小田切ヒロの生い立ちと若い頃|家族・学生時代から美容部員、藤原美智子の弟子まで

小田切ヒロ
ひと目でわかるプロフィール 小田切ヒロ
おだぎりひろ
出身地
長野県
生まれ年代
1980年代生まれ
性別
男性
家庭環境
その他
育った家庭
実母・父・3歳上の姉・2歳下の弟がいる家庭に生まれ、5歳で両親が離婚後は父に引き取られ、父の再婚後は継母とその連れ子2人を含む…
きょうだい構成
3人きょうだい・本人は2番目
キャリアの原点
養成・修業

テレビやYouTubeで美容を軽快に語り、モデルや俳優のヘアメイクも手掛けるヘア&メイクアップアーティスト・小田切ヒロさん。

1982年2月12日、千葉県生まれで、現在はビューティーディレクターや会社経営者としても活動しています。

小田切ヒロさんを理解する3つのポイント
  1. 幼少期に家庭環境が大きく変化し、本人がその経験を現在の表現や生き方を語るうえで重要な背景として公表している。
  2. 現在の道につながる原点:養成・修業
  3. 出身地:長野県

現在の姿だけを見ると早くからヘアメイク一筋で歩んできたようにも見えますが、実際には美容室、美容部員、20代後半からのアシスタント生活を一つずつ経験して現在へ進んでいます。

