アパレル企業株式会社yutoriの創業者として東証グロース市場への上場を果たし、現在は経営だけでなく音楽活動にも取り組んでいるゆとりくん。
本名は片石貴展(かたいし・たかのり)さんで、1993年12月25日生まれ、神奈川県出身、2026年8月現在は32歳です。
- 剣道・テニス・サッカー・水泳など、自分がやりたいことを両親が否定せず応援する家庭で育った。勉強を強制されるより、自分で決めることを尊重される環境だった。
- 大学:明治大学商学部
- 現在の道につながる原点:自主活動・自主制作
30歳で上場企業の社長となった現在の姿からは一直線のビジネス人生を想像しそうですが、学生時代をさかのぼると、古着屋を巡ったり、高校2年からアカペラを始めたり、大学では600人規模のライブを目指して仲間と活動したりと、かなり違う景色が続いています。
しかも、会社の出発点となったInstagram「古着女子」は、社会人になって再び組んだ音楽グループを広めるためのメディアとして始まっていました。
ゆとりくんの生い立ちと家族|起業家の父と「自分で決める」家庭
ゆとりくんが育った家庭には、会社を経営する父親と、その会社を手伝っていた母親がいました。
現在の会社経営よりずっと前から、仕事を自分で作る人が身近にいる環境で子ども時代を過ごしていたことになります。
起業家の父と会社を手伝う母、弟・妹と育った子ども時代
家族は父親、母親、本人、弟、妹の5人で、父親は起業して会社を経営していました。
父親からは「セコいことはするな」「弱いものは守れ」と繰り返し言われ、母親は父親の会社を手伝いながら、子どもたちがやろうとすることを強く応援していたそうです。
服を脱ぎっぱなしにするような生活面では注意されても、父母のどちらからも「勉強しなさい」と言われた記憶はないと本人は振り返っています。
何をするかについては本人に任されることが多く、両親から「自分で意思決定する人間」と見られていた家庭でした。
剣道・テニス・サッカー・水泳、公文式も自分から始める
小学生時代はかなり活発で、剣道、テニス、サッカー、水泳と複数の習い事を掛け持ちし、毎日のように予定が入っていました。
ただし、親が予定を決めて通わせていたわけではありません。
「どれも自分でやりたくて親に頼んで始めたもの」
KUMON now!
公文式に通い始めたのも友人がきっかけで、小学1年生ごろから6年生まで続け、最初は国語と算数、途中から英語も学びました。
教室では竹内先生という指導者に世話になり、学校ではあまり褒められなかった本人の特徴を好意的に見てもらったことが強く記憶に残っているそうです。
暗算もかなり速く、自分のペースで先へ進める公文式の学び方が性格に合っていました。
小6で応援団長から突然の孤立|友人関係を一人ずつ作り直す
小学6年生になると、運動会の応援団長を務め、クラスは優勝しました。
学校行事の実行委員長も務めるような目立つ存在で、運動会の直後には本人も「人気者になった」と感じていたといいます。
ところが、それから約1カ月後、状況が急に変わりました。
昼休みに一緒に遊ぶ相手がいない状態になり、それが約3カ月続きました。
本人は後年、応援団長として注目を浴びた後も同じ感覚で振る舞っていたことで、周囲から「調子に乗っている」と受け取られたのではないかと振り返っています。
そこで同じクラスの中でも、自分と同じように中学受験を予定していた友人から再び関係を作り、もともと仲の良かった子へ一人ずつ声をかけていきました。
卒業を迎えるころには、人間関係も再び変化していました。
モバゲーと『野ブタ。をプロデュース』に夢中になった小6
同じ小学6年生ごろ、インターネット上ではモバゲーにも熱中していました。
友達紹介などでポイントやWebMoneyを得る仕組みを試し、その資金を使ってサイト制作を外注するところまで進めていたと本人は後年の対談で明かしています。
テレビでは2005年放送のドラマ『野ブタ。をプロデュース』に強く惹かれました。
学校で目立たなかった人物へ別の角度から光を当て、周囲からの見え方を変えていく物語でした。
「自分がやりたいことは『プロデュース』なんだと気づきました」
KUMON now!
