V・ファーレン長崎のMFとしてプレーする保田堅心さんは、2005年3月5日生まれ、福岡県出身のプロサッカー選手です。
大分トリニータのアカデミーからプロへ進み、ベルギーのKRCゲンクを経て、2026年7月に長崎へ加入しました。
- 5歳ごろにサッカーを始め、FC J-WINでプレー。中学年代は福岡の実家からサガン鳥栖U-15へ通った。
- 中学3年で鳥栖U-18昇格が保留となったことを機に、プロになるため別クラブを探し、大分トリニータU-18加入を決断した。
- 現在の道につながる原点:幼少期から活動
世代別日本代表にも選ばれてきた選手ですが、その途中には、中学時代に出場機会を失い、サガン鳥栖U-18への昇格もすぐには決まらなかった時期がありました。
そこから15歳で福岡の実家を離れ、大分で寮生活を始めることになります。
保田堅心の生い立ちと家族|福岡で5歳から始まったサッカー
保田さんがボールを蹴り始めたのは、まだ将来の職業を具体的に考えるよりずっと前のことでした。
福岡で過ごした少年時代には、テレビの中のサッカーと身近な少年チームの両方から影響を受けています。
『イナズマイレブン』と南アフリカW杯でサッカーに夢中になる
本格的にサッカーを始めたのは5歳ごろで、最初のきっかけになったのはアニメ『イナズマイレブン』でした。
アニメの影響でボールを蹴り始めたころ、2010年の南アフリカW杯が開幕します。
この大会で初優勝したスペイン代表を見たことでさらにサッカーへ引き込まれ、小学生になるとJリーグ以上にスペインのラ・リーガをよく見るようになったと、後年のインタビューで明かしています。
見るサッカーだけでなく、自分でプレーするときにも早い時期から特徴的な指導を受けていました。
当時のコーチから教えられていたのは、目の前の相手を抜くことだけを目的にせず、「スペースへ運ぶドリブル」を意識することでした。
ゴール方向へ進む意識と、空いた場所へボールを運ぶ感覚は、ボランチになった後のプレーについて本人が語る際にも登場しています。
FC J-WINでは前線で得点を重ね、後年には両親への感謝を語る
少年時代に所属していたのは、福岡市を拠点とするFC J-WINです。
このころは現在のようなボランチではなく、前線で比較的自由に動く役割を任されていました。
本人によれば、チームでは得点を多く決める立場で、中学年代の強豪クラブへ飛び込む際にも、試合に出られなくなることを最初から想定していたわけではありませんでした。
公開されているクラブ経歴ではFC J-WINまで確認できますが、小学校名は明らかにされていません。
家族についても、父親や母親の職業、兄弟姉妹の構成など詳しいプロフィールは公表されていない一方、プロ昇格が決まった2022年には、自分を育てた両親への思いを言葉にしています。
「これまで育ててくれた両親をはじめ、支えてくださったたくさんの方々へ感謝の気持ちでいっぱいです。」
大分トリニータ公式
小学生のころに前線でプレーしていた保田さんは、中学進学を前に、初めて所属先を大きく選ぶ時期を迎えました。
家族情報
公開情報で確認できている家族について、続柄・職業・補足・出典を整理しています。
中学時代はサガン鳥栖U-15|強豪世代で初めて出場機会を失う
中学生になると、少年チームからJリーグクラブのアカデミーへ環境が変わります。
そこには、FC J-WINで得点を重ねていたころとは違う競争が待っていました。
アビスパ福岡のセレクションも受け、鳥栖を選んだ
中学進学時には、サガン鳥栖だけでなくアビスパ福岡のアカデミーセレクションも受けています。
両方を受けたうえで、当時の育成年代のレベルを考え、自分で鳥栖U-15を選びました。
鳥栖でプレーしていた時期は寮ではなく、福岡の実家から通っていました。
ポジションも小学生時代の前線から変わり、シャドーやボランチを務めるようになります。
この中学時代には、当時アヤックスでプレーしていたフレンキー・デ・ヨングの映像をよく見て、後方から相手をかわしながらボールを運ぶプレーを意識して真似することもありました。
福井太智らと競い、本人が「初めての挫折」と呼ぶ時期を過ごす
鳥栖U-15の同世代には福井太智さん、楢原慶輝さん、浦十藏さんらがいました。
ボランチには福井さん、その一つ前の位置には楢原さんがおり、保田さんと起用される場所が重なります。
小学生時代には得点を重ねていた一方、中学年代ではまだ体が小さく、フィジカル面でも周囲に追いついていなかったと本人は振り返っています。
