トンツカタン森本こと森本晋太郎さんは、テンポの速いツッコミに加え、MCや配信、英語を生かした仕事でも活動しているお笑い芸人です。
所属するプロダクション人力舎のプロフィールには、英語力としてTOEFL iBT108点が記載されています。
- 家庭では日本語で生活しながら、学校では英語中心の環境に身を置いた。
- 幼稚園から高校までインターナショナルスクールに通った経験が英語力の土台になり、後の芸能活動でも武器になった。
- 現在の道につながる原点:学生時代から活動
ただ、森本さんは海外で長く暮らした帰国子女ではなく、東京で育りながらインターナショナルスクールへ通っていました。
英語力の大きな転機になったのは、小学2年ごろに日本語へ頼れない教室で過ごすようになったことでした。
高校卒業後は国際基督教大学(ICU)へ進み、大学のお笑いサークル、スクールJCAを経てプロの芸人へ進んでいます。
トンツカタン森本の生い立ちと家族|「金持ち」といわれる実家とインター生活
森本晋太郎さんは1990年1月9日に東京都で生まれ、父親、母親、妹のいる家庭で育ちました。
子どものころからインターナショナルスクールへ通っていたため家庭も英語中心だったように見えますが、家の中では日本語が使われ、両親も英語を話せなかったと本人が説明しています。
父・母・妹のいる家庭|本人は「めちゃくちゃ裕福ではなかった」と説明
森本さんの実家については、長年インターナショナルスクールへ通った経歴から「金持ちなのでは」と注目されることがあります。
2026年にテレビで学費を聞かれた際には、自分が通っていた約30年前でも年間約200万円だったと明かしています。
一方、家庭そのものについて本人は次のように話しています。
「めちゃくちゃ裕福な家庭というわけではなかったです。」
HugKum
妹は森本さんと同じ学校ではなく、一般的な公立学校へ通っていました。
森本さんが通っていた学校が男子校だったこともあり、兄妹で同じ教育環境をたどったわけではありません。
両親は英語を話せないのに幼稚園からインターナショナルスクールへ
インターナショナルスクールへ進むきっかけは、幼いころの友人が先に通い始めたことでした。
その学校の存在を知った両親は、英語が身につけば将来は世界を舞台に仕事をする可能性も広がると考え、森本さんも通わせることにしました。
両親自身に海外生活の経験があったわけではなく、英語も話せなかったため、家庭で英語の英才教育を受けていたわけではありません。
小学校へ上がる際には、日本の学校へ移るか、そのままインターナショナルスクールへ進むかを本人にも尋ねたそうです。
当時の森本さんは、それまで知っている環境から突然離れることへの不安もあり、インターナショナルスクールに残る道を選びました。
小学2年で日本人が自分だけのクラスに|英語を使うしかない毎日が始まる
幼いころからインターナショナルスクールへ通っていたものの、小学1年ごろまでは森本さん自身も英語を十分に話せなかったといいます。
日本語が分かる友人が近くにいれば、その子を頼りながら学校生活を送ることもできました。
ところが小学2年ごろになると、クラスの日本人が森本さん一人という環境になりました。
先生や友人と話すためには、自分から英語を使うしかありませんでした。
このころから英語で話せるようになった実感が出てきたと本人は振り返っています。
家に帰れば両親とは日本語で話すため、学校では英語、家庭では日本語という生活が続きました。
海外へ移住して英語を覚えたのではなく、東京で暮らしながら学校生活の中で英語を使い続けたことが、森本さんの英語力の土台になっています。
三者面談では本人が通訳|両親が焼きそばを作った学校の「カーニバル」
英語を話せない両親に代わり、学校から届く英文の手紙を森本さん自身が日本語で説明することもありました。
先生と両親との三者面談では、子どもの森本さんが先生と両親の間に入って通訳していました。
学校の「カーニバル」では、さまざまな国の保護者が自国にちなんだ料理を用意し、日本のブースでは両親が焼きそばを作っていたそうです。
森本さんも、アメリカ、韓国、中国、インド、ヨーロッパなどさまざまな背景を持つ子どもたちと同じ学校で過ごしていました。
家族情報
公開情報で確認できている家族について、続柄・職業・補足・出典を整理しています。
