ぺえの生い立ちと家族|バレー一筋の学生時代から原宿店員・マツコ会議まで

ぺえ
ひと目でわかるプロフィール ぺえ
ぺえ
出身地
山形県
生まれ年代
1990年代生まれ
活動ジャンル
タレント
性別
男性
家庭環境
両親と育った
育った家庭
両親と兄・姉のいる3きょうだいの末っ子として山形県で育った。本人は『自由に育ててもらった』と家族を振り返っている。
きょうだい構成
3人きょうだい・本人は3番目
キャリアの原点
大学4年でAKB48のオーディションへ応募し、卒業後に上京して原宿のショップ店員になったことが、その後の芸能活動へつながった。

鮮やかなヘアメイクでテレビに登場した原宿のショップ店員から、現在はYouTubeで飾らない日常や自分の言葉を届けるぺえさんへと、活動の見え方は大きく変わってきました。

所属事務所のプロフィールではYouTube登録者数90万人を超える発信者として紹介されていますが、その出発点をたどると、東京や芸能界とは離れた山形での学生生活があります。

ぺえさんを理解する3つのポイント
  1. 小学生でバレーボールを始め、中学・高校・大学まで競技生活を続けた。中学の部活帰りには父の車でラジオを聴いていた。
  2. 大学4年でAKB48のオーディションへ応募し、卒業後に上京して原宿のショップ店員になったことが、その後の芸能活動へつながった。
  3. 現在の道につながる原点:スカウト

現在のぺえさんからは想像しにくいほど、中学・高校・大学まで長くバレーボールが生活の中心でした。

大学4年ではAKB48のオーディションへ応募し、卒業後は体育会系の生活から一転して原宿のレディースショップへ入り、そこで起きた偶然が芸能界への入口になります。

ぺえの生い立ちと家族|山形で兄・姉のいる家庭に育つ

ぺえさんは1992年4月22日生まれ、山形県出身で、東京へ出るまでの長い時間を山形で過ごしました。

家の中には両親と兄、姉がいて、ぺえさんは3人きょうだいの末っ子として育っています。

両親と兄・姉のいる家で「自由に育ててもらった」

後年、家族について話したぺえさんの言葉には、子どものころの家庭の空気が端的に表れています。

「生まれてこのかたずっと自由に育ててきてもらった」

ORICON NEWS

両親から決まった生き方を押しつけられたというより、本人が選んだことを見守ってもらう形で育ち、この関係は後の上京時にも続いていきます。

兄と姉はぺえさんより先に大人になって家庭を持ち、本人にとっては子どものころから身近にいる年上のきょうだいでもありました。

両親と兄、姉の4人は、本人が知らないところでぺえさんについて家族会議を開いたこともあったと、本人は成人後に明かしています。

テレビの“メグカナ”を見て小学生でバレーボールを始める

小学生になると、のちに高校、体育大学まで続いていくバレーボールとの出会いがありました。

当時、身近にバレーをしている人がいたわけではなく、きっかけはテレビに映っていた栗原恵さんと大山加奈さんの「メグカナ」でした。

「直感で『バレーをやってみたい』って思って」

AXE Lab.