さらにその前の子ども時代には、5歳で家族の形が変わり、学校でも家庭でも落ち着けない時期を過ごしながら、髪を触ることや編み物には夢中になっていました。

17歳になると家を出し、通信制高校へ編入しながら美容の学校と美容室勤務を並行する生活へ移っていきます。

小田切ヒロの生い立ちと家族|5歳で実母と別れ、家族構成が変わる

小田切ヒロさんの幼少期をたどると、現在の美容の仕事につながる小さな場面と、家庭環境が大きく変わった出来事の両方が見えてきます。

本人が2026年に詳しく明かした家族構成では、もともと父親、母親、3歳上の姉、小田切さん、2歳下の弟という5人家族でした。

5歳で両親が離婚|走り去る母を追いかけた最後の記憶

5歳のときに両親が離婚し、3人のきょうだいは父親に引き取られました。

離婚について家族が話していたのは祖母の家で、その場から実母が走って出ていった光景が、小田切さんの記憶に残っています。

姉と一緒に母親の後を追いましたが、途中で小田切さんは転び、姉も結局母親を見失って泣きながら戻ってきました。

「母の背中を走って追いかけたんです。でも、私は転んでしまって。」

文春オンライン

走っていく母親の背中が、本人に残る実母の最後の姿になりました。

父の再婚で家庭が変化|弟が施設から戻る正月は7人がそろった

父親はその後再婚し、継母には2人の娘がいたため、最終的には父、継母、継母側の姉2人、実姉、小田切さん、弟という7人の家族になりました。

弟は普段は施設で生活していましたが、正月には家へ帰ってきており、その時期には家族7人がそろいました。

一方、父親が家にいる時間は少なく、家庭内では継母と実姉、小田切さんとの関係も次第に変化していきます。

継母から父親へ「習い事や塾の月謝」としてお金を受け取りに行く役割も担わされ、本人によればこの生活は長く続きました。

髪・編み物・メイク|子どものころから手を動かすことが好きだった

家庭や学校でさまざまな出来事がある一方、小田切さんが夢中になったものの一つが髪を触ることでした。

継母側の姉たちから毎朝髪のブローを頼まれており、後年には、その作業が手先の練習になっていたと話しています。

継母が出かける場所に応じてメイクを変え、印象まで大きく変わっていく姿も間近で見ていました。

小学校では学童の編み物クラブに入り、編み物コンテストでは3年連続で1位になり、5年生からの部活動でも手芸クラブを選んでいます。

髪を触ること、ブロー、編み物、メイクを見ることは、まだ職業を考える以前から日常の中にありました。

小5で大学ノートに家庭のことを書き、先生へ助けを求めた

月謝袋を持って父親のところへ行く生活を続けるなか、小学校5年生になると、自分がしていることへの罪悪感に耐えられなくなりました。

友人には相談できず、当時学校へ来ていた27歳の教育実習生なら話を聞いてくれるかもしれないと考えます。

そこで大学ノートいっぱいに、それまで家庭で起きていたことを書き、先生へ渡しました。

しかし、その内容は継母へ伝わり、その後は食事や睡眠の場でも家族から離されるような生活へ変わったと本人は説明しています。

小学校5年生の本人が自分で考え、家庭の外へ初めて助けを求めた出来事でした。

家族情報

公開情報で確認できている家族について、続柄・職業・補足・出典を整理しています。

父

本人が家族構成を明言。氏名など非公表情報は登録しない。

本人・家族本人の発言 出典を見る
実母

本人が5歳時に両親が離婚したと説明。

本人・家族本人の発言 出典を見る
姉

3歳上。氏名などは登録しない。

本人・家族本人の発言 出典を見る
弟

2歳下。氏名などは登録しない。

本人・家族本人の発言 出典を見る

小田切ヒロの学生時代|白紙の中学受験から17歳で家を出るまで

小学校を終えるころからは、家庭だけでなく進学先や学校生活でも出来事が続きます。

一方で、中学校の部活や同級生との間には、現在の仕事を思わせるエピソードも残っています。

中学受験3校の答案を白紙で提出した

中学受験では3校を受験しましたが、本人はすべての答案用紙を白紙で提出しました。

「3校とも答案用紙を白紙で出したんですよ。」

文春オンライン

本人は父親へのサイン、反抗だったと説明しており、帰宅後に白紙で出した理由や、それまで家庭で抱えていたことを父親へ話しました。

ところが父親には受け入れられず、激しく殴られたと明かしています。

公立中では卓球部の部長を務め、同級生の髪も編んでいた

受験後は公立中学校へ進みました。

小学校では手芸を選んでいましたが、中学校では周囲から「もっと男らしく」と言われたこともあり、個人競技ができる卓球部へ入っています。

最後には部長を務める一方、髪を触ることへの興味は変わらず、クラスの女子生徒の髪を編んであげることもありました。

スポーツ系の部活動をしながら、休み時間には人の髪を編んでいるという、中学生の小田切さんの姿が見えてきます。

学校でいじめを受け、中2で窓から出て親友宅へ逃げた

その一方、中学校では靴を隠されたり、机の中へ給食の残りを入れられたり、掃除用ロッカーへ閉じ込められたりするいじめを受けていました。

