定できる公表情報はありません。
小学生のころまでは家族4人で新潟に暮らし、正月にはトランプやかるたを囲むこともありました。
勝負になると負けたまま終わりたくなくて、かるたを取られると泣きながら取り返そうとするほどだったという幼いころの様子も残っています。
家族4人で暮らした新潟での生活は、小学校卒業まで続きました。
女池小学校時代|練習ノートに書いていた「オリンピック」の夢
中井さんが通った小学校は新潟市立女池小学校で、学校側も卒業生として五輪出場を紹介しています。
学校へ通いながらリンクでの練習を重ねる生活の中には、コーチが驚いたジャンプ、父親との公園での練習、クラスメートとの応援旗など、競技結果だけでは見えない場面が残っています。
小学1年のジャンプでコーチを驚かせ、小3でダブルアクセルへ
元コーチの渡部幸裕さんによると、小学1年生のころには、まだ教えていなかった1回転ジャンプを突然跳んで周囲を驚かせたことがありました。
このころから、練習で教わったことや翌日の目標を書くノートも続けていました。
小学3年生になるとダブルアクセルを習得し、3回転ジャンプも少しずつそろえていきます。
学校の運動会ではリレーのアンカーをやりたがり、走る練習のため父親と公園へ出かけることもありました。
小学4年生だった2018年には全日本ノービスB女子で優勝し、全国大会でも名前が知られるようになります。
小学5年からトリプルアクセルへ|毎日のノートに目標を書いた
小学5年生の終わりごろには、浅田真央さんの代名詞でもあったトリプルアクセルの練習を始めました。
ノートには単に「できた」「できなかった」と書くだけではなく、身体の向きやジャンプの軌道を図にして残すこともあり、目標の欄には「トリプルアクセル着氷」と大きく書いていました。
さらに、小学生の字で将来の目標も記されています。
「しょうらいのゆめ オリンピックにでること!」
日刊スポーツ
まだ五輪代表争いより何年も前の小学生時代に、オリンピックという言葉が具体的な目標としてノートに登場していました。
2019年に浅田真央さんが新潟を訪れた際には実際に指導を受ける機会もあり、中井さんはツイズルなどを教えてもらっています。
テレビの中にいた憧れの選手から教わる経験をした一方で、毎日の練習では5種類の3回転ジャンプをそろえ、その先にあるトリプルアクセルへ取り組んでいました。
小学6年、クラスメートから贈られた「目指せNo.1」の応援旗
小学6年生で全日本ノービスへ向かう前、女池小学校のクラスメートたちは中井さんのために大きな応援旗を作りました。
旗には「目指せNo.1」「夢に向かって頑張れ」など、一人ひとりからのメッセージが書き込まれていました。
リンクでは全国大会を戦っていても、平日は同じ教室で過ごしていた友人たちから渡されたものです。
卒業が近づくそのころ、中井さんの前では新潟を離れて練習環境を変える話が具体的に動き始めていました。
中井亜美さんは2008年4月27日、新潟県新潟市に生まれました。
中井さんが通った小学校は新潟市立女池小学校で、学校側も卒業生として五輪出場を紹介しています。
千葉で進学したのは市川市立南行徳中学校です。
南行徳中学校では練習のため早退する日もあり、授業を抜けた分はあとから自分で追いつく必要がありました。
中学校を卒業した2024年春、中井さんは勇志国際高等学校へ進学しました。
中学進学で新潟から千葉へ|母と2人で始めた新生活
2021年春、小学校を卒業した中井さんは、それまで暮らしてきた新潟を離れました。
競技環境だけでなく、家族の暮らしと学校生活まで同時に変わる中学進学時の千葉移住は、最初の大きな転機になります。
父と姉は新潟へ残り、母と千葉へ|MFアカデミーに移った理由
全日本ノービスで優勝したあとも、中井さん自身はスケーティングの基礎やジャンプの安定感に足りない部分を感じるようになっていました。
そんな時期に知ったのが、千葉県船橋市で新しく始まるMFフィギュアスケートアカデミーです。
「もっと上手な選手たちと一緒に練習したいと、だんだん思うようになりました」
THE ANSWER
アカデミーから誘われたのではなく、強い選手と同じ環境で練習したいと考え、自分で移籍先として選びました。
中学入学に合わせて中井さんと母親が千葉へ移り、父親と姉は新潟に残る生活が始まります。
一つの家族が二つの土地で暮らすことになり、中井さんは家賃など新たな費用がかかることへの申し訳なさや、家族と離れる寂しさも当時のインタビューで口にしています。
12歳で母親と千葉へ移り、父親と姉が暮らす新潟を離れて競技生活を組み直しました。
女池小学校の友人たちからもらった応援旗も新しい部屋へ持っていき、千葉での生活が始まります。
