コントと演劇の両方を続ける8人組「ダウ90000」で、ほぼすべての作品の脚本・演出を担っているのが蓮見翔さんです。
2025年に上演した『ロマンス』は、2026年2月に第70回岸田國士戯曲賞を受賞し、学生時代から書き続けてきた演劇でも大きな節目を迎えました。
- 身近にプロの表現者である父がいたことが、芸能や憧れとの距離感の捉え方に影響した。
- 高校:東京都立井草高等学校/大学:日本大学芸術学部
- 現在の道につながる原点:学生時代から活動
現在は舞台だけでなく、ドラマや映画の脚本、テレビやラジオにも活動を広げていますが、最初から劇作家を目指していたわけではありません。
小学生のころは図書館で一日に何冊もの本を読み、録画できたお笑い番組を同じ回でも繰り返し見ていました。
その後、東京都立井草高校の文化祭で映像や劇を作り、日本大学芸術学部へ進学すると、演劇、映画、漫才を行き来しながら大量の台本を書く学生生活が始まります。
蓮見翔の生い立ちと家族|図書館とお笑いに夢中だった小学生時代
蓮見翔さんは1997年4月8日、東京都生まれです。
出生した市区町村までは公表資料で明らかになっていませんが、子どものころの生活については本人が複数のインタビューで具体的に振り返っています。
3歳上の姉と遊んでいた少年が、近所の図書館へ通うようになる
小学校時代の蓮見さんには、3歳上の姉がいました。
本人によると、姉の友達と一緒に遊ぶことが多かった時期があり、それを理由にクラスで「女の子と話しすぎ」と言われて軽いいじめを受けたことがあったそうです。
そのころ通うようになったのが、自宅から10秒ほどの場所にあった図書館でした。
夏休みには朝に本を借り、夕方に返しに行って、また別の本を借りる生活を送っています。
「朝行って8冊借りて、夕方返してまた8冊借りる。」
Forbes JAPAN
一日に16冊読むこともあるほど本を借り、児童文学では『かいけつゾロリ』シリーズを特に好んでいました。
ギタリストの父とドラマ好きの母がいた家庭
蓮見さんの父親は、本人がインタビューで明かしている通りギタリストです。
音楽学校の講師をしていた時期もあり、小学3年生の蓮見さんがお年玉を貯めてiPodを買うと、学校に置いてあったCDの音源を入れてくれることがありました。
父親から「これを聴け」と音楽を指定される家庭ではなく、ランダムに入れられた音源から興味を持ったものを探し、自分でも中古CD店へ足を運ぶようになっています。
小学生のころには担任から歌謡曲を教えてもらい、自宅で井上陽水さんの曲などを口ずさむと、両親が笑ってくれたことがうれしくて、さらに歌を覚えたこともありました。
父親についてはネット上で特定のギタリストの名前と結び付けた情報もありますが、蓮見さん本人が公に明かしているのは「父親がギタリスト」というところまでで、父親の氏名は本人・所属先などの公表資料では確認できません。
母親はドラマが好きで、のちに蓮見さんがお笑い番組を録画する際にも、家庭のテレビ事情に関わってくる存在でした。
母が笑った2006年M-1と、担任から借りたDVDがお笑いの入口に
お笑いへの入口は一つではありませんでした。
小学3年生ごろ、『モヤモヤさまぁ〜ず』のロケでさまぁ〜ずが地元を訪れたことから興味を持ち、TSUTAYAで単独ライブのDVDを借りるようになります。
学校でもその話をすると、担任の先生がM-1グランプリの過去大会を収録したDVDを貸してくれました。
さらに2006年のM-1グランプリでは、優勝したチュートリアルの漫才を見ていた母親が大笑いしていました。
ネタの内容をすべて理解できる年齢ではなかったものの、「大人があんなに笑う」という光景に驚き、M-1を意識して見るようになっています。
先生から借りたDVDと、テレビの前で笑う母親の姿が、小学生だった蓮見さんをお笑いへ引き込んでいきました。
家族情報
