テレビ朝日「キョコロヒー」などで知られ、ラジオや俳優業、執筆、脚本にも活動を広げているヒコロヒーさん。
松竹芸能のピン芸人として長くコントを続けていますが、10代のころから芸人を目指していたわけではありません。
- ピアノや水彩画など複数の習い事を経験し、思春期は学校より地元の友人と過ごす時間も多かった。
- 大学:近畿大学
- 高校卒業後はガソリンスタンド就職を考えていたが、親と高校教師に進学を勧められ近畿大学へ進学し、大学でのコント経験が芸人への入口になった。
高校時代にはガソリンスタンドでアルバイトをし、そのまま就職する話まで進んでいました。
ところが親と高校の先生に大学進学を勧められて愛媛から大阪へ出ることになり、近畿大学で過ごしているうちに、本人も予想していなかった形で初めてコントをすることになります。
さらに大学を離れたあとも、最初に考えていたのは芸人ではなく、映画やラジオを作る側の仕事でした。
ヒコロヒーの若い頃・学歴・出身地を先に整理
ヒコロヒーさんについて検索されやすい「若い頃」「学歴」「高校」「大学」「出身地」を、まず確認できる範囲で整理します。本人・所属事務所や主要インタビューで確認できない学校名や実家の詳しい場所は、推測で断定していません。
| 生年月日 | 1989年10月15日 |
|---|---|
| 出身地 | 愛媛県 |
| 高校 | 愛媛県内で高校時代を過ごしたことは本人の話から分かるが、校名は本記事では一次情報で確認できないため断定しない |
| 大学 | 近畿大学文芸学部芸術学科へ進学し、その後中退 |
| 大学時代 | 落語講談研究会に入り、大学2年の学園祭で初めて一人コントを披露 |
| 芸人デビュー | 2011年からピン芸人として活動 |
所属する松竹芸能の公式プロフィールでは出身地は愛媛県とされ、ORICONの本人インタビューでは近畿大学の落研や、大学2年生の学園祭で披露したコントが芸人への入口になったことが語られています。
ヒコロヒーの生い立ちと出身地|愛媛で育った家族と子ども時代
ヒコロヒーさんは1989年10月15日、愛媛県生まれです。
所属する松竹芸能の公式プロフィールでも出身地は愛媛県とされていますが、小学校や中学校の校名、実家の詳しい場所などは公表された確かな情報が限られています。
一方、本人は大人になってから、子どものころの母親や父親、習い事についていくつか具体的な話をしています。
穏やかな母に「やり返してきなさい」と言われた幼少期
子どものころに見ていた母親は、花や料理、お菓子作りが好きな穏やかな女性だったそうです。
そんな母親の意外な一面を知る出来事がありました。
近所の年上の子たちにいじめられ、幼いヒコロヒーさんが泣いて家へ帰ってきたときのことです。
「やり返してきなさい!」
出典:TOKYO FM「トーキョー・エフエムロヒー」
大人になって母親の友人に会うと、さらに「高校時代、一人で竹刀を持って歩いていた」という母親の昔話を聞いたと、本人は同じ番組で明かしています。
家で見ていた、花やお菓子作りを好む母親とは少し違う姿でした。
家にいることが少なかった父をよく知らないまま成長
父親とは、母親とはまた違った距離感で育ちました。
2022年にフジテレビ系「人志松本の酒のツマミになる話」へ出演した際、ヒコロヒーさんは父親について、子どものころは家にいることが少なかったという趣旨の話をしています。
「父がどんな性格なのかも分からないまま大人になって」
出典:クランクイン!「ヒコロヒーの父娘関係に共演者も驚き」(2022年1月28日)
父親の仕事や家庭の詳しい事情を本人が公表しているわけではないため、その理由までは分かりません。
少なくとも本人の記憶では、父親と日常的に多くの時間を過ごした子ども時代ではなかったようです。
ピアノや水彩画などいくつもの習い事を経験
家では、いろいろな習い事も経験させてもらっていました。
