赤木裕の生い立ち・学歴|光泉高校から京都産業大学、たくろう結成まで

赤木裕
ひと目でわかるプロフィール 赤木裕
あかぎゆう
出身地
滋賀県
生まれ年代
1990年代生まれ
活動ジャンル
お笑い芸人
性別
男性
キャリアの原点
養成・修業

2025年のM-1グランプリで優勝し、一気に名前が広がったお笑いコンビ「たくろう」の赤木裕さん。

太い眉毛と独特の間、予想しにくい言葉が飛び出す漫才で知られていますが、滋賀県で過ごした少年時代は、人前で声を出すことさえ苦手な子どもでした。

しかも、小学校から高校までは野球を続け、プロ野球選手を夢見ていた時期もあり、最初から芸人を目指していたわけではありません。

小学生のころに偶然経験した漫才、光泉高校野球部で選手からマネージャーへ変わった高校3年生、京都産業大学で再び始めた漫才と、現在につながる出来事は少しずつ現れます。

吉本興業の公式プロフィールでは、1991年10月24日生まれ、滋賀県大津市出身、NSC大阪37期で、現在も趣味には野球や滋賀の高校野球が並んでいます。

よしもと漫才劇場公式Instagramでたくろうを見る

赤木裕の学歴|中学・光泉高校・京都産業大学を先に整理

たくろう・赤木裕さんについて検索されやすい「高校」「大学」「学歴」「出身」を、まず確認できる範囲で整理します。学校名は本人・学校・大学などの公表情報で確認できるものだけを掲載しています。

出身滋賀県。少年時代に野洲から大津へ移る
中学校大津市立打出中学校
高校光泉高校(現在の光泉カトリック高等学校)。硬式野球部に所属
大学京都産業大学 経営学部
大学卒業2014年3月
卒業後NSC大阪37期へ進み、2016年にきむらバンドさんと「たくろう」を結成

高校ではプロ野球選手を目指していましたが、3年生で選手からマネージャーへ。京都産業大学では野球部中心だったそれまでの生活から離れ、3回生で地元の友人と漫才を始めたことが芸人への進路につながっています。

赤木裕の生い立ちと家族|野洲から大津へ移った少年時代

赤木裕さんの少年時代をたどると、現在の所属プロフィールにある「大津市出身」より少し前から話が始まります。

本人は2026年に滋賀県のインタビューで、幼少期を野洲市で過ごし、小学生のころに大津市へ移ったと話しています。

大津で暮らすようになってからは、小学校への通学路だった「ときめき坂」を歩き、休日には友人と浜大津アーカスへ映画やボウリングに出かけていました。

父・母・姉の4人家族で育つ

家族は父親、母親、姉、赤木さんの4人です。

2026年のCHANTO WEBのインタビューでは、父親は会社員、母親は介護施設を経営し、姉は税理士だと本人が明かしています。

「4人家族で、父は大手企業で働いていて、母は介護施設を経営してて、お姉ちゃんは税理士」

CHANTO WEB

子どものころの赤木さんは家でもおとなしく、人見知りだった一方、父親はかなり厳しい人だったといいます。

本人の記憶に強く残っているのが、小学生のころに学校へ提出するプリントを何日か忘れていた日の出来事です。

父親から何度も「プリントを持ったのか」と確認され、赤木さんが強い口調で言い返すと、そのとき食べていたヨーグルトが床へ飛び散りました。

すると母親はすぐ雑巾を持ってきて黙って床を拭き、赤木さん自身も何も言わず、その場面を見ていたそうです。

父親の影響で読売ジャイアンツのファンになったことも、のちの生活を変えることになります。

小学4年ごろの転校を「野球をやらせてもらうこと」を条件に受け入れる

小学4年生ごろ、転校することになった赤木さんは、最初は新しい学校へ移るのを嫌がっていました。

そこで父親に出した条件が、転校先で野球をやらせてもらうことでした。

「野球をやらせてくれるなら転校してもいい」

CHANTO WEB

転校後はリトルリーグへ入り、仲間とグラウンドへ集まって野球をする毎日が始まります。

ところが、野球仲間の中にいても、赤木さんの人前で話すのが苦手なところは変わりませんでした。

ある練習試合の帰り、父親も一緒に乗っていた電車の中でトイレへ行きたくなったものの、「トイレに行きたい」と周囲へ言い出せず、最後まで我慢できなかったことがあったそうです。