その結果、試合に出られない期間が長く続き、本人が「初めての挫折」と表現する3年間になりました。
チームそのものは全国トップクラスで、2019年には日本クラブユースサッカー選手権U-15を制し、年末の高円宮杯全日本U-15選手権でも準優勝しています。
高円宮杯では保田さんも15番をつけて大会に出場し、準決勝のヴィッセル神戸U-15戦では66分からピッチに入りました。
U-18昇格が何度も「保留」になり、別のクラブを探し始める
中学3年になると、次に待っていたのがサガン鳥栖U-18への昇格をめぐる面談でした。
鳥栖では選手本人の希望とクラブ側の評価を確認しながら、U-18へ上がるかどうかを決めていきます。
同期の中には昇格が決まる選手がいるなか、保田さんにはすぐに結論が出ませんでした。
「自分の場合は“保留”になっていて、面談も回数を重ねました。」
Qoly
福井さんや楢原さんがU-18へ上がることに加え、ほかのクラブから新しい選手が入ってくる話も耳にしていました。
そこで待ち続けるのではなく、「プロになるため」という目的から、鳥栖以外のクラブを探す決断をします。
候補になったのが、当時片野坂知宏監督の下で特徴的なサッカーを展開していた大分トリニータでした。
鳥栖側にも大分の練習へ参加することを伝えたうえで大分へ向かい、最終的にU-18への加入が決まります。
15歳で福岡を離れ、プロになるために大分へ移ることになりました。
保田さんがボールを蹴り始めたのは、まだ将来の職業を具体的に考えるよりずっと前のことでした。
中学生になると、少年チームからJリーグクラブのアカデミーへ環境が変わります。
2020年、保田さんは大分トリニータU-18へ加入し、学校は大分東明高校へ進みました。
高校2年になった2021年には、トップチームの公式戦へ進む機会が訪れました。
本人は後年、高校3年になってからの数カ月で一気に伸びた実感があったと振り返っています。
15歳で大分へ|寮生活とコロナ禍から大分東明高校でプロを目指す
2020年、保田さんは大分トリニータU-18へ加入し、学校は大分東明高校へ進みました。
鳥栖時代まで続いていた実家からの通いは終わり、このときから寮での生活が始まります。
実家を離れて入寮した直後に隔離、全体練習は6月から始まった
ところが、福岡から大分へ移った2020年初頭は、新型コロナウイルスの感染拡大と重なりました。
入寮したタイミングで隔離生活となり、すぐに新しい仲間と通常の練習を始められたわけではありませんでした。
チーム全員で練習できるようになったのは6月で、大分での最初の数カ月は通常とは違う形で過ぎています。
U-18では高校1年から試合に出場し、鳥栖では完全には定まっていなかったポジションも、大分に入ってからボランチへ固定されていきました。
高校2年で天皇杯デビュー、憧れていた梅崎司とチームメートになる
高校2年になった2021年には、トップチームの公式戦へ進む機会が訪れました。
8月18日の天皇杯ラウンド16、ザスパクサツ群馬戦でベンチ入りすると、延長前半の105分+1分にペレイラさんとの交代でピッチへ入りました。
試合は大分が2対1で勝ち、16歳でトップチームの公式戦を経験しています。
その少し前の2021年7月には、保田さんが小学生のころから知っていた梅崎司さんが大分へ復帰していました。
小学生時代にテレビ番組『やべっちFC』で梅崎さんを見ており、著書『15歳 サッカーで生きると誓った日』も読んでいた本人にとって、今度は同じクラブで練習する立場になりました。
この時点では天皇杯のピッチに立っていたものの、本人の感覚では、U-18内で自分が最も高く評価されている状態ではありませんでした。
トップ練習で受けた衝撃と小林裕紀の助言でプレーを変える
大きく状況が動いたのは、高校3年を迎える2022年です。
トップチームの鹿児島キャンプに参加し、プロ選手と一緒にプレーする時間が増えました。
体をぶつけるプレーには自信があった一方、実際に入ってみると別の部分で大きな差を感じています。
「プレースピード、判断スピードの次元が違ってショックを受けた」
オー!エス!OITA SPORTS
同じボランチの小林裕紀さんからは、近くの選手との短いパスだけでなく、ミドルパスやロングパスも混ぜて変化をつけるよう助言を受けました。
さらに、パスを受けたときのボールの置き場所や、中長距離のボールを蹴る際のインサイドキックまで教わっています。