そこから実際に競技を始めると夢中になり、小学校から大学まで続く長いバレー生活が始まりました。

小学5年ごろ、自分の恋愛対象を意識するようになる

小学校低学年までは女の子を好きになった経験もあった一方、本人によると小学5年生ごろから男性に対する自分の感情をはっきり意識するようになりました。

テレビに映ったケイン・コスギさんを見た際、自分の中にそれまでと違う感覚があることに気付き、そのころから結婚や将来の家族について考えることもあったそうです。

兄や姉が身近な将来像としている一方で、自分は同じような人生になるのだろうかと考える時期が始まりました。

母親は本人から明確に聞くより前から何かを感じ取っていたようで、特定の生き方へ向かわせるのではなく、自分の人生を自分で選ぶことを伝えていたといいます。

家族情報

公開情報で確認できている家族について、続柄・職業・補足・出典を整理しています。

父

中学時代、部活帰りに車で迎えに来ていた父。氏名・職業などは登録しない。

信頼できる媒体 出典を見る
母

本人の生き方を尊重していた母。氏名などは登録しない。

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兄

年上のきょうだい。氏名などは登録しない。

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姉

年上のきょうだい。氏名などは登録しない。

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中学・高校時代|バレーボールが学校生活の中心になる

中学生になると、バレーは放課後の活動という範囲を越え、学校生活そのものを大きく占める存在になりました。

一方で、友人関係や恋愛も広がり始め、現在につながる呼び名までこの学生時代に生まれています。

中学では山形県選抜へ|部活帰りは父の車でラジオを聴いた

中学時代にはバレーボールの山形県選抜に選ばれるところまで競技を続けました。

練習が夜遅くまで続く日は父親が車で迎えに来ており、帰り道の車内で10時台になるとTOKYO FMの『SCHOOL OF LOCK!』が流れていました。

部活帰りに父親の車で聴いていたラジオ番組に、十数年後、自分が出演者として戻ることになります。

中学2年ごろには自分を好きだと言ってくれた男性と交際を始め、その関係は高校3年まで約5年間続いたと本人が話しています。

学校でも手をつないだり抱きついたりするような関係になり、やがて周囲も二人の交際を知るようになりました。

「学校は部活をする場所」だった厳しいバレー部の日々

高校へ進んでも生活の中心は変わらず、本人が後年振り返る高校生活には、授業よりもまず部活動の記憶が残っています。

「私は部活をする場所だったね」

SCHOOL OF LOCK!

授業中は友達と話しているか寝ていることが多く、勉強については上の空だったと笑いながら話す一方、部活では結果を求められる環境に身を置いていました。

丸刈りにジャージーという体育会系の姿で過ごしており、現在のカラフルな服装やメイクとはかなり違う学生でした。

小学校から高校まで主にセッターを経験し、高校ではセッターとライトを組み合わせた形でもプレーしていたと後年の本人発信で明かしています。

当時はファッションよりも体育館で過ごす時間の方が圧倒的に長い生活でした。

高2のクラス替えから学校が楽しくなり、本当の友達ができ始める

高校1年のころは周囲との距離を探りながら過ごしていましたが、高校2年のクラス替えを境に学校での時間が楽しくなっていきました。

本人はこのころから「本当の友達」ができ始めたと振り返っており、バレー以外の学校生活にも居場所が広がっていきます。

バレンタインには女子生徒から本命チョコを渡されたり告白されたりすることもあり、後年は「松田慎平時代はモテてた」と当時を笑って話していました。

2026年には中学・高校時代に友達と撮ったプリクラをInstagramで振り返り、当時一緒に過ごしてくれた友人たちへの思いもつづっています。

高校3年ごろ「松田慎平」から「ぺえ」という呼び名が生まれる

現在は活動名としてすっかり定着した「ぺえ」ですが、芸能事務所が考えた名前ではありません。

本名は松田慎平で、高校3年ごろになると友人が「慎平」の後ろ側を取るような形で「ぺえ」と呼び始めました。

「高3ぐらいから、友達に“ぺえ”って呼ばれ始めたの」

SCHOOL OF LOCK!

