園部八奏の生い立ちと家族|兄を追って始めたテニスと中学・高校、14歳で渡米するまで

園部八奏
ひと目でわかるプロフィール 園部八奏
そのべわかな
出身地
埼玉県
生まれ年代
2000年代生まれ
活動ジャンル
テニス選手
性別
女性
家庭環境
両親と育った
育った家庭
両親と4歳上の兄がいる家庭で育ち、兄の影響で4歳ごろにテニスを始めた。
きょうだい構成
2人きょうだい・本人は2番目
キャリアの原点
4歳ごろ、4歳上の兄がテニスをしている姿を見て自分も始めた。

園部八奏(そのべ・わかな)さんは、2025年全豪オープン・ジュニア女子シングルス優勝、同年5月のジュニア世界ランキング1位を経て、17歳だった2025年10月にプロへ転向した左利きのテニス選手です。

174cmの長身から攻める現在のプレーを見ると幼いころから一直線にエリート街道を進んだようにも映りますが、最初にラケットを握った理由は、4歳上の兄がテニスをしていたからでした。

園部八奏さんを理解する3つのポイント
  1. 兄が先にテニスをしており、その姿を見て楽しそうだと感じたことが競技開始のきっかけになった。
  2. 4歳ごろ、4歳上の兄がテニスをしている姿を見て自分も始めた。
  3. 現在の道につながる原点:幼少期から活動

埼玉県で育ち、小学1年から兄と同じクラブへ通うようになった園部さんの原点の一つが与野テニスクラブで、兄の練習を待つ時間にも一人でラケットを振っていた姿を当時のコーチが覚えています。

2025年末には左膝前十字靭帯を断裂して手術を受け、18歳となった2026年は公式戦を離れてリハビリを続けていますが、その歩みをさかのぼると、家族や地元のクラブ、14歳で始まったアメリカ生活が少しずつ現在へつながっています。