教わった内容をプレーへ取り入れるとパフォーマンスが上がり、トップチームでも出場できる2種登録を勝ち取りました。
2022年2月18日に2種登録されると、ルヴァンカップでベンチ入りを重ね、やがてJ2の試合にも出場するようになります。
高校3年の数カ月で急成長し、トップチーム昇格をつかむ
本人は後年、高校3年になってからの数カ月で一気に伸びた実感があったと振り返っています。
クラブ側の見方も同じ方向へ変わり、西山哲平GMは2022年2月からトップチームへ帯同するなかで急成長したと話しました。
運動量、左右への配球、前への飛び出しが評価され、下平隆宏監督からも広い守備範囲やセカンドボールへの反応、大胆なプレーを具体的に挙げられています。
7月には、同じU-18の佐藤丈晟さんとともに、翌2023年からのトップチーム昇格が発表されました。
記者会見が開かれた場所は、通学していた大分東明高校でした。
鳥栖U-18への昇格が決まらず大分へ移ってから約2年半で、プロ契約につながるトップ昇格をつかみました。
高校3年だった2022年のJ2では8試合に出場し、そのうち7試合で先発しています。
大分トリニータでプロへ|試合経験と世代別日本代表で次の目標が見えてくる
2023年からは高校生の2種登録選手ではなく、大分トリニータのトップチーム選手としてシーズンを迎えます。
試合に出る時間が増えるにつれて、練習場の外でも自分のプレーを振り返る習慣が具体的になっていきました。
高卒1年目から出場を重ね、試合映像とサッカーノートで振り返る
プロ1年目の2023年はJ2で29試合2得点を記録し、9月にはベガルタ仙台戦でJリーグ初得点も決めました。
日々の練習で新しく知ったことや気づいたことは、ノートに残していました。
「練習で学んだ新しいことや気づいたことを『サッカーノート』に書き留めています。」
オー!エス!OITA SPORTS
ノートは書くだけでなく、試合前に読み返して戦術を確認するためにも使っていました。
試合後は毎試合映像も確認し、ピッチ上では見えていなかった空間や立ち位置を映像から探しています。
オフにはサッカーから少し離れる時間もあり、2023年には高校時代の友人と大分県竹田市へ滝を見に出かけたこともありました。
U-20W杯本大会落選を経て、再び世代別日本代表の中心へ
クラブと並行して、世代別日本代表との関わりも増えていきます。
2022年にはU-20アジアカップ予選を経験し、その後も代表候補へ入っていましたが、2023年のFIFA U-20ワールドカップでは本大会メンバーに入りませんでした。
その後も世代別代表から離れたわけではなく、2024年6月のモーリスレベロトーナメントではU-19日本代表として出場します。
U-21イタリア代表戦ではキャプテンとして90分プレーし、パリ五輪に出場するU-23ウクライナ代表との試合でもフル出場しました。
自分より年上の海外選手と実際に対戦し、通用する部分と足りない部分の両方を確認する機会になっています。
2024年の時点では、年齢制限のない日本代表に入り、ワールドカップへ出場することを最終的な目標として本人が挙げていました。
2024年には自費で英会話を始め、海外挑戦を具体的に準備する
海外への思いは、希望を口にするだけではなく生活の中にも入り始めていました。
2024年には、将来海外でプレーすることを考え、自分で料金を払い、オンライン英会話を週2〜3回受講しています。
会話の授業だけで終わらず、提出する課題もありました。
一方、休日の過ごし方を尋ねられた際には「実家に帰る」と答えており、プロになった後も福岡へ戻る時間があったことが分かります。
ピッチでは2024年にJ231試合4得点を記録し、8月にはJ2月間ヤングプレーヤー賞を受賞しました。
大分でのJ2通算成績は、このシーズン終了時点で68試合6得点となっています。
2024年秋、長崎のピースタ初戦を大分の選手として経験する
2024年10月6日、大分はアウェーでV・ファーレン長崎と対戦しました。
会場は開業したばかりのPEACE STADIUM Connected by SoftBankで、この試合が同スタジアムで最初に行われるJリーグ公式戦でした。
スタンドには19,011人が入り、長崎が4対1で大分に勝利しています。
保田さんはベンチから試合を見始め、後半開始から髙橋大悟さんに代わってピッチへ入りました。
このときはあくまで大分の選手としてピースタに立っています。