この呼び名は高校卒業で終わらず、大学でも使われ、その後東京のショップでもそのまま呼ばれるようになります。

芸能界へ入る何年も前から、すでに「ぺえ」という現在の名前で友人たちと過ごしていたことになります。

人生年表 ぺえさんの歩み
幼少期
育った場所・環境

山形県。 小学生でバレーボールを始め、中学・高校・大学まで競技生活を続けた。中学の部活帰りには父の車でラジオを聴いていた。

ORICON NEWS|ぺえインタビュー
幼少期
ぺえの生い立ちと家族|山形で兄・姉のいる家庭に育つ

ぺえさんは1992年4月22日生まれ、山形県出身で、東京へ出るまでの長い時間を山形で過ごしました。

高校
中学・高校時代|バレーボールが学校生活の中心になる

中学生になると、バレーは放課後の活動という範囲を越え、学校生活そのものを大きく占める存在になりました。

高校
高校3年ごろ「松田慎平」から「ぺえ」という呼び名が生まれる

現在は活動名としてすっかり定着した「ぺえ」ですが、芸能事務所が考えた名前ではありません。

学生時代
体育大学時代|宮城で4年間の一人暮らしを始める

高校卒業後は山形の実家を離れ、仙台市内の体育大学へ進みました。

学生時代
大学4年、就職を考える時期にAKB48オーディションへ応募する

大学4年になり、周囲と同じように就職を考える時期に入ったころ、一つの映像を見たことで進路の選択肢が急に広がります。

原点
現在の道へ進んだきっかけ

大学4年でAKB48のオーディションへ応募し、卒業後に上京して原宿のショップ店員になったことが、その後の芸能活動へつながった。

ORICON NEWS|ぺえインタビュー

体育大学時代|宮城で4年間の一人暮らしを始める

高校卒業後は山形の実家を離れ、仙台市内の体育大学へ進みました。

大学名は本人の公式プロフィールでは明示されておらず、本人を取材した記事では「仙台市内の体育大学」、本人自身も後年「大学が仙台だった」と話しています。

最初の部屋は6畳1間・家賃3万円のコーポ

山形を出て初めて始めた一人暮らしは宮城で、その生活は大学の4年間続きました。

2025年に本人が明かした最初の住まいは、6畳1間で家賃3万円のコーポでした。

隣の部屋の生活音が聞こえるような建物だったことまで覚えており、大学時代は学生寮ではなく、この小さな部屋から学校へ通っていました。

山形の家族と暮らす生活から、宮城で自分一人の生活を回す4年間へ変わった時期でもあります。

バレー中心の学生生活で、ファッションやメイクとは無縁だった

体育大学へ進んだころも、それまでの生活の延長にあり、本人は学生時代を「ゴリゴリの体育会系」だったと振り返っています。

ジャージーに丸刈りという姿で、後に働くことになる原宿のファッションやメイクは身近な世界ではありませんでした。

本人自身も、学生時代はバレーボールばかりで、服やメイクとはほとんど接点がなかったと話しています。

大学を卒業する時期が近づくまで、現在のように芸能活動やファッションの仕事を一本道の進路として準備していたわけではありませんでした。

大学4年、就職を考える時期にAKB48オーディションへ応募する

大学4年になり、周囲と同じように就職を考える時期に入ったころ、一つの映像を見たことで進路の選択肢が急に広がります。

見ていたのはAKB48のドキュメンタリーで、ステージの華やかさよりも、その裏側にある熱量に目が向きました。

体育会系だった自分と重なるものを感じ、その場で芸能の世界を遠くから眺めるだけでは終わりませんでした。

「私これかもしれない」

スポニチ Sponichi Annex

実際にAKB48のオーディションへ応募し、選考を受けています。

結果は落選でしたが、大学卒業を前に、それまでの体育会系の進路とはまったく違う世界へ自分から一度踏み出しました。

この応募のあとに選んだ就職先も、スポーツ関係ではなく原宿のアパレルショップでした。

体育大学卒業後の2015年に上京|原宿W♡Cの店員になる

大学卒業後の2015年、ぺえさんは山形や宮城を離れて東京へ向かいました。

両親からは上京を止められず、「好きにやっていい」と送り出され、東京に特別なつてがない状態から新しい生活を始めています。

レディース専門店へ「このお店しかない」と履歴書を送る

就職先として目を付けたのは、原宿・竹下通りにあったアパレルブランド「W♡C」でした。

それまでファッション業界で働いた経験はなく、しかもW♡Cはレディースを中心に扱うショップでした。

それでも店を見たときに「このお店しかない」と感じて履歴書を送り、熱意を伝えて採用されています。

バレーを続けてきた体育大学卒業生が、最初の就職先として原宿のレディースショップを選びました。

原宿を歩く人の服を見ながら色合わせを覚えていく

採用されたからといって、すぐに原宿らしい着こなしができたわけではありませんでした。

