ラップと歌を行き来しながら自ら作詞・作曲も手がけ、現在はアーティストを生み出すプロデューサーとしても活動しているちゃんみなさん。
日本語・韓国語・英語を操る姿でも知られていますが、そのルーツをたどると、韓国で生まれ、日本・韓国・アメリカを行き来した幼少期がありました。
- 幼少期から複数の文化と言語に触れ、クラシック音楽やバレエにも親しんだ。
- 小学校2年生のころ、バレエの後にスタジオを使っていたヒップホップクラスに惹かれ、母へ習いたいと頼んでヒップホップダンスへ転向した。
- 現在の道につながる原点:自主活動・自主制作
日本の小学校へ入ってからは言葉の壁に直面し、地元の練馬・光が丘では一人でダンスを練習しながら、幼なじみと将来の夢を語っていた時期もあります。
高校では音楽へ本気で向き合うため生活や人間関係を切り替え、韓国へ行こうとしていた進路を変更したあと、高校生RAP選手権へ挑戦しました。
現在のちゃんみなさんから、まだ誰にも知られていなかったころへ時間を戻すと、歌手になる前の具体的な場面がいくつも見えてきます。
ちゃんみなの昔・学歴・出身地を先に整理
ちゃんみなさんの生い立ちを調べる人が特に気になりやすい「昔」「学歴」「出身地」を、まず確認できる範囲で整理します。学校名のように本人・公式情報で裏付けられないものは、推測で断定していません。
| 生まれ | 韓国。幼少期は韓国・日本・アメリカを行き来して育つ |
|---|---|
| 日本での地元 | 東京都練馬区光が丘。小学校に上がる頃から20歳頃まで家族と暮らしたと本人が説明 |
| 家族 | 日本人の父と韓国人の母。母はバレリーナ |
| 高校 | 本人いわく「音楽寄りの学校」のボーカルコース。学校名は本記事では一次情報で確認できないため断定しない |
| 大学 | 進学していないと本人が明言 |
| メジャーデビュー | 2017年 |
光が丘での生活については練馬区公式インタビュー、高校時代についてはFNMNLの本人インタビューで確認できます。
ちゃんみなの生い立ちと家族|出身地は韓国、光が丘で育った幼少期
ちゃんみなさんの本名は乙茂内美奈(おともない・みな)さんで、1998年に韓国で生まれました。
父親は日本人、母親は韓国人で、子どものころは一つの国だけで生活していたわけではありません。
韓国で過ごしたあと、日本やアメリカにも生活の場が移り、小学校へ上がる時期から東京都練馬区の光が丘が日本での生活の中心になっていきます。
日本人の父と韓国人の母のもと韓国で生まれる
17歳だった2016年のインタビューでは、3歳まで韓国に住み、その後は韓国、日本、アメリカを行き来して育ったと紹介されています。
そのため「韓国出身」「日本出身」という一言だけでは、ちゃんみなさんの幼少期を正確には表し切れません。
出生地は韓国で、父親と母親にはそれぞれ日本と韓国のルーツがあり、日本で長く暮らした場所が東京都練馬区でした。
2024年に練馬区のインタビューを受けた際には、小学校に上がるタイミングから光が丘で生活し、定住する前から日本での拠点は光が丘だったと明かしています。
その家には家族と20歳ごろまで暮らしていました。
バレリーナの母の影響でバレエ・ピアノ・バイオリンに触れる
母親はバレリーナで、ちゃんみなさんの幼少期には早くから音楽や踊りが身近にありました。
本人によると、1歳半ごろからピアノを始め、その後はバイオリンなどの楽器やバレエにも触れています。
一方で、将来やりたかった「歌」そのものは、最初から得意だったわけではありません。
後年のインタビューでは、先生から歌を諦めたほうがよいと言われるほど音程や声域に苦戦していた時期があり、それでも自分で歌の練習を続けたと語っています。
楽器やバレエを習う一方で、自分がいちばんやりたかった歌は、自分で練習を重ねて身につけていきました。
母親から聞いた話として、3歳のころには音楽番組を見ながら「歌手になっていい?」と尋ねていたことも、17歳当時のインタビューで明かしています。