父親がすぐそばにいても助けを求められないほど、当時は人前で声を出すことが苦手でした。

人前で話すのが苦手だった少年が小6の学校行事で初めて漫才をする

野球を始めたあとも、お笑いを仕事にしようとはまだ考えていませんでした。

それでも小学6年生になると、思いがけない形で人生最初の漫才を経験します。

学校の文化祭のような行事で、友人がお笑いを担当するグループに入っていたため、赤木さんもそこへ加わりました。

当初は4人ほどいたメンバーが本番前に2人抜け、残った赤木さんと友人の國友さんで漫才をすることになったといいます。

クラスでは先生がネタ作りを宿題として出し、集まった案から使うネタを選び、2人で舞台へ立ちました。

2026年に高校生向けのインタビューで振り返ったときには、その漫才がウケた感覚についても触れています。

「その時ウケた気持ちよさがあった」

ch FILES

ただし、この一度の成功で芸人志望になったわけではありません。

本人によれば、友人がお笑いの担当にいたから参加したという程度で、その後は再び野球中心の生活へ戻っています。

人生年表 赤木裕さんの歩み
幼少期
赤木裕の生い立ちと家族|野洲から大津へ移った少年時代

赤木裕さんの少年時代をたどると、現在の所属プロフィールにある「大津市出身」より少し前から話が始まります。

中学校
赤木裕の中学時代|野球部で琵琶湖沿いを走った毎日

中学生になっても、生活の中心にあったのはお笑いではなく野球でした。

中学校
大津市の中学校で野球を続ける

滋賀県の公式インタビューでは、中学時代の練習として、なぎさ公園から近江大橋を渡り、再び戻ってくるコースを走っていたことを本人が明かしています。

中学校
林遣都や今井らいぱちも通った中学校で過ごす

打出中学校には、赤木さんより上の学年に俳優の林遣都さんがおり、吉本興業の先輩芸人・今井らいぱちさんも同じ中学校の野球部出身です。

高校
赤木裕の学歴|中学・光泉高校・京都産業大学を先に整理

たくろう・赤木裕さんについて検索されやすい「高校」「大学」「学歴」「出身」を、まず確認できる範囲で整理します。学校名は本人・学校・大学などの公表情報で確認できるものだけを掲載しています。