園部八奏の生い立ちと家族|兄を追って4歳でテニスを始める

園部八奏さんは2008年1月17日、埼玉県生まれです。

家庭には両親と4歳上の兄がおり、本人より先にテニスを始めていた兄の存在が、最初のきっかけになりました。

テニス未経験の両親と4歳上の兄のいる家庭で育つ

園部さんの両親は、もともとテニス経験者ではありませんでした。

子どもへ専門的に競技を教えるテニス一家というより、先に兄がテニスを始め、その様子を妹の園部さんが身近で見ていた家庭でした。

本人によれば、4歳ごろに4歳上の兄を見て「楽しそう」と思ったことが、自分もテニスを始めるきっかけでした。

「八奏」という名前には、末広がりを連想させる「八」と、世の中へ良い影響を「奏でてほしい」という両親の思いが込められています。

後に海外へ渡る際には家族から無限大をかたどったネックレスを贈られており、競技生活が国外へ広がったあとも家族とのつながりは続いていきました。

近所の家族と始めたテニスが兄を追って本格化

テニスを始めたころは、近所の家族も交えてコートへ出るような環境でした。

最初からプロ選手を目標に専門的な育成を受けていたわけではなく、ボールを打つことや周囲と一緒にプレーすること自体を楽しんでいました。

やがて兄が与野テニスクラブへ移ると、園部さんも小学1年生から同じクラブへ通い始めます。

兄を見て始めた遊びに近いテニスが、ここから毎日の生活の中で大きな割合を占めるようになりました。

バレエとピアノも習った子ども時代

子どものころにしていた習い事はテニスだけではなく、小学1年生になるころまで約1年間バレエも経験しています。

ピアノは小学6年生まで続け、月に2〜3回ほど通っていました。

ところがテニスへ行きたい気持ちが強くなるにつれ、ピアノを休むことが増え、最終的にはテニスを選ぶ形になりました。

左利きなのも幼いころからで、テニスと文字を書く手は左ですが、箸だけは右手を使います。

本人は、箸については右手で教わったためそのまま右利きになったと説明しています。

家族情報

公開情報で確認できている家族について、続柄・職業・補足・出典を整理しています。

兄

4歳上。兄がテニスをしていたことが本人の競技開始のきっかけ。氏名は登録しない。

信頼できる媒体 出典を見る

小学1年で与野テニスクラブへ|兄を待つ間も素振りを続けた

小学1年生で与野テニスクラブへ入ると、園部さんのテニスには少しずつ競技としての色が加わっていきます。

ただし、この時期に本人が感じていたのは重いプレッシャーよりも、好きなようにボールを打てる楽しさでした。

兄と同じクラブへ入り「好きなように打つ」環境で育つ

園部さんを幼いころから見てきた与野テニスクラブの大西亮コーチは、上手な子どもが何人もいる中でも園部さんには目を引くものがあったと後年振り返っています。

教わったことを吸収するとすぐに試し、試合でポイントを失っても、守るより自分から打つ姿勢をなかなか変えませんでした。

関東大会などで負けが続く時期にも、コーチが「そこまで打たなくても」と思うほど攻め続けていたといいます。

大西コーチはその攻撃性を抑え込まず、自由に打たせました。

「ここにいるときはずっと楽しくテニスしていたんです。」

Tennis Classic

結果だけを追う前に「打つことが楽しい」という時間が長くあったことは、当時のクラブ生活を知るうえで欠かせない場面です。

練習後の1時間以上の素振りをコーチが覚えていた

園部さんより4歳年上の兄は、当然ながら練習するクラスや終了時間も妹と同じではありませんでした。

園部さん自身の練習が終わっても、家へ帰るには兄の練習が終わるまで待つ時間がありました。

その待ち時間にしていたのが、1時間以上に及ぶこともあった一人での素振りです。

大西コーチの記憶に残ったのは大会の結果だけではなく、ほかの子どもがいなくなったあとにもラケットを振っていた小学生の姿でした。

クラブへ通うために生まれた「兄を待つ時間」まで、園部さんにとってはテニスに触れる時間になっていました。

両親は勝敗やプレーへ細かく口を出さなかった

テニス経験のなかった両親は、試合で負けたあとに「あのボールをなぜ打ったのか」「なぜ負けたのか」と技術面へ細かく口を出すタイプではありませんでした。

重視していたのは、勝ったか負けたかより、本人が自分なりに頑張ったと言えるかどうかでした。

コーチも自分から攻めるスタイルを抑えず、家庭でもプレーの細部を管理されない環境の中で、園部さんは自分から打つテニスを続けていきます。

人生年表 園部八奏さんの歩み
幼少期
園部八奏の生い立ちと家族|兄を追って4歳でテニスを始める

園部八奏さんは2008年1月17日、埼玉県生まれです。

幼少期
バレエとピアノも習った子ども時代

子どものころにしていた習い事はテニスだけではなく、小学1年生になるころまで約1年間バレエも経験しています。

中学校
中学時代に全国2冠|学校と週6日の練習を両立

小学生のころから全国大会へ挑戦していた園部さんですが、中学年代に入ると結果にも大きな変化が表れます。

現在
18歳の現在は復帰へ向けてサービスや身体の使い方も見直す

負傷から約4カ月がたった2026年春には、ナショナルトレーニングセンターでスクワットやランジなどのトレーニングを行い、軽いフットワークやラリーもできる段階まで進みました。