2026年4月の日本テレビ系「踊る!さんま御殿!!」では、子どものころにピアノや水彩画など多くの習い事をしていたことを話しています。
水彩画教室では、何を描いても先生が大げさなくらい褒めてくれたそうです。
大人になってからテレビ番組でピアノを弾く機会ができるなど、当時習ったことを思い出す場面もありました。
ヒコロヒーさんの小学校・中学校名や兄弟姉妹については、本人や所属事務所による明確な公表が確認できる情報が限られています。
芸人志望ではなかった時期に、お笑いの世界との最初の接点が生まれた。
高校卒業後はガソリンスタンド就職を考えていたが、親と高校教師に進学を勧められ近畿大学へ進学し、大学でのコント経験が芸人への入口になった。
TOKYO FM|トーキョー・エフエムロヒー/木村拓哉 Flow映画やラジオ制作を考えていた時期から、舞台でネタを書く生活へ軸足が移った。
生活を切り詰めてもネタ作りを優先する下積みが、長期的なコント活動の土台になった。
TOKYO FM「木村拓哉 Flow」ヒコロヒーの若い頃|学校より地元の友達と遊んだ高校時代
思春期になると、学校や大人との距離はかなり変わっていきます。
2026年にTOKYO FM「木村拓哉 Flow」へ出演した際には、中学・高校ごろについて「思春期はもう反抗期だけでした」と振り返っています。
ただし、本人が嫌っていたのは親だけではなく、「組織」や「大人」と呼ばれるもの全体だったようです。
学校へ行くふりをして私服に着替えて街へ
高校時代には、学校を休んで友人たちと過ごす日もありました。
学校へ向かうように家を出ながら途中で制服から私服へ着替え、喫茶店やゲームセンター、漫画喫茶などで時間を過ごすこともあったとされています。
本人によると、学校に行っていない仲間たちと集まっていたものの、本格的に危険なことをする先輩たちには距離を感じていました。
一方で、いわゆる普通の学校生活にもすんなり交われず、自身を「はぐれ者たち、落ちこぼれたち」で集まっていたような時期だったと振り返っています。
裏山の自転車遊びと「2軍の不良少女」だった10代
学校へ行かない時間にも、ヒコロヒーさんたちなりの遊び場がありました。
2021年のwithnewsのインタビューでは、高校時代を自ら「2軍の不良少女」と表現しています。
友人たちと裏山へ行き、坂道を自転車で下って立ち入り禁止の柵ぎりぎりまで進むチキンレースをしたこともありました。
別の日には友人宅のガレージへ集まり、バーベキューセットを使ってどこまで火を大きくできるか試したこともあったそうです。
学校の友達より、地元で以前から付き合いのある友人と一緒にいる時間のほうが多かったと本人は話しています。
それでも、家でテレビを見れば「めちゃ×2イケてるッ!」や「笑う犬の生活」を楽しみ、高校生になるとブラックマヨネーズやくりぃむしちゅーのラジオも聞いていました。
お笑いは好きでしたが、この時点で自分が芸人になるとは考えていませんでした。
ガソリンスタンドで働き、そのまま就職するつもりだった
高校生活の一方で、ヒコロヒーさんはガソリンスタンドでアルバイトをしていました。
仕事ではオレンジ色のつなぎを着ていたそうです。
副店長から卒業後もそのまま働けばいいという趣旨の話をされると、本人もそれで構わないと考えました。
「そのままそこに就職しようと思ってたんです」
出典:VOCE「芸人ヒコロヒー ネタの着想は、何かを見たときに感じる違和感」(2021年5月14日)
高校を卒業したらガソリンスタンドで働くという進路は、かなり具体的なところまで進んでいました。
ところが、その話を親と学校へ伝えると、すぐには賛成してもらえませんでした。
親と高校教師に勧められ、近畿大学を受験
進学を強く勧めたのは親と高校側でした。
本人は勉強をほとんどしておらず、学校へ行かない日も多かったため、突然大学受験をすると言われても困ったそうです。
高校の先生は、そんなヒコロヒーさんでも挑戦できる入試方法を探しました。
「これだけでも受けてくれ」