小中高のインターナショナルスクール時代|英語の中で日本のお笑いに夢中になる
学校では英語で授業を受けていましたが、森本さんが夢中になっていたのは日本のお笑いでした。
家でテレビやラジオを楽しみ、学校でも少しずつ日本のお笑いを知っている友人を見つけていきます。
小学生ですでにツッコミ|外国人の友人との会話で生まれた最初の一言
森本さんが自分の「初ツッコミ」として覚えている出来事は、小学3年生ごろに起きました。
日本語を話せるインド人の同級生、ネハル・ドシさんと十二支の話をしていたとき、森本さんが相手に「何年?」と尋ねると、「ドシ」という音を名字のことだと思った友人から思わぬ返事が返ってきました。
そこで森本さんの口から、とっさにこんな言葉が出ています。
「そっちの“ドシ”じゃねえよ!」
STREAM
友人には特にウケなかったものの、森本さん自身にはツッコミを入れた感触が強く残りました。
小学4年になるころには、それまでのスクールバスではなく電車を使って二子玉川方面の学校へ通うようになり、駅から坂道を上って登校していました。
放課後には多摩川の河川敷で過ごしたり、ファストフード店で友人とトランプをしたりする時間もありました。
学校では英語、家では日本のお笑い|中学で上田晋也のラジオにハマる
中学生になると、森本さんはテレビだけでなくラジオのお笑いにも夢中になっていきます。
とりわけ聴いていたのが、くりぃむしちゅー上田晋也さんが出演していたラジオ番組でした。
上田さんの言葉やツッコミを聴くうちに、中学生の森本さんは芸人という仕事を自分の将来として意識し始めました。
ラジオには投稿もしており、後年になって当時使っていたラジオネームの話を公式Xで明かしています。
学校では英語を使いながら、家では日本語のテレビやラジオに触れる時間が、日本のお笑いとの距離を縮めていきました。
日本のお笑い好きの仲間が集まり、休み時間にも笑いを共有
インターナショナルスクールでは、森本さんの好きな日本のお笑いが誰にでも通じたわけではありません。
それでも「爆笑レッドカーペット」「エンタの神様」「爆笑オンエアバトル」「M-1グランプリ」などを見ている仲間が少しずつ集まり、日本語でお笑いの話をするようになりました。
休み時間にはサイコロを使い、テレビ番組のように自分たちで「すべらない話」をする遊びまでしていたそうです。
森本さんが学生時代のツッコミを振り返った「矢作とアイクの英会話」の公式動画でも、当時の学校生活について本人の言葉で語られています。
高校時代は三軒茶屋へ毎日のように集合|仲良し6人組「六茶」
高校時代には、休日に友人たちと集まり、組み合わせを替えながらひたすら漫才をするという遊びもしていました。
後年送られてきた当時の映像には、「新しいおせちを考える」というテーマで長い漫才をしたあと、最後は笑顔でポーズを決める高校生の森本さんたちが残っていました。
学校外では仲の良い6人組で三軒茶屋へ出かけることが多く、自分たちを「六茶」と呼んでいました。
高校時代は毎日のように三軒茶屋へ集まり、食事をしたり話したりしながら過ごしていたと森本さんは地元についてのエッセイで振り返っています。
高校3年の春には、同級生と多摩川へドラマ「ROOKIES」の撮影を見に行ったこともあり、教室の外にも友人たちとの具体的な思い出が残っています。
卒業が近づくころにはお笑いの仕事を考えていましたが、両親からはまず大学へ行くよう求められました。
森本晋太郎さんは1990年1月9日に東京都で生まれ、父親、母親、妹のいる家庭で育ちました。
高校時代には、休日に友人たちと集まり、組み合わせを替えながらひたすら漫才をするという遊びもしていました。
インターナショナルスクールの友人たちには海外の大学へ進む人も多い中、森本さんは日本のお笑いから離れない進路を選びました。
大学受験では上智大学とICUの両方に合格し、その中からICUを選びました。
芸人になった2013年ごろはライブが月に数本あり、それ以外の日はネタを考えるか、アルバイトをして過ごしていました。
ICU大学時代|友人ができない日々からお笑いサークルへ
インターナショナルスクールの友人たちには海外の大学へ進む人も多い中、森本さんは日本のお笑いから離れない進路を選びました。
2008年、森本さんは国際基督教大学(ICU)へ進学します。