中学時代に全国2冠|学校と週6日の練習を両立

小学生のころから全国大会へ挑戦していた園部さんですが、中学年代に入ると結果にも大きな変化が表れます。

その一方、13歳当時の生活をたどると、試合の日だけでは分からない学校、宿題、トレーニングまで含めた日常が見えてきます。

中学2年で全国選抜ジュニアとRSK全国選抜を制覇

2021年、それまで全国大会ではベスト8が一つの壁になっていた園部さんが、全国選抜ジュニア14歳以下とRSK全国選抜ジュニアの2大会で優勝しました。

新型コロナウイルスの影響で大会そのものが少なくなった時期を挟みながら、中学2年で国内ジュニアの主要タイトルを立て続けに手にしたことになります。

同じ年にはチェコで行われた国際大会も経験し、海外の選手がポイントを取ったあとすぐ次のプレーへ切り替える姿など、国内とは違う雰囲気にも触れました。

本人にとっては飛行機での移動や現地の街を歩くことまで含めて楽しい経験となり、海外の大会へまた出たいという気持ちも強くなっていきました。

平日は18時から21時まで練習していた13歳の日常

13歳当時の練習は週6日で、平日は学校を終えてから18時ごろに始まり、21時ごろまで約3時間コートに立っていました。

月曜日はテニスを休み、その日もストレッチなどで体を整えていました。

練習ではミニラリー、球出し、ラリー、ポイント形式へ進み、園部さんが特に好きだったのは、勝った選手がコートへ残ってポイントを競う「チャンピオンゲーム」でした。

火曜日には約1時間半のパーソナルトレーニングが入り、週末もテニス前に約1時間、重いウエートを持ち上げることより身体の使い方を意識したトレーニングをしていました。

大会などで学校を休むこともあったため、コートを離れた時間にはYouTubeを見る一方で、たまった宿題にも取り組んでいました。

用具ではストリングが1日に1本ほど切れることもあり、コーチの助言を受けて太さやテンションを変更したという、競技量の多さが伝わる出来事もありました。

「守りに入らず攻め続ける」テニスがすでに形になる

園部さんは13歳のころから、自分の強みとしてフォアハンドを挙げていました。

憧れていた選手は、左利きで攻撃的なプレーをするペトラ・クビトバです。

「目指すテニスは、守りに入らず攻め続けるテニス。」

Tennis Classic

小学生時代に大西コーチが見ていた攻める姿勢は、中学2年の本人が言葉にするほど明確なプレースタイルになっていました。

この年に全国タイトルを二つ獲得すると、次に待っていたのは国内のクラブを移るという規模を超えた環境の変化でした。

14歳でアメリカへ|盛田ファンドを経てIMGアカデミーに留学

全国2冠を果たした翌年の2022年、園部さんは盛田正明テニス・ファンドの支援を受けてアメリカへ向かいます。

14歳でフロリダ州のIMGアカデミーへ生活と練習の拠点を移すことになり、それまで埼玉県を中心に続いてきた日常は大きく変わりました。

全国タイトルの翌年、海外を拠点にする道を選ぶ

IMGアカデミーへ渡る前から海外大会を経験していた園部さんでしたが、遠征と現地生活では意味が違います。

英語を十分に話せない状態でアメリカで暮らし始め、当初は周囲へ自分から積極的に話しかけるタイプでもありませんでした。

与野テニスクラブの大西コーチは、IMGで園部さんを支えることになる広岡龍司コーチと以前から面識があり、テニス以上に新しい生活へなじめるよう支えてほしいと伝えています。

大西コーチから見た園部さんは口数が多いタイプではなく、人見知りする一面がありながら、教わったことへ素直に向き合う選手でした。

練習場所だけでなく言葉も住む場所も変わる中、海外遠征をする選手から、海外で日常生活を送る選手へと変わっていきます。

IMGで練習量が増え、日本人選手にも囲まれて生活

IMGでは広岡コーチのほか複数のスタッフが関わり、成長するにつれて練習量も増えていきました。

2025年ごろの平日は、午前に3〜4時間ほどテニス、午後にも約2時間テニスをしたあと、さらに約1時間のフィジカルトレーニングを行う日程になっていました。

土曜日は午前中に練習し、日曜日は休養する形で、ジュニア大会を世界各地で回りながらこの生活を続けました。

コートの外では寮で過ごすことが多く、週末にコーチの家で食事をしたこともありました。

IMGには石井さやかさん、小池愛菜さんら日本人選手もおり、慣れない海外生活の中に日本語で話せる仲間がいる環境もありました。

アメリカでの時間は練習だけではなく、仲間と遊園地へ出掛けたり、ハロウィーンに仮装したりする機会も生まれ、少しずつ現地での生活範囲が広がっています。

S高等学校で学びながら世界のジュニア大会を回る

高校年代はS高等学校で学び、通信制の仕組みを使いながらアメリカを中心に競技を続けました。

2025年のWTAによる紹介では、学校の好きな科目として国語と理科を挙げ、英語はアメリカでの生活やYouTubeなどを通して少しずつ身につけていたことも明かされています。