「プロデュース」という言葉を自分のやりたいこととして意識したのは、小学6年生のころでした。
公文国際学園の中学時代|自由な校風でバスケと表現祭に熱中
小学校卒業後は、公文国際学園中等部へ進みました。
同学年約160人が中高6年間をほぼ同じメンバーで過ごす環境に入り、学校生活の中でも本人が企画側へ回る場面が増えていきます。
私服・校則なしの学校に惹かれ、推薦で公文国際学園へ
公文式に通っていたため学校の存在は知っていましたが、進学したいと思った決め手は学校見学でした。
私服で通学でき、校則もほとんどない自由な雰囲気が、本人には先進的でおしゃれに見えたそうです。
当時は公文式学習で中学課程を1教科以上終えていると推薦入試へ進める制度があり、ゆとりくんは3教科で中学課程を修了し、英検3級も取得していました。
竹内先生から推薦を受け、小論文と面接を経て合格しました。
毎朝6時のバスケ部|ベンチでも朝練には通い続ける
中学では、本人が「かっこいい」と思った友人に影響されてバスケットボール部へ入りました。
身長も高くなく、競技が特別得意だったわけでもなく、チームは地区予選2回戦で敗れ、本人もベンチにいることが多かったといいます。
それでも毎朝6時に起き、欠かさず朝練へ参加していました。
小学校時代のように目立つ役割で結果を出した場面とは違い、中学では試合に出られなくても練習へ通う生活が続いていました。
中2の表現祭で仕事を周囲へ任せ、全6学年の最優秀賞に
中学2年では、公文国際学園の文化祭に当たる「表現祭」でクラスの実行委員長を務めました。
クラスで取り組んだのは「世にも異様な物語」という演劇で、最初は本人が発起人となって周囲を巻き込みながら準備を進めていました。
作業が増えるにつれて各担当者へ仕事を渡していくと、それぞれが自分で動くようになり、開催日が近づくほど本人が直接やる作業は少なくなっていったそうです。
本番ではクラス全体が動き、中学・高校の全6学年の中で最優秀賞を獲得しました。
『411』を回し読みし、B-BOYファッションへ興味を持つ
服への興味も中学生のころからはっきりしていきます。
友人とストリート系ファッション誌『411』を回し読みし、横浜のLafayette YOKOHAMAへ買い物に行き、EVISUのパンツを腰履きするようなB-BOYファッションを楽しんでいました。
一方で、当時から海外のHIPHOPやR&Bを深く聴いていたわけではなく、音楽では邦楽を好み、日本で生まれるカルチャーのほうへ興味が向いていたといいます。
中学で触れたストリートファッションは、高校に入ると原宿の古着店やセレクトショップへ足を運ぶ生活へ変わっていきました。
ゆとりくんが育った家庭には、会社を経営する父親と、その会社を手伝っていた母親がいました。
家族は父親、母親、本人、弟、妹の5人で、父親は起業して会社を経営していました。
小学校卒業後は、公文国際学園中等部へ進みました。
公文国際学園高等部へ進んでも、校内だけで生活が完結することはありませんでした。
高校2年には、もう一つ長く続くことになるアカペラも始めています。
高校時代は原宿・古着・アカペラへ|学年下位から受験を巻き返す
公文国際学園高等部へ進んでも、校内だけで生活が完結することはありませんでした。
高校時代は原宿、古着、アカペラへ興味が広がる一方、進級や大学受験を考えなければならないほど成績が下がった時期でもありました。
高1から原宿へ|『CHOKiCHOKi』『TUNE』と古着店を巡る
高校1年から、仲の良い友人と原宿へ遊びに行くようになります。
最初はファッション誌『CHOKiCHOKi』に掲載されている古着店を巡り、やがて、より尖ったストリートスナップを掲載する『TUNE』へ興味が移りました。
セレクトショップの「ミキリハッシン」にも頻繁に足を運び、店を作る人たちが原宿の空気そのものを形にしていく様子を見ていました。
当時は読者モデルや高校生同士のコミュニティも盛り上がっていましたが、本人はそうした輪に入るより、古着店やセレクトショップで、自分の知らない文化を知っている年上の店員と話す時間のほうを楽しんでいたそうです。
学校へ自分の好きな古着を着ていくと、服装を揶揄されたり白い目で見られたりすることもありました。
高2でバスケ部を辞め、服好きの友人と図書館へ通い始める
