東北楽天ゴールデンイーグルスで背番号1をつけ、遊撃を守る宗山塁さん。
明治大学時代からドラフトの目玉として注目され、2024年には5球団が1位指名で競合しました。
- 小学1年で野球を始める条件として父と『毎日練習すること』を約束し、広陵高へ進学するまで9年間継続した。実家の庭には打撃ケージが設けられていた。
- 幼少期から父と毎日練習を続け、プロ野球選手を明確な目標にしていた。
- 現在の道につながる原点:幼少期から活動
プロ1年目の2025年は122試合に出場して112安打を記録し、パ・リーグ遊撃手部門のベストナインにも選ばれています。
華やかな大学野球やドラフトの印象が強い宗山さんですが、その野球人生をさかのぼると、始まりは広島県三次市の自宅で父親とボールを打って遊んでいた幼いころでした。
小学1年から広陵高校へ入学するまで、父との練習を9年間続けています。
しかも、「毎日練習した」という一言だけでは分からないほど、実家の庭や学校のグラウンドには現在のプレーにつながる具体的な時間が積み重なっていました。
宗山塁の生い立ちと家族|広島・三良坂で野球が始まった
宗山塁さんは2003年2月27日に生まれ、広島県三次市三良坂町で育ちました。
家族には、父・伸吉さん、母・香代さん、姉・楓さんがいます。
なかでも幼い宗山さんを野球へ連れていったのが、広陵高校野球部OBだった父・伸吉さんでした。
父・伸吉さんがおもちゃのボールを投げた幼少期
宗山さんが小学校へ入る前、父子の遊びの中にはすでに野球がありました。
伸吉さんは自分でおもちゃのボールを投げ、幼い宗山さんにバットで何度も打たせていたといいます。
最初から複雑な技術を教え込んだのではなく、まずは「ボールを打つ楽しさ」を覚えさせました。
「最初は打つことからやっていたら、もう完全にハマってくれましたね」
RCC NEWS
宗山さん自身も、父が野球チームで指導していたため、小学校入学前から練習について行っていたと振り返っています。
侍ジャパン公式プロフィールでも、6歳で野球を始め、きっかけは父の影響と答えています。
父と母、2歳上の姉に囲まれた家族
父が野球の身近な指導者だった一方、母・香代さんとの間にはまた違った日常がありました。
宗山さんは小さいころ、母のことを「ママ」と呼ぶ甘えん坊だったと明かしています。
小学生のころに学校でちょっとしたいたずらをして父に叱られると、そのあと母が慰めてくれることもありました。
「父が厳しかった分、お母さんは優しかった」
スポニチアネックス
母からは感謝を言葉にすることも教わりました。
毎日洗ってもらっていた弁当箱についてきちんと礼を言っていなかったとき、母から「当たり前じゃないよ」と伝えられたことを覚えているそうです。
野球では父と過ごす時間が長かった宗山さんですが、家庭では母や姉にも支えられて育っていました。
小学1年で三良坂少年野球クラブへ|父との毎日練習が始まる
三次市立三良坂小学校へ入学すると、父が指導していた三良坂少年野球クラブへ入りました。
そのとき、父との間で一つの約束をしています。
野球をやるなら、毎日練習すること。
約束は小学校だけで終わらず、中学卒業まで続きました。
自宅の庭には打撃練習の環境が作られ、小学3年ごろには屋根付きの打撃ケージも設置されました。
父が仕事から帰宅したあとも、そこでバットを振ります。
打撃では木製バットも使い、同じ場所でボールを捉え続けたため、バットの芯の部分に打球痕が集中していたと父が明かしています。
使える面を変えながら使用し、小中学校の9年間で木製バット3本を使い込みました。
打撃ケージの横ではゴロ捕りを繰り返し、本格的な打撃やノックをするときは、みらさか学園のグラウンドも使っていました。
父との練習は、広陵高校の寮へ入るまで9年間続きました。
「この約束を守りました」
週刊ベースボールONLINE
父から見ても、宗山さんは教えたことを覚えるのが早い子どもでした。
一方で、生活のすべてが野球だけだったわけではありません。
小学校低学年ごろには友達と鬼ごっこやドッジボール、サッカーをして遊んでいたことも本人が語っています。