出典:TOKYO FM「木村拓哉 Flow」(2026年3月)
用意されたのは、小論文など文章を中心に受けられる入試でした。
大阪へ行けることにも魅力を感じて受験したところ、近畿大学文芸学部芸術学科に合格します。
本人は後年、出席日数が足りず高校自体も留年しかけていたと話しているため、この大学進学は当初考えていた進路とはかなり違うものでした。
ヒコロヒーの学歴|近畿大学で麻雀と落研に出会った学生時代
愛媛を離れ、ヒコロヒーさんは大阪で大学生活を始めました。
入学したのは近畿大学文芸学部芸術学科です。
ただ、ここでも最初から芸人になるために行動していたわけではありませんでした。
正門近くの雀荘へ通い、食事だけしに行く日もあった
大学時代に時間を使っていたものの一つが麻雀でした。
近畿大学の正門近くには小さな雀荘があり、ヒコロヒーさんはそこへ通うようになります。
店内は麻雀卓が数卓ほどの規模だったといい、店主とも親しくなりました。
やがて麻雀を打たない日まで、食事だけしに店へ立ち寄るほどになったそうです。
大学の落語研究会でも、部室で麻雀をしたり漫画を読んだりして過ごす時間が多く、本格的に芸人を目指すための部活動という感覚ではありませんでした。
真面目に落語へ取り組む部員もいたため、寄席などのイベントが近づいたときには練習していたものの、普段はかなり自由な雰囲気だったと本人は振り返っています。
飯をおごってもらうために出た学園祭で初めてコントを披露
大学2年生のころ、落研の先輩から学園祭のお笑いイベントへ出てほしいと頼まれました。
出演枠に空きができ、数分間のネタをする人が足りなくなったためです。
ヒコロヒーさんには芸人になる計画も、お笑いコンテストへ出場する目標もありませんでした。
それでも、先輩から食事をおごってもらえるという話になり、出演を引き受けました。
この学園祭で、一人でコントを披露したことが大きく状況を変えます。
会場には芸能関係者も来ており、ゲスト出演していた「なすなかにし」のマネージャーから声を掛けられました。
そして、松竹芸能につながる名刺を受け取ります。
芸能事務所から名刺をもらってもすぐには連絡しなかった
学園祭で芸能関係者に声を掛けられれば、そこからすぐ芸人になったようにも見えます。
しかし、実際にはそうなりませんでした。
ヒコロヒーさん自身に芸能界へ入りたいという気持ちがなかったため、受け取った名刺をしばらくそのままにしていました。
学園祭のコントは、その場では思いがけない評価につながったものの、本人にとってすぐに職業を決める出来事ではなかったのです。
大学を離れ、ラジオか映画を作る仕事を考える
その後も麻雀などに時間を使う生活が続き、大学では留年することになりました。
最終的に近畿大学は中退しています。
大学を離れるころに考えていた仕事は、お笑い芸人ではありません。
高校時代からラジオを聞き、映画にも関心があったヒコロヒーさんは、ラジオや映画を制作する側の仕事を考えていました。
そのとき、以前の学園祭でもらっていた芸能関係者の名刺を思い出します。
名刺には「松竹」の名前がありました。
映画会社だと思って連絡した松竹で芸人生活が始まる
松竹といえば、映画を手掛ける会社としても知られています。
映画を作る仕事に関心があったヒコロヒーさんにとって、手元に残っていた「松竹」の名刺は使えそうな人脈に見えました。
そこで名刺に書かれていた連絡先へ電話します。
「松竹なら映画を作れる」と連絡した先はお笑い養成所
映画の仕事へ近づくつもりで連絡した先は、松竹芸能のお笑い養成所でした。
案内された大阪・難波の場所へ行ってみると、そこでは芸人を目指す人たちが集まっていました。
大学の学園祭で一度コントをした経験はありましたが、ヒコロヒーさん自身はここでもまだ「芸人になる」と決めていたわけではありません。
就職へ近づくために松竹とつながろうとした結果、まったく別の場所へ入ることになりました。