公開情報で確認できている家族について、続柄・職業・補足・出典を整理しています。
| 父 |
ギタリスト
本人が父親をギタリストと明言。氏名は本人発言で確認できないため登録しない。 |
本人・家族本人の発言 出典を見る |
|---|
中学生の蓮見翔|『イロモネア』とラーメンズを何度も見る
小学生のころから見始めたお笑いは、中学校へ進んでも途切れませんでした。
ただし、自宅では夜10時までに寝るルールがあり、見たい番組を好きなだけ見られる環境ではありませんでした。
両親の録画番組の合間に、同じ『イロモネア』を一週間見る
当時、母親はドラマを見ており、父親は平日の『報道ステーション』を録画していました。
家庭のレコーダーは両親の番組で埋まり、蓮見さんが自由に録画できた時間は限られていたそうです。
そこで楽しみにしていたのが、土曜日に放送されていた『ザ・イロモネア』でした。
リアルタイムで見たうえに録画し、次の放送まで一週間、同じ回を何度も見返していました。
即興で次々と笑いを取っていく出演芸人を見れば見るほど、「これを仕事にするのは難しい」と感じるようにもなっていきました。
塾の先生からラーメンズを教わり、芸人への憧れと距離が生まれる
中学生のころには、塾の先生からラーメンズを教えてもらいました。
舞台セットや衣装を大きく使わずに成立するコントを見て、「かっこよさ」以上に面白さへ引かれたと話しています。
一方で深夜バラエティにも触れるようになり、プロの芸人の面白さを知るほど、自分がその場所へ行く姿は想像しにくくなりました。
このころの距離感について、後年のインタビューでは父親の存在にも触れています。
ギタリストとして子ども2人を育てていた父親を見ながら、当時の蓮見さんは「テレビに出ていないから売れていない」と子どもなりに単純化して受け止めていたそうです。
腕があっても誰もがテレビのスターになるわけではないという光景を家庭で見ていたことが、芸人への憧れと距離を置く感覚に関係していたのかもしれないと、自身で振り返っています。
「まあようは、『諦めきれてなかった』んでしょうね、結局ね。」
ほぼ日
芸人そのものは難しいと思いながらも、「脚本を書くことならネタを書く行為に近いかもしれない」という考えは残り、そのまま高校時代へ進みました。
蓮見翔さんは1997年4月8日、東京都生まれです。
蓮見さんが通った高校は、東京都立井草高等学校です。
高校2年になると、「見る」だけだった生活に初めて大きな変化が起きます。
高校3年の文化祭が近づくと、クラスの文化祭実行委員から「今年は何をやるの?」と声をかけられました。
井草高校時代|週30本のバラエティを見る側から、作品を書く側へ
蓮見さんが通った高校は、東京都立井草高等学校です。
井草高校同窓会の会報では、2016年卒・68回生E組として本人へのインタビューが掲載されています。
部活には入らず、アルバイトとお笑いを見る日々
高校へ入ると、見る番組の幅が一気に広がりました。
深夜バラエティを知り、本人によれば週30本ほどを録画して全部見る時期もあったといいます。
部活動には入っておらず、放課後はアルバイトをするか、お笑いを見るかという生活でした。
『テベ・コンヒーロ』の好きな企画は、録画したDVDを周囲へ配るほど気に入っていました。
学校では人前で大騒ぎするタイプの笑いに自分から入るより、ふざけている人の横へ行き、ツッコミ側に回ろうとした時期もあったそうです。
母校の取材で授業中の思い出を聞かれた際には、漫画を読んでいた記憶があると答えています。
その一方、高校から大学にかけては「何かしら毎日書いていた」と後年振り返るほど、文章やコントを書く時間を重ねていました。
高校2年、文化祭で初めて本格的な台本を書く
高校2年になると、「見る」だけだった生活に初めて大きな変化が起きます。
クラスで文化祭用の映像作品を作ることになり、当時流行していたTwitterを題材にした作品を制作しました。
