サングラス姿でUFOや都市伝説を語る三上丈晴さんは、2005年から月刊『ムー』の5代目編集長を務めています。
1968年9月9日生まれの青森県出身で、現在は雑誌編集だけでなくテレビやイベントにも活動の場を広げ、ホリプロコムとも業務提携しています。
- 1970年代のオカルトブームの中で、UFO特番や心霊番組、漫画などに触れて育った。小学5年ごろには親戚のおじから『UFOと宇宙』を借り、中学1年で『ムー』を知った。
- 大学:筑波大学
- 現在の道につながる原点:その他
メディア出演時のサングラスは本人が「アイコン」として使っているもので、普段はかけていないと明かしており、テレビで見る姿と日常の姿にも少し違いがあります。
現在の姿だけを見ると子どものころからオカルト一筋だったようにも見えますが、本人が振り返る少年時代は、虫を採ったり秘密基地を作ったりして遊ぶ日々で、高校ではバレーボール、筑波大学では理論物理を学んでいました。
大学卒業後も研究の道へ進んだわけではなく、1991年の就職活動では出版社を選び、学習研究社へ入社したことから現在までの道が動き始めます。
三上丈晴の生い立ちと家族|青森で虫採りと秘密基地に夢中だった少年時代
三上丈晴さんは1968年9月9日、青森県に生まれました。
後に世界各地の謎や不思議を扱う雑誌の編集長となりますが、本人の記憶に残っている子ども時代の遊びは、現在の肩書から想像するほど特殊なものではありません。
1970年代のオカルトブームは子どもたちの日常にもあった
小学生のころは虫採りをしたり、友達と秘密基地を作ったりして過ごしていました。
三上さん自身も、当時の自分を特別にオカルトへ傾倒した少年だったとは位置づけていません。
「ごくごく普通の子どもでしたよ。」
テレ東プラス
ただし、三上さんが小学生だった1970年代は、ユリ・ゲラーの来日やネッシー、UFO、心霊現象などがテレビや雑誌で盛んに取り上げられていた時代でした。
学校では、あるクラスメートが心霊写真集を持ってくると、その周りに子どもたちが集まって見ていたといいます。
自宅や学校生活の外側にオカルト専門の世界があったというより、友達と過ごす日常の中へ心霊写真やUFOの話題が普通に入り込んでいた時代でした。
漫画では、つのだじろうさんの『恐怖新聞』や永井豪さんの『デビルマン』『凄ノ王』なども読んでいました。
「オカルトだけを追いかける少年」ではなく、虫採りや漫画と並んで、世の中で話題になっていた不思議なものにも自然に触れていたというのが、当時の三上さんに近い姿です。
親戚のおじから『UFOと宇宙』を借り、中学1年で『ムー』を知る
月刊『ムー』が創刊されたのは1979年で、三上さんは小学5年生でした。
ところが創刊時から読んでいたわけではなく、そのころはまだ『ムー』そのものを知らなかったといいます。
先に身近にあったのは、親戚のおじが持っていた『UFOと宇宙』という雑誌でした。
三上さんはその雑誌を借りて読み、不思議な世界を扱う雑誌に触れていきます。
そして中学1年生のころに初めて『ムー』の存在を知りました。
この時点では、将来自分がその雑誌を作る側へ回るとはもちろん決まっておらず、その後、学生時代を通して『ムー』の読者になっていきました。
幼い三上さんと家族との関わりで具体的に本人が語っているものとしては、この親戚のおじから雑誌を借りた場面が確認できます。
一方、父親・母親・兄弟姉妹の人数や職業などは、ホリプロコムの公式プロフィールでは公表されていません。
同プロフィールには婚姻状況や妻・子どもについても記載がないため、結婚しているかどうかや妻・子どもの有無は、公式プロフィールからは断定できません。
高校時代|青森南高校でバレーボールに打ち込み地区大会優勝
中学生になると『ムー』を知った一方、学校生活ではスポーツにも時間を使っていました。
高校は、後に母校の公式資料でも卒業生として紹介されている青森県立青森南高等学校へ進みます。
中学・高校で続けたバレーボールと地区大会優勝
三上さんは中学から高校にかけてバレーボールを続けました。
高校では競技にも本格的に取り組み、筑波大学のインタビューで地区大会で優勝した経験を明かしています。
