NHK連続テレビ小説『あんぱん』『ばけばけ』などへの出演で、俳優として目にする機会が増えている日高由起刀さん。
2003年9月30日生まれで、モデルとしても日本と韓国で活動していますが、芸能界へ入る前の生活の中心にあったのは演技やファッションではなく、陸上競技の400m走でした。
中学生では全国大会の決勝まで進み、400mで全国2位になり、高校3年では47秒63を記録して東京都大会を制しています。
そのまま大学へ競技推薦で進んだものの、高校最後のインターハイ出場を懸けた大会で起きた出来事を境に、それまで考えていなかった別の道へ目が向き始めました。
陸上一筋だった学生が競技を離れ、モデルを始め、その約2カ月後には演技未経験のまま映画主演のオーディションを受けることになります。
日高由起刀の生い立ちと家族|大阪に生まれ神奈川で育った少年時代
日高由起刀さんは2003年9月30日、大阪府生まれで、その後は神奈川県で育ちました。
現在の活動名は「日高由起刀」ですが、陸上競技の公式記録には読みが同じ「日高裕喜人(HIDAKA Yukito)」という名前で、中学から高校、大学へ続く400mの記録が残っています。
本人や所属事務所から「日高裕喜人」が本名だという公表はされていないため、現在確認できるのは陸上競技時代の記録名までです。
小さいころから走ることが好きで小学校ではほぼ毎年リレー選手に
陸上との付き合いは、中学校へ入ってから突然始まったものではありません。
中学3年だった2018年、地元のタウンニュースの取材で、小学生のころから走ることが好きだったと話しており、小学校6年間でほぼ毎年リレー選手に選ばれていました。
「小さい頃から走るのが好きだった」
タウンニュース
後年には、幼いころから目立ちたがり屋で、知らない人ばかりの場所へ入っても場になじむことは得意だったとも話しています。
このころはまだ俳優を仕事にする未来ではなく、走ることが日常の中にある少年時代を過ごしていました。
父・克さんも中学時代に全国大会へ出場した陸上経験者
家族の中にも、陸上競技を経験した人物がいました。
父親の克さんも中学生のころに三種競技へ取り組み、全国大会へ出場した経験があったことが、日高さんが中学生だった当時の記事に残っています。
ただし、父親の競技歴をそのまま追うように専門的な陸上教育を受けていたという情報はなく、日高さん自身は学校生活の中で走る機会を重ねていきました。
やがて中学校へ入ると、リレーで走っていた少年の生活は、本格的な競技生活へ変わっていきます。
荏田南中で100mから400mへ|全国2位まで伸びた3年間
日高さんが進んだのは、横浜市立荏田南中学校です。
陸上部へ入った当初から400mを専門にしていたわけではなく、最初に取り組んだのは100m走でした。
100mで伸び悩んだ中2の夏、顧問に勧められて400mへ
100mでは思うような成績を残せずにいた中学2年の夏、当時の顧問だった谷崎遊教諭が日高さんの持久力に目を向けました。
そこで勧められたのが、短距離のスピードだけでなく一周を走り切る力も必要になる400mでした。
中学2年の8月に種目を変えると、その翌月の市大会を50秒53で優勝します。
100mで結果が出なかったところから、走ること自体をやめるのではなく、距離を変えたことで競技成績が動き始めました。
「練習では一切手を抜かず、素直」
タウンニュース
谷崎教諭は中学3年の日高さんを、練習で手を抜かず指導を受け入れる選手として見ていました。
部長を務めながら部活後も坂道ダッシュとフォーム確認
中学3年になると陸上部の部長も務め、週5日、1回およそ2時間半の部活動に参加していました。
学校の練習が終わったあとにも坂道ダッシュを行い、帰宅すると筋力トレーニングを続けていました。
さらに、自分が走っている姿を撮影した動画を見返してフォームを確認し、入浴後にはストレッチをしていました。
後年の所属事務所インタビューでも、部活後の坂道ダッシュ、帰宅後の筋トレ、風呂上がりのストレッチを中学生から毎日のように続けていたと話しています。
本人にとっては、それを特別なこととして数えていたわけではなく、ライバルなら同じくらいやっているものだと思っていました。
筋肉のついた現在の体格が気になる人もいるかもしれませんが、少なくとも10代前半から、競技のために身体を動かす生活を長く続けていたことは確認できます。
全中400m決勝で49秒27を出し全国2位に
中学3年の春には、神奈川県中学校陸上競技選手権の400mを51秒27で制しました。
同年夏には全国大会の参加標準記録を突破し、初めて全日本中学校陸上競技選手権大会へ進みます。
全国の舞台では予選50秒09、準決勝50秒23と勝ち上がり、決勝でさらにタイムを縮めました。