小学6年で広島カープJr.へ|地元の少年野球から選抜チームへ
小学6年になると、宗山さんは広島カープJr.のメンバーに選ばれました。
背番号は、のちに遊撃手として長く背負うことになる「6」でした。
当時は身長155センチほどで、父は体の成長や故障を考え、逆に練習量へ制限をかけることもあったといいます。
幼いころから「プロ野球選手になる」と口にしていた息子について、伸吉さん自身はまだ半信半疑だったそうです。
それでも、小学生の段階で地元チームからカープJr.まで進み、次の中学年代へ向かいました。
家族情報
公開情報で確認できている家族について、続柄・職業・補足・出典を整理しています。
| 父 |
宗山伸吉
会社員・元高校野球選手
幼少期から毎日練習を支え、目標設定や継続の姿勢に大きな影響を与えた。 |
信頼できる媒体 出典を見る |
|---|
宗山塁の中学時代|高陽スカイバンズでも父と二人三脚
2015年に三良坂中学校へ進学すると、学校の野球部ではなく軟式クラブチームの高陽スカイバンズでプレーしました。
ここでも父・伸吉さんがコーチとして近くにいました。
三良坂中に進学し、高陽スカイバンズで投手と遊撃手を経験
高陽スカイバンズでは、遊撃だけに固定されていたわけではなく、投手も経験しています。
チームを率いていたのは、広陵高校OBである二岡聡さんでした。
小学校では父がチームの監督、中学では父がコーチとなり、野球をする環境そのものは変わっても、自宅へ戻れば毎日の練習が続きました。
小学校から9年間続いた父との練習は広陵入学まで続いた
伸吉さんは、仕事を終えてから息子の練習につき合っていました。
父の側が疲れている日でも宗山さんから練習を求められ、休むことなく続けたといいます。
小学1年で交わした「毎日練習する」という約束が終わったのは、宗山さんが広陵高校の寮へ入るときでした。
14歳で見た広陵の甲子園が父の母校への憧れを強くした
宗山さんの高校進学先として早くから身近にあったのが、父の母校でもある広陵高校でした。
2017年夏、当時14歳だった宗山さんは甲子園のアルプススタンドにいました。
その年の広陵は中村奨成選手らを擁して決勝まで進みます。
父が広陵OBで、中井哲之監督の教え子だったこともあり、宗山さんはスタンドから広陵を応援していました。
「憧れがさらに強くなっていきました」
Number Web
中学生としてアルプスから見ていた広陵へ、翌2018年に自分自身が入学します。
宗山塁さんは2003年2月27日に生まれ、広島県三次市三良坂町で育ちました。
宗山さんが小学校へ入る前、父子の遊びの中にはすでに野球がありました。
2015年に三良坂中学校へ進学すると、学校の野球部ではなく軟式クラブチームの高陽スカイバンズでプレーしました。
宗山塁の高校時代|父と同じ広陵で1年夏から甲子園へ
2018年4月、宗山さんは広陵高校へ進学して野球部へ入りました。
自宅を離れて清風寮での生活が始まり、ここで父との毎日の自宅練習はいったん区切りを迎えます。
広陵入学後すぐにベンチ入り|1年夏に甲子園を経験
強豪校に入ったばかりの1年生でしたが、宗山さんはその夏からベンチ入りしました。
2018年8月12日の夏の甲子園、二松学舎大付戦では背番号17で途中出場し、左翼の守備に就いて甲子園デビューを果たします。
父・伸吉さんは、広陵で3年間のうち一度でも試合に出られればと思っていたため、1年夏から甲子園に立った息子の成長は予想を超えていました。
2年春は遊撃手として甲子園へ|強豪校でポジションをつかむ
2年生となった2019年春には、今度は遊撃手として甲子園の先発メンバーに入ります。
3月26日の八戸学院光星戦では「5番・遊撃」で出場し、3打数1安打。
続く東邦戦では「1番・遊撃」で先発しました。
小学生のころにカープJr.で背負っていた6番を、広陵でも背負って遊撃を守るようになっていました。
宗山さんは後年、これまでの野球人生で一番うれしかった出来事として高校時代に甲子園出場を決めたことを挙げています。