高校
赤木裕の高校は光泉高校|野球部で選手からマネージャーへ

中学を卒業すると、赤木さんは光泉高校へ進みました。

高校
高校3年でマネージャーになり「一発逆転」を考え始める

高校の途中でけがをして練習から離れ、復帰しようとしたころ、監督から選手ではなくマネージャーを担当するよう告げられました。

学生時代
赤木裕の大学は京都産業大学|経営学部で過ごした学生時代

高校卒業後は京都産業大学経営学部へ進学しました。

赤木裕の中学時代|野球部で琵琶湖沿いを走った毎日

中学生になっても、生活の中心にあったのはお笑いではなく野球でした。

赤木さんが通ったのは大津市立打出中学校で、同校でも野球部に所属します。

大津市の中学校で野球を続ける

滋賀県の公式インタビューでは、中学時代の練習として、なぎさ公園から近江大橋を渡り、再び戻ってくるコースを走っていたことを本人が明かしています。

琵琶湖沿いを走る日々を送りながら、学校でも野球部員同士で一緒にいることが多かったようです。

2026年に高校時代までを振り返った際にも、小・中・高と野球部という集団の中で過ごしていたと話しており、友人関係も野球を中心に作られていました。

大人になったあとも、中学時代の先輩と地元へ帰った様子を本人のXで公開しており、当時のつながりは現在まで残っています。

林遣都や今井らいぱちも通った中学校で過ごす

打出中学校には、赤木さんより上の学年に俳優の林遣都さんがおり、吉本興業の先輩芸人・今井らいぱちさんも同じ中学校の野球部出身です。

今井らいぱちさんとは在学時期が重なっていませんが、赤木さん自身が滋賀県のインタビューで、同じ中学・野球部の先輩として名前を出しています。

休日には浜大津アーカスへ遊びに行き、中学校では野球部員とまとまり、練習では琵琶湖の周囲を走るという、大津での生活が続きました。

赤木裕の高校は光泉高校|野球部で選手からマネージャーへ

中学を卒業すると、赤木さんは光泉高校へ進みました。

現在の光泉カトリック高等学校も、M-1優勝後の公式発表で赤木さんを2009年度卒業の元硬式野球部員として紹介しています。

プロ野球選手を目指しながら硬式野球部で過ごす

高校でも野球を続けた赤木さんは、当時はプロ野球選手になりたいと思っていました。

一方、教室では野球部のイメージとは少し違い、本人によると「おとなしい子」で、先生から当てられても何も答えないことがあったそうです。

学校行事にも積極的なタイプではなく、体育祭の部活対抗リレーでは、なぜかほかの部活が4人で走る距離を1人で4周させられたこともありました。

小学校では漫才を経験していたものの、高校の文化祭で自らお笑いを披露するような生徒ではありませんでした。

「僕はおとなしい子でした。なんもしゃべらない」

ch FILES

野球部員として練習を続けていた高校生活は、3年生で大きく変わります。

高校3年でマネージャーになり「一発逆転」を考え始める

高校の途中でけがをして練習から離れ、復帰しようとしたころ、監督から選手ではなくマネージャーを担当するよう告げられました。

2018年のインタビューでは、赤木さん自身も野球が「ヘタ過ぎる」ため高校3年でマネージャーになり、選手たちのドリンクを作っていたと振り返っています。

小学校から続け、プロを目指していた野球で、最後の学年に選手ではない立場へ回りました。

そこで出てきたのが、それまでとは別の場所で状況を変えたいという考えでした。

「『今に見てろよ!』と一発逆転を狙うきっかけになりました」

ch FILES

プロ野球選手になることについては、マネージャーへ回る自分には野球のセンスがないのだろうと考え、諦めることになります。

そのころ「人生を一発逆転するなら、お笑い業界にも可能性があるのではないか」と考え始めました。

赤木裕の大学は京都産業大学|経営学部で過ごした学生時代

高校卒業後は京都産業大学経営学部へ進学しました。

京都産業大学の公式発表では、赤木さんは2014年3月に経営学部を卒業しています。

ここで、小学校から高校まで続いていた「野球部の中にいる生活」がいったん途切れます。

知り合いゼロの入学式で中学の同級生「ピコリ」と再会する

大学生活については、赤木さん自身がFANY Magazineの連載でかなり細かく書いています。

入学時、大学には知り合いが一人もいませんでした。

小・中・高と野球をしてきたため、それまでは常に野球部という集団がありましたが、大学の入学式では一人で行動することになります。

「僕の大学生活は知り合いが1人もいないところからスタートしました」