海外大学ではなく日本へ|上智とICUに合格しICUを選んだ理由
大学受験では上智大学とICUの両方に合格し、その中からICUを選びました。
高校生の時点ですでに芸人への興味が強く、海外の大学へ進んで日本のお笑いから何年も離れる道は選びませんでした。
両親との約束だった大学進学を果たしながら、お笑いを目指せる日本に残るという進路でした。
ただ、長くインターナショナルスクールで過ごした本人には、日本語の語彙や日本特有の文化をどこまで知っているかという不安もありました。
男子校育ちのツッコミが通じず、キャンパスで一人になる
高校まで過ごした学校は男子校で、ICUへ入ると一気に周囲の人間関係が変わりました。
森本さんは、それまで友人同士なら普通に交わしていた強めのツッコミを大学でも入れていました。
ところが新しく知り合った学生には冗談として伝わらず、「怒っている」「怖い」と受け取られてしまいます。
高校まで人との距離を縮めていたツッコミが、大学では逆に人を遠ざける場面が出てきました。
友人関係がうまく作れなかった森本さんは、空き時間をなるべく作らないよう授業を詰めていました。
昼休みの「コッペパン生活」から、お笑いサークルが居場所に
授業を詰めても避けにくかったのが昼休みでした。
授業が終わると売店へ向かい、コッペパンを買い、そのまま図書館へ歩きながら食べます。
図書館へ着くころには食べ終え、ゴミを捨ててから次の授業まで眠るという過ごし方を、本人は半年ほど続けていたと話しています。
大学の昼休みを一人でやり過ごす生活が変わったのは、2年生になってお笑いサークルへ入ってからでした。
サークルに入ると、以前なら怖がられていたツッコミも「お笑いをやっている人のツッコミ」として受け止められるようになりました。
4〜5人の小さなサークルでライブと大会へ|プロを意識するように
ICUのお笑いサークルは、森本さんが参加したころ4〜5人ほどの小さな集まりでした。
D館に集まり、月に一度ほど教室を借りて昼休みにライブを開いていました。
森本さんの最初の舞台では、「流しそうめん部」や「レジ打ちの神様」といったコントを並べ、全体で1時間半ほどの公演を行ったといいます。
その後は森本さんから、テレビのネタ番組のように一組ずつ短いネタを見せる形も提案しました。
大学お笑いの大会へ出場すると入賞や優勝を経験し、プロを目指す気持ちが具体的になっていきます。
森本さんは当時の決断をこう振り返っています。
「もう行ったれっ〜ていうので決めました。」
国際基督教大学校友会
ICU3年でJCAへ応募するも入学できず、漫画喫茶で養成所資金を貯める
大学3年になると、森本さんはプロダクション人力舎の養成所スクールJCAへ願書を出しました。
ところが大学とのダブルスクールは認められず、この時点では入学できませんでした。
そこで卒業後の入学に備え、実家からも近い三軒茶屋の漫画喫茶「まんがの図書館 ガリレオ」でアルバイトを始めます。
店には一般的な漫画喫茶のような個室がなく、漫画の棚と読書スペースが並ぶ独特の場所でした。
養成所の入学費用を貯める目的があり、大学時代は友人と遊びに出る機会も少なかったため、お金は比較的早く貯まったそうです。
2012年にICUを卒業すると、森本さんは改めてJCAへの道を選びました。
スクールJCAからトンツカタン結成へ|相方の「獣医になる」で進路が変わる
大学を卒業した森本さんは、スクールJCA21期として芸人の養成所生活を始めます。
大学では小さなお笑いサークルが活動場所でしたが、ここから周囲は全員が芸人を目指す人たちになりました。
ICU卒業後にJCA21期へ|目指していたのは2人漫才
森本さんが人力舎を選んだ背景には、所属芸人が出演するラジオ番組を以前から好んでいたことや、大人数の事務所ではない印象を持っていたことがありました。
JCAへ入った時点でやりたかったのは、2人組での漫才でした。
養成所内で相方を見つけてコンビを組み、秋ごろから始まる生徒ライブにも出演していきます。
卒業直前にコンビ解散|最初の相方が選んだ別の夢
ところがJCA卒業が近づいたころ、最初に組んでいた相方から別の進路について知らされます。
相方が本当に目指したかったのは、芸人ではなく獣医でした。
卒業後も2人で漫才を続ける予定だった森本さんは、養成所生活の終盤で突然コンビを失うことになりました。
