田中渓の生い立ちと家族|中学受験の挫折、吹奏楽・上智大学からゴールドマンへ

田中渓
ひと目でわかるプロフィール 田中渓
たなかけい
出身地
神奈川県
生まれ年代
1980年代生まれ
活動ジャンル
投資家
性別
男性
育った家庭
横浜で育ち、父がクラシックやフォークを好み、自作アンプやスピーカーのある家庭で音に親しんだ。
キャリアの原点
中学受験で第一志望に届かなかった後、新入生歓迎会で吹奏楽部の演奏に惹かれ、音楽が学生生活の軸になった。

元ゴールドマン・サックスの投資家として知られる田中渓さんは、17年間の在籍中にマネージング・ディレクターとなり、投資部門の日本共同統括まで務めた人物です。

2024年に同社を離れた後も投資を本業にする一方、2026年にはJ-WAVE「VALTURE RADIO」のナビゲーターとなり、金融とは少し違う顔も広く知られるようになりました。

田中渓さんを理解する3つのポイント
  1. 小学生のころは習字や水泳に通い、家庭では父のオーディオや音楽に触れていた。
  2. 大学:上智大学
  3. 中学受験で第一志望に届かなかった後、新入生歓迎会で吹奏楽部の演奏に惹かれ、音楽が学生生活の軸になった。

ところが、昔から金融の世界だけを目指していたわけではなく、中学受験では第一志望に届かず、その後は吹奏楽に熱中し、高校では渋谷の街やレコード店へ通い、大学では夜のクラブでDJをしていました。

上智大学では物理学科を首席で卒業しながら、夜はDJ、さらに複数のアルバイトを掛け持ちする学生生活を送っていたというのも、現在の姿だけを見るとなかなか想像しにくいところです。

その後も大学院、渡米、学生起業、大学院中退と進路は何度か変わり、最終的にたどり着いたゴールドマン・サックスの採用面接は53回に及びました。

田中渓の生い立ちと家族|横浜で育った子ども時代

田中渓さんは1982年5月14日生まれ、横浜出身です。

現在の仕事につながる特別な金融教育を幼いころから受けていたわけではなく、子ども時代の話には、習い事やスポーツ、父親のオーディオなど、ごく日常的な場面が多く登場します。