小学校入学を前に家族と練馬区光が丘へ
小学校へ進むころになると、ちゃんみなさんは家族と光が丘で暮らすようになります。
現在では地元として練馬を公言していますが、本人にとって光が丘は、後から選んだ活動拠点ではなく子ども時代の日常そのものでした。
「『気づいたらいた!』って感じですね~。」
練馬区公式ホームページ
この光が丘で、学校生活、友人との時間、ダンス練習、初めて人前で歌った経験までが少しずつ重なっていきます。
家族情報
公開情報で確認できている家族について、続柄・職業・補足・出典を整理しています。
ちゃんみなさんの本名は乙茂内美奈(おともない・みな)さんで、1998年に韓国で生まれました。
小学校へ進むころになると、ちゃんみなさんは家族と光が丘で暮らすようになります。
小学校高学年になるころには、音楽を聴くだけでなく、自分が歌って踊るための時間が増えていきました。
中学生になると、ちゃんみなさん自身が後年「少し荒れていた」と表現する時期に入ります。
日本で小学生になったちゃんみなさんには、音楽以前に向き合わなければならないものがありました。
小学校2年生のころ、バレエの後にスタジオを使っていたヒップホップクラスに惹かれ、母へ習いたいと頼んでヒップホップダンスへ転向した。
VOGUE JAPAN|ちゃんみなを知る15の質問ちゃんみなの昔|小学生時代は言葉の壁の中でBIGBANGとラップに出会う
日本で小学生になったちゃんみなさんには、音楽以前に向き合わなければならないものがありました。
幼少期を複数の国で過ごしていたため、日本の学校へ入った時点では日本語を十分に理解できなかったと本人が話しています。
日本語が十分に分からないまま始まった学校生活
小学校では言葉が分からない状態で集団生活に入り、池に落とされたり、新しく買ってもらったランドセルを傷つけられたりするいじめも経験しました。
2026年の『徹子の部屋』でも、このころは日本語がほとんど分からなかったことや、当時の記憶として池やランドセルの出来事が残っていることを話しています。
学校で言葉をうまく使えない時期に、ちゃんみなさんが一人で続けていたことの一つがノートに書くことでした。
文字が分からない時期からノートに思ったことを書いていた
当時は書ける日本語の文字も多くありませんでしたが、ノートには自分が感じたことを書き続け、時にはテスト用紙にも歌詞や詩のようなものを書いていたといいます。
「ずーっとノートを書いている子でした」
ORICON NEWS
「この感情は何という言葉なのか」を探しながら書いていたことも、2026年のテレビ朝日の記事で紹介されています。
まだアーティストとして作品を作るずっと前から、身の回りで起きたことや自分の中にあるものを、ノートへ移す時間がありました。
いじめを受けた時期に部屋で聴いたBIGBANG
学校でつらい出来事が続いていたころ、自室で聴いていた音楽の中にBIGBANGがありました。
それまでバレエや楽器には触れていましたが、BIGBANGを聴いたことで、ちゃんみなさんはラップという表現に強く引かれていきます。
歌手を夢見ていた少女が、ここで新しく「ラップ」という表現に出会いました。
後に歌とラップの両方を使うアーティストになりますが、小学生の時点ではまだ、部屋で一人のリスナーとしてその音楽を聴いていました。
幼なじみMIZYUと放課後を過ごしダンスクラブも作る
学校生活には、長く一緒に過ごした友人もいました。
新しい学校のリーダーズのMIZYUさんは、ちゃんみなさんと保育園から中学校まで一緒だった幼なじみです。
ちゃんみなさんは2016年、3歳から中学校卒業まで仲良く育った大親友がいて、小さいころから互いに同じ夢を追っていたと公式Xに投稿しています。
2026年に2人が再会した際には、小学生のころは放課後から夕食の時間まで一緒にいるほど近い関係だったことも明かされました。
「放課後も夜ご飯まで」
ORICON NEWS