家庭でも月謝袋を使った金銭のやり取りが続き、中学2年生のときには部屋にあった物を窓の外へ投げ、自身も窓から外へ出て親友の家へ向かいました。

数時間後には家族に居場所を知られ、父親のもとへ連れ戻されています。

学校では先生からも外見を題材にされた経験が重なり、本人は中学時代に死を考えるほど追い詰められた時期があったことも明かしています。

卒業アルバムを捨てた中学卒業後、私立高校へ進学

中学校の卒業時には、卒業アルバムの寄せ書き欄へ傷つく言葉を書かれました。

小田切さんはその日の帰り道で卒業アルバムを捨てたと話しています。

その後、継母が私立への進学を希望していたことから、私立高校へ入りました。

16歳でアルバイト、高2で新宿二丁目へ|17歳で家を出る

16歳になるとアルバイトを始め、自分で使えるお金を得るようになります。

高校2年生では初めて新宿二丁目へ行き、それまで身近にいなかった人たちと出会いました。

夜型の生活へ変わるにつれて高校の出席日数が足りなくなり、学校へ継母が呼び出された際、自身のことや交際相手のことを話したうえで家を出る意思を伝えています。

17歳で「家から出ていきます」と伝え、自分の生活費を自分で工面する生活へ移りました。

ここから、家庭と学校を中心に進んできた時間が、美容を仕事にする時間へ切り替わっていきます。

人生年表 小田切ヒロさんの歩み
幼少期
小田切ヒロの生い立ちと家族|5歳で実母と別れ、家族構成が変わる

小田切ヒロさんの幼少期をたどると、現在の美容の仕事につながる小さな場面と、家庭環境が大きく変わった出来事の両方が見えてきます。

高校
卒業アルバムを捨てた中学卒業後、私立高校へ進学

中学校の卒業時には、卒業アルバムの寄せ書き欄へ傷つく言葉を書かれました。

高校
17歳からの若い頃|通信制高校・美容学校・美容室を並行した時期

17歳で家を出した直後から、美容だけに専念できたわけではありませんでした。

高校
家を出した後は通信制高校へ編入し、美容の勉強と下積みを始めた

家を出した後は通信制高校へ編入しました。

学生時代
小5で大学ノートに家庭のことを書き、先生へ助けを求めた

月謝袋を持って父親のところへ行く生活を続けるなか、小学校5年生になると、自分がしていることへの罪悪感に耐えられなくなりました。

学生時代
小田切ヒロの学生時代|白紙の中学受験から17歳で家を出るまで

小学校を終えるころからは、家庭だけでなく進学先や学校生活でも出来事が続きます。

17歳からの若い頃|通信制高校・美容学校・美容室を並行した時期

17歳で家を出した直後から、美容だけに専念できたわけではありませんでした。

高校の学業を続けながら美容師になるための勉強をし、美容室の現場にも入り、自分の生活費も確保していきます。

家を出した後は通信制高校へ編入し、美容の勉強と下積みを始めた

家を出した後は通信制高校へ編入しました。

同時に美容師の専門教育を受けながら、美容室では下積みとして働き始めています。

「通信制高校に編入して、並行して美容師の専門学校に通いながら美容室の下積みに入りました。」

文春オンライン

夜は美容師として働いて生計を立て、仕事が終われば新宿二丁目へ向かう生活も続いていました。

資生堂美容技術専門学校の公式サイトでも、小田切さんは美容師通信科従事者コースの卒業生として紹介されています。

高校、専門教育、美容室勤務を同じ時期に進めていたのが、17歳以降の実際の生活でした。

生活費と学費を自分で工面するなか、19歳ごろ転機となる人物と出会う

新宿二丁目へ通う生活はその後も続き、19歳のころには一つの恋愛が終わりました。

ちょうど自分の生活を変えなければならないと考えていたころ、夜の世界で知り合った人物が小田切さんの生活を支えるようになります。

当時は生活費も専門学校の学費も自分で工面しており、美容以外の夜の仕事をしなければ暮らせない状況でした。

仕事用のハサミとメイクの学費を支えられ、美容に集中できる生活へ

その人物は、夜の世界の交友関係から距離を置けるよう動き、仕事用のハサミを贈るなど美容の仕事を続けるための支援をしました。

さらにメイクスクールへ通う費用も支えられ、小田切さんは美容を本業として続けられる生活へ移っていきます。

このころはまだヘア&メイクアップアーティストではなく、美容師としてサロンの現場に立っていました。

美容室で「髪だけではない」と気づき、メイクと化粧品を学ぶ方向へ進んだ

美容室ではジュニアスタイリストからスタイリストへ進み、客が持参する雑誌の切り抜きを見ながら髪を仕上げる仕事もしていました。

そこで、同じ髪型を再現しても顔が違えば似合い方まで同じにはならないことへ関心を持ちます。

「顔そのものをメイクで変えられるのでは」と考えて短期のメイクスクールへ通いましたが、半年ほど学んだ段階では仕事にするには知識が足りないと感じました。

美容室へ入ったころに先輩から基礎知識の不足を指摘された経験もあり、次は化粧品そのものの基礎を覚えようと考えます。

美容師から美容部員へ|伊勢丹新宿の売り場でトップになるまで