市川市立南行徳中学校|「アミーゴ」と呼ばれた学校生活
千葉で進学したのは市川市立南行徳中学校です。
新潟から転居してきたばかりでしたが、3年時の担任だった大島実先生によると、周囲とは早い段階で打ち解け、友人からは「アミーゴ」と呼ばれていました。
休み時間には宿題を進めることも多く、先生から「少し休んだら」と声をかけられるほどだったといいます。
練習のため授業を早退する日には、あとから授業内容を追いつかせる必要もあり、中井さん自身も中学生時代に勉強との両立が大変だったと話していました。
好きな教科は体育で、数学には苦手意識があったという話もあり、学校では競技だけをしていたわけではない普通の中学生としての時間がありました。
掃除中に友達から頼まれてジャンプ、先生に注意された日
南行徳中学校では、友人から「ジャンプを見せて」と頼まれることもありました。
ある日の掃除時間、中井さんはリクエストに応えて陸上でアクセルジャンプを披露し、それを見つけた大島先生から注意されています。
世界を目指して本格的に競技を続ける一方、学校では友達の前でジャンプして怒られるような一幕もありました。
14歳で全日本4位、世界ジュニア銅メダルへ
千葉へ移ってからは中庭健介コーチらの指導を受け、年代や所属の異なる選手たちと同じリンクで練習するようになりました。
新潟を離れる直前には練習でトリプルアクセルを初めて着氷し、2022年春には国際大会のプランタン杯で試合でも成功させています。
2022年の全日本ジュニアではトリプルアクセルを決めて初めて表彰台に上がり、そのままシニアの全日本選手権へ進みました。
14歳で初出場した全日本選手権では、フリーで2本のトリプルアクセルに挑み総合4位に入りました。
続く2023年世界ジュニア選手権では銅メダルを獲得し、新潟を離れて約2年で国際大会の表彰台まで進みます。
中学3年の腰のけが|ジャンプを離れて基礎から作り直した時期
世界ジュニアで銅メダルを取った翌シーズンも、序盤はジュニアグランプリで優勝するなど結果が続いていました。
ところが2023年秋、全日本ジュニアが近づくころに腰を痛めます。
全日本ジュニア10位で全日本選手権を逃す
腰の状態によって十分な練習量を確保できず、全日本ジュニアでは前年の表彰台から順位を落として10位となりました。
この結果で、前年は4位だったシニアの全日本選手権に進むことができませんでした。
MFアカデミーの仲間が全日本選手権へ向かうなか、自分だけ出場できないシーズンになりました。
「チームメイトの中で自分だけ行けなかったのがすごく悔しくて」
新潟ニュース NST
渡辺倫果に支えられ、スケーティングと身体づくりを見直す
けがの時期に近くにいた選手の一人が、同じアカデミーで練習する渡辺倫果さんでした。
6歳年上の渡辺さんは、中井さんにとって競技の相談ができる姉のような存在でもあり、落ち込んだ時期には話を聞いていました。
ジャンプやスピンを思うようにできない期間には、氷上で足元の使い方やスケーティングを練習し、陸上ではけがを繰り返さないための身体づくりに時間を使います。
中庭コーチもこの時期を利用し、ジャンプだけを急いで戻すのではなく、滑りそのものを足元から組み直していきました。
トリプルアクセルを武器にしてきた中井さんが、跳べない時間にスケーティングの基礎へ戻ったのが中学3年の冬でした。
勇志国際高校へ|通学時間を減らす学校を自分で探した
中学校を卒業した2024年春、中井さんは勇志国際高等学校へ進学しました。
高校選びでは競技推薦に任せたわけではなく、中学時代に感じていた通学と練習の負担をもとに、自分で学校を調べています。
中学時代に感じた学業と練習の両立の難しさ
南行徳中学校では練習のため早退する日もあり、授業を抜けた分はあとから自分で追いつく必要がありました。
毎日の通学時間と練習を両立しながら、さらに競技のレベルを上げようとすると、移動に使う時間も無視できなくなっていきます。
そこで中井さんは、通学時間を減らしながら学業と練習を両立できる高校を自分で探し、勇志国際高校を選びました。
学校側も、中井さんが中学時代の経験から「スケートと学業を高いレベルで両立させる」環境を考えて入学したことを紹介しています。
午前は勉強、午後はリンクへ|通信制高校で変わった生活
勇志国際高校ではオンラインを活用し、自分のスケジュールに合わせて学習を進められるようになりました。
高校進学後は午前中を勉強に集中して使い、午後からスケートの練習へ向かう生活を組み立てています。
けがから戻った2024-25シーズンにはジュニアグランプリへ復帰し、前年に全日本ジュニアを逃した会場にも再び立ちました。