学校にはなかったダンスクラブを2人で立ち上げ、交換日記には、将来それぞれ別のアーティストになって再会することも書いていたといいます。
何年も後にちゃんみなさんとMIZYUさんは実際に別々の音楽活動を始め、2026年にはアーティスト同士としてロサンゼルスでも顔を合わせました。
ちゃんみなの中学時代|光が丘で歌とダンスを続けた日々
小学校高学年になるころには、音楽を聴くだけでなく、自分が歌って踊るための時間が増えていきました。
その舞台になった場所の一つが、日常的に過ごしていた光が丘でした。
地元のステージで「じょいふる」を歌った初舞台
ダンスレッスンに通っていたころ、発表会で歌唱パートを担当する人を先生が募ったことがありました。
歌手になりたかったちゃんみなさんは、そこで自分から「やらせてください」と手を挙げます。
任された曲は、いきものがかりの「じょいふる」でした。
会場は光が丘IMAにある「光の広場」で、本人の記憶では2階や3階の手すりから見ていた人も含め、100人ほどがいたのではないかと振り返っています。
後に大勢の観客を前に歌うちゃんみなさんにとって、地元・光が丘で経験したこの発表会が、記憶に残る最初の歌のステージでした。
小学4年生頃から体育館裏で一人ダンスを練習
ステージとは別に、光が丘にはちゃんみなさんが長い間、一人で通っていた場所がありました。
それが光が丘公園の体育館裏です。
「私はずっと一人で練習してました。」
練馬区公式ホームページ
本人によると、そこで練習していた期間は小学4年生ごろから高校3年生ごろまでに及びます。
一時的に夢中になった習い事ではなく、小学校、中学校、高校と学年が変わっても同じ場所で練習を続けていました。
デビューする前の約8年間、光が丘公園はダンスを繰り返し練習する場所になっていました。
中学時代も楽器と歌は手放さなかった
中学生になると、ちゃんみなさん自身が後年「少し荒れていた」と表現する時期に入ります。
ただ、この時期にも楽器と歌をやめたわけではありませんでした。
FNMNLのインタビューでは、中学時代にも音楽への気持ちは基本的に変わらず、ずっと楽器と歌を続けていたと説明しています。
MIZYUさんとは中学校卒業まで一緒に過ごしていましたが、卒業すると、ちゃんみなさんは次の環境で音楽へ本気で向き合うために生活を大きく変えます。
ちゃんみなの高校時代と学歴|ボーカルコースで音楽へ本気で向かう
高校進学は、ちゃんみなさんにとって学校が変わるだけの節目にはなりませんでした。
それまでの交友関係から離れ、生活の中心を音楽へ置き直します。
高校進学で携帯も変え音楽中心の生活へ
中学時代の友人とは、高校に入って音楽へ本気で取り組み始めたころから関わらなくなり、連絡先がつながる携帯電話も変えました。
「携帯も変えて心機一転しようと思って。」
FNMNL
高校進学を境に、人間関係まで切り替えて音楽へ向かいました。
学校名については本人の発言から確実に確認できる情報が限られますが、高校そのものについては「音楽寄りの学校」だったと説明しています。
音楽寄りの学校のボーカルコースで学ぶ
高校ではボーカルコースに所属し、学校内のライブでも歌う立場になりました。
小学生のころには歌が不得意だと言われ、自分で練習していたちゃんみなさんが、高校では歌を学ぶコースに進んでいたことになります。
一方で、歌だけに絞っていたわけではなく、ラップ、ダンス、楽曲制作へと興味は広がっていました。
この学校で後の楽曲制作にも深く関わる同級生めっしさんと出会います。
最初は仲が良くなかっためっしとサマーライブで急接近
後に親友となる2人ですが、出会った当初から気が合っていたわけではありません。
ちゃんみなさんによれば、最初はめっしさんと仲が良くなく、特別に親しく話す関係でもありませんでした。
関係が動いたのは、高校で行われるサマーライブです。
ボーカルとして出演するちゃんみなさんがバックダンサーを付けたいと考え、ダンスをしていためっしさんへ声をかけました。