オカルト雑誌を読む時間だけでなく、体育館でボールを追う学生生活がありました。
青森南高校時代の同級生には、後にコミックバンド「ポカスカジャン」で活動するタマ伸也さんもいました。
タマ伸也さんは2025年に青森テレビの番組で新郷村を訪れた際、展示されていた三上さんの姿を見つけ、高校時代の関係をこう話しています。
「月刊『ムー』の編集長の三上丈晴は、私の高校時代の同級生なんですよ。」
TBS NEWS DIG・青森テレビ
高校時代の三上さんについて第三者から確認できる数少ない具体的な証言で、後年まで同級生として知られる関係が続いています。
このころは、オカルトを仕事にする進路が決まっていたわけではありません。
高校卒業が近づくなかで、三上さんの関心は、次に「科学そのものをどう捉えるのか」という方向へ広がっていきます。
1970年代のオカルトブームの中で、UFO特番や心霊番組、漫画などに触れて育った。小学5年ごろには親戚のおじから『UFOと宇宙』を借り、中学1年で『ムー』を知った。
Gakken公式ブログ三上丈晴さんは1968年9月9日、青森県に生まれました。
中学生になると『ムー』を知った一方、学校生活ではスポーツにも時間を使っていました。
三上さんは中学から高校にかけてバレーボールを続けました。
高校卒業後、三上さんは筑波大学自然学類へ進みました。
1980年代半ば、筑波大学ではニューサイエンスの国際シンポジウムが開かれました。
後年、なぜ『ムー』編集部へ入ったのかを聞かれた三上さんは、その事情を短い言葉で説明しています。
筑波大学時代|理論物理を学びながら山や川にも出かけた学生生活
高校卒業後、三上さんは筑波大学自然学類へ進みました。
大学を選んだ背景には、受験科目や就職だけではなく、高校生のころに知ったある学術イベントへの関心がありました。
ニューサイエンスの国際シンポジウムを知り筑波大学へ
1980年代半ば、筑波大学ではニューサイエンスの国際シンポジウムが開かれました。
ニューサイエンスは、西洋近代科学の方法だけに寄らず、東洋思想なども取り入れながら科学を捉え直そうとした当時の潮流です。
三上さんはこのシンポジウムの存在を知ったことで筑波大学へ興味を持ち、進学先として筑波大学を選びました。
入学後に暮らした大学には、宿舎の幽霊話や地下の「第4学群」など、学生の間で語られるさまざまな都市伝説もありました。
現在の仕事を思わせる話題ではありますが、三上さんが大学で専攻したのはオカルト研究ではありませんでした。
バレーからワンダーフォーゲルへ、屋久島にも足を運ぶ
高校まで続けてきたバレーボールは、大学でも続けようとしました。
ところが筑波大学の運動部は競技レベルが高く、三上さんは部活動ではなくバレーボールのサークルへ入りました。
そのサークルも100人ほどの大所帯で、思うようにプレーできなかったといいます。
そこで大学2年生になると、今度はワンダーフォーゲルを始めました。
車があり、いろいろな場所へ行きたいという状況も重なり、山登りだけでなく川下りにも出かけるようになります。
なかでも記憶に残っているのが屋久島で、強い雨の中を登り、屋久杉を見に行きました。
高校時代の体育館から一転し、大学では山や川へ活動範囲が広がっていました。
朝永振一郎の流れをくむ研究室で理論物理を学ぶ
学生生活ではよく外へ出かけていた一方、学業では本格的に物理学へ取り組みました。
所属したのは当時の第1学群で、ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎さんの流れをくむ研究室でした。
三上さん自身が「バリバリの理論物理」と表現するほど、専門は理論物理に寄ったものでした。
授業を一通り受けて終わる学生生活ではなく、研究室ではゼミを中心に学ぶ日々が続きました。
4年生になってからも週に4日ほどゼミがあり、卒業が近づく時期まで物理学に向き合っていました。
高校生のころにニューサイエンスへ興味を持って進学した先で、実際には数式と理論を扱う物理学の研究室へ入ったことになります。
一方で休日や課外活動では山や川へ出かけ、研究室の外では『ムー』も読むという、異なる時間が同じ大学生活の中にありました。
出版社だけを受けた就職活動|1991年に学研へ
