後藤啓介の生い立ちと家族|兄とボールを蹴った幼少期、中学・高校から海外挑戦まで

後藤啓介
ひと目でわかるプロフィール 後藤啓介
ごとうけいすけ
出身地
静岡県
生まれ年代
2000年代生まれ
活動ジャンル
サッカー選手
性別
男性
育った家庭
3学年上の兄・佑介と幼少期から毎日のようにボールを蹴って育った。
キャリアの原点
兄とボールを蹴る日々の中でサッカーへ没頭していった。

2026年夏、後藤啓介さんは日本代表の背番号9としてFIFAワールドカップのピッチに立ち、ワールドカップ後に合流したSCフライブルクではUEFAカンファレンスリーグのマザーウェル戦2試合でゴールを決めています。

191cmの長身を生かしたプレーが目を引くストライカーですが、現在の姿からさかのぼると、出発点には浜松で兄とボールを蹴り続けた日々がありました。

後藤啓介さんを理解する3つのポイント
  1. 兄と日常的にサッカーへ取り組む環境で育ち、幼いころからW杯優勝を目標として口にしていた。
  2. 兄とボールを蹴る日々の中でサッカーへ没頭していった。
  3. 現在の道につながる原点:幼少期から活動

ジュビロ磐田の育成組織に入り、高校生でトップチームへ上がり、18歳でベルギーへ渡るまで、進路が動くたびにサッカーの環境も大きく変わっていきます。

SCフライブルク公式Instagramの投稿を見る

その歩みをたどると、子どものころに夢中になっていたこと、学校で見せていた姿、プロ1年目の生活、初めての海外暮らしまで、今の後藤さんにつながる具体的な場面が見えてきます。

後藤啓介の生い立ちと家族|浜松で兄の背中を追ってサッカーを始めた

後藤啓介さんは2005年6月3日生まれ、静岡県浜松市出身で、3歳上にはサッカーを続けてきた兄の後藤佑介さんがいます。

佑介さんはGKとして清水エスパルスユース、順天堂大学などでプレーしており、兄弟は幼いころから同じ競技を身近にして育ちました。

父親については後藤さん自身が、背が高くバレーボール経験があると語っており、本人も幼いころにはバレーボールのほか、短距離やハードル、走り幅跳び、水泳、テニスを経験していました。

母親の職業など、家族の詳しいプロフィールは公表されていません。

兄・佑介の姿を見て4歳でサッカーを始めた

後藤さんが4歳でサッカーを始めたきっかけは兄・佑介さんの影響で、2025年のインタビューでは、小学校に入る前から自分より2〜3歳上の子どもたちと一緒にプレーしていたと振り返っています。

「小学校に入る前からプロになるのは必然だと思っていました」

週プレNEWS

2010年W杯を見て「自分もこの舞台に立ちたい」と思った

サッカーを始めたばかりの2010年、5歳になったばかりでテレビ越しに見たのが南アフリカワールドカップでした。

特に記憶に残ったのは日本対デンマーク戦で、本田圭佑選手と遠藤保仁選手がフリーキックから得点した試合だったと後年のインタビューで話しています。

「自分もこの舞台に立ちたい」

サッカーキング

実家の庭と近所の公園で兄弟練習、リフティングは1000回へ

兄の佑介さんによると、幼少期の2人は実家の庭や近所の公園で、ほぼ毎日のようにボールを蹴っていました。

兄が先に家へ戻っても啓介さんだけは残る日があり、小学3〜4年ごろには、暗くなってボールが見えにくくなるまでリフティングを続けていたそうです。

ある日は玄関へ駆け込み、リフティングを1000回できたと家族へ報告しました。

佑介さんは、その様子を、よく飽きないと思うほどひたすら続けていたと振り返っています。

誕生日やクリスマスにはサッカー用品をもらい、友達が家でゲームをしているときにも一人で外へボールを蹴りに行くことがあったと、SBSの取材でも幼少期の様子が紹介されています。

家族情報

公開情報で確認できている家族について、続柄・職業・補足・出典を整理しています。

兄 後藤佑介 サッカー選手(GK)

3学年上。幼少期から一緒にボールを蹴っていた。

信頼できる媒体 出典を見る

小学校時代|カワイ体育教室SCで足元の技術を磨いた

後藤さんの小学校名は本人や所属クラブの公式プロフィールでは公表されておらず、母校の曳馬中学校ブログに出てくる「上島小に来たことある」という在校生の発言だけでは、上島小学校出身と断定できません。