一緒に練習を重ねるうち、2人には将来の夢に本気で取り組んでいるという共通点があることが分かっていきます。
めっしと「未成年」を作るまで
当初はダンサーだっためっしさんが歌いたい気持ちをちゃんみなさんへ打ち明けると、2人は一緒に楽曲を作るようになります。
そこで生まれた曲の一つが「未成年 feat. めっし」でした。
ちゃんみなさんは自分のパートだけでなく、めっしさんが歌う部分の歌詞まで書いています。
相手の性格を外から見ながら歌詞を書くほうが、自分自身を客観視して書くより気楽だったとも話しており、まだ高校生の段階で別の歌い手に合わせて言葉を書くことも経験していました。
高校在学中には、自分で歌う、ラップする、踊るだけではなく、曲を書くという仕事まで活動の中へ入り始めていました。
大学には進学せず、高校在学中から音楽の道へ進む
ちゃんみなさんは大学には進学していません。2025年に東京大学で行われた『tiny desk concerts JAPAN』の収録後インタビューで、本人が大学へ行っていないことを明言しています。
一方で、母親からは将来の選択肢として大学進学なども考えるよう言われていたことを後年の対談で振り返っています。それでも、高校在学中から楽曲制作やライブ、高校生RAP選手権への挑戦を重ね、音楽を仕事にする道へ進みました。
そのため、ちゃんみなさんの学歴を見るときは「どの学校を卒業したか」だけでなく、高校時代のうちに音楽制作と活動が本格化したことが大きなポイントになります。
韓国行きをやめて高校生RAP選手権へ|17歳で人生の進路が変わる
高校生活の終盤が近づいたころ、ちゃんみなさんは最初から日本でデビューしようと決めていたわけではありませんでした。
幼少期から韓国とのつながりを持ち、韓国の音楽からも影響を受けていたちゃんみなさんは、韓国で活動することを考えていました。
もともとは韓国で活動するつもりだった
17歳だった2016年のインタビューでは、自分がもともと描いていた進路をはっきり説明しています。
「もともと韓国で活動するのが夢だったんです。」
BuzzFeed Japan
考えていただけではなく、実際に韓国へ行くことを決意するところまで進んでいました。
そこで、その予定を高校で親しくなっためっしさんへ伝えます。
めっしの「行かないで」で日本に残る
韓国へ行く話を聞いためっしさんは、ちゃんみなさんに「行かないで」と伝えました。
ちゃんみなさんは、そのやり取りをきっかけに韓国へ向かう予定を変更し、日本に残ることを決めます。
ここで「韓国で活動する」という予定が変わり、日本で自分の音楽をどう始めるかを探すことになりました。
日本へ残ったあと、すぐにメジャーデビューの話が待っていたわけではありません。
次に考えたのは、日本で自分がどこまで通用するのかを試す方法でした。
日本で活動する道を探して第9回高校生RAP選手権へ応募
そこで応募したのが、現役高校生たちがフリースタイルで競う第9回高校生RAP選手権です。
ちゃんみなさんにとってバトルは、それまで自分が思い描いていた音楽そのものではありませんでした。
それでもラップという共通点のある場で、自分がどこまで進めるのかを確かめるため大会へ出場します。
韓国へ行く予定を変えた直後、自分の限界を試す場所として選んだのが高校生RAP選手権でした。
大会後には厳しい言葉を受けたことも本人が明かしていますが、この出演によって「ちゃんみな」という名前はそれまでより広く知られるようになりました。
出場から約3年後、ちゃんみなさん自身も公式Xで、高校生ラップ選手権を「人生の大事なポイント」と表現しています。
「未成年」「Princess」が注目されメジャーデビューへ
高校生RAP選手権への出演後は、ライブや楽曲制作、トラック提供などを続けながら活動を広げていきました。
高校在学中に発表した「未成年 feat. めっし」や「Princess」も注目され、10代のうちに次の段階へ進みます。