店の仲間には自分の格好がおかしければ教えてほしいと頼み、街へ出ると通行人の服を見ながら色と色の組み合わせを覚えていきました。

体育館で過ごしてきた時間が長かった分、原宿に来てから一つずつ服の見せ方を吸収していったことになります。

髪色や服装も次第に変わり、ショップの前に立つ姿は、丸刈りとジャージーだった数年前とは大きく違うものになりました。

「似合わないものは売らない」接客で店の人気店員になる

服を覚えた後も、一般的なショップ店員らしい積極的な声掛けをそのまま真似したわけではありませんでした。

自分からむやみに話しかけず、客から相談されたときには、その人に似合わないと感じた商品を無理に勧めない接客をしていました。

この接客が知られるにつれてぺえさんを目当てに訪れる人が増え、休日には店頭で待つ人が出るほどになりました。

2016年の取材では、入店後に店舗の売り上げが約1.5倍となり、全国の店舗でトップになった時期もあったと紹介されています。

ファッション経験の長さではなく、自分なりの接客そのものが店員として知られるきっかけになりました。

服の相談から人生相談へ広がり「原宿の母」と呼ばれる

店へ通う客との会話は、次第に服選びだけでは終わらなくなりました。

恋愛や人間関係などの相談を聞くことが増え、竹下通りでは「原宿の母」と呼ばれるようになります。

現在の所属事務所のプロフィールにも、ショップ店員時代に来店客の人生相談へ乗っていたことが、芸能活動前の重要な経歴として記されています。

そして23歳だった2015年12月、店で培っていた接客や会話とは別の場所から、人生を変えるカメラが原宿へやって来ました。

23歳で『マツコ会議』へ|ショップ店員からタレントになる

原宿で人気店員になったぺえさんが、自分から芸能事務所のオーディションを受けてテレビデビューしたわけではありません。

転機になったのは、日本テレビ系で始まったばかりだった『マツコ会議』の原宿取材でした。

2015年12月「謎のショップ店員」として番組に登場

2015年12月19日の『マツコ会議』で原宿が取り上げられ、ぺえさんは個性的なショップ店員として中継に登場しました。

当時は芸能人としてテレビへ出ていたのではなく、W♡Cで働いている23歳の店員でした。

番組ではそのキャラクターや受け答えが注目され、放送後、それまで店頭で知られていた「ぺえ」という名前が全国へ広がっていきます。

この一度のテレビ出演が、ショップ店員から芸能界へ進む大きな転機になりました。

出演がデビューのきっかけとなり、後年「原点」と振り返る

放送をきっかけにスカウトされ、その後はTWIN PLANETに所属し、タレントとしてテレビ番組へ出演するようになります。

2023年に『マツコ会議』が最終回を迎えた際、本人は23歳だった当時の自分を「この世界を何も知らない原宿のショップ店員」と振り返りました。

本人にとって『マツコ会議』は、後年になっても「原点」と呼ぶ番組です。

テレビ出演後、番組企画をきっかけに両親へ自分のことを伝える

友人には学生時代から自分の恋愛について隠さず話していた一方、両親に対しては長く自分の口から明確に伝えられずにいました。

テレビへ出始めたころには家族へ送るためのLINEを作ったものの、送信する前に本人のテレビ出演を家族が見ることになったと話しています。

その後、家族から否定されることはなく、さらに番組企画をきっかけに両親と直接向き合って話す機会が訪れました。

そこで分かったのは、両親だけでなく兄と姉も以前から本人のことに気付き、4人で家族会議までしていたということでした。

本人が家族へ言葉にするより先に、家族の側ではすでに松田慎平さんについて話し合う時間があったのです。

テレビで多忙になった後、YouTubeへ活動の軸を広げる

『マツコ会議』のあとテレビ出演が増え、ぺえさんの周囲にはショップ店員時代とは違う仕事の環境が一気に広がりました。

ところが、知名度が上がっていく時期に、テレビで求められる自分と普段の自分との間で無理を重ねるようになります。

テレビで求められる役割と本来の自分との間にズレを感じる

テレビでは「ジェンダーレス男子」や「オネエ」という言葉で紹介されることが増え、番組によってはより分かりやすいキャラクターを求められました。

本人は男性を恋愛対象としていても女性になりたいわけではなく、自分自身を既存の枠へきれいに当てはめることに違和感を持っていました。

テレビの現場で反応を気にすると、スタッフの表情を見ながら声を大きくしたり、さらに何かを言わなければと自分を追い込むこともあったそうです。

デビューから3年ほどは、周囲が期待する「ぺえ」を成立させようとして無理を重ねていました。

それでも原宿との関係がすぐ切れたわけではなく、2018年5月には、芸能活動を続けながらもW♡Cのスタッフとして在籍していることを公式Instagramで明かしています。