一方、小学生年代に所属したチームはカワイ体育教室SCで、ジュビロ磐田の公式プロフィールにも経歴として記載されています。

大柄だった後藤啓介に恩師が足元の技術を徹底した

小学生時代の恩師・守屋賢吾さんが覚えていたのは、同年代の子どもたちの中ですでに体が大きかった後藤さんの姿でした。

守屋さんは、大柄な日本人選手が足元の技術で苦労する姿を当時見ていたため、後藤さんには体格任せにせず、ボールを扱う技術を身につけさせようと考えたそうです。

守屋さんはSBSの取材で、足元の技術をつけることを意識し、そこを徹底して指導していたと説明しています。

コーンドリブルと1対1、雨上がりにはグラウンドの水抜きもした

練習にはコーンドリブルや1対1があり、後藤さんはベルギーへ渡った後も、そのころ身につけた技術が海外の個人勝負で役立っていると話しています。

雨上がりのグラウンドでは水抜きもしており、後年カワイ体育教室の練習へ顔を出した際、子どもたちと作業をしながら昔も同じことをしていたと懐かしんでいました。

人生年表 後藤啓介さんの歩み
幼少期
後藤啓介の生い立ちと家族|浜松で兄の背中を追ってサッカーを始めた

後藤啓介さんは2005年6月3日生まれ、静岡県浜松市出身で、3歳上にはサッカーを続けてきた兄の後藤佑介さんがいます。

小学校
小学校時代|カワイ体育教室SCで足元の技術を磨いた

後藤さんの小学校名は本人や所属クラブの公式プロフィールでは公表されておらず、母校の曳馬中学校ブログに出てくる「上島小に来たことある」という在校生の発言だけでは、上島小学校出身と断定できません。

中学校
中学校時代|曳馬中に通いながらジュビロ磐田U-15へ

小学生年代を終えると、後藤さんはジュビロ磐田U-15へ進み、学校は浜松市立曳馬中学校に通いました。

高校
高校時代|U-18から17歳でプロのピッチへ

高校へ進んだ後藤さんは、U-18でプレーしながら磐田東高校へ通いました。

高校
高校生のまま2023年のトップチームへ昇格した

2023年1月、トップチームの新体制に加わった後藤さんは、背番号42をつけてプロ1年目を始めました。

中学校時代|曳馬中に通いながらジュビロ磐田U-15へ

小学生年代を終えると、後藤さんはジュビロ磐田U-15へ進み、学校は浜松市立曳馬中学校に通いました。

曳馬中学校自身が2026年のブログで、後藤さんを「2021年春に卒業した」卒業生として紹介しています。

地元浜松からジュビロ磐田の育成組織へ進んだ

2018年にはジュビロ磐田U-15に入り、地元浜松での学校生活と、磐田のアカデミーでの競技生活が並行するようになりました。

この年代から世代別日本代表にも名前が挙がるようになり、ジュビロの育成組織で次の年代へ進む道を歩いていきます。

中学3年のキャンプで足首を骨折した時期もあった

順調に育成年代を進んでいた一方で、中学3年の鹿児島キャンプでは足首を骨折しています。

本人は2023年にけが歴を聞かれた際、大きなけがとしてこの骨折を挙げており、少年期からほとんど大きなけがを経験していなかった中での出来事でした。

U-18へ進み、トップチームが現実的な距離に近づいた

中学3年の時点ですでにU-18の試合へ飛び級で出場しており、清水エスパルスユース戦で得点した記録も残っています。

2021年春に曳馬中を卒業すると、正式にジュビロ磐田U-18へ進みました。

U-18ではFWだけでなく複数の位置でプレーし、のちのトップチーム昇格発表でも、ジュビロは後藤さんをMF・FWとして紹介しています。

ジュビロが評価していたのは、191cmの高さだけではなく、運動量、スピード、技術、状況判断、複数ポジションをこなす力でした。

高校時代|U-18から17歳でプロのピッチへ

高校へ進んだ後藤さんは、U-18でプレーしながら磐田東高校へ通いました。

この時期はピッチ外にも具体的な記録が残っており、高校時代の担任だった山本幸司先生は、後藤さんをよくしゃべり、学校行事でも目立つタイプだったと振り返っています。

磐田東高2年でジュビロ磐田トップチーム加入が内定

磐田東高1年時の体育大会では、クラスメートの舩橋京汰さんと競技の作戦を何度も練り、「台風の目」でスピードを上げすぎた結果、一人がついていけず失格になって総合優勝を逃したというエピソードも残っています。