そこで蓮見さんが初めて本格的な台本を書きます。
完成した作品を周囲から「面白い」と言ってもらえたことが、翌年の文化祭にも続いていきました。
高校3年、約30人が出演するコメディ劇が観客に受ける
高校3年の文化祭が近づくと、クラスの文化祭実行委員から「今年は何をやるの?」と声をかけられました。
蓮見さんが劇を提案すると、そのままクラスの企画として進むことになります。
作ったのは、約30人が出演するコメディ劇でした。
本人は作・演出を担当し、文化祭の観客から大きな笑いが起きました。
後年には「あれはこれまでの人生で一番ウケたときかもしれない」というほど、このときの反応をよく覚えています。
一人で芸を披露するより先に、大勢に演じてもらうコメディを書く経験をしていました。
文化祭の作品を公募推薦へ出し、日本大学芸術学部へ
高校卒業が近づいたころには、芸人になることも考えていました。
ただ、親から「大学は行ってくれ」と言われ、進学先として選んだのが日本大学芸術学部映画学科でした。
受験では、高校2年で作った映像作品と高校3年の演劇を撮影した映像を提出し、公募推薦で合格しています。
「井草の文化祭での経験が今に繋がっていると思います。」
井草会報 No.56
2016年春、蓮見さんは井草高校を卒業し、日芸での学生生活へ移ります。
日本大学芸術学部時代|演劇・映画・漫才を行き来しながら書き続ける
入学したのは日本大学芸術学部映画学科でした。
高校までに映画も劇も作っていましたが、大学で現在につながる仲間や作品形式がすぐに固まったわけではありません。
大学1年、同級生に誘われ「はりねずみのパジャマ」へ
大学1年の夏ごろ、中学・高校で演劇部だった同級生から劇団を作ろうと誘われます。
これが、ダウ90000の前身となる「はりねずみのパジャマ」でした。
蓮見さん自身は後年、「最初は自分からやりたくて始めたわけではない」と話しています。
大学1年が終わる2017年3月に初公演を行い、最初は男性8人で活動していました。
しかも所属していたのは演劇学科ではなく映画学科だったため、ホールを自由に使えず、教室に机を立てて舞台袖を作り、照明は教室の蛍光灯という環境でした。
脚本も当初はもう一人の主宰と分担し、同じ場面を書いてしまえば、どちらを使うか言い合うような作り方をしていました。
出演者約15人に客4人だった教室公演
学生の公演は、最初から多くの観客に見つかっていたわけでもありません。
変わった看板を持って校内で呼び込みをしても、客席がほとんど埋まらないことがありました。
「お客さん4人。で、こっちは15人くらい出てる(笑)。」
テレビ朝日 logirl
それでも公演を続けるうち、作品を見て加入する後輩が現れます。
上原佑太さんは、大学生の作品では作り手の自己表現が強いものも多かった中、蓮見さんは早い時期から観客へ伝わることを意識して書いていたと振り返っています。
道上珠妃さんも大学1年時に文化祭公演を見て驚き、翌2018年春に参加しました。
映画では長くなった会話が、舞台では自分の武器になっていく
大学では映画制作も続けていましたが、蓮見さんの作品は会話の場面が長くなりがちでした。
映画学科の先生からは、同じ場面が長すぎて観客が退屈する可能性があると指摘されたことがあります。
ところが舞台では、その長い会話が笑いにつながりました。
学生時代、園田祥太さんとブルーシートに世界地図を広げ、歌に合わせて国旗を覚えるコントでは、2人が20分ほど話し続ける部分が大きく受けたと振り返っています。
映像で「長い」と言われた会話が、コントではセットや小道具がなくても成立するものとして残りました。
忽那文香さんは学生時代、この会話劇に引かれて「はりねずみのパジャマ」へ参加しています。
「蓮見水族館」名義のヌープリッキーで漫才にも挑戦
大学時代の蓮見さんは、演劇だけに活動を絞っていたわけでもありません。