習字や水泳に通い、ドッジボールと足の速さが得意だった少年時代

小学生のころは、周囲の友達と同じように習字や水泳へ通っていました。

本人が子どものころに得意だったものとして挙げているのは、勉強よりもドッジボールと足の速さです。

小学校高学年になると中学受験に向けて塾へ通い始め、進学先として強く意識するようになったのが慶應でした。

父の自作アンプとスピーカーがあった家

家庭の中で後の田中さんに意外な形で残ったのが、父親が聴いていた音楽とオーディオでした。

父親はクラシックやフォークを好み、アコースティックギターも弾く人で、家には英国B&Wの古いスピーカーが置かれていました。

さらに週末になると、父親が実験用に自作したアンプの音を聴かされることもあり、本人は当時、特別にオーディオへ関心を持っていたわけではなかったといいます。

「音響マニアの父のおかげで耳の素養だけは勝手に育ったのかもしれません。」

Always Listening by Audio-Technica

第一志望の慶應に不合格、中学受験で初めて大きく気持ちが折れる

中学受験では慶應への進学を望んでいましたが、結果は不合格でした。

第一志望に届かなかったことで気持ちが大きく折れ、進学する学校で中高6年間を過ごす意欲まで失っていたと、後年のインタビューで率直に振り返っています。

進学したのは成城中学校で、入学したばかりの田中さんには、まだ新しい学校で打ち込みたいものがありませんでした。

その状態を入学直後に一変させたのが、金融でも勉強でもなく吹奏楽でした。

家族情報

公開情報で確認できている家族について、続柄・職業・補足・出典を整理しています。

父

クラシックやフォークを好み、アコースティックギターや自作アンプ・スピーカーを楽しむ音響好きの父。氏名・職業は登録しない。

信頼できる媒体 出典を見る

田中渓の中学・高校時代|吹奏楽が6年間の軸になる

中学入学後の田中さんは、新入生歓迎会で行われた吹奏楽部の演奏を聴きます。

そこで流れてきた一曲が、それまで音楽経験のなかった中学生の放課後を大きく変えました。

新入生歓迎会の「OMENS OF LOVE」で吹奏楽部へ

吹奏楽部が演奏していたのは、T-SQUAREの「OMENS OF LOVE」でした。

ビートのある曲を複数の楽器が重ねて演奏する音を聞き、田中さんはその場で強く惹かれます。

中学受験後に目標を失っていたところで、「吹奏楽部に入って全国大会を目指す」という新しい目標が生まれました。

最初は裏旋律の美しさに惹かれてオーボエを希望しましたが、実際に担当することになったのはトロンボーンでした。

そのトロンボーンを高校3年生まで6年間続け、途中からは本人が「フルコミット」と表現するほどのめり込んでいきます。

トロンボーンで東京都大会金賞、中3から学生指揮者を務める

吹奏楽部ではバンドとして東京都大会金賞を獲得し、トロンボーン、トランペット、ホルン、チューバによる選抜アンサンブルでも金賞を取りました。

さらに中学3年から高校2年までの3年間は、演奏する側だけでなく学生指揮者も担当しています。

一つの楽器を演奏する立場から、バンド全体を見て人を動かす立場まで中高生のうちに経験していました。

指揮者を希望した理由については、大会で中央に立って礼をすれば目立てるという、本人いわくそれほど立派ではない動機もあったそうです。

放課後はほぼ毎日渋谷へ|レコード店と街で過ごした高校時代

部活動以外の時間にも音楽は広がり、学校帰りには渋谷のタワーレコードやHMVへほぼ毎日のように立ち寄るようになりました。

同じクラシック曲でも指揮者やオーケストラによる違いを聴き比べ、チャイコフスキーの「1812年」は異なる録音を15枚ほど持っていたといいます。

店へ頻繁に通ったことで音楽に詳しい店員とも親しくなり、そこからジャズやワールドミュージック、エレクトロなどへ聴く範囲が広がっていきました。

一方で高校時代の街での姿は、制服でクラシックCDだけを探しているようなものではありませんでした。

耳にピアスを開け、髪にはツイストパーマをかけ、日焼けサロンへ行ったあと、新宿や渋谷、池袋で友人たちと過ごしていました。

友人5人ほどで街にいた際には、当時の若者向け雑誌『東京ストリートニュース!』の小さな枠に載ったこともあります。

プロ奏者の現実を見て音大への進路をやめる

トロンボーンに熱中する中で、一時は音楽大学への進学も考えました。

しかしNHKで放送されたトロンボーン奏者のコンサートを何度もビデオで見て、世界から集まった演奏家たちとの実力差を具体的に感じるようになります。

さらに学校へ指導に来ていたプロのトランペット奏者のOBが、職員室で報酬や車のガソリン代について話している場面も目にしました。

生徒から見れば憧れのプロ奏者でしたが、その仕事を生活として続ける現実まで見えたことで、進路として考えていた音楽家の道を見直します。

高校卒業を前に、6年間続けた音楽を職業にする道から離れ、大学では別の分野を学ぶことになりました。

人生年表 田中渓さんの歩み
幼少期
田中渓の生い立ちと家族|横浜で育った子ども時代

田中渓さんは1982年5月14日生まれ、横浜出身です。

高校
田中渓の中学・高校時代|吹奏楽が6年間の軸になる

中学入学後の田中さんは、新入生歓迎会で行われた吹奏楽部の演奏を聴きます。

高校
放課後はほぼ毎日渋谷へ|レコード店と街で過ごした高校時代

部活動以外の時間にも音楽は広がり、学校帰りには渋谷のタワーレコードやHMVへほぼ毎日のように立ち寄るようになりました。

学生時代
田中渓の大学時代|上智大学首席と夜のDJを両立

2001年、田中さんは上智大学理工学部物理学科へ入学しました。

田中渓の大学時代|上智大学首席と夜のDJを両立

2001年、田中さんは上智大学理工学部物理学科へ入学しました。

中高時代に続けてきた吹奏楽から離れた大学生活では、学問と音楽が別々の場所で進んでいきます。

指定校推薦で上智大学理工学部物理学科へ

物理学を選んだ理由として本人が挙げているのは、数学を道具にして「世の中の仕組みを知りたい」という興味でした。

上智大学そのものを幼いころから第一志望にしていたわけではなく、通っていた高校に指定校推薦の枠があり、その募集先が物理学科だったことも進学の直接的なきっかけでした。