一方で学校の提出物や補習がサッカーへ影響することは避けており、担任によればテスト順位は所属コース約160人中10番台を保っていました。

教室後方の黒板に先生が毎月書く「今月の言葉」も楽しみにしており、月が変わると次の言葉を尋ねていたそうです。

そして2022年10月21日、磐田東高校2年・17歳で翌季トップチーム加入が内定しました。

「小さい頃から応援していたクラブで、プロとしてスタートすることができて、とても嬉しいです」

ジュビロ磐田

高校生のまま2023年のトップチームへ昇格した

2023年1月、トップチームの新体制に加わった後藤さんは、背番号42をつけてプロ1年目を始めました。

J2開幕戦のファジアーノ岡山戦では0-3とリードされた後半から途中出場し、89分と90+2分に立て続けにゴールを決めました。

17歳8カ月15日で決めた得点は、ジュビロ磐田のクラブ最年少得点記録になりました。

開幕から結果を残し、33試合7得点でJ1昇格を経験した

開幕戦のあとも出場を重ね、2023年のJ2では33試合7得点を記録しました。

5月の東京ヴェルディ戦では右足首を負傷し、得点が止まる時期には横内昭展監督から、何もかも変えるのではなく一つずつ元に戻していくよう助言されたことも本人が明かしています。

シーズン終盤は昇格争いの中で試合に出続け、ジュビロは最終的にJ1復帰を決めました。

後藤啓介公式Instagramの投稿を見る

18歳になった年を振り返ったインタビューでは、成績以上にプロとして得た経験そのものを強く意識していました。

「普通の18歳がお金じゃ買えないものを経験させてもらった」

静岡新聞アットエス

第一学院高校で勉強とプロ生活を並行した

高校3年時には、トップチーム昇格後に通信制の第一学院高等学校・浜松キャンパスへ転校しました。

第一学院は2023年11月時点で後藤さんを浜松キャンパスの3年生として紹介しており、翌2024年6月には2023年度卒業生として母校を訪れた様子を掲載しています。