テニスを離れればNetflixを見たり眠ったりして過ごすこともあり、海外を転戦する選手でありながら、高校生としての時間も同時に進んでいました。

S高での学習とIMGでの練習を並行しながら世界のジュニア大会へ出場する生活が続き、2023年には大阪スーパージュニアのダブルスやEddie Herrのタイトルも獲得しています。

世界のジュニアで頭角|全米準優勝から全豪優勝へ

アメリカ生活が3年目に入った2024年、園部さんは四大大会ジュニアの決勝まで進みます。

ただ、初めて立ったグランドスラムの決勝は、それまでと同じようにはプレーできない試合になりました。

2024年全米ジュニア決勝では緊張で思うように戦えなかった

2024年9月の全米オープン・ジュニア女子シングルスで決勝へ進んだ園部さんは、イギリスのミカ・ストイサブリェビッチ選手と対戦しました。

結果は4-6、4-6で、グランドスラム・ジュニア初タイトルには届きませんでした。

後に本人が振り返ったのは、技術以前に試合中ずっと緊張が抜けず、自分らしいプレーを十分に出せなかったことでした。

世界大会の決勝まで進んだからこそ、決勝という舞台で普段通りプレーできない経験をしたことになります。

オフに動きとポイントの取り方を修正

全米での準優勝後、園部さんはオフシーズンに身体の動きやポイントの取り方を見直しました。

ただ強いショットを打つだけではなく、どのように相手を動かし、どこで自分から仕掛けるかという部分にも手を入れていきます。

IMGで一緒に練習する機会のあった錦織圭さんからは、フットワークや試合中の考え方にも刺激を受けました。

小学生のころから変わらない攻撃性を残しながら、世界のジュニアで勝つための動きやポイント構成を増やして迎えたのが、2025年1月の全豪オープンでした。

2025年全豪ジュニアを制し、日本女子史上初の大会優勝

全豪オープン・ジュニアでは1回戦でフルセットの接戦を乗り越えると、その後は決勝までセットを失わず勝ち進みました。

2025年1月25日の決勝ではアメリカのクリスティナ・ペニコバ選手を相手に、6-0、6-1で勝利します。

試合時間は54分で、最後はネットへ出てボレーを決め、前年の全米で届かなかったジュニア・グランドスラムのタイトルを手にしました。

全豪オープンのジュニア女子シングルスを日本選手が制したのは園部さんが初めてでした。

日本女子がグランドスラムのジュニア・シングルスを制した例としても、1969年ウィンブルドンの沢松和子さん以来となる優勝でした。

17歳でプロ転向|幼いころからの攻撃的なテニスを武器に

全豪ジュニア優勝後も、園部さんの2025年はジュニア大会だけでは終わりませんでした。

17歳になったばかりの時期から大人のツアーで結果を残し、春にはプロ大会のタイトル、秋には正式なプロ転向へ進みます。

アブダビでツアー初勝利、安藤証券オープンでプロ大会初タイトル

2025年2月のWTA500アブダビ大会では予選を突破して本戦に入り、当時世界ランキング55位だったユアン・ユエ選手を破ってツアーレベル初勝利を挙げました。

全豪ジュニアを制してから間もない17歳が、今度は世界ランキング上位のプロ選手を相手に勝利したことになります。

4月には東京で開催された安藤証券オープン東京2025に出場し、W100カテゴリーへ初出場しながら決勝まで進みました。

決勝では柴原瑛菜選手を6-4、6-7(1)、6-3で破り、国際プロ大会で初めてのシングルスタイトルを獲得しました。

ジュニア世界1位を経て2025年10月にプロへ

プロ大会でも結果を残す一方、ジュニアでは2025年5月26日付でITFジュニア世界ランキング1位に到達します。

そして2025年10月8日、IMGとのマネジメント契約とともにプロ転向を発表しました。

17歳で正式にプロテニス選手として歩き始めることになり、同時にミズノとのブランドアンバサダー契約も発表されています。

「世界で活躍できる選手に」

Tennis Classic

ミズノとの関係はプロ転向時に突然始まったものではなく、ジュニア時代からウェアやシューズを使っていました。

「小さいころからミズノのウエアとシューズを使っていた」