FANY Magazine

入学式を終え、オリエンテーションの教室へ向かって歩いていると、前方にどこか不安そうな男性がいました。

その人物が振り返ったところ、顔を見た赤木さんはその日初めて笑顔になったと書いています。

相手は中学校の同級生で、周囲から「ピコリ」と呼ばれていた清水康平さんでした。

中学時代にはそれほど話していなかった相手でしたが、知り合いが誰もいない大学では一気に距離が縮まります。

ピコリとチョコとの3人中心で過ごしたキャンパス生活

ピコリさんから高校時代の友人を紹介され、赤木さん、ピコリさん、そして「チョコ」と呼ばれる友人の3人で行動するようになりました。

同じ授業を取り、休み時間には一緒に食事をし、食後にはキャンパス内を3人で歩いて過ごします。

赤木さんのコラムには、3人で「影のあるところを歩いたら死ぬ」という遊びをしながら大学構内を歩いていたという、学生生活の細かな場面まで残っています。

一度は3人で、月2回京都を散策するサークルにも入りました。

ところが初回の金閣寺でも結局3人だけで話し続け、その日のうちにサークルを辞めています。

ピコリさんとチョコさんとは、大人になってからも交流が続いていると本人は記しています。

大学3回生で地元の友人と漫才を始める

高校3年生のころに候補へ入ったお笑いは、大学に入ってすぐ仕事になったわけではありません。

転機が来たのは大学3回生です。

地元の友人と漫才コンビを組み、ライブハウスで音楽ライブの合間に漫才を披露するようになりました。

小学校6年生で一度だけ経験した漫才を、大学3回生になって今度は自分の進路につながる形で再び始めます。

一方で大学生活では野球とも完全に離れたわけではなく、2026年には大学時代に野球サークルを作ってプレーしていたこともテレビ番組で明かしています。

高校で選手としての道は終わりましたが、野球を楽しむこと自体はその後も続いていました。

大学卒業後にNSC大阪37期へ|芸人を選んだ赤木裕を家族も送り出す

京都産業大学を卒業した赤木さんは、そのまま一般企業へ就職するのではなく、吉本興業の養成所であるNSC大阪校へ進みました。

吉本興業の公式プロフィールでもNSC大阪37期と記載されています。

京都産業大学卒業後、就職ではなくNSCへ進む

本人の大学コラムでも、卒業後の進路は端的に書かれています。

「京都産業大学を卒業してNSCに入りました」

FANY Magazine

子どものころから人前で話すのが苦手だったため、芸人になるという選択に家族が強く反対しても不思議ではありませんでした。

しかし、両親の反応は違いました。

家でもほとんど話さない息子がコミュニケーションを苦手としていることを、両親も昔から知っていたといいます。

「芸人さんからいろいろ学べるんやったら、いい社会勉強になるんちゃうか」

CHANTO WEB

両親は芸人になることを止めず、「社会勉強になるなら」とNSCへ送り出しました。

NSC公式Instagram「初心忘れるべからず〜NSC履歴書編〜」で大阪NSC37期・赤木裕を見る

学生時代のアルバイトでも人とのやり取りに苦戦する

NSCへ入るまでの赤木さんは、アルバイトでも人とのやり取りに苦戦していました。

後年のインタビューでは、学生時代を含むアルバイト先で何度も仕事を続けられなくなったことを本人ときむらバンドさんが明かしています。

人前でうまく話せないという子どものころからの特徴は、学校を卒業しただけで突然消えたわけではありませんでした。

その状態のまま、今度は人前で話すことそのものが仕事になる芸人の世界へ入っていきます。

きむらバンドとの出会い|「顔と雰囲気」から始まったたくろう

NSC大阪37期に入った赤木さんは、養成所時代にもコンビを組んでいました。

しかしNSCを卒業するころ、その相方が芸人を辞め、再びコンビを組む相手がいない状態になります。

1期上のきむらバンドが赤木裕に目を留める

そこへ声をかけたのが、NSC大阪36期で1期上のきむらバンドさんでした。

きむらバンドさんは同期の芸人たちから「赤木という後輩がおもしろい」と聞いていたものの、最初は顔すら知りませんでした。

連絡を取って待ち合わせると、赤木さんは後輩でありながら「5分くらい遅れます」と連絡し、その後、汗だくの姿で現れたそうです。

別の2026年のインタビューで、きむらバンドさんは当時の赤木さんが現在より約10kg痩せており、太い眉毛に細い体で、2リットルの水と大袋のシリアルを持ち歩いていたことまで覚えていました。