松竹芸能の公式プロフィールでは、ヒコロヒーさんは近畿大学在学中の学園祭をきっかけに松竹芸能へ入り、2011年にピン芸人としてデビューしたとされています。
Aマッソら仲間ができ、お笑いが「習い事」から仕事へ変わる
養成所へ通い始めると、周囲には同じ時期に芸人を目指していた人たちがいました。
ヒコロヒーさんが後年名前を挙げているのが、Aマッソ、きつね、お見送り芸人しんいちらです。
最初はお笑いへの強い決意があったわけではありませんが、仲間ができ、ライブに出てネタをする日々が始まります。
養成所へ行くこと自体が楽しくなり、やがてお笑いの世界で食べていきたいと思うようになったと本人は2026年の「木村拓哉 Flow」で振り返っています。
高校生のころに考えていたガソリンスタンドへの就職とも、大学を離れたころに考えていた映画やラジオ制作とも違う仕事が、ここで日常になりました。
初舞台直前に「ヒコロヒー」という芸名を付ける
初舞台へ出ることになり、今度は舞台上で使う名前が必要になりました。
本名で出演することには抵抗があり、その場で芸名を考えることにします。
ヒコロヒーさんは、幼いころから「ヒ」や「コ」のような角度のあるカタカナの形が好きだったそうです。
そこで好きな形の文字を並べ、ほとんど迷わず「ヒコロヒー」と書いて提出しました。
その名前で初舞台へ出て以来、現在まで同じ芸名を使っています。
本名が「ヒロコ」だからヒコロヒーになったという説や韓国語に由来するという説も検索されていますが、本人は2026年のTOKYO FMで、好きな形の文字を集めて付けた芸名だと説明しています。本名は公表していません。
大阪から東京へ移り、コントを続けた下積み時代
松竹芸能で芸人生活を始めても、一直線にテレビへ進んだわけではありません。
まず大阪でライブへ出演しながら、一人コントを作る日々が続きました。
そして大阪で活動している途中に、所属先との間で一つの問題が起こります。
大阪でライブに出にくくなり、松竹の東京所属へ
当時まだ反抗期の感覚が残っていたというヒコロヒーさんは、ネタ見せに関わっていた作家と大げんかをしました。
その結果、大阪ではライブなどへ出にくい時期ができ、本人は会社へ辞めたいと申し出ます。
ところが松竹芸能側から提案されたのは退所ではなく、東京へ活動場所を移すことでした。
大阪で続けるのが難しいなら、東京の松竹で試してみて、それでも嫌なら辞めればいいという話になりました。
ヒコロヒーさんも、それなら一度行ってみようと東京へ移ります。
しかし、大阪で受けていたネタが東京では同じように受けないこともあり、新しい場所ですぐ結果が出たわけではありませんでした。
風呂なし4万3000円の部屋から始まった東京生活
上京後の住まいは、家賃4万3000円ほどの風呂なし物件から始まりました。
ライブやオーディションが入れば、その時間はアルバイトを休まなければなりません。
当時はライブのチケットノルマなどにもお金が必要でした。
アルバイトを増やせば生活費は稼げますが、その分ネタを書く時間は減ります。
ヒコロヒーさんは、仕事以外の時間をできるだけネタ作りへ回す生活を選びました。
ネジの検品とスナックで月5万円ほどを稼ぐ日々
上京後にしていたアルバイトの一つが、ネジの検品でした。
もう一つはスナックの仕事です。
スナックではヘルプとして席につき、先輩のホステスたちからかわいがってもらったといいます。
店で酒を飲むことを嫌がらなかったため、食事へ連れて行ってもらったり、不要になった服を譲ってもらったりすることもありました。
芸人の先輩より、スナックで働く女性たちと過ごす時間のほうが多い時期もあったそうです。
アルバイトで稼いでいた金額は、本人によると月5万円ほどでした。
借金が増えてもバイトよりネタを書く時間を選んだ
収入が少ない一方で、家賃、電車代、ライブ関連の費用などはかかります。
その不足分が少しずつ借金になりました。