大学4年生になると、研究と並行して卒業後の進路を決める時期が来ました。
理論物理を専攻していた三上さんには、研究職だけでなく、当時ならではの幅広い就職先がありました。
理系の就職先が広がる時代に出版社へ絞った
就職活動をしたのはバブル期で、理系学生を銀行がディーラーとして採用するなど、理系出身者の選択肢が広がっていました。
三上さんの周囲にも、専攻をそのまま仕事にする以外の道が見えていた時期です。
その中で三上さんが選んだのは、出版社だけを受ける就職活動でした。
「出版社に絞って就活していました。」
筑波大学 TSUKUBA JOURNAL
出版業界はバブル期でも採用されやすい業界ではなかったため、三上さんは複数の出版社へ応募しました。
その中で最初に内定を出したのが学習研究社でした。
内定を受けるとそのまま入社を決め、1991年に筑波大学自然学類を卒業し、学習研究社へ入りました。
最初は『歴史群像』、入社数カ月後に『ムー』へ
入社してすぐに『ムー』編集部へ配属されたわけではありませんでした。
最初に担当したのは『歴史群像』など歴史関係のムックでした。
当時の『歴史群像』は『ムー』の別冊ムックとして扱われていた時期があり、編集部も近い場所にありました。
『ムー』側には歴史好きの編集者がいて、一方の三上さんは学生時代から『ムー』を読んでいたため、人員配置の希望がかみ合う形になります。
資料によって歴史関係のムックを担当した期間は数カ月から半年ほどと幅がありますが、入社1年目のうちに担当が変わった点は共通しています。
そして入社数カ月後、『ムー』編集部へ異動しました。
中学1年で存在を知り、大学生のころには読者になっていた雑誌と、ここで初めて仕事として向き合うことになります。
『ムー』編集部時代|愛読者だった青年が編集者になる
『ムー』へ移ってから、三上さんの編集者としての時間は長く同じ雑誌の中で続いていきます。
ただし、本人は異動を「愛読者だったから希望がかなった」という物語だけでは説明していません。
学生時代からの読者でも、配属は「あくまでも人事の都合」だった
後年、なぜ『ムー』編集部へ入ったのかを聞かれた三上さんは、その事情を短い言葉で説明しています。
「あくまでも人事の都合」
テレ東プラス
読者だった経歴と異動先が一致したことは確かですが、会社員としては人事異動によって『ムー』を作る側へ移ったというのが実際の順序でした。
そこから取材先や執筆者と付き合い、UFO、超能力、古代文明、UMA、心霊現象など、それまで読者として触れていた世界へ編集者として深く入っていきます。
大学で専攻した理論物理とは扱う題材が大きく変わりましたが、情報を集め、筋道を確認し、誌面へ落とし込む仕事が始まりました。
深夜の飲みの席まで企画会議になった編集部時代
三上さんが若手編集者として働いたころの『ムー』編集部は、現在の一般的なオフィス勤務とは時間の流れもかなり違っていました。
2022年のインタビューでは、20年ほど前の編集部について、編集者は午後2時から3時ごろに出社していたと説明しています。
夕方5時ごろになると編集部員がそろい、そこから取材や原稿、企画の仕事が続きました。
日付が変わった深夜になると飲みに出かけ、その席でまた雑誌の企画について話すことも珍しくありませんでした。
飲みの場が次の記事を生み出す企画会議のような役割を果たし、朝まで続くこともあったといいます。
三上さん自身は編集長になった後も、ネタを探し、取材へ行き、自分で記事を書くという編集者の基本的な作業は変わっていないと話しています。
取材と記事づくりを続け、2005年に5代目編集長へ
1991年の異動後、三上さんは『ムー』編集部で取材と記事制作を続けました。
その期間は10年以上に及び、2005年に5代目編集長へ就任します。
編集長になったから現場を離れたのではなく、その後も取材して記事を書く作業を続けました。
『ムー』では、扱う話の真偽だけで企画を切り捨てるのではなく、記事として筋の通った説明になっているかを重視する考え方が歴代編集者から受け継がれてきました。
「真贋は問わない。でも理論は必ず通す」
Gakken公式ブログ