主将となった3年目、最後の夏は甲子園中止
2年秋には主将を務め、最上級生として迎えた2020年は、それまでとは違うシーズンになりました。
新型コロナウイルスの影響で学校生活や部活動が大きく変わり、広陵の寮も一時閉鎖されました。
宗山さんは広島県三次市の実家へ戻ります。
その時期、みらさか学園の校長からグラウンド使用への配慮を受け、父と再び練習することができました。
しかし2020年5月、第102回全国高校野球選手権大会の中止が決まります。
広島では代替となる独自大会が行われ、広陵は決勝まで進みましたが、最後は広島商に敗れました。
宗山さんは後年、野球人生で最も悔しかった出来事について「高校最後の夏で決勝で負けたとき」と答えています。
1年夏と2年春には甲子園を経験しながら、3年最後の夏だけは甲子園そのものがありませんでした。
高卒プロではなく明治大学へ|高校時代から決めていた4年間
高校卒業が近づいても、宗山さんは高卒でプロ志望届を出しませんでした。
実力不足だから大学へ進んだ、という選択ではありません。
もともとの人生設計として、大学で4年間野球をしてからプロへ進みたいと考えていました。
「大学4年間野球をしてからプロに行きたい」
高校野球ドットコム
大学では木製バットを使い、さまざまな投手と対戦し、多くの人と出会ってからプロへ行く方が自分には合うと考えていました。
進学先に選んだのは、東京六大学野球の明治大学でした。
宗山塁の明治大学時代|1年から神宮に立ち、大学球界を代表する遊撃手へ
2021年、宗山さんは明治大学へ進学しました。
広島を離れ、今度は東京六大学の神宮球場が日常の舞台になります。
1年春から出場し、秋にはベストナイン
大学でも下級生の時期を長く控えで過ごすことはありませんでした。
1年春からリーグ戦に出場し、シーズン途中から遊撃の先発に定着します。
法政大学戦ではリーグ戦初安打が本塁打となり、その試合から秋まで15試合連続で先発しました。
1年秋には14安打を記録し、遊撃手のベストナインを受賞します。
宗山さんは遊撃について「一番うまい人が守るポジション」と考え、大学でもショートで試合に出続けることを求めていました。
2年春に打率.429で首位打者|大学日本代表にも選出
2年春にはさらに数字を伸ばします。
東京六大学リーグで打率.429を記録し、首位打者を獲得しました。
ベストナインも1年秋から3季連続で受賞し、大学2年の段階ですでに六大学を代表する遊撃手として名前が挙がるようになります。
同じ2022年には大学日本代表にも選ばれ、ハーレムベースボールウィークへ出場しました。
東京六大学野球連盟の公認チャンネルには、この首位打者を獲得した大学2年時のインタビューも残っています。
大学3年までに日本代表と全国大会を経験
3年生となった2023年も明治大学の中心選手としてプレーし、日米大学野球選手権の日本代表に選ばれました。
神宮でリーグ戦を戦うだけではなく、大学日本代表として海外の選手と対戦する経験も重なっていきます。
3年秋終了時点では東京六大学リーグ通算94安打まで積み上げていました。
高校時代の同級生だった渡部聖弥さんとは別の大学へ進みましたが、オフには広陵へ戻って一緒に練習することもあり、2023年の日米大学野球ではそろって日本代表に入りました。
主将となった4年春に右肩甲骨を骨折
大学4年となった2024年、宗山さんは明治大学の主将を務めます。
その春は侍ジャパンのトップチームにも初招集されました。
ところが2月末、練習試合で死球を受けます。
診断は右肩甲骨骨折で、全治3か月とされました。
3月に予定されていた侍ジャパン対欧州代表の強化試合では出場できませんでした。
東京六大学の春季リーグ開幕時点でも復帰が間に合うかは不透明でしたが、電気治療などを続け、オープン戦やシート打撃で30打席以上を経験してから開幕戦へ間に合わせます。
復帰直後は自分の打撃だけでなく、主将として周囲へ声をかけることも意識していました。
「仲間を安心させる声をかけたい」
4years.