ヒコロヒーさんは競馬や麻雀が趣味として知られていますが、2026年の「木村拓哉 Flow」では、当時の借金についてギャンブルや酒が主な理由ではなく生活費だったと説明しています。
「貧乏でもいいからとにかくネタを考える」
出典:TOKYO FM「木村拓哉 Flow」(2026年3月)
ライブやオーディションを優先しながら約10年を過ごすうち、借金は一時総額500万円ほどまで増えたと話しています。
その期間も、ネタを書き、劇場へ立ち、またオーディションを受ける生活が続きました。
200円のコーヒーで朝までコントを書いた単独ライブの日々
テレビの仕事が少なかった時期にも、ヒコロヒーさんは単独ライブを開いていました。
2025年のBRUTUSの連載では、初期の単独公演を振り返り、一杯200円ほどのコーヒーを頼んで朝まで店に残り、机でコントを書いていたことを記しています。
大阪・味園ビルにあった小さなライブバー「白鯨」で行った公演も、本人にとって強く記憶に残っている単独ライブでした。
会社が「初単独ライブ」と告知した後年の公演があっても、本人の感覚では白鯨で行った公演が最初の単独として残っていると書いています。
2016年の本人Xにも、単独ライブへ向けて新しいネタを書き足しながら準備していた様子が残っています。
ライブ一本のために、ネタを書くところから舞台へ上がるところまでを繰り返していました。
みなみかわとの漫才からテレビへ活動が広がる
長い下積みの間もヒコロヒーさんの中心にあったのは一人コントでしたが、2010年代後半にはピン以外の形でも舞台へ立つようになります。
その一つが、当時同じ松竹芸能に所属していたみなみかわさんとの漫才でした。
2019年に「ヒコロヒーとみなみかわ」でM-1へ
2019年には、「ヒコロヒーとみなみかわ」としてM-1グランプリへ出場しています。
M-1グランプリ公式サイトにも、同ユニットは2019年結成として記録されています。
ヒコロヒーさんに固定の「相方」ができてピン芸人を辞めたという意味ではなく、みなみかわさんと組んだユニットでの挑戦でした。
2人の漫才では、芸人社会の男女にまつわる違和感なども題材にしました。
2019年大会では東京2回戦の追加合格者にも入り、その後もM-1へ出場しています。
「ヒコロヒー 相方」と検索されることがありますが、ヒコロヒーさんは基本的にピン芸人です。「ヒコロヒーとみなみかわ」はM-1などへ出場したユニットです。
ピン芸人としてテレビ・ラジオの仕事が増えていく
同じ時期には、ピン芸人として賞レースでも結果を残し始めます。
「女芸人No.1決定戦 THE W」では第1回の2017年から準決勝へ進み、その後も複数年にわたって準決勝へ進出しました。
2021年前後になるとテレビ出演が増え、同年には齊藤京子さんと出演するテレビ朝日「キョコロヒー」がスタートしました。
長くライブとオーディションを続けてきた時期から、テレビやラジオで日常的に姿を見る時期へ変わっていきます。
それでも、テレビ出演だけに仕事を絞ることはありませんでした。
コントを書き続けながら文章と脚本へ
テレビで知られるようになった後も、ヒコロヒーさんは単独公演とコント制作を続けています。
一方で、以前から続けていた「書く仕事」は、コント以外にも広がっていきました。
エッセイ、連載、小説、ドラマ脚本と、書いた文章そのものが仕事になる機会が増えています。
テレビが増えてからも単独公演とコントを続ける
テレビ出演が増えた後も、単独公演は定期的に開催されています。
2025年には第13回単独公演「spoiled」を開催しました。
所属事務所や公式サイトが「売れた後の活動」として単独ライブを付け加えたのではなく、売れる前から繰り返してきた仕事がそのまま残っています。
2026年の「木村拓哉 Flow」では、ネタを作るときには日常で引っかかった小さな違和感をスマートフォンへメモし、それをどのような状況へ置けばコントになるか考えると話しています。