専門的なテーマを扱うときには、その分野の知識を持つ人への取材を行い、記事の内部で理論が破綻していないかを確認してから誌面へ載せています。
筑波大学の研究室で理論物理を学んだことと、この編集方針の間に本人が直接の因果関係を語っているわけではありませんが、「分からないもの」を扱いながら筋道は確認する仕事を長く続けることになりました。
編集長就任後|UFO研究とメディア出演へ活動が広がる
2005年に編集長になった後は、雑誌の中だけでなく、イベントやテレビにも三上さん自身が登場する機会が増えていきました。
2014年には『ムー』公式Xで、飛鳥昭雄さんと三上さんが同行する奈良のミステリーツアーも告知されており、編集長自身が読者の前へ出る活動が見られます。
『ムー』創刊40周年が近づいた2018年から2019年ごろにはイベントや企業との企画も増え、雑誌名そのものが一つのブランドとして外へ広がっていきました。
2021年に国際未確認飛行物体研究所の所長へ
次の大きな役割が加わったのは2021年6月24日でした。
福島市飯野町のUFOふれあい館内に設立された「国際未確認飛行物体研究所」で、三上さんが初代所長に就任します。
研究所では、国内外から寄せられるUFO目撃情報の収集や分析、情報公開などを活動目的に掲げています。
雑誌で長年扱ってきたテーマが、研究所の所長という別の役割へ広がった形です。
2022年に『オカルト編集王』を出版し、ホリプロコムと業務提携
2022年3月には、ホリプロコムが三上さんとの業務提携を発表しました。
編集者でありながらテレビやイベントで本人が前面に立つ機会が増えていた時期で、活動範囲が出版業界の外へさらに広がります。
同年6月2日には、著書『オカルト編集王 月刊「ムー」編集長のあやしい仕事術』を出版しました。
執筆の依頼を受けた当初は「仕事術」を語ることに乗り気ではありませんでしたが、『ムー』の黎明期を知る編集者たちの歴史を書き残すことならできると考え、執筆へ進みました。
1991年の配属から30年以上がたち、若手編集者として先輩から聞いてきた話や、自分が現場で経験した出来事を雑誌の歴史として残す側へ回ったことになります。
2026年現在も、ホリプロコムの公式プロフィールには「三上丈晴(ムー編集長)※業務提携」として掲載されています。
2024年、卒業生として青森南高校50周年の記念講演へ
2024年11月11日、青森南高校は創立50周年記念式典を青森市のリンクステーションホール青森で開催しました。
式典後の記念講演に登場したのが、同校第10回卒業生の三上丈晴さんでした。
高校時代にバレーボールで地区大会優勝を経験してから年月がたち、今度は『ムー』編集長として母校へ戻っています。
講演の演題は「人間・命・自己」でした。
筑波大学時代にも「科学とは何か」「人間とは何か」といった問いに触れてきた三上さんが、卒業生として後輩たちの前で話す機会になりました。
同じ青森南高校の同級生だったタマ伸也さんも2024年10月、三上さんから受け取った『ムー』関連のスカジャンを自身のXで紹介しており、卒業後も接点が続いています。
25年以上続ける家庭菜園に見える現在の素顔
UFOや超常現象を語る姿とは別に、三上さんが長く続けている趣味が家庭菜園です。
2025年のカインズのインタビューでは、家庭菜園を25年以上続けていることが紹介されました。
育てている野菜の中でもミニトマトは種類が多く、同年の取材時には約30種類のミニトマトを栽培していました。
現在のホリプロコム公式プロフィールでも、翡翠採集と並んで家庭菜園が趣味として掲載されています。
青森で虫採りや秘密基地を楽しみながら不思議な話題に触れた少年時代から、三上さんの時間は学校生活や大学での物理学へ進んでいきました。
1991年に出版社へ入り、人事異動で『ムー』を作る側へ回ったことが、その後30年以上続く編集者としての道につながりました。
5代目編集長となった現在も、誌面での取材と記事づくりを土台にしながら、UFO研究、メディア出演、母校での講演などへ活動の範囲を広げています。
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出身地・年代・人生の原点などの共通点から探せます。