ファッションへ夢中になっていた一方、高校1年までは学年の下から10番前後にいることが続いていました。
進学できるかどうかも気になる時期になり、高校2年で中学から続けていたバスケットボール部を辞め、受験勉強へ時間を使うことにします。
とはいえ、原宿へ行くことまでやめたわけではありませんでした。
一緒に古着を楽しんでいた友人2人も同じように成績下位だったため、「今日は原宿」「今日は図書館」と予定を決め、遊びと勉強の両方を3人で続けました。
その後、3人とも成績を巻き返して大学進学へ進んでいます。
高校2年からアカペラを始め、ヒューマンビートボックスに熱中
高校2年には、もう一つ長く続くことになるアカペラも始めています。
本人が特に興味を持ったのは、口だけでリズムや楽器音を表現するヒューマンビートボックスでした。
当時活躍していたRoxorLoopsやZeDeらのパフォーマンスにも触れ、自分は歌の主役になるより、リズムを担当するボイスパーカッションへ入っていきました。
大学で突然音楽を始めたのではなく、高校2年からすでにアカペラを続けていたことになります。
先生に「勉強の仕方」を聞き、センター試験学年1位から明治大学特待生へ
受験では、残された時間を考えて私立文系へ志望を絞りました。
最初から参考書へ向かったのではなく、亀井先生や光本先生など、自分を理解してくれていた教師に「各科目をどう勉強すればよいか」を先に聞いて回ったそうです。
勉強方法を決めてから実行へ移し、高校1年まで学年下位だった状態から成績を上げていきました。
そしてセンター試験では学年1位となり、明治大学商学部へ特待生として合格しました。
原宿へ一緒に通っていた友人たちと図書館へ行き始めてから、大学進学までの方向が変わったのは高校2年以降のことでした。
明治大学時代|行き場のなかった6人でThe Snatch!を結成
明治大学商学部へ進学すると、アカペラサークルに所属し、高校から始めていた音楽活動へさらに時間を使うようになります。
一方、大学2年のころには、音楽とは別の場所でも人が変わっていく過程を間近で見る経験をしています。
大学2年の冬、Learning for Allで学習支援ボランティアに参加
2013年冬、大学時代の友人が参加後に変わっていく姿を見たことをきっかけに、学習支援団体Learning for Allの学生ボランティアへ参加しました。
約3カ月のプログラムで中学1年生に数学を教え、授業で使う教材も学生側で作っていました。
同世代の学生たちが子どもへ向き合う姿も印象に残っていたといいます。
「彼らの熱量は本当に圧倒的で刺激になりました」
認定NPO法人 Learning for All
当時LFAを率いていた李炯植さんとはその後も関係が続き、起業した後にも相談する相手となりました。
歌を諦めかけた後輩へ声をかけ、The Snatch!を立ち上げる
大学2年のころ、明大前の飲食店でアカペラサークルの後輩と一緒になりました。
その後輩は歌唱力がありながら周囲とうまくバンドを組めず、「もう観る側でいい」と音楽から離れようとしていました。
そこで片石さんから一緒に活動しようと声をかけると、同じようにグループを組めずにいた学生たちも集まり、男性6人のThe Snatch!が結成されます。
片石さんの担当はボイスパーカッションとリーダーでした。
MixChannelで人気になる一方、落選と大げんかで解散危機へ
The Snatch!は結成しただけで順調に人気グループになったわけではありませんでした。
最初に出たサークル内オーディションは下から2番目で、その後も思うように結果が出ない時期が続きます。
プロの指導を受けるなどして順位を上げたものの、目標にしていた学園祭のメインステージには立てませんでした。
片石さんはグループを「アカペラアイドル」のように見せていく方向を強く押し出しますが、メンバー全員の納得が揃わず、チームが空中分解しかけます。
飲み会ではメンバー同士で大げんかするところまで進みました。
一方、ほとんどのグループが使っていなかったMixChannelへカバー動画を投稿し始めると、SNS上では反応が広がっていきます。
ライブ活動を長く休んだ時期にもTwitterのフォロワーが増え、大学のアカペラサークルの枠を越えて名前が知られるようになりました。