同時に、自分は演じること以上に「書く方が好き」と感じることがあるとも明かしました。
エッセイ、脚本、小説へ広がった「書く仕事」
2021年には、本人がnoteなどで発表してきた文章をもとにした初のエッセイ集『きれはし』が刊行されました。
その後もBRUTUSなどで連載を持ち、2024年には初の短編小説集『黙って喋って』を刊行しています。
さらに2025年放送のドラマ「トーキョーカモフラージュアワー」では、連続ドラマの脚本を担当しました。
高校時代には芸人になる予定がなく、大学を離れたときには映画やラジオを作る仕事を考えていたヒコロヒーさんが、舞台の台本だけでなくドラマの脚本を書くところまで仕事を広げました。
『黙って喋って』が島清恋愛文学賞を受賞
『黙って喋って』には、現代のさまざまな恋愛を描いた18編の短編が収録されています。
作品は2025年、第31回島清恋愛文学賞に選ばれました。
2026年1月には金沢学院大学で贈呈式が行われ、ヒコロヒーさん本人も出席しました。
「受賞は身に余る光栄」
出典:金沢学院大学「第31回島清恋愛文学賞贈呈式」(2026年1月)
松竹芸能の公式プロフィールでは2026年現在も、ピン芸人としての活動に加えて、テレビ、ラジオ、コラムなど複数の仕事が掲載されています。
高校卒業後はガソリンスタンドで働くつもりだったヒコロヒーさんは、親と先生に勧められて大阪の大学へ進み、そこで頼まれて立った学園祭のステージから松竹芸能と接点を持ちました。
映画の仕事を探すつもりで連絡した松竹から芸人生活が始まり、東京でアルバイトをしながらコントを書き続けた時期を経て、テレビやラジオだけでなく脚本や小説も手掛けています。
2026年も単独公演を重ねてきたピン芸人として活動しながら、書き手としての仕事を続けています。
家族情報
公開情報で確認できている家族について、続柄・職業・補足・出典を整理しています。
ヒコロヒーの若い頃・学歴でよくある質問
ヒコロヒーの大学はどこ?
近畿大学文芸学部芸術学科へ進学しています。大学では落語講談研究会に入り、2年生の学園祭で初めて一人コントを披露したことが、松竹芸能との接点につながりました。その後、近畿大学は中退しています。
ヒコロヒーの高校はどこ?
愛媛で高校時代を過ごしたエピソードは本人が複数のインタビューで話していますが、今回確認した本人・所属事務所などの一次情報では高校名まで確定できないため、本記事では校名を推測で断定していません。
ヒコロヒーの出身地はどこ?
所属する松竹芸能の公式プロフィールでは、出身地は愛媛県です。実家の詳しい場所については、本人・所属事務所が公表している確かな情報の範囲を超えて特定しません。
ヒコロヒーの若い頃はどんな学生だった?
高校時代は本人が「2軍の不良少女」と表現するような時期があり、学校より地元の友人と過ごす時間が多かったと語っています。卒業後はガソリンスタンドへ就職するつもりでしたが、親や高校教師に勧められて近畿大学を受験しました。
ヒコロヒーは早稲田大学出身?
今回確認した所属事務所や本人インタビューで確認できる大学は近畿大学です。早稲田大学出身と確認できる一次情報は見当たらないため、本記事ではそのように扱っていません。
ヒコロヒーの生い立ち・若い頃・学歴まとめ
ヒコロヒーさんは愛媛県で育ち、高校時代には学校より地元の友人と過ごすことが多く、卒業後はガソリンスタンドへ就職するつもりでした。ところが親や教師に勧められて近畿大学文芸学部芸術学科へ進学し、落研と学園祭のコントをきっかけに松竹芸能との接点が生まれます。
近畿大学を中退したあとも、当初は映画やラジオを作る仕事を考えていましたが、松竹芸能の養成所で仲間と出会い、2011年からピン芸人として活動を始めました。現在のコントや執筆の仕事までたどると、10代から大学時代に経験したことが少しずつ現在へつながっています。
ヒコロヒーと似た生い立ちの人物は?
出身地・年代・人生の原点などの共通点から探せます。