大学ではサークルに入らず、昼間は授業へ出て物理を学び、夜はまったく違う場所へ向かっていました。

渋谷のクラブで「DJ K」|約3000枚のレコードと複数のアルバイト

大学でクラブカルチャーに触れた田中さんは、ヒップホップを中心としたアナログレコードのDJに夢中になります。

レギュラーでプレイしていたのは渋谷のSIMOONで、NUTS、club bar FAMILY、池袋のBED、HARLEMの早い時間帯や川崎のCLUB CITTA’のイベントなどにも出演していました。

渋谷・宇田川町ではManhattan Recordsで新譜を確認してからDMRやCISCOへ回り、時間があれば中目黒の店まで足を延ばしています。

レコードを買う資金を作るため、コンビニ、カラオケ、引っ越し、塾講師、選挙の手伝い、日雇いなど複数のアルバイトも経験しました。

上智大学でのインタビューでは、アルバイトを「7とか8個」掛け持ちしていた時期があったと話しています。

買い集めたレコードは一時およそ3,000枚まで増え、暇さえあれば自宅のターンテーブルを触っていました。

自宅では親から「うるさい」と言われるほどレコードを回し、クラブでは盛り上がりのピークを過ぎた朝4時ごろまでDJブースに残ることもありました。

「一番を狙う」と猛勉強し学科首席で卒業

夜の活動が多い一方、大学の勉強を最低限で済ませていたわけではありませんでした。

学業では、何か一つ目に見える実績を作ろうと最初から首席を狙って勉強しています。

「誰よりも勉強して一番になろう」

アリオーゾweb

2005年、田中さんは上智大学理工学部物理学科を首席で卒業しました。

後年は、物理で繰り返した「仮説を立て、検証し、違った要素を修正する」という考え方が、投資で未来を予測して検証する作業にも使われていると説明しています。

大学院・学生起業から外資の世界へ|ゴールドマンを目指すまで

大学卒業後は、そのまま上智大学大学院へ進学しました。

ただし、ここから金融へ一直線に進んだわけでもなく、海外での経験と学生起業が重なりながら、進路が再び変わっていきます。

大学院進学後、外資を意識して渡米する

大学院へ進んだあと、田中さんは外資系企業の世界を意識し始め、急きょアメリカへ渡りました。

現地ではビジネスセミナー「CVS Leadership Institute」へ参加し、個人競技とチーム競技の両方で優勝しています。

大学で物理を専攻していた田中さんにとって、企業やビジネスを扱う場へ自分から出ていった最初期の経験の一つでした。

シェアハウス事業で学生という立場の限界を知る

同じ学生時代には、まだ現在ほど一般的ではなかったシェアハウス事業で起業しています。

ところが、実際に不動産の世界へ入ると、物件を持つ側と企画する側では資本力がまったく違い、大学生がプロデュースだけで交渉しても簡単には信用されませんでした。

本人は後年、不動産の世界では「金」と「肩書き」が大きくものをいうことを、この事業で知ったと話しています。

そこで「一番早く肩書きと金を手に入れられる場所」を探し、その候補として浮かんだのがゴールドマン・サックスでした。

金融そのものへの憧れからではなく、自分で事業をした際に足りなかった資本と信用を得るために外資金融へ向かったという順番でした。

大学院を中退し「肩書きと資金」を求めて外資系就活へ

大学院は1年で中退し、外資系企業の採用選考へ進みました。

大学時代の専攻は物理で、金融の専門教育を積み上げてきた学生ではなかったため、面接では日常の経験をどう伝えるかも工夫しています。

後年、上智大学で学生に向けて話した際には、コンビニのアルバイトでブルーベリーのシュークリームを売ったような身近な話でも、何を考えてどう動いたかを掘れば面接のエピソードになると説明していました。

53回の面接を経てゴールドマン・サックスへ|2007年入社と金融危機

ゴールドマン・サックスの選考で田中さんが希望したのは、会社の資金で未上場企業や不動産などへ投資する部門でした。

採用枠をめぐる選考は通常より長引き、ここで現在も経歴紹介の際によく知られる数字が生まれます。

部署の約30人と繰り返し会い、面接は53回まで続く

希望していた部署は約30人の規模で、ジョブ型採用だったため、田中さんは部署内の社員と次々に面接しました。

一巡して終わらず二巡目、三巡目まで続き、最終的な面接回数は53回になりました。

20〜30分ほどの短い会話を何十回も重ねる中で、自己紹介のどこで相手の表情が変わるか、どの言い回しが届くかを毎回修正していったといいます。

「あれだけの『強制的な反復練習の場』は、普通では得られません。」

Honda Lab.