目標を600人に決め直し、新宿ReNYの卒業ライブまで進む
意見がぶつかった後、The Snatch!では全員が同じ方向を見られる新しい目標として、600人規模の卒業ライブを掲げました。
池袋RUIDO K3で初のワンマンライブを開催し、メンバーの公務員試験による活動休止も挟みながら、復活後には新宿RUIDO K4でもワンマンを行っています。
そして2016年3月23日、新宿ReNYで600人規模の卒業ライブを開催するところまで進みました。
「このバンドほど逆境をチャンスに変えられている組織はない」
Makuake「The Snatch!」プロジェクト
卒業ライブの翌日、本人はXでメンバー一人ひとりを「何かの天才」だったと振り返っていました。
アカツキ会社員時代|音楽デビューよりIT企業を選んだ新卒時代
2016年春、大学卒業とThe Snatch!の活動休止が重なり、次の進路を決める時期を迎えました。
音楽の世界に残る選択肢もありましたが、ここで一度まったく違う場所へ移ります。
アカペラでデビューする話もあった卒業前、アカツキへ就職する
卒業前には、そのままアカペラでデビューする話も出ていました。
それでも本人は音楽一本には進まず、「新しい世界を見たい」と考え、成長率が高そうだと感じたIT企業を選びました。
2016年4月に新卒で入社したのが、モバイルゲームなどを手がける株式会社アカツキです。
学生時代に600人規模のライブまで進んだ音楽から、IT企業の会社員へ進路を切り替えました。
新卒1年目に仕事でつまずき、毎週実家へ帰りながら立て直す
ところが、新卒1年目の仕事は大学時代の活動のようには進みませんでした。
自分の考えと職場で求められる進め方の間でぶつかり、仕事上のミスも重なって自信を失っていったと本人は振り返っています。
休職や長期休暇を取ることはありませんでしたが、毎週のように実家へ帰り、両親に話を聞いてもらってから出社する生活になりました。
子ども時代に何をするにも応援していた父母が、成人後に再び登場するのはこの時期です。
その後、自分の考えをいったん前へ出すことをやめ、まず相手が求めることを理解して実行する方向へ仕事の進め方を変えました。
半年ほどの間に、論理的なコミュニケーションや、背景の違う相手と共通認識を作ること、計画を立てて実行することを覚えていったと話しています。
複数の新規事業を経験し、社会人2年目にもう一度音楽を始める
仕事の進め方を変えた後は、アカツキで複数の新規事業の立ち上げを経験するようになりました。
社会人2年目に入ると、会社員生活の外で再び音楽をやろうと考え、新しいグループを組みます。
大学卒業時にいったん活動を終えた音楽が、ここで再び生活の中へ戻ってきました。
ただ、グループを作っただけでは多くの人へ知ってもらえません。
そこで自分たちで人を集められる媒体を持とうと考えました。
音楽グループを広めるため「古着女子」を作り、5カ月で10万人へ
当時のInstagramでは、華やかなファッション写真が目立つ一方、本人が高校時代から親しんできた古着や1990年代的なオルタナティブカルチャーをまとめて見せる媒体はまだ少ないと感じていました。
そこで2017年、「古着」をテーマにしたInstagramアカウント「古着女子」を開設します。
「それを宣伝するために作ったのが『古着女子』だったんです」
Real Sound
つまり、最初からアパレル会社を作るためにInstagramを始めたわけではありませんでした。
音楽グループを広められる自前のメディアが欲しいという目的と、高校時代から続く古着への興味が同じ場所で重なりました。
投稿ではSNS上のコーディネート写真について許可を取り、リポストして紹介する方法を取りました。
すると、広告費をかけず、開設から約5カ月でフォロワー10万人を突破します。
24歳でyutoriを創業|「古着女子」からアパレル会社が生まれる
「古着女子」のフォロワーが増えるにつれ、Instagramの中だけではなく、音楽ライブやフリーマーケットを組み合わせた「古着フェス!」などリアルな企画にも活動が広がりました。
メディアそのものが事業として動き始め、会社員生活から独立へ進みます。
大学時代の友人と資本金10万円で合同会社yutoriを設立
