エバース佐々木隆史の生い立ち|兄と始めた野球、古川学園・大学時代から芸人への転機

エバース佐々木隆史
ひと目でわかるプロフィール エバース佐々木隆史
ささきたかふみ
出身地
宮城県
生まれ年代
1990年代生まれ
活動ジャンル
お笑い芸人
性別
男性
育った家庭
宮城県で育ち、兄の影響で小学2年生から野球を始めた。
キャリアの原点
兄の影響で小学2年生から野球を始め、その後の学生生活の中心になった。

お笑いコンビ「エバース」でボケとネタ作りを担当する佐々木隆史さん。

独特な設定を日常会話のようなテンポで広げていく漫才で知られていますが、芸人になる前の生活で大きな割合を占めていたのは、お笑いではなく野球でした。

エバース佐々木隆史さんを理解する3つのポイント
  1. 子どものころから野球中心の生活を送り、大学まで競技を続けた。
  2. 高校:古川学園高等学校/大学:東北工業大学
  3. 兄の影響で小学2年生から野球を始め、その後の学生生活の中心になった。

小学2年生で野球を始め、古川学園高校では野球部の主将を務め、大学へも野球推薦で進学しています。

ところが大学では野球部から次第に離れ、それまでとは違う時間の過ごし方をするようになり、家で芸人のラジオやお笑いDVDを見る生活が始まりました。

野球を続けるために進んだ大学で、逆に芸人という別の進路が見えてきたのです。

佐々木隆史の生い立ちと家族|宮城県登米市で育った少年時代

佐々木隆史さんは1992年11月6日生まれで、吉本興業の公式プロフィールでは宮城県登米市豊里町出身とされています。

現在の趣味にも野球が挙げられ、特技は「セーフティーバント」と紹介されていますが、野球との付き合いは子どものころまでさかのぼります。

5歳上の兄を追いかけ、小学2年生で野球を始める

佐々木さんには5歳上の兄・隆真さんがいます。

2025年に仙台放送『かのおが便利軒』が佐々木さんの実家を訪れた際、兄の隆真さんが登場し、佐々木さんが兄の影響を受けて野球を始めたことも紹介されました。

本人も自身のコラムで、宮城県で生まれ、兄の影響から小学2年生で野球を始めたと書いています。

「野球以外のことは本当に何もしてないです。」

QJWeb「ここで1球チェンジアップ」

本人がこう書くほど、そこからの学生生活は野球中心になっていきました。

自宅の庭には手作りマウンド、小学生では相撲と駅伝にも出場

野球は学校やグラウンドだけで終わるものではありませんでした。

登米市の実家には、現在も庭に手作りのマウンドが残っています。

番組で久しぶりにその場所へ立った佐々木さんが投球すると、捕手役を務めたパンサー尾形貴弘さんが捕れないほどのボールを投げていました。

さらに高校時代からほぼそのまま残っていた自室には、野球用品だけでなく、小学生時代に優勝した相撲大会のトロフィーや、駅伝に出場した際のハチマキも飾られていました。

野球一本の印象が強い佐々木さんですが、小学生のころから複数の競技に参加するスポーツ少年でした。

母は負けず嫌いだったと証言|父や祖母との思い出も

実家を訪れた『かのおが便利軒』には母親も出演しています。

母親によると、幼いころの佐々木さんは負けず嫌いな子どもだったそうです。

父親については、地元で昔から家族ぐるみの付き合いがある飲食店「炉ばた ささき」の常連で、町内イベントでは蝶ネクタイ姿で司会をすることもあったと番組公式サイトで紹介されています。