大会に出ること自体をゴールにしたのではなく、大会後も自分で音楽を作って発表する活動が続きました。
高校生ラッパーからアーティストへ|自分で作品を作る活動が始まる
2017年、ちゃんみなさんは「FXXKER」でメジャーデビューしました。
高校生RAP選手権で知られたため「ラッパー」という印象が先行しましたが、本人が目指していたのはラップだけをする活動ではありませんでした。
高校在学中の2017年に「FXXKER」でメジャーデビュー
2017年のメジャーデビュー時には高校生活の終盤にあり、長く練習してきた光が丘公園での時間も終わるころでした。
小学生でBIGBANGを聴いてラップに興味を持ち、高校で友人と楽曲を作り、RAP選手権へ出場した流れの先にメジャーデビューがありました。
歌手を夢見ていた子ども時代から、ラップ、ダンス、作詞を一つずつ活動へ加え、高校卒業を迎えるころには自分の名前で作品を出すようになっていました。
ラップだけに限定せず歌・作詞・作曲・トラック制作へ
メジャーデビュー後も、ちゃんみなさんは一つの表現方法だけに自分を固定しませんでした。
もともと歌手志望だったこともあり、ラップに加えて歌を前面に出す楽曲も作り、自ら作詞や作曲にも関わっていきます。
高校生だった2016年の時点でも、ラップだけではなく歌も続け、日本と韓国の両方で活躍できる存在を目指したいと話していました。
FNMNLのインタビューでは、空き時間にもスマートフォンのGarageBandを使って曲を作り、携帯電話の充電がなくなるほど常に制作していた時期の様子も語っています。
仕事として音楽を始めたあとも、休日の趣味を尋ねられると答えに困るほど、子どものころから続けてきた歌やダンスが生活の中心にありました。
10代ですでに思い描いていたプロデュースの仕事
ちゃんみなさんは17歳のインタビューで、アーティストとしての将来だけでなく、その先にやってみたい仕事についても話していました。
そこに出ていたのがプロデュースです。
自分自身の活動のあとにはプロデュース業も本格的に始め、将来は自分のプロダクションを持ちたいという構想を語っていました。
まだ17歳だった2016年の時点で、本人の口からすでに「プロデュース」という将来像が出ていました。
高校時代には「未成年」でめっしさんの歌詞まで書いていましたが、その後、実際に別のアーティストを選び、楽曲や表現を支える仕事へ進んでいきます。
自分が挑戦する側から人を送り出す側へ
メジャーデビュー後は作品発表やライブを重ね、ちゃんみなさん自身の活動規模が大きくなっていきました。
その一方で、10代から口にしていたプロデュースの仕事が、2020年代に入って具体的なプロジェクトとして動き出します。
『No No Girls』でプロデューサーを務める
2023年、ちゃんみなさんはBMSGと組み、ガールズグループを作るオーディション『No No Girls』を発表しました。
プロジェクトは2024年から2025年にかけて展開され、ちゃんみなさんは候補者を審査するだけでなく、歌、ラップ、ダンス、クリエイティブなどさまざまな面から参加者と関わりました。
高校生のころ、自分自身が大会へ応募して評価を受ける側だった時期から、今度はステージを目指す人たちを見る側へ立場が変わっています。
ただし、候補者に楽曲を渡して歌わせるだけではなく、クリエイティブ審査では参加者自身が作品を作る過程も含まれていました。
オーディションからHANAが誕生する
『No No Girls』を経て誕生したのが、CHIKA、NAOKO、JISOO、YURI、MOMOKA、KOHARU、MAHINAからなる7人組ガールズグループHANAです。
HANAは2025年にデビューし、ちゃんみなさんは自分自身が歌うアーティストとしてだけでなく、別のアーティストを世に送り出すプロデューサーとしても活動するようになりました。