決勝の記録は49秒27で、全国2位でした。
この大会後、当時の高階一也顧問も、日高さんをまだ先へ進める選手として見ていました。
全国優勝には届きませんでしたが、中学2年夏に400mへ移ってから約1年で、目標としていた全国の頂点が目前に見えるところまで進みました。
日高由起刀さんは2003年9月30日、大阪府生まれで、その後は神奈川県で育ちました。
陸上との付き合いは、中学校へ入ってから突然始まったものではありません。
家族の中にも、陸上競技を経験した人物がいました。
中学卒業後も400mを続け、競技記録では城西大学附属城西高校の選手として大会へ出場しています。
高校1年だった2019年、東京都高校総体の男子400mで49秒31を記録し、5位に入りました。
高校2年となった2020年は新型コロナウイルスの影響を受け、本人によれば中止になった大会も数多くありました。
大会が十分に行われなかった高校2年を経て、2021年、高校3年のシーズンを迎えます。
高校最後の大会で競技への気持ちに変化が生まれても、それまで積み上げてきた陸上との関係がすぐに切れたわけではありません。
城西高校で陸上一色|1年から南関東へ進み東京都王者になるまで
中学卒業後も400mを続け、競技記録では城西大学附属城西高校の選手として大会へ出場しています。
高校でも目標は全国の舞台にあり、授業の外だけで陸上をしていたというより、本人の記憶では学校生活そのものが競技中心でした。
高校1年から東京都5位、南関東大会へ
高校1年だった2019年、東京都高校総体の男子400mで49秒31を記録し、5位に入りました。
東京都を勝ち上がったことで、インターハイ出場者を決める南関東高校総体へ進み、予選を50秒11で走っています。
中学全国2位のあとも競技を継続し、高校入学直後から東京都上位、さらに関東へ進む位置で走っていました。
コロナ禍と厳しい校則のなか400mを続けた高校生活
高校2年となった2020年は新型コロナウイルスの影響を受け、本人によれば中止になった大会も数多くありました。
学校生活については、携帯電話が禁止され、腕まくりにも決まりがあるような校則の厳しい環境だったと『HAPPYEND』公開時のインタビューで振り返っています。
「僕にとって高校は陸上競技のためだけに通っていたような感じでした」
nippon.com
放課後に仲間と遊ぶ高校生活よりも、日々の焦点は次のレースと400mに向いていました。
後に『HAPPYEND』で高校生を演じた際には、実際の学生時代にはあまりできなかったと感じていた「高校生の青春」のような時間を撮影で経験できたことを楽しそうに話しています。
高校3年で47秒63を記録し東京都大会優勝
大会が十分に行われなかった高校2年を経て、2021年、高校3年のシーズンを迎えます。
東京都高校総体400mでは、47秒63の自己ベストで優勝しました。
日本陸上競技連盟の2021年高校ランキングでも、47秒63は全国8位に入るタイムです。
中学時代に全国2位まで進み、その後も高校で競技を続けてきた日高さんにとって、次に待っていたのが全国高校総体への出場権を懸けた南関東大会でした。
インターハイを懸けた南関東大会で熱中症になり進路への気持ちが変わる
南関東大会では400mの上位6人に入れば、インターハイへ進める状況でした。
ところが日高さんはレース中に熱中症と酸欠の症状が出て、視界が真っ白になる状態で走ることになりました。
公式結果には予選50秒09、組7着と記録されており、東京都大会を制した直後の南関東大会で、インターハイへの道が途切れました。
「僕にも違う人生があるのかもしれない」
DONGYU CLUB
本人は走っている最中に陸上へ懸けてきた夢が終わる感覚を持ち、その大会を境に、それまで視界に入りにくかった競技以外のことへ関心が傾き始めました。
ただ、ここですぐに陸上を辞めたわけではありません。
高校卒業後は、競技を続けるため大学へ推薦で進学しました。
推薦で大学へ|陸上を続けながらモデルへ目が向く
高校最後の大会で競技への気持ちに変化が生まれても、それまで積み上げてきた陸上との関係がすぐに切れたわけではありません。
大学には競技推薦で進み、入学当初は陸上とモデルの両方を続けることを考えていました。
大学でも400mを走り競技を続ける
本人は大学名を公表していませんが、2022年4月の陸上競技記録には、東洋大学1年の「日高裕喜人」が400mを48秒66で走った記録があります。
中学の荏田南、高校の城西から続く読み・学年・400mの記録が連続している一方、現在の活動名との関係について本人からの説明はありません。
はっきりしているのは、本人自身が大学へ推薦で進み、入学後も陸上を続けていたと話していることです。