ミズノ

プロ初戦で大坂なおみ、東レPPOでプロ転向後初勝利

プロ転向を発表した直後の木下グループ・ジャパン・オープンで、最初のシングルスの相手になったのは大坂なおみさんでした。

第1セットは0-6で落としましたが、第2セットでは自分から打つ場面が増え、4-6までスコアを戻します。

「足も動いてきて、自分からしっかりエネルギーを出して打てた」

木下グループ・ジャパン・オープン公式サイト

対戦した大坂さんも、園部さんが守りへ引かず攻撃し続けていたことに触れています。

翌週の東レ パン パシフィック オープンではニコラ・バルトゥンコバ選手を6-4、6-3で破り、プロ転向発表後のシングルス初勝利を挙げました。

小学生のころ負けても打ち続け、中学生で「攻め続ける」と口にしていたテニスが、プロ初戦の大坂戦でもそのままコートに出ていました。

プロ1年目の終わりに左膝を負傷|リハビリで再びコートを目指す

全豪ジュニア優勝からプロ転向まで一気に進んだ2025年でしたが、その年の最後に競技生活はいったん止まることになります。

大会中ではなく、国内で行っていたトレーニング中の出来事でした。

2025年12月19日、NTCで左膝前十字靭帯を断裂

2025年12月19日、園部さんはナショナルトレーニングセンターでハードルを使ったトレーニングをしていました。

着地した際にバランスを崩し、左膝から音がしたあと、その場で立てなくなりました。

車いすで診察へ向かい、検査の結果、左膝前十字靭帯断裂と診断されます。

翌日に別の専門医でも同じ診断を受け、幸い半月板には大きな損傷が確認されませんでした。

プロ転向から約2カ月後に、復帰まで長いリハビリを必要とする負傷を経験することになりました。

手術後は歩く練習から一つずつ再開

手術は負傷から4日後に行われ、左膝の後ろ側から採った腱を使って前十字靭帯を再建しました。

術後には強い痛みがあり、さらに胃腸炎も重なりました。

年末年始を病院で過ごしましたが、入院中は家族もたびたび面会に訪れています。

リハビリは手術後数日から始まり、最初は膝を伸ばすところから進めました。

約1週間後には松葉杖を使いながら左脚へ少しずつ体重をかけ、約3週間後には松葉杖を外して歩く練習へ進みました。

2026年1月29日には、椅子に座った状態でボールを打つ練習も再開しています。

2026年3月にはS高等学校の2025年度卒業生となり、全豪オープン・ジュニア優勝の実績で学校から特別表彰を受けました。

18歳の現在は復帰へ向けてサービスや身体の使い方も見直す

負傷から約4カ月がたった2026年春には、ナショナルトレーニングセンターでスクワットやランジなどのトレーニングを行い、軽いフットワークやラリーもできる段階まで進みました。

リハビリでは、膝が内側へ入りやすい身体の使い方も見直しています。

試合へ出られない期間を利用して、サービスなど以前から改善したかった部分にも取り組む時間が生まれました。

2026年4月には前年優勝者として安藤証券オープンの会場を訪れ、サインやファンとの交流にも応じています。

「復帰に向けてがんばるので……、『待っててね』という感じです」

THE DIGEST

2026年8月時点のWTA公式記録では、2026年の公式戦成績は0勝0敗で、選手ページも「Inactive」と表示されています。

復帰時期を先取りして断定できる状況ではなく、現在は再び試合のコートへ立つための時間が続いています。

4歳で兄を追ってラケットを握り、小学1年から与野テニスクラブでボールを打ち続けた時間が、園部八奏さんの競技生活の出発点でした。

中学2年で全国タイトルを獲得した翌年には14歳でアメリカへ渡り、全米ジュニア準優勝、全豪ジュニア優勝を経て17歳でプロの舞台へ進みました。

18歳の現在は左膝の負傷から競技復帰を目指す途中にあり、小学生のころから続けてきた自分から攻めるテニスで再び試合へ戻るための準備を続けています。

参考・出典 この記事で参照した主な資料
正本DB確認日:2026-09-15

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