芸人になること自体をやめたわけではないため、新しい相手を探す必要が出てきます。
ツッコミを探していたお抹茶・櫻田と合流し3人組へ
同じころ、JCAではお抹茶さんと櫻田佑さんが2人で活動していました。
2人ともボケ側のタイプで、お抹茶さんが無理にツッコミを担う形になっていたため、コンビ内ではツッコミ役を必要としていました。
そこで声をかけられたのが、コンビを解散したばかりの森本さんです。
2人漫才をするつもりでJCAへ入った森本さんは、卒業間近になってお抹茶さん、櫻田さんとの3人組へ進路を変えることになりました。
お抹茶が覚えているJCA時代の「天才ツッコミ」森本
森本さんのツッコミは、同じ養成所にいたお抹茶さんの記憶にも強く残っていました。
当時について、お抹茶さんは次のように話しています。
「養成所の中では“天才ツッコミ”だったんですよ。」
テレビ朝日 logirl
生徒だけでなく講師からも注目され、通常の養成所ライブを飛び越えて人力舎のライブ「バカ爆走!」へ出す案まで出ていたそうです。
ところが森本さんが授業を休んだことで、その話は流れてしまいました。
結成直後はうまくいかず、解散寸前まで進んでいた
3人で組めばすぐに形が整ったわけではありませんでした。
それぞれのやりたいお笑いやネタの作り方を合わせるところから始まり、結成当初には関係がうまくいかず、解散を考えるところまで進んだ時期もありました。
それでもライブで試しながら形を探し、JCAの卒業審査では「トンツカタン」として名前を呼ばれます。
卒業直前に最初のコンビを失った森本さんは、別の2人と組んだトリオで人力舎所属への入口を通りました。
2013年から、森本さんはトンツカタンとして本格的な芸人活動へ入っていきます。
若手芸人時代|実家で肩身の狭い生活と三軒茶屋のアルバイト
芸人になっても、すぐに仕事だけで生活できる状態にはなりませんでした。
ライブへ出演しながら、大学時代から働いていた三軒茶屋の漫画喫茶にも引き続き通います。
芸人になることに両親は反対|「いつやめるの?」と言われた最初の1〜2年
両親は、森本さんが大学を卒業して芸人になることを当初から歓迎していたわけではありません。
幼いころから費用をかけて学校へ通わせ、大学まで卒業したあとで芸人になると聞かされ、驚きも大きかったようです。
プロになって最初の1〜2年は、両親から芸人をいつまで続けるのか尋ねられることもありました。
当時は実家暮らしで、昼過ぎに起きて夕方から出かけ、深夜に帰ってくるような生活になる日もあり、家の中で居心地の悪さを感じる時期もあったと森本さんは語っています。
妹は比較的応援してくれていたそうで、家族の中でも芸人という進路への反応は同じではありませんでした。
2013年の活動開始後も漫画喫茶「ガリレオ」で働く
芸人になった2013年ごろはライブが月に数本あり、それ以外の日はネタを考えるか、アルバイトをして過ごしていました。
勤務先は大学時代から続けていた「まんがの図書館 ガリレオ」です。
テレビへ少し出演する機会があっても、それだけで生活が大きく変わるわけではなく、三軒茶屋の店へ戻って働く日々が続きました。
「芸人になった」でアルバイト生活が終わったのではなく、舞台と漫画喫茶を行き来する時間が若手時代には続いていました。
鳥山大介と通った焼肉店「まめ牛」|売れない時期に生まれた配信の話
JCA同期には、のちに森本さんと長く配信を続けることになる鳥山大介さんがいました。
養成所では最初から同じクラスだったわけではありませんが、ライブが始まるころから交流が増え、どちらも三軒茶屋周辺で暮らしていることが分かるとよく会うようになります。
2人が何度も通ったのが、三軒茶屋の安い焼肉店「まめ牛」でした。
食事をしながら最近あったことや仕事への不満を話し、いつか2人でトークを配信できたらいいという話も出ていました。
この時点では実際の企画になることなく、雑談の中の話として一度消えていきます。
テレビ出演をきっかけに両親の反応が応援へ変わる
芸人生活が2年目に入ったころ、トンツカタンにテレビ出演の機会が訪れました。
番組では、多くの若手芸人の中から選ばれた期待の存在という形で紹介されました。
その放送を両親が見たことをきっかけに、それまで退路を気にしていた家族の反応が応援へ変わっていきます。