陸上とモデルの両方を考えるなか競技への気持ちが変化
高校最後の大会を経験してから、以前から頭の片隅にあったモデルという仕事へ関心が向くようになりました。
大学へ推薦で進んでいたこともあり、最初から陸上かモデルのどちらか一方だけに決めるのではなく、両立するつもりで動いていました。
しかし、練習や大会とモデル活動のスケジュールを合わせることは難しく、陸上に対する熱も徐々に下がっていきます。
小学生から続けてきた競技を、この時期に辞めることを決めました。
陸上を辞める決断に両親との家族会議、家を出てモデル活動へ
競技を離れることは、日高さん一人だけの進路変更では済みませんでした。
両親は、長年陸上へ打ち込む息子の姿を日々のモチベーションにしていたといい、辞めることを伝えた際には家族会議が開かれました。
本人も両親に対する罪悪感のような感情があったことを後年明かしていますが、決断を変えることはありませんでした。
話し合いの末、両親も新しい進路を受け入れ、日高さんは家を出ます。
全国1位を目標にしていた陸上生活を終え、ここからモデルとしての生活が始まりました。
モデル開始約2カ月で『HAPPYEND』|演技未経験から主演俳優へ
高校を卒業してしばらくした後、日高さんはモデル事務所に所属しました。
そこからモデルとしてオーディションを受け始めますが、モデルの仕事で結果を積み上げるより先に、俳優としての入口が現れます。
モデル事務所で出会った映画オーディション
モデル活動を始めて約2カ月という時期に受けたオーディションの一つが、空音央監督の長編劇映画『HAPPYEND』でした。
当時はモデルのオーディション自体にも慣れておらず、演技経験はありませんでした。
オーディションでは台本を演じるだけでなく、空監督やスタッフから育ってきた環境や本人のバックグラウンドについても質問を受けています。
メインキャストには演技未経験者も多く、空監督は役を作り込ませるだけでなく、本人たちが互いに反応できる関係を作るため、撮影前からワークショップを重ねました。
モデルを始めて約2カ月、演技をしたこともない状態で、日高さんはコウ役の主演に抜擢されます。
高校卒業から半年足らずでコウ役の撮影へ
『HAPPYEND』で演じたコウは、高校卒業を目前にした在日コリアンの高校生です。
撮影当時の日高さん自身も、高校を卒業してまだ半年ほどしか経っていませんでした。
「そのままの自分でいけました」
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自身の高校時代は陸上中心だった一方、映画ではユウタたちと音楽を聴き、悪ふざけをし、卒業前の日々を過ごす高校生を演じています。
撮影前のワークショップでは、主要キャスト同士の距離を縮めるための時間も設けられ、撮影現場に入るころには5人が自然に会話できる関係になっていました。
祖母の韓国・台湾につながるルーツを知り役の背景を学ぶ
コウを演じるうえでは、日高さん自身の家族について知ったことも重なりました。
本人によると、祖母は日高さんが生まれる前に亡くなっており、そのルーツについて知ったのは成長してからです。
「祖母が台湾と韓国にルーツがある人」
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別のインタビューでは祖母を韓国人と説明しており、少なくとも祖母に韓国・台湾につながる背景があったことを本人自身が明かしています。
それまで自身のルーツについて深く考える機会は多くなかったといいますが、在日コリアンのコウを演じるため、空監督とともに歴史や日本で暮らす外国ルーツの人々の背景を学びました。
関東大震災後の朝鮮人虐殺を扱う資料やドキュメンタリーにも触れ、祷キララさんと一緒に役の背景を掘り下げて撮影へ入っています。
現在、日高さんのプロフィールには韓国語が堪能で、日本と韓国の2拠点でモデル活動も行っていることが記されていますが、祖母のルーツと韓国語を学び始めた理由との直接的な因果関係は本人から語られていません。
撮影現場での縁から鈍牛倶楽部へ
『HAPPYEND』は俳優としてのデビュー作になっただけでなく、現在の所属先との出会いにもつながりました。
撮影現場で生まれた縁から、日高さんは鈍牛倶楽部に所属します。
本人は高校卒業まで陸上一色で過ごしていたため、当初は鈍牛倶楽部という芸能事務所のこと自体を知らなかったと話しています。
2024年10月に公開された『HAPPYEND』はヴェネチア国際映画祭オリゾンティ部門にも選出され、初めて演じた映画が、そのまま国内外で上映される主演デビュー作になりました。
さらに同作の演技で、2025年には第38回高崎映画祭 最優秀新人俳優賞を受賞しています。