2007年に入社、直後の金融危機でチームの9割が削減

長い選考を経て、田中さんは2007年にゴールドマン・サックスへ新卒入社しました。

配属されたのは、不動産、未上場企業、不良債権などに会社の資金を投じる投資部門です。

ところが入社から間もなく世界的な金融危機が起こり、環境は採用されたときから一変しました。

ボーナスはゼロになり、給与も大きく下がり、所属していたチームでは人員削減が進みます。

本人によると、リーマン・ショックの時期にはチームの約9割がリストラされました。

入社してまだ経験の浅い時期に、次は自分かもしれない状態が2〜3年続きました。

エリート集団の「最下層」と感じた新人時代に手を動かす

入社後、周囲には国内外の有名大学や金融の専門知識を持つ人が並び、田中さん自身はその中で「最下層」だと感じていたと振り返っています。

金融危機で人が減ると、経験年数に関係なく残った人が仕事を引き受けなければならなくなりました。

深夜までオフィスに残り、投資判断そのものだけでなく、PowerPointの書式をそろえたり、資料に使う画像を探したりする細かな作業も続けています。

他の社員が帰ったあとのオフィスでは、ポータブルスピーカーからラジオを流しながら作業することもありました。

ゴールドマンで17年|下積みから投資部門日本共同統括まで

金融危機を通過したあとも田中さんは投資部門に残り、案件ごとに異なる企業や資産を扱っていきました。

一つの業界だけを担当し続けるのではなく、新しい投資案件のたびに調査対象や一緒に働く専門家が変わる仕事でした。

不動産・不良債権・企業投資の現場で経験を積む

扱った対象は不動産、不良債権、未上場企業など幅広く、安く取得できる可能性のある資産を調べ、投資後に価値を高めて回収する案件にも携わりました。

17年間では500件を超える投資案件に関わり、そのうち60件以上を実行したとプロフィールで紹介されています。

実行した投資額は合計約4,000億円、企業価値・資産価値ベースでは1.2兆円を超える規模になりました。

学生時代のシェアハウスでは外側から見ていた不動産の世界に、今度は投資家として資本を持って入ることになった形です。

アナリストからMDへ|投資案件を率いる立場になる

入社時のアナリストから、アソシエイト、ヴァイス・プレジデントと進み、最終的にはマネージング・ディレクター(MD)へ昇進しました。

その後は投資部門の日本共同統括を務め、案件を自分で処理するだけでなく、投資チームを率いて意思決定をする側へ移っていきます。

53回の面接を受けて入った新人は、17年の在籍期間のうちに投資部門の日本共同統括まで進みました。

中高の学生指揮者経験が専門家を束ねる仕事で生きる

投資案件を率いる立場になると、弁護士、会計士、税理士、コンサルタント、不動産鑑定士など、異なる専門分野の人たちを一つのチームとして動かす仕事が増えました。

田中さんはこの役割を「オーケストレーション」にたとえています。

専門家それぞれに必要な調査を依頼し、集まった情報を整理し、最後に投資するかどうかの方向を決める仕事で、中高生のころに経験した指揮の感覚を使う場面があったといいます。