2018年4月には長谷部さんとのコンビ「ヌープリッキー」を結成し、M-1グランプリにも出場しています。
M-1グランプリ公式サイトに登録された名前は、現在の「蓮見翔」ではなく「蓮見水族館」でした。
公式プロフィールには1997年4月8日生まれ、東京都出身と記載されており、大学で演劇を作る一方で漫才にも取り組んでいたことが確認できます。
大量のコントを書き、現在のメンバーになる後輩たちが集まる
「はりねずみのパジャマ」は活動を続けるうちに人数が増え、ピーク時には約40人が所属する団体になりました。
道上さんに続いて忽那さん、中島百依子さんらも公演を見たことをきっかけに加わり、現在のダウ90000へ続く顔ぶれが少しずつ集まっていきます。
蓮見さんが大学4年生だったころには、東京女子大学に通いながら東大落研で活動していた吉原怜那さんも、YouTube用のコントへゲストとして参加しました。
このころは2週間に1日ほど集まり、一度に14本のコントをまとめて撮影して、毎日1本ずつYouTubeへ投稿する時期もありました。
単純計算で月28本ほどのコントを書くペースだった時期もあったと、本人が後年明かしています。
2020年、大学卒業とコロナ禍|サークルからダウ90000へ
大学4年になるころまで、蓮見さんはサークルで演劇やコントを作りながら過ごしていました。
卒業が近づくと、学生の延長で続けるのか、仕事として続けるのかを決めなければならない時期が訪れます。
就職せずに卒業した直後、舞台活動が止まる
大学4年時には、又吉直樹さん原作の映画『劇場』を見て、夢を追う劇団員の姿を自分と重ね、「このままではまずい」と意識するようになったと話しています。
それでも就職はせず、2020年に日本大学芸術学部映画学科を卒業しました。
ところが、卒業とほぼ同じ時期に新型コロナウイルスの感染拡大が重なります。
予定していた公演や、当時組んでいた漫才コンビの単独ライブも実施できなくなりました。
劇場公演が中止になったことで費用も抱え、生活のために昼は酒類の配達アルバイトをし、夜に脚本を書く時期も経験しています。
寝て起きればまた配達へ行くという生活の中でも、次の活動の準備は進めていました。
活動を続ける仲間へ声をかけ、最大約40人の団体を整理する
学生サークルのままでは、就職活動や仕事を理由に公演途中で抜けるメンバーが出ることもありました。
そこで卒業を機に、一度はっきりと線を引きます。
「就職しないことを決めてくれている人だけ残ってくれ」
Steenz
この時点では、全員に「芸事だけで生きる」という強い覚悟まで求めたわけではなく、少なくとも就職せず活動を続けられる人を集めました。
母校のインタビューでは、最大約40人いたサークルから、最終的に現在の8人が残ったと説明しています。
2020年、大学のサークルを母体としてダウ90000が旗揚げされました。
吉原怜那さんも、コロナ禍にYouTube用コントへ参加した流れから正式メンバーとなり、現在の8人がそろいます。
ダウ90000初期、月15本の新作コントを4か月書く
活動を始める際、蓮見さんは「とりあえずやってみよう」で仲間を集めたわけではありませんでした。
演劇公演を定期的に行い、コントも作り、映像をYouTubeへ出していく計画を事前に説明しています。
最初のコントライブは『あの子の自転車』でした。
そこで始めたのが、毎月大量の新作を下ろす方法です。
月15本の新作コントを書くライブを4か月連続で続けました。
吉原さんは当時、東大落研の仲間と蓮見さんの執筆量について話題にしており、道上さんや中島さんは、その量しか知らなかったため感覚が麻痺していたと振り返っています。
本人も、あと1か月続いていたら折れていたと思うほどだったそうです。
大人数の会話劇が届き始める|コントと演劇を両方続ける形へ
ダウ90000を始めた時点で、蓮見さんは23歳でした。
知名度のない若い8人組の100分ほどの演劇をいきなり見てもらうのは難しいと考え、まず短いコントから人に届かせる方法を選びました。