髪からメイクへ興味が広がった次に選んだのは、撮影現場ではなく化粧品の売り場でした。

ここでは商品知識だけでなく、多くの客へ短時間で説明し、実際に商品を選んでもらう接客を経験します。

化粧品会社へ入るため売り場へ足を運び、約200人の選考に挑んだ

外資系化粧品会社へ応募する前には、その会社の商品を自分で買って試しました。

さらに売り場へ行き、現役の美容部員へ「ここで働くにはどうしたらいいのか」「どのように試験へ受かったのか」と直接尋ねています。

「化粧品会社に入ってそこの美容販売部員になろうと考えました」

モアリジョブ

採用試験は約200人の応募者から7人が合格する選考で、小田切さんはその7人に入りました。

勤務した会社が外資系であることは複数の本人インタビューやプロフィールで確認できますが、ブランド名は公表されていません。

日本有数の売り場で美容部員として接客を重ね、トップ販売員へ

配属されたのは多くの一般客や美容のプロも訪れる伊勢丹の売り場でした。

当初はブランドのマニュアルに窮屈さも感じたものの、決められたルールの中でどう自分らしい接客をするかを考えるようになります。

売り場では早くから結果を出し、トップの美容販売員になりました。

後年の本人インタビューでは、外資系化粧品メーカーで3年間働き、伊勢丹新宿店で全国トップの売り上げを長期間維持した時期もあったと紹介されています。

美容師として髪に触れていた時期に続き、美容部員では化粧品を説明し、目の前の相手に提案する経験を重ねました。

店頭でプロのヘアメイクと接し、次に進みたい仕事が見えてきた

売り場には仕事で化粧品を購入するプロのヘアメイクも訪れました。

美容部員の話を丁寧に聞き、商品について質問する人もいれば、売り場のスタッフへ高圧的に接する人もおり、その違いを間近で見ています。

この時期から、将来は自分もヘア&メイクアップアーティストになりたいと考え始めました。

当初はファッションショーの尖ったメイクに憧れていたものの、仕事としては自分の「好き」だけでなく「得意」を選ぶ方向へ考えを変えていきます。

25〜26歳で家族と決別|勤務先へ届いた500万円の借入要求

17歳で家を出したあとも、実家との金銭的なつながりが完全になくなったわけではありませんでした。

美容室の下積み、美容部員という仕事へ進んでも、継母からお金を求める連絡が続いていました。

17歳で家を出した後も継母から金銭要求が続いていた

収入の少ない美容室の下積み時代には毎月支払えないこともありましたが、その際には体を心配するような手紙とともに金銭を求められたと本人は話しています。

美容の仕事を支えていた当時のパートナーへ家庭の事情を相談したところ、弁護士を間に入れることを勧められました。

継母側の姉が伊勢丹の売り場へ現れ、3社の契約書を差し出した

25〜26歳ごろ、伊勢丹で美容部員として働いていた小田切さんのところへ、継母側の姉がやってきました。

そこで差し出されたのは、3社のカード会社から借り入れるための契約書でした。

求められた借入額は、3社を合わせて500万円でした。

さらに借りた後に自己破産するという話まで出され、小田切さんは契約書を持ち帰って当時のパートナーへ見せました。

家を出してから約10年近く続いた家族との金銭関係が、ここで大きく動きます。

弁護士を介して家族と絶縁|実母の所在も知ることになる

契約書を見たパートナーから家族と完全に縁を切ることを勧められ、紹介された弁護士へ相談しました。

その後、法的な手続きを進め、家族との連絡を断つことになります。

役所で家族関係について相談した際には、5歳以来会っていなかった実母の戸籍も調べてもらい、当時は板橋に籍があることを知りました。

実母のもとへ行くことも考えましたが、すでに別の家庭がある可能性を考え、最終的には会いに行かない選択をしています。

20代後半で藤原美智子のもとへ|トップ美容部員からアシスタントへ

美容部員として売り上げを作れるようになっていた20代後半、小田切さんはもう一度、下積みから始めることになります。

きっかけは転職サイトでも知人からの紹介でもなく、毎日働いていた売り場で目にした一枚のポスターでした。

リーフレットを配っていた売り場で藤原美智子のポスターを見た

ある日、売り場で客へ化粧品のリーフレットを配っていると、目の前に藤原美智子さんのポスターが掲示されていました。

それを見た小田切さんは、すぐに藤原さんの事務所へ履歴書を送っています。

「この人だ!」

モアリジョブ

売り場で働いていた時間の中に、次の仕事へ進むきっかけが突然現れました。

3〜5年に一度の募集と偶然重なり、LA DONNAへ入る

藤原さんの事務所では、いつでもアシスタントを募集していたわけではありませんでした。

本人によると募集は3〜5年に一度ほどでしたが、履歴書を送った時期がちょうど募集期間と重なりました。

こうして藤原美智子さんが率いるLA DONNAへ入り、ヘア&メイクの現場を一から学ぶ生活が始まります。

年下の多いアシスタント陣に交じり、一から現場を学び直した

アシスタント入りしたのは27歳で、周囲には20代前半で入った人が多くいました。