30代から始まった早朝習慣と長距離レース

仕事以外では、30代になるとランニングや耐久競技へ活動が広がっていきました。

2018年にはアフリカ・ナミビアで行われたSahara Raceに3人のチームで参加し、7日間で257kmを走っています。

食料や装備を自分で背負うレースで、荷物を減らしすぎて終盤に食料が足りなくなり、周囲の参加者から分けてもらったことまで本人のnoteに残っています。

この大会ではチーム戦で1位となり、その後もトレイルランニングやトライアスロンなどへ競技の幅を広げました。

30代後半ごろからは早朝の運動が日課として定着し、起床後に水を飲み、前日に用意したウェアを着て外へ出るという手順まで固定しています。

始めた理由は「食べることをやめたくなかった」ためで、脂っこいものや炭水化物を我慢する代わりに運動量を増やしていったと本人は話しています。

2024年にゴールドマンを退社|20年来のラジオの夢が動き出す

17年間続いたゴールドマン・サックスでの会社員生活は、2024年に区切りを迎えました。

ここからは投資の仕事を続けながら、それまで会社員としては動かしにくかったメディアやラジオの活動が前へ進み始めます。

42歳で17年間の会社員生活を終える

田中さんは2024年5月にゴールドマン・サックスへの最終出社を終え、その後、同年中に正式に退社しました。

2007年の入社から数えると17年間で、1982年5月生まれの田中さんは42歳を迎えた年でした。

金融危機の中で人員が減っていった新人時代から、日本の投資部門を率いる立場まで過ごした会社を、この年に離れています。

少数精鋭の投資会社で不動産投資責任者へ

退社後に金融そのものから離れたわけではありません。

現在は数千億円規模の資産を運用する少数精鋭の投資会社に所属し、不動産投資の責任者を務めています。

学生時代にシェアハウス事業で触れ、ゴールドマンでも長く扱ってきた不動産は、会社を移った後も本業の中心に残りました。

2024年夏に思い出した「ラジオ番組を持ちたい」という夢

最終出社を終え、新しい仕事へ移るまでの期間には、これまで会社員ではやりにくかったことを試し始めました。

その中で再び表に出てきたのが、以前から持っていたラジオパーソナリティへの思いでした。

「ラジオパーソナリティになって番組を持ちたい。」

田中渓さん公式note「ラジオごと」

ゴールドマン在籍中はメディア出演に制約があり、この夢はいったん長く棚上げされていました。

退社後は書籍の出版やYouTube出演などで金融や仕事の話を発信し始めましたが、本人は後に、それらの活動もラジオ番組を持つための準備として行っていたと明かしています。

長く表に出していなかった金融の経験を発信し始めた背景には、ラジオへたどり着くという別の目的がありました。

2025年に初レギュラー、2026年はJ-WAVE「VALTURE RADIO」へ

2025年3月、本人の公式noteにラジオについて新しい報告が掲載されました。

「4月7日から、20年越しの夢だったFMラジオで番組を持つ、が叶います。」

田中渓さん公式note「ラジオ100周年」

2025年4月7日にInterFMで「Beyond K-point」がスタートし、あえて月曜日の早朝枠を選びました。

番組では金融や習慣の話だけでなく、中高時代のクラシックや吹奏楽、大学時代に聴いたブラックミュージックやクラブミュージックも紹介しています。

「Beyond K-point」は1年間続き、2026年3月30日に最終回を迎えました。

その直後の2026年4月3日からは、長く憧れていたJ-WAVEで「VALTURE RADIO」のナビゲーターを担当しています。

ゴールドマン退社から約2年で、20年近く憧れてきたJ-WAVEのレギュラーナビゲーターまで進みました。

2026年現在、「VALTURE RADIO」は毎週金曜午前5時から放送されています。

中高の音楽、大学DJ、深夜残業のラジオが40代で一つにつながる

現在のラジオ番組で扱う音楽の幅は、金融業を離れてから急に集めたものではありません。

田中さん自身、2025年のnoteで、ラジオは中学・高校、大学、会社員生活、早朝ランニングと、人生の各時期にそばにあったと書いています。

中高で聴いたクラシック、大学のDJブースで扱ったヒップホップやR&B、社会人になって深夜のオフィスで流していたラジオは、それぞれ別の時期の出来事でした。

2026年の「VALTURE RADIO」では、音楽やカルチャーそのものが番組を構成する要素となり、かつて放課後に通っていた渋谷のレコード店についても自分の言葉で話すようになっています。

横浜で父親のオーディオを身近に感じていた少年は、中学受験のあと吹奏楽と出会い、大学では物理とDJの両方に時間を使いました。

学生起業で感じた資本と肩書きの壁からゴールドマン・サックスへ進み、53回の面接と金融危機を経て17年間働いたあと、2024年に会社を離れました。

現在は投資を本業に続けながら、長く生活の中にあった音楽とラジオを、自ら声を届ける仕事として続けています。

参考・出典 この記事で参照した主な資料
正本DB確認日:2026-09-15

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