高校3年のコロナ禍とは種類の違う出来事でしたが、大学最後の年も予定どおりには始まりませんでした。
それでも春のリーグへ復帰し、秋まで主将としてプレーを続けます。
復帰後に迎えた大学最後のシーズン|家族も神宮で見届けた
大学4年秋、宗山さんは学生最後の東京六大学リーグを迎えました。
そのころにはドラフト候補として連日名前が挙がる存在になっていましたが、父・伸吉さんは学生野球の最後まで息子を見守っていました。
大学最後の神宮での試合には、父・伸吉さん、母・香代さん、姉・楓さんも広島から足を運んでいます。
小学生のころ、自宅の庭で父と始めた毎日の練習から15年ほどが経ち、次はいよいよプロ野球のドラフトを迎えました。
宗山塁が楽天へ|5球団競合のドラフト1位でプロ生活が始まる
2024年10月24日、プロ野球ドラフト会議が行われました。
大学入学時から注目されていた宗山さんに対し、1位入札したのは1球団だけではありませんでした。
高卒時に描いた「大学4年間のあとプロへ」が現実になる
このドラフトは、高校卒業時に突然方向転換して大学へ進んだ先にあったものではありません。
広陵3年の時点で、宗山さんは「大学4年間を経てプロへ」という道を選んでいました。
実際に明治大学で4年間を過ごし、木製バットで東京六大学の投手と対戦し、日本代表も経験して、当初描いていた時期にドラフトを迎えます。
高校時代に決めていた4年間が終わった、その先のドラフトでした。
5球団競合の末に楽天が交渉権を獲得
宗山さんを1位指名したのは、楽天、西武、広島、日本ハム、ソフトバンクの5球団でした。
5球団による抽選の結果、東北楽天ゴールデンイーグルスが交渉権を獲得しました。
ドラフト後のインタビューでは、どの球団に決まっても、その場所が自分の進む道だと考えていたことを話しています。
「決まったところが自分の行くべきところ、正解の道」
tbc東北放送 公式YouTube
11月には楽天と入団交渉を行い、背番号は「1」に決まりました。
入団時には開幕スタメンと新人王を1年目の目標として掲げています。
背番号1で迎えたルーキーイヤー|遊撃手でベストナイン
2025年、宗山さんのプロ1年目が始まりました。
3月28日のオリックスとの開幕戦に「2番・遊撃」で先発し、プロ初安打と初打点を記録します。
その記念球については、両親へ渡したいと話しました。
「親にあげたいと思います」
日刊スポーツ
小学1年から9年間練習につき合った父だけでなく、家庭で支え続けた母にも、プロ最初の記念球を届ける形になりました。
1年目は122試合、112安打、打率.260を記録します。
守備では遊撃手として評価され、2025年パ・リーグのベストナインを受賞しました。
大学時代からこだわってきた遊撃というポジションで、プロ1年目からタイトルを獲得しています。
宗山塁の現在|2026年の怪我と復帰後も楽天の遊撃へ
プロ2年目の2026年は、1年目とは違う形でシーズンを迎えることになりました。
開幕直前のオープン戦で左手を負傷したためです。
左手TFCC損傷で開幕前に離脱
2026年3月20日の巨人とのオープン戦で、宗山さんは盗塁を試みてヘッドスライディングした際に左手を痛めました。
3月25日に楽天が診断結果を発表します。
診断名は左手関節軟骨(TFCC)損傷でした。
大学4年時の右肩甲骨骨折とは別の怪我で、2026年の開幕から一軍を離れることになります。
リハビリ中は走攻守の課題に取り組み、自分にできることを考える期間として過ごしていました。
3か月ぶりの実戦から7月3日に一軍へ復帰
6月24日、ファームのハヤテ戦で約3か月ぶりに実戦へ戻ります。
「2番・遊撃」で先発し、第2打席で中前安打を記録しました。
守備でも遊撃へ入り、試合後には不安なくプレーできたことを口にしています。
「不安なくしっかりプレー出来たことが一番」
日刊スポーツ
ファームで5試合、17打席を経験したあと、7月3日に2026年シーズン初めて一軍へ昇格しました。
その日の日本ハム戦でいきなり「9番・遊撃」として先発します。
4打数1安打3打点を記録し、楽天は8対0で勝利しました。
幼いころから守ってきた遊撃で続くプロ2年目
2026年8月29日時点では、宗山さんは今季42試合に出場して38安打、4本塁打、17打点を記録しています。
打率は.266で、怪我から復帰した7月以降も楽天の内野手として試合に出場しています。
小学生時代には自宅の打撃ケージの横でゴロ捕りを続け、中学、高校、大学と進んでも遊撃を主戦場にしてきました。
プロ1年目にはその遊撃でベストナインを受賞し、2年目も怪我から戻って同じ位置へ立っています。
広島県三次市の自宅で父とボールを打っていた少年時代から、広陵、明治大学へと進み、高校時代に描いた「大学4年間のあとにプロへ」という道を実際に歩いた宗山塁さん。
5球団競合のドラフトを経て楽天へ入り、最初のシーズンには遊撃手のベストナインを獲得しました。
2026年は開幕前の怪我で一度グラウンドを離れましたが、7月に復帰し、幼いころから長く守ってきた遊撃でプロ2年目を続けています。
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