多忙な時期に突発性難聴を患い、働き方を見直す

デビューから3年ほどがたった多忙な時期には、突発性難聴を患い、体調を崩して入退院を繰り返しました。

仕事で求められるものに応え続ける生活の中で、身体にも変化が出るところまで来ていました。

そのころ母親からかけられた一言が、次の活動方法を考える場面に残っています。

「頑張らないで頑張りなさい」

スポニチ Sponichi Annex

体調を崩した時期を境に、「無理せず本音で生きる」方向へ仕事の仕方を変えていきました。

自分を飾らず話せるYouTubeへ

そこで新しい居場所になったのが、自分でカメラを回し、自分のタイミングで話せるYouTubeでした。

テレビのように毎回きれいに着飾ることはせず、スウェット姿や食事中の姿、友人との何気ない会話までそのまま動画にするようになります。

一般的なYouTube動画でよく見られる派手なオープニングや、毎回のチャンネル登録の呼び掛けにもこだわらず、自分が話したいことを自分の言葉で届ける形を選びました。

原宿では服を着飾ることで注目されたぺえさんが、YouTubeでは着飾らない姿を前面に出すようになりました。

かつて聴いていた『SCHOOL OF LOCK!』の5代目教頭になる

YouTubeで活動する一方、2021年10月にはTOKYO FM『SCHOOL OF LOCK!』の5代目教頭に就任しました。

中学・高校時代、遅くまでバレーの練習をした帰りに父親の車で聴いていた、あのラジオ番組です。

リスナーだった学生が、2021年には同じ番組で全国の10代へ話しかける側になりました。

教頭としての出演は2022年12月まで続き、進路、人間関係、恋愛などについて生徒と呼ばれるリスナーたちの話を聞きました。

中学時代の父親の迎えの車と、原宿で客の人生相談を聞いていた時間が、別々の形でラジオの仕事に重なりました。

2022年7月には突発性難聴とメニエール病の併発を公表して休養し、その後も耳の不調と付き合いながら活動を続けています。

2024年には左耳の聞こえにくさが続いた時期に3年ぶりに山形へ帰り、母親の手料理を食べ、父親の運転で懐かしい場所を巡り、実家で休息を取りました。

幼少期の家族の話とは別の時間を経て、成人したぺえさんと両親が並ぶ写真もこの帰省時に公開されています。

学生時代から続くバレーボールが仕事でも再び登場する

現在まで残っているもう一つの軸が、小学生のころテレビを見て始めたバレーボールです。

大人になってからはバレーボール大会や選手を扱う仕事にも関わり、2025年以降はJ:COMの「J:magazine!」で「ぺえの『バレーボールとあたし』」という連載も持っています。

高校バレーやSVリーグの選手を見ながら、自分自身が長く競技を続けてきた立場から言葉を届けています。

小学生のとき画面の中の“メグカナ”を見て始めた競技は、30代になったぺえさんの仕事の中にも残っています。

山形で家族と暮らし、バレーボールに時間を使っていた松田慎平さんの学生生活から、進路が大きく動き始めたのは大学卒業を控えたころでした。

原宿へ出てW♡Cの店員になり、『マツコ会議』との出会いを経たあとも、テレビ、YouTube、ラジオと活動する場所は一つずつ変わってきました。

高校時代から呼ばれていた「ぺえ」という名前と、小学生から続いたバレーボール、山形の家族との関係は、その変化の中でも現在まで残っています。

参考・出典 この記事で参照した主な資料
正本DB確認日:2026-09-15

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