17歳で自分の限界を確かめるためオーディション型の大会へ出場したちゃんみなさんは、20代になると今度は新しい歌い手が世に出るための舞台を作る側に回りました。
幼少期から続いてきた歌・ダンス・制作と現在の活動
ちゃんみなさんの昔をたどると、現在の肩書きにつながる要素は一度にそろったものではありません。
幼少期には母親の影響で楽器やバレエに触れ、小学校ではノートへ言葉を書き、BIGBANGからラップを知り、光が丘公園では一人でダンスを練習していました。
高校ではボーカルを学びながら、めっしさんの歌詞も含めて楽曲を作り、日本に残ると決めたあとには自分の力を試すため高校生RAP選手権へ出場しました。
現在の「歌う・ラップする・踊る・作る・プロデュースする」という活動は、それぞれ別の時期に始まった経験が、長い時間をかけて同じ仕事の中へ集まった形になっています。
韓国で生まれ、家族と光が丘で暮らした子ども時代には、一人で踊る時間やノートへ言葉を書く時間がありました。
高校で音楽へ本気で向かい、韓国へ行く予定を変えて高校生RAP選手権へ挑んだことで、自分の名前で音楽を届ける活動が始まります。
その後も歌、ラップ、制作へ活動を広げ、現在は自分がステージに立つ一方で、HANAのような新しいアーティストを送り出す仕事にも携わっています。
ちゃんみなの生い立ち・学歴でよくある質問
ちゃんみなは何者?
ちゃんみなさんは、日本語・韓国語・英語を操るラッパー/シンガーです。公式プロフィールでは2017年にメジャーデビューしたことが紹介されており、その後は作詞・作曲やステージ制作に加え、『No No Girls』やHANAのプロデュースにも活動を広げています。
ちゃんみなの出身地はどこ?
生まれた場所は韓国です。幼少期は韓国・日本・アメリカを行き来し、小学校に上がる頃から東京都練馬区の光が丘で暮らしました。本人は練馬区のインタビューで、日本での拠点は定住前から光が丘だったと話しています。
ちゃんみなの高校はどこ?
本人は高校について「音楽寄りの学校」で、ボーカルコースだったとFNMNLのインタビューで説明しています。一方、今回確認した本人・公式の一次情報では学校名まで特定できないため、本記事ではネット上の学校名を断定していません。
ちゃんみなは大学に進学した?
大学には進学していません。2025年の『tiny desk concerts JAPAN』収録後インタビューで、ちゃんみなさん自身が大学へ行っていないと話しています。
ちゃんみなはいつデビューした?
公式プロフィールでは、2017年にメジャーデビューしたとされています。高校生のうちにメジャーデビューすることを目標にしていたことも、デビュー当時の本人インタビューで語られています。
「ちゃんみな」という名前の由来は?
本名の「美奈」と活動名のつながりを説明する記事はありますが、今回確認した本人の公式サイトや主要インタビューでは、活動名「ちゃんみな」が決まった経緯を本人自身が説明した一次情報までは確認できませんでした。そのため、本記事では由来を推測で断定していません。
ちゃんみなの生い立ち・家族・学歴まとめ
ちゃんみなさんの昔をたどると、韓国で生まれ、複数の国を行き来した幼少期、光が丘で過ごした小中学生時代、音楽寄りの高校でボーカルを学んだ時期が一本につながっています。
小学生では日本語の壁やいじめを経験する一方、ノートへ言葉を書き、BIGBANGをきっかけにラップへ興味を持ちました。高校では人間関係や生活を切り替えて音楽へ本気で向かい、高校生RAP選手権への挑戦を経て、2017年にメジャーデビューしています。
大学には進学せず音楽の道を選び、現在は自ら歌うだけでなく新しいアーティストを送り出すプロデューサーとしても活動しています。現在の姿だけを見るより、幼少期から学生時代までを時系列で見ると、歌・ダンス・作詞・制作・プロデュースが少しずつつながってきたことが分かります。
ちゃんみなと似た生い立ちの人物は?
出身地・年代・人生の原点などの共通点から探せます。