森本さん本人にとってはまだ若手芸人としての日々が続いていましたが、家の中で芸人の仕事を見られる空気は変わりました。
インスタライブから仕事の幅が広がる|ツッコミ・英語・配信が現在の活動へ
若手時代が続く中、漫画喫茶「ガリレオ」では一時、店を閉める話が持ち上がりました。
店で働いていたスタッフが経営を引き継ぐため勉強を始め、森本さんが長く働いてきた場所は営業を続けることになります。
そして2017年の終わり、かつて焼肉店で話したままになっていた鳥山さんとの「配信」が実際に動き始めました。
2017年12月、鳥山大介と始めたインスタライブ「おこたしゃべり」
2017年12月1日、鳥山さんと「まめ牛」で会った森本さんは、以前から頭にあった配信の話を改めて持ち出しました。
「あのさ、配信やんない?」
SUUMOタウン
2人は鳥山さんの部屋へ移動し、こたつの上に置いたティッシュ箱へスマートフォンを立てかけ、Instagramのライブ配信を始めました。
当時のInstagram Liveはアーカイブが長期間残る現在の配信サービスとは違い、配信後の視聴にも時間的な制約がある時期でした。
最初の配信は、少し緊張しながら近況を話すような1時間になりました。
終わってみると2人とも手応えを感じ、「おこたしゃべり」と名づけて月に25〜30回ほど配信するほどのペースへ変わっていきます。
配信を通じて人とのつながりが増え、フワちゃんらとの仕事へ
「おこたしゃべり」は一度きりの企画で終わらず、森本さんと鳥山さんの日常的な活動になりました。
配信には芸人仲間だけでなく、高校時代の「六茶」の友人が登場することもあり、もともとの交友関係と芸人として知り合った人たちが同じ場所へ集まるようになります。
フワちゃんや岡田康太さんらも出演し、配信を通じて続く関係が新しい仕事へつながる場面も増えていきました。
トンツカタンとしての活動も続き、2020年には森本さんが新しい宣材写真を公式Xで公開しています。
2022年ごろには「おこたしゃべり」の開始から5年ほどが過ぎ、学生時代からの友人、JCA同期、仕事で出会った人たちが配信を介して交わる状態になっていました。
英語とツッコミを生かし、MC・YouTube・Podcastへ活動が広がる
芸人として仕事が増えるにつれ、森本さんが子どものころから身につけてきた英語も番組で使われるようになりました。
フワちゃんと英語を扱う番組へ出演するなど、学校生活では日常の言葉だった英語が芸人としての仕事にも入っていきます。
一方、ツッコミを前面に出した企画では、ゲストに一定回数ツッコむまで終われないYouTube企画「タイマン森本」が展開されました。
さらにPodcast「MC休止中」や、鳥山さんとの「おこたしゃべり」など、舞台やテレビ以外でも話す仕事が続いています。
小学生のころに友人へ飛び出したツッコミと、学校で身につけた英語は、別々の形で森本さんの仕事に残っています。
2026年4月にトンツカタン解散|森本晋太郎は人力舎で個人活動を継続
2026年3月24日、トンツカタンは3人そろって今後について発表しました。
人力舎は、2026年4月18日のライブ出演を最後にトンツカタンが解散したことを公式に発表しています。
解散後も森本晋太郎さん、お抹茶さん、櫻田佑さんの3人はそれぞれプロダクション人力舎で活動を続けることになりました。
森本さんの人力舎公式プロフィールでは現在も「トンツカタン森本」の名前が使われ、MC、YouTube、Podcast、配信などの活動が掲載されています。
2026年7月には「タイマン森本 THE LIVE 2026」も開催され、ステージ上で多数のツッコミを繰り出す企画を続けました。
トリオとしての活動は終わりましたが、森本さん自身のお笑いと発信活動はその後も続いています。
英語を使わざるを得なかった小学生時代には、日本のお笑いを知る友人を見つけてツッコミを交わす時間がありました。
ICUで一人で過ごした昼休みからお笑いサークルへ入り、JCA卒業間近のコンビ解散を経て、森本さんはトンツカタンのツッコミ役として芸人生活を始めました。
2026年にトリオが解散した現在も、子どものころから続いてきた英語、ツッコミ、ラジオや配信への興味を使いながら活動を続けています。
トンツカタン森本と似た生い立ちの人物は?
出身地・年代・人生の原点などの共通点から探せます。