プロになっても平日は学校があり、本人はチームのオフでも学校へ通うため、完全な休日とはならない生活だったと説明しています。

寮で時間が空けば眠ることが多く、午後2〜3時に昼寝を始め、気づいたら夜という日もあったそうです。

初めて受け取った給料では1万円分の駄菓子を買い、両親には靴を贈りました。

18歳でベルギーへ|J1を経由せずアンデルレヒトを選んだ

J1昇格を決めた2023年の終盤、後藤さんの次の所属先はベルギーのRSCアンデルレヒトに決まりました。

移籍は2024年1月1日から1年間の期限付きで、18歳になったばかりの選手が初めて海外生活へ入ることになりました。

2023年夏のオファーを見送り、冬のチャンスを待った

海外移籍の話が初めて出たのは冬ではなく、2023年夏でした。

当時はいくつかのオファーが届いていたものの、ジュビロが補強禁止処分中だった事情もあり、後藤さんは夏の時点で移籍するのは難しいと判断しています。

「冬に行けるチャンスがあるなら行きたい」

サッカーキング

アンデルレヒト側は冬まで待つ意向を示し、J2でシーズンを最後まで戦ったあとに移籍が実現しました。

J1を経験してからでなくても早く海外へ進みたいという意向を持ち、18歳でベルギー行きを選びました。

初めての海外生活は自転車と電車、外食と自炊から始まった

2024年1月にベルギーへ渡ると、最初にプレーしたのはアンデルレヒトのセカンドチームRSCA Futuresでした。

練習の強度だけでなく生活も一変し、当時はまだ運転免許を持っていなかったため、日常の移動は自転車か電車で、練習場への往復にはチームバスを利用していました。

食事はクラブで用意されるものに加え、外食と自炊を組み合わせていました。

加入直後は、ポゼッション練習で名前を呼ばなければパスが来ないと感じ、練習前にチームメート全員へ名前を聞いてメモしていました。

英語を使いながらチームメートとやり取りし、週末には以前ベルギーでプレーしていた松原后さんから紹介された日本人コミュニティにも足を運んでいます。

シュミット・ダニエルさんや横田大祐さんと食事をする機会もあり、サッカー以外の生活圏も少しずつ広がっていきました。

フューチャーズで得点を重ね、アンデルレヒトと完全契約した

RSCA Futuresでは加入後の2023-24シーズン後半にチャレンジャー・プロ・リーグ14試合すべてに出場し、6得点1アシストを記録しました。

ベルギーへ渡って約半年後の一時帰国時には、筋力トレーニングなどで体重が5〜6kg増え、日本で当たり負けしていた場面との違いも感じていました。

翌2024-25シーズンも得点を重ね、2024年12月5日にアンデルレヒトへの完全移籍が決まり、2028年6月までの契約を結びました。

完全移籍発表時点で、クラブはチャレンジャー・プロ・リーグで27試合13得点と紹介しています。

2025年1月16日のベルギーカップではトップチームで初出場し、同26日のメヘレン戦では初先発してダイビングヘッドでトップチーム初得点を記録しました。

さらに4日後のヨーロッパリーグ・ホッフェンハイム戦でも途中出場からゴールを決め、トップチームで公式戦2試合続けて得点しています。

STVVで二桁得点|20歳でSAMURAI BLUEへ

アンデルレヒトのトップチームで出場機会を得た2025年、次に選んだのは同じベルギー1部のシント=トロイデンVV(STVV)でした。

ここでは期限付き移籍でシーズンを通して試合へ出場し、20歳の秋には日本代表まで距離を縮めていきます。

2025年夏にシント=トロイデンへ期限付き移籍した

STVVへの加入が発表されたのは2025年8月7日で、アンデルレヒトからの期限付き移籍でした。

加入時の身長・体重は191cm・78kgと紹介され、クラブは運動量、動き出し、状況判断に加え、守備でも積極的に関与できる点を評価していました。

STVV公式Instagramの投稿を見る

シーズン序盤から先発機会を重ね、秋にはチームの前線で得点を積み上げていきました。

リーグ10得点5アシストがA代表初招集へ続いた

2025年秋までに出場機会を増やした後藤さんは、11月6日に発表されたガーナ戦・ボリビア戦のSAMURAI BLUEメンバーへ初めて入りました。

初招集後もSTVVでシーズンを戦い続け、2026年6月のフライブルク加入発表では、2025-26シーズンのJupiler Pro Leagueを28試合10得点5アシストと紹介されています。

STVV日本公式のシーズン終了時プロフィールではリーグ戦通算38試合11得点7アシストと記載されており、フライブルク公式とSTVV日本公式ではこのシーズンのリーグ戦成績の表記が異なっています。

ガーナ戦でA代表のピッチに立った

2025年11月14日のガーナ戦では、2-0で迎えた後半に途中出場し、20歳で日本代表デビューを果たしました。

森保一監督からは、まず守備から入り、失点を防ぐためにハードワークすることを求められたと試合後に説明しています。

「ピッチに立ててスタートラインに立てました」

JFA

11月18日のボリビア戦にも途中出場し、初招集の代表活動で2試合のピッチを経験しました。

2026年|フライブルク移籍と16年前に憧れたW杯

2026年5月15日、FIFAワールドカップ2026に臨む日本代表26人が発表され、後藤さんは背番号9で初めてワールドカップメンバーに選ばれました。

大会開幕を待つ間に、クラブでの次の進路も決まります。

アンデルレヒトからSCフライブルクへ完全移籍した

2026年6月11日、ドイツ・ブンデスリーガのSCフライブルクへ完全移籍することが発表されました。

フライブルクは、裏へ走る動き、スペースの感覚、ペナルティーエリア内でのプレーを評価し、本人も数カ月前からクラブが強い関心を示してくれていたことを移籍理由の一つに挙げています。

SCフライブルク公式Instagramの加入投稿を見る

2026年W杯チュニジア戦で背番号9として大会デビュー

ワールドカップ初戦のオランダ戦では出場機会がありませんでしたが、第2戦のチュニジア戦で出番が訪れます。

日本が4-0とリードした84分、上田綺世選手に代わって後藤さんがピッチへ入りました。

5歳になったばかりでテレビ越しに憧れたワールドカップへ、16年後は日本代表の背番号9として出場したことになります。

フライブルク公式戦デビューでヘディングの初ゴール

ワールドカップ後にフライブルクへ合流し、2026年8月20日のUEFAカンファレンスリーグ・プレーオフ、マザーウェル戦で新天地の公式戦デビューを迎えました。

80分に途中出場すると、2-1で迎えた90+6分、ヴィンチェンツォ・グリフォ選手のCKに頭で合わせます。

公式戦デビューの日に決めたヘディングが、フライブルクでの初ゴールになり、チームは3-1で勝利しました。

その3日後の8月23日にはDFBポカール1回戦のフォルトゥナ・デュッセルドルフ戦にも終盤から出場し、チームは5-1で勝利しました。

8月27日のマザーウェルとの第2戦でも68分から出場し、85分に相手のクリアミスを拾ってゴールを決めています。

浜松で兄とボールを蹴るところから始まった後藤啓介さんのサッカーは、ジュビロの育成組織を通って17歳でプロの舞台へ進みました。

18歳でベルギーへ渡り、クラブと代表の両方で出場機会を広げながら、5歳になったばかりで見ていたワールドカップのピッチにも立ちました。

2026年夏はフライブルクで公式戦デビュー戦から得点し、欧州カップ戦でもゴールを重ねながら新しいクラブでのシーズンを迎えています。

参考・出典 この記事で参照した主な資料
正本DB確認日:2026-09-15

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