ジュニアグランプリでは中国大会で優勝し、2024年12月のジュニアグランプリファイナルでは銅メダルを獲得しました。
2025年には四大陸選手権で銀メダルを獲得し、世界ジュニアでは4位となり、高校生活と海外遠征が並行する時期に入っていきます。
新潟の姉・祖母との交流は高校時代も続く
千葉へ移ったあとも、父親と姉が暮らす新潟は帰省する場所として残りました。
祖母の家ではポメラニアンの「ルーク」をかわいがっており、千葉で暮らすようになってからは祖母が写真を送ってくれることもあります。
新潟へ帰った際にはルークを散歩させるなど、競技拠点を移してからも幼いころの家族との時間は続いていました。
シニア1年目で五輪代表へ|小学生のころ書いた目標が現実に
2025-26シーズンから本格的にシニアへ上がると、17歳だった中井さんはジュニア時代とは違う顔ぶれの中で五輪シーズンを迎えました。
ここから初めてのグランプリシリーズ、全日本選手権、五輪代表決定までが数カ月の間に続きます。
グランプリ初出場初優勝から17歳で初の五輪へ
2025年10月、シニアのグランプリシリーズ初戦となったフランス大会でいきなり優勝しました。
グランプリシリーズ初出場での初優勝となり、続くスケートカナダでは3位、12月のグランプリファイナルでは銀メダルを獲得します。
シニア1年目の五輪シーズンに、グランプリ初戦の優勝からファイナル銀メダルまで一気に進みました。
五輪代表選考がかかった2025年12月の全日本選手権は4位でしたが、それまでの国際大会での成績も踏まえてミラノ・コルティナ五輪代表に選ばれました。
このころには新潟で暮らす姉が試合を見に来ることもあり、姉妹でディズニーランドへ出かける時間も作っていました。
2026年1月には勇志国際高校でも五輪へ向かう中井さんを送り出す機会が設けられ、学校公式Instagramにもその様子が掲載されています。
ミラノ・コルティナ五輪で銅メダル|日本女子最年少の表彰台
2026年2月17日の女子ショートプログラムでは、冒頭のトリプルアクセルを決めて78.71点をマークし、出場選手のトップに立ちました。
2日後のフリーでもトリプルアクセルを降り、ショートとの合計は219.16点となります。
最終順位は3位で、17歳10カ月での銅メダルは日本女子フィギュア史上最年少の五輪メダル獲得となりました。
小学生時代のノートに書いた「オリンピックにでること!」という目標から、初出場の五輪で表彰台まで進みました。
初めての五輪について、中井さんは大舞台だからと普段より構えすぎるのではなく、楽しむことを意識していたと話しています。
「逆に『オリンピックだからこそ楽しもう』という気持ちの方が強かったです。」
日本オリンピック委員会
フリーを滑り終えた直後には、得点表示に出た「9」を見て最初は9位だと思い、その後に総合順位の「3」を見つけ、近くにいたアリサ・リウ選手へ「私、3位?」と確認する場面もありました。
リウ選手から3位だと教えられると、その場で抱き合い、中庭コーチのもとへ戻って初めてメダル獲得を実感しています。
新潟でスケートを始めたころから五輪までの歩みは、地元メディアの公式動画でも当時の映像とともに振り返られています。
18歳の現在|新潟で身につけた「楽しむ気持ち」と次のシーズン
五輪後は2026年3月の世界選手権に出場し、初出場で9位となりました。
春から夏にかけてはアイスショーや新シーズンの準備へ移り、6月のドリーム・オン・アイスでは新しいショートプログラムも披露しています。
2026-27シーズンのショートプログラムは「Por Una cabeza」、フリーは「パリのアメリカ人」で、グランプリシリーズはフランス大会とアメリカ大会に出場予定です。
6月に新潟へ戻った際には、子どものころに通ったリンクについて、当時は毎日たくさんジャンプを跳びながら純粋にスケートを楽しんでいたと振り返りました。
「小さい頃から先生方に『スケートを楽しむ気持ちを忘れないで』と言われていて」
新潟ニュース NST
18歳になった現在も、練習を「楽しむ」という感覚は、5歳でリンクへ通い始めたころから残っています。
新潟のリンクで滑ることそのものを楽しんでいた時間が、中井亜美さんの競技生活の出発点でした。
中学進学時に母と千葉へ移った選択と、腰のけがで足元から滑り直した時期を通り、17歳で初めての五輪の表彰台へ立ちました。
18歳になった現在は、新しいプログラムを手に、幼いころから持ち続けてきたスケートを楽しむ感覚とともに次のシーズンへ進んでいます。
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出身地・年代・人生の原点などの共通点から探せます。