「芸人としてこんなにおもしろい奴おんのか」

CHANTO WEB

きむらバンドさんは、ネタを見る前から赤木さんの「顔と雰囲気」に惹かれ、コンビを組みたいと考えました。

一方の赤木さんも、相方が辞めて漫才ができず困っていた時期だったため、声をかけられたことで再びコンビで漫才ができるようになります。

2016年にたくろうを結成し、道頓堀川沿いでネタを合わせる

2人は2016年3月9日に「たくろう」を結成しました。

コンビ名は、きむらバンドさんが好きな木村拓哉さんの「拓」と、赤木さんが好きなイチローさんの「郎」を組み合わせたものです。

結成したころは、道頓堀川沿いの四ツ橋側に芸人仲間がよく集まる場所があり、そこでネタ合わせをしていました。

当時の赤木さんはまだ滋賀県に住んでいたため、夜遅くなって帰れなくなることもありました。

一度は川沿いにいた人たちと一緒に眠り、翌朝、近くの教会の神父が届けたおにぎりを分けてもらったこともあったと話しています。

ネタの原案は主に赤木さんが考え、2人で合わせながら形にしていくスタイルになっていきました。

たくろうとして続けた漫才がM-1優勝へ

たくろう結成後は、少しずつ大阪の賞レースや劇場で結果が出るようになります。

結成から間もない2016年には、よしもと漫才劇場のネタバトルで結果を残し、2018年には今宮子供えびすマンザイ新人コンクールの新人漫才福笑大賞を受賞しました。

同じ2018年にはM-1グランプリで準決勝へ進出したものの、その後すぐに決勝へ届いたわけではありません。

結成直後から結果を残しながらM-1決勝までは時間がかかる

2019年にはNHK上方漫才コンテスト本選、ytv漫才新人賞決定戦、NHK新人お笑い大賞などへ進み、劇場を中心に漫才を続けました。

赤木さんは2018年の時点ですでに、M-1について「決勝まで行って、一気に山を登り切る」という趣旨の目標を話していました。

しかし実際にM-1決勝へ初めて進んだのは、それから7年後の2025年です。

2025年大会には過去最多の11,521組がエントリーし、たくろうはファーストラウンドを突破してファイナルステージへ進みました。

2025年12月21日、たくろうはM-1グランプリ2025で優勝しました。

高校3年生で選手からマネージャーへ回ったころに浮かんだ「一発逆転」という言葉から、十数年が経っていました。

M-1優勝後、滋賀と京都産業大学へ戻る

M-1決勝では、赤木さんが母校・京都産業大学の略称「KSU」を「KSD」と言う場面も漫才の中に登場しました。

優勝翌日には本人がXで大学へ謝りつつ、「京都産業大学のおかげで優勝できました」と投稿しています。

2026年1月にはその京都産業大学を訪れ、2014年経営学部卒の卒業生として「卒業生顕彰」を受けました。

会場となった神山ホールには在学生や教職員約1,000人が集まり、大学から「KSD」のロゴが入った特注パーカーも贈られています。

京都産業大学公式InstagramでM-1王者たくろうの凱旋を見る

同年2月には滋賀県庁にもM-1王者として凱旋し、幼少期を野洲市で過ごしたこと、中学時代に琵琶湖沿いを走っていたこと、浜大津アーカスへ友人と遊びに行ったことを改めて語りました。

M-1優勝後には、姉が両親へ子どもの写真を送るために使っていた家族LINEへ、自分も入れてもらったことを本人のXで公開しています。

そして2026年4月からは、たくろうとして活動拠点を東京へ移しました。

それでも吉本興業のプロフィールには現在も「野球」「滋賀の高校野球」が趣味として残り、M-1優勝直後のインタビューでも赤木さんは巨人ファンであることを話しています。

「僕にできることは漫才だけなんで」

FANY Magazine

小学生のころは人前で「トイレに行きたい」と言うことさえできなかった少年が、現在は漫才を仕事にしています。

野洲と大津で過ごし、野球を続けながら人前で話すことを苦手としていた子ども時代が、赤木裕さんの出発点でした。

高校で選手からマネージャーへ回り、大学で漫才を始め、NSCで相方との出会いを待つようにして人生の進路は変わっていきました。

そして2025年のM-1優勝を経た現在も、滋賀や野球、京都産業大学といった学生時代までの場所や経験を残したまま、たくろうとして漫才を続けています。

赤木裕の高校・大学・学歴でよくある質問

赤木裕の高校はどこ?

光泉高校です。現在の光泉カトリック高等学校も、M-1優勝後の公式発表で赤木裕さんを2009年度卒業の元硬式野球部員として紹介しています。高校3年生では選手からマネージャーへ回った経験が、別の分野で「一発逆転」を考えるきっかけになりました。

赤木裕の大学はどこ?

京都産業大学です。大学の公式発表によると、経営学部を2014年3月に卒業しています。大学3回生では地元の友人と漫才を始め、卒業後にNSC大阪37期へ進みました。

赤木裕の中学校はどこ?

大津市立打出中学校です。中学でも野球部に所属し、琵琶湖沿いを走る練習などをしていたことを本人が滋賀県のインタビューで話しています。

赤木裕の出身はどこ?

滋賀県出身です。少年時代に野洲から大津へ移り、その後は大津市の中学校、滋賀県内の光泉高校へ進みました。

赤木裕の生い立ち・高校・大学まとめ

赤木裕さんは滋賀県で育ち、小・中・高と野球を続けました。光泉高校ではプロ野球選手を目指して硬式野球部に所属しましたが、高校3年生でマネージャーへ回った経験から、お笑いという別の「勝負の場所」を意識するようになります。

高校卒業後は京都産業大学経営学部へ進学し、大学3回生で地元の友人と漫才を開始。2014年の大学卒業後にNSC大阪37期へ入り、2016年にきむらバンドさんと「たくろう」を結成しました。学生時代の野球と大学での漫才経験が、現在の芸人としての歩みへつながっています。

参考・出典 この記事で参照した主な資料

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