北池袋の劇場でコントライブを続け、YouTubeへ流す
最初に拠点となったのは、北池袋にあった古い劇場でした。
黒い背景とフローリングの床という空間で毎月コントライブを行い、その映像をYouTubeへ出していきます。
客席は30人ほどの規模で、YouTubeも当初は200回ほどしか再生されないことがありました。
友人や知人を呼んで客席を埋めながら、大人数を使った短い会話のコントを作り続けます。
黒い背景と木の床で撮ったコント映像が少しずつお笑いファンの目に入り、舞台の外へ届き始めました。
複数人の会話を生かしたコントが周囲から評価され始める
YouTubeへ出した短いコントの中に、女性メンバー2人がミルクボーイの漫才を恋愛ネタへ置き換えた「女ミルクボーイ」がありました。
この作品が『芸人雑誌』で紹介され、ダウ90000を見つけるお笑いファンが増えていきます。
その後、渋谷・ユーロライブのコント企画へ呼ばれ、玉田真也さんと神谷圭介さんが企画した「夜衝」への出演につながりました。
「夜衝」を見ていたNHKラジオ『東京03の好きにさせるかッ!』のスタッフから声がかかり、蓮見さんは東京03へコントを書く仕事も任されます。
昼に配達のアルバイトをしていた時期から、それほど間を置かずに外部の演者へ脚本を提供する仕事が始まりました。
『旅館じゃないんだからさ』が岸田國士戯曲賞の最終候補へ
2021年には、第2回演劇公演『旅館じゃないんだからさ』を上演しました。
この戯曲が翌2022年、第66回岸田國士戯曲賞の最終候補に選ばれます。
本人は母校の取材で、これ一つが突然の転機だったとはしていませんが、そのころから世の中で認識してもらえる機会や、お笑い界の先輩と会う機会が増えたと話しています。
高校文化祭から約10年|『ロマンス』で岸田國士戯曲賞を受賞
『旅館じゃないんだからさ』の最終候補入り後も、コントと演劇の両方を続けました。
2023年に上演した第5回演劇公演『また点滅に戻るだけ』も、第68回岸田國士戯曲賞の最終候補に選ばれます。
二度の最終候補を経て、第7回演劇公演『ロマンス』を上演
2025年に作・演出を担当したのが、第7回演劇公演『ロマンス』です。
5月の東京公演から始まり、大阪、金沢、福岡を回り、11月には東京で追加公演も行われました。
出演は蓮見さんを含むダウ90000の8人です。
高校3年の文化祭で約30人が演じるコメディを書いてからおよそ10年が経ち、同じく人と人の会話を軸にした舞台を書き続けていました。
2026年、第70回岸田國士戯曲賞を受賞
2026年2月16日、第70回岸田國士戯曲賞の選考会が行われました。
蓮見さんにとっては『旅館じゃないんだからさ』『また点滅に戻るだけ』に続く3度目の最終候補でした。
選考の結果、大石恵美さんの『よだれ観覧車』とともに、蓮見翔さんの『ロマンス』が第70回岸田國士戯曲賞を受賞しました。
高校文化祭で初めて本格的な台本を書いてから、岸田國士戯曲賞の受賞まで進んだことになります。
5月11日には日本出版クラブで授賞式が行われ、白水社公式YouTubeでもその様子が公開されました。
受賞後の2026年7月からは、約2年ぶりとなるコント単独ライブ「40000」も始まり、大阪を皮切りに全国10都市を巡る日程が組まれています。
図書館で一日に何冊もの本を読み、テレビでは同じお笑い番組を繰り返していた子ども時代から、井草高校の文化祭を境に自分で作品を書く時間が増えていきました。
日芸では客が4人の教室公演や漫才、大量のコント制作を経験し、卒業とコロナ禍を経て8人のダウ90000で活動を始めました。
現在もコントと演劇の両方を続けながら、蓮見翔さんは舞台に立つ8人のための会話を書き続けています。
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