シーズンを終えるころには、次の所属先が日本国外で具体化していきました。
2025年にベルギーへ|KRCゲンクで過ごした1年半
2025年1月8日、大分トリニータは保田さんがKRCゲンクへ期限付き移籍すると発表しました。
19歳で日本を離れ、前年から続けていた英語学習を実際に海外で使う生活が始まります。
大分からJong Genkへ期限付き移籍、半年後には期間延長が決まる
移籍先はベルギー1部のKRCゲンクですが、実戦の中心となったのはセカンドチームのJong Genkでした。
Jong Genkはベルギー2部のChallenger Pro Leagueで戦っており、ゲンク側は加入時に保田さんを6番や8番でプレーできる選手として紹介しています。
2025年1月、日本でのプロ生活から初めてヨーロッパへ環境を移しました。
最初の半年間で11試合、600分弱に出場すると、2025年7月には期限付き移籍期間の延長が決まります。
半年で日本へ戻るのではなく、翌シーズンもJong Genkでプレーを続けることになりました。
ベルギーの速さと激しさに向き合い、筋力トレーニングで体も変わる
ベルギーで感じた違いの一つは、プレーの縦方向への速さと球際の激しさでした。
日本の試合のように一度ボールを落ち着かせる時間が少なく、攻守の切り替わりが速い環境で試合を重ねます。
チームの方針で、試合前日を除いて筋力トレーニングにも取り組みました。
その生活を続けた結果、本人によるとベルギーへ渡った後に体重が約5kg増えたといいます。
技術や判断だけでなく、見た目にも分かるほど体つきが変化していきました。
29試合1得点を残してゲンクを離れ、オフには大分で再び汗を流す
Jong Genkで過ごした1年半では、2シーズンを合わせて29試合1得点を記録しました。
2026年5月、シーズンオフに日本へ戻ると、以前所属した大分トリニータの練習に参加しています。
そこでパス練習の相手になったのが、かつて大分で一緒にプレーした吉田真那斗さんでした。
練習後に一緒に食事へ行くほど親しい吉田さんは、久しぶりに会った保田さんについて、以前より体がかなり大きくなっていると話しています。
「泥水すすった1年半でした。」
OBS大分放送
ベルギーでの時間について本人が使ったのは、結果だけを並べた表現ではなく、この短い言葉でした。
2026年にV・ファーレン長崎へ|海外経験を経て選んだ次のクラブ
ベルギーで1年半を過ごした後、2026年夏に日本での次の所属先が決まります。
選んだクラブは、2年前にアウェー選手としてピースタのピッチに立ったV・ファーレン長崎でした。
大分から長崎へ完全移籍し、新たなキャリアを始める
2026年7月6日、V・ファーレン長崎は大分トリニータからの完全移籍加入を発表しました。
大分との契約を残したままゲンクへ期限付き移籍していたため、ベルギーからそのまま長崎へ移籍する形ではなく、保有元の大分から長崎への完全移籍です。
加入コメントでは、2024年にピースタで感じた雰囲気にも触れています。
「ここが自分のキャリアの大事なステップだと思っています」
V・ファーレン長崎公式
鳥栖、大分、ベルギーと環境を移してきた保田さんは、21歳で長崎の選手になりました。
背番号は7となり、中盤の選手として新しいシーズンに入っています。
U-21日本代表に選出、A代表とW杯という目標はその先にある
長崎加入から約3週間後の2026年7月31日には、第20回アジア競技大会に臨むU-21日本代表への選出も発表されました。
代表では背番号8のMFとしてメンバーに入り、日本はグループリーグでタイ、キルギス、香港と同じ組に入っています。
「日の丸を背負って戦えることの幸せを噛み締めながら」
V・ファーレン長崎公式
大会期間は2026年9月14日から10月3日の予定で、8月30日時点ではまだ大会前です。
現在はV・ファーレン長崎でプレーしながら、再び世代別日本代表の活動へ向かう段階にいます。
『イナズマイレブン』を見てボールを蹴り始めた福岡の少年時代から、サッカーを続ける場所は少しずつ広がっていきました。
中学卒業時に進路を変え、15歳で実家を離れて大分へ渡ったことで、その後はプロ、ベルギーへと時間が進みました。
2026年夏、その先にある現在の所属先がV・ファーレン長崎です。
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出身地・年代・人生の原点などの共通点から探せます。