2018年4月、24歳のときに大学時代の友人たちと合同会社yutoriを設立しました。
スタート時の資本金は10万円で、本人は当時を「お金も人脈もスキルもない」状態だったと振り返っています。
創業時の拠点は神奈川県横浜市で、すでに「古着女子」という10万人規模のコミュニティが先に存在していました。
会社を作ってから顧客を探したのではなく、先にInstagram上で人が集まり、その後に法人ができた順番です。
2018年6月に株式会社化し、古着メディアからブランド事業へ
創業時は合同会社でしたが、2018年5月30日の発表時点ですでに組織変更を進めており、同年6月に株式会社へ移行しました。
創業初期はInstagram上の古着コミュニティを軸にしながら、ECやポップアップなど、服を実際に販売する事業へ進んでいきます。
同年には、後にyutoriを代表するブランドの一つとなる「9090」も始まりました。
高校で古着を着て登校し、原宿の店員と話していた時代から数年後、古着を眺める側ではなく、ブランドを作り販売する側へ移っていました。
「古着女子」というコミュニティが先に育ち、その後から会社とブランドが作られていったことが、yutori創業初期の特徴でした。
ZOZOとの提携を経て、2023年に東証グロース市場へ上場
創業から約2年後の2020年7月31日、ZOZOがyutori株式の51%を取得し、yutoriはZOZOグループへ入りました。
当時のyutoriは「古着女子」に加え、「9090」など複数のD2Cブランドを展開し、若年層へ向けたSNSマーケティングを強みにしていました。
その後もブランドの立ち上げやグループ拡大を続け、創業から5年余りが経った2023年12月27日、東京証券取引所グロース市場へ上場しました。
証券コードは5892です。
上場の2日前、12月25日に30歳の誕生日を迎えたばかりでした。
本人の上場当日の投稿には、会社名や証券コードとともに、30歳になった直後にIPOの日を迎えたことも記されています。
上場後にもう一度音楽へ|69(無垢)からソロ「ゆとりくん」へ
会社が上場した後、時間軸は再び音楽へ進みます。
高校2年から始めたアカペラ、大学のThe Snatch!、アカツキ時代に再開した音楽グループに続き、30代に入ってからもう一度、自分自身が表現する側へ立つことになりました。
歌を練習し始め、飛行機の中で書いた言葉から曲作りへ進む
上場前後の時期、歌を練習するようになり、それまで自信を持てなかった自分の声への見方も変わっていきました。
「自分の歌っていいな」
BARKS
当時は出張も多く、飛行機の中でSpotifyのカラオケモードを流しながら、歌詞とポエムの中間のような文章を書いていました。
その言葉を友人でDannie Mayのマサさんへ送ったところ、曲にしてみることを勧められます。
アカペラ時代にボイスパーカッションを担当していたためリズムには馴染みがあり、自分がラップを担当し、KOHEIさんがトップラインを歌う形で制作が進みました。
そこから生まれた初期の楽曲が「junk(ey)」でした。
2024年の69(無垢)を経て、2026年は「ゆとりくん」として活動
2024年にはKOHEIさんとのボーカルユニット69(無垢)として活動を始め、片石さんはYTR名義で作詞を担当しました。
2025年9月には音楽事務所Cloud Nineへの所属を発表し、ソロの「ゆとりくん」名義でも音楽活動を開始します。
2026年2月には1st EP『KINGDAMN』をリリースし、7月には2nd EP『ミラーボールを消して』を発表しました。
高校2年で始めたアカペラは、大学、会社員、起業と時間が進んだ後も途切れながら何度も本人の前へ戻ってきています。
起業家の父と、子どもの選択を応援する母のもとで始まったゆとりくんの子ども時代は、公文国際学園での学校生活、原宿の古着、明治大学でのアカペラへと進んでいきました。
卒業後に選んだ会社員生活の途中で始めた「古着女子」がyutoriの創業へ変わり、24歳で作った会社は30歳を迎えた直後に上場しました。
そして現在は会社を経営しながら、学生時代から何度も続けてきた音楽でも自分の言葉を発信しています。
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