美容室と化粧品会社ですでに社会人経験があり、美容部員として結果も出していましたが、ヘアメイクの現場では新人です。

トップ美容部員という立場から、20代後半でもう一度アシスタントへ戻る選択でした。

当初は気を利かせて先回りすることに自信があり、自分では仕事ができているつもりだったものの、撮影後の打ち上げで先輩から厳しい言葉を受けた出来事もありました。

それ以降は前へ出ることを控え、先輩たちの仕事を見ながら、自分がどこで何をすべきかを考えるようになったと振り返っています。

手つき・力加減・撮影現場での動き方まで身につけてデビューへ

LA DONNAでは、デビューまで3〜5年かけてアシスタントを育てる環境だったと本人は説明しています。

藤原さんは技術を隠さず、メイクそのものだけでなく、手の動かし方や力の入れ方、現場での立ち回りまで細かく教えました。

「手つき、力加減、回り方などディティールに至るまで徹底的に教え込んでくれました。」

モアリジョブ

アシスタントとして求められたのは、自分を目立たせることではなく、次に何が必要になるかを見て動く「黒子」の役割でした。

美容室と売り場で身につけた技術や接客に、撮影現場での動き方が加わっていきます。

ヘア&メイクとしてデビュー|資生堂での仕事から現在の活動へ

長いアシスタント生活を終えると、自分の名前で仕事を受けるヘア&メイクアップアーティストとして現場へ出ていきます。

アシスタント時代とは反対に、デビュー後は「小田切ヒロに頼む理由」になる自分の個性も必要になりました。

アシスタント修業を終え、ヘア&メイクアップアーティストとして現場へ

藤原さんのもとで修業した後は、雑誌や広告、モデルや俳優の撮影などでヘアメイクを担当するようになります。

美容部員時代に化粧品の知識を蓄えていたこともあり、メイクの技術だけでなく美容知識の広さも仕事の特徴になりました。

2017年には初の著書『小田切流 小顔道』を出版し、「小顔」を自身の得意分野として広く知られるようになります。

SHISEIDO GLOBAL COLOR ARTISTへの抜擢で仕事の幅が広がる

デビュー後の大きな仕事の一つが、資生堂のGLOBAL COLOR ARTISTです。

本人は後年、憧れていたブランドから声がかかったことで自分の意識が変わり、自信にもつながったと語っています。

美容師として働きながら通った資生堂美容技術専門学校から、のちに資生堂のグローバルなメイクの仕事へ進みました。

SNSとYouTubeで、自分の言葉で美容を伝える活動が広がった

撮影現場や雑誌での活動に加え、SNSではメイクの写真や美容についての言葉を自ら発信するようになりました。

2020年にはYouTube「HIRO BEAUTY CHANNEL」を開設し、プロの技術を実演しながら、自分の言葉で理由まで説明する動画を配信していきます。

2023年にはチャンネル登録者100万人を突破し、2025年には開設5周年を迎えました。

美容室で髪を触り、美容部員として商品を説明し、撮影現場で技術を磨いた経験が、動画では一つの画面の中に並んでいます。

2022年にヌウ株式会社を設立|代表取締役・ビューティーディレクターへ

2022年3月30日にはヌウ株式会社(Nous inc.)を設立しました。

会社公式サイトでは小田切さんが代表取締役と明記され、ヘア&メイクアップアーティストのマネジメントを行う会社として展開されています。

現在は雑誌・広告のヘアメイクだけでなく、化粧品ブランドのアドバイザーやディレクション、自身のメイクブラシブランドなど、仕事の範囲も広がっています。

自分が現場で手を動かす仕事に加え、会社を率いて美容を作る側にも活動が広がりました。

継母の訃報が届いた後も、父とは連絡を取らない現在

家族との時間にも、その後の動きがありました。

家族と絶縁してから長い年月が経った後、2026年のインタビュー時点から約2年前には、継母側の姉から継母が亡くなったことを知らせる電報が届いています。

一方、父親とは現在もまったく連絡を取っていないと話しています。

もし父親側から連絡が来れば会う意向はあり、過去に自分が聞かされてきた家族の話のどこまでが事実だったのかを知りたいと、2026年に語りました。

実姉とも現在は距離があり、5歳のころに別れた実母にも会いに行っていません。

子どものころには髪を触り、編み物をしながら過ごしていた小田切ヒロさんは、17歳で家を出したあと、高校・美容の勉強・仕事を並行しながら自分の生活を作り始めました。

美容師、美容部員を経て、20代後半には藤原美智子さんのもとで再びアシスタントから学び直し、やがて自分の名前で撮影現場へ立つようになります。

現在はヘア&メイクの現場に加えてYouTubeや会社経営へ活動を広げていますが、その前には髪を触ることから始まり、売り場と撮影現場を一つずつ通ってきた長い美容の時間がありました。

参考・出典 この記事で参照した主な資料
正本DB確認日:2026-09-15

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