『HAPPYEND』の後に初めて演技を「楽しい」と感じるまで
主演映画で俳優デビューしたからといって、日高さんの中ですぐに演技の方法が固まったわけではありませんでした。
むしろ『HAPPYEND』を終えて別のオーディションへ行くようになってから、演技そのものについて分からないことが増えていきます。
デビュー後のオーディションで演技の難しさにぶつかる
『HAPPYEND』では、空監督が日高さん自身のパーソナリティや生っぽい反応を重視していたため、本人はほとんど直感で演じていたと話しています。
ところが作品を終え、別の役を求められるオーディションへ行くと、何を「演技」として出せばいいのか分からなくなりました。
先輩俳優に相談しても自分の中で十分に腑に落ちないまま、次の転機になったのが玉田企画との出会いでした。
玉田企画『地図にない』のワークショップで感覚が変わる
2025年、玉田真也さん作・演出の舞台『地図にない』のワークショップオーディションに参加します。
そこで玉田さんから、普段の自分が持っているものを全部使うのではなく、その瞬間に必要なものだけを取り出して演じる方法を提案されました。
アドバイスを受けながら自分の演技が変化する体験をし、このワークショップで初めて演技を「面白い」「楽しい」と感じたと話しています。
そのまま『地図にない』への出演が決まり、稽古では経験を重ねてきた共演者たちのセリフの変化や見せ方を間近で見ることになりました。
映画主演で俳優になった後に、舞台のワークショップでようやく演技そのものを楽しめる感覚が生まれています。
自分の癖や感情を観察する現在の役作り
現在の日高さんが日常的に行っているのは、役のことだけを考え続ける作業ではありません。
自分の癖に気づけばメモを取り、どんな瞬間に喜怒哀楽が生まれるのか、誰といるときに自然でいられるのか、初対面の相手を前にするとどう変化するのかを観察しています。
「自分自身と向き合うこと」
DONGYU CLUB
中学生のころには自分の走行動画を見てフォームを確認し、現在は自分の言動や感情の動きを観察しています。
本人自身も、400mと俳優には自分自身と向き合う個人競技のような部分があると感じています。
走る対象がなくなった後も、自分を見るという行動は別の形で続いています。
朝ドラ出演へ|映画・ドラマ・舞台へ広がった現在
『HAPPYEND』で俳優としてスタートした後、仕事は映画だけでなくテレビドラマや舞台へ広がりました。
現在もモデルを続けながら、学生、兵士、刑事など、競技生活を送っていたころには想像していなかった役を演じています。
『東京サラダボウル』『あんぱん』から『ばけばけ』へ
2025年にはNHKドラマ『東京サラダボウル』、ABC『恋愛革命』などへ出演しました。
同年のNHK連続テレビ小説『あんぱん』では、小倉連隊の初年兵・目黒新役を演じています。
さらにカンテレ『僕達はまだその星の校則を知らない』では鷹野良則、日本テレビ『ESCAPE それは誘拐のはずだった』では捜査一課のキャリア刑事田端春輝を演じ、学生役以外にも役幅が広がりました。
続く連続テレビ小説『ばけばけ』では、ヘブンに英語を学ぶ松江中学校の秀才・正木清一役で出演しています。
高校時代には「陸上のためだけに通っていた」と話していた日高さんが、俳優になってからさまざまな時代の学生を演じる仕事が続いています。
モデルと俳優を続けながら次の舞台へ
俳優業が増えた後もモデル活動は続いており、所属事務所のプロフィールでは日本と韓国の2拠点でモデルとして活動していることが紹介されています。
2025年に『地図にない』で初舞台を経験し、2026年10月17日からは細川徹さん作・演出の舞台『二階堂朝陽は助けに来る』東京公演への出演が予定されています。
モデルを始める前まで人生の中心だった400mは、現在の仕事とはまったく違うようで、本人の中では「自分自身と向き合う」というところで俳優の仕事と重なっています。
小学生のころから走ることが好きだった日高由起刀さんは、400mで全国の上位まで進み、大学でも競技を続けました。
高校最後の大切なレースと大学での進路選択を経て陸上を離れたあと、モデルを始めて間もなく『HAPPYEND』と出会い、俳優としての生活が始まりました。
現在は映画、ドラマ、舞台、モデルと活動の場所を広げながら、競技時代とは違う方法で自分自身と向き合っています。
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出身地・年代・人生の原点などの共通点から探せます。












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