また、佐々木さんが故郷の味として挙げているものの一つが、祖母がよく作ってくれた油麩丼です。

豊里町での食事や野球、家族との生活が、佐々木さんの子ども時代を形作っていました。

家族情報

公開情報で確認できている家族について、続柄・職業・補足・出典を整理しています。

兄

本人が『兄の影響で小2で野球を始めた』と記している。氏名など非公表情報は登録しない。

本人・家族本人の発言 出典を見る

佐々木隆史の小中学校時代|同級生と毎日野球をしていた

小学生になって野球を始めると、遊びの時間にもボールを握るようになります。

佐々木さんが育った豊里町での暮らしを振り返ったインタビューには、当時の放課後が想像できる話が残っています。

娯楽の少ない豊里町で、近所のグラウンドへ通う日々

佐々木さんは地元について、都会のように遊ぶ場所が多い環境ではなかったと振り返っています。

そのため子どものころは、近所の同級生たちとグラウンドへ行き、ひたすら野球をして遊んでいたそうです。

小学2年生から始めた少年野球だけでなく、遊びまで野球になっていたことを考えると、ボールを投げたり打ったりすることが日常の一部になっていたことが分かります。

小中学校で親友とバッテリー|人をいじって笑いを取っていた

小中学校時代の佐々木さんを知る人物として、『かのおが便利軒』には親友の孝行さんから情報が寄せられています。

2人は野球でバッテリーを組んでいた間柄でした。

その孝行さんによると、当時の佐々木さんは孝行さんをいじり、それで周囲の笑いを取っていたそうです。

まだ芸人を進路として意識するずっと前から、親しい友人とのやり取りの中では人を笑わせる場面がありました。

孝行さんは、現在の相方・町田和樹さんを見ると昔の自分を見るようだ、という趣旨のコメントも寄せています。

人生年表 エバース佐々木隆史さんの歩み
幼少期
佐々木隆史の生い立ちと家族|宮城県登米市で育った少年時代

佐々木隆史さんは1992年11月6日生まれで、吉本興業の公式プロフィールでは宮城県登米市豊里町出身とされています。

中学校
佐々木隆史の小中学校時代|同級生と毎日野球をしていた

小学生になって野球を始めると、遊びの時間にもボールを握るようになります。

中学校
小中学校で親友とバッテリー|人をいじって笑いを取っていた

小中学校時代の佐々木さんを知る人物として、『かのおが便利軒』には親友の孝行さんから情報が寄せられています。

古川学園高校で野球部主将に|甲子園を目指した3年間

中学校を卒業すると、佐々木さんは古川学園高校へ進みました。

本人によれば、小学生のころから続けてきた野球には、いつしか甲子園という明確な目標が加わっていました。

野球で勝負できる高校を選び、県内強豪の古川学園へ

古川学園の野球部は宮城県内でも力のあるチームで、佐々木さんの一つ下の学年には後にプロ野球へ進んだ選手もいました。

佐々木さんはそこでキャプテンを務めています。

高校を選ぶ段階では、甲子園を狙える一方で、自分にもレギュラーになる機会がある学校を考えていたことを、自身のコラムに書いています。

小学生から野球を続けてきた自分にとって、甲子園へ行くことには特別な意味がありました。

吐いても戻って走る練習と、主将として過ごした野球部生活

高校時代については、本人が後年かなり具体的に書き残しています。

練習では、レフトとライトのポール間を何本も走り、気分が悪くなってトイレへ向かい、吐いたあとに再び戻って走ることもあったそうです。

主将として過ごしていた野球部には、ミスをした選手がベンチへ戻ると大声で謝り、ほかの部員たちがその選手を責めるという独特な決まりもありました。

ある練習試合では、満塁で打席に立った同級生が逆転満塁ホームランを放ったにもかかわらず、監督の説教中だったベンチは喜ぶことができませんでした。

ホームインした本人は異様な空気を察し、ホームランを打ったのにチームへ謝り、周囲も決まりどおり責める言葉を返したといいます。

高校野球の練習や上下関係について語る佐々木さんの話には、試合結果だけでは見えない当時の日常が残っています。

甲子園には届かず|今も高校野球を見ると悔しさが戻る

3年間の最後に待っていたのは、甲子園ではありませんでした。

最後の夏は宮城大会で敗退し、高校野球生活を終えています。

それから長い時間が過ぎ、芸人として知られるようになった2026年になっても、母校の試合結果は追う一方、高校野球の映像はあまり見ないと佐々木さんは語っています。

「まだありますね、あの時の悔しさは。」

集英社オンライン

芸人になったあとも、甲子園へ行けなかった高校時代は過ぎ去っただけの出来事にはなっていません。

東北工業大学へ野球推薦で進学|野球から離れて生まれた時間

高校卒業後も、すぐに野球を辞めたわけではありません。

佐々木さんは東北工業大学へ進学し、大学でも野球を続けました。

東北工業大学は佐々木さんについて、ライフデザイン学部 安全安心生活デザイン学科の卒業生であることを公表しています。

大学でも野球部へ入るが、次第に練習へ行かなくなる

大学への進学も野球推薦でした。

そのまま大学の野球部へ入りましたが、本人によると部の雰囲気が自分にはあまり合わず、次第に行かなくなっていきました。

それまでの佐々木さんは、小学2年生から高校まで、野球を中心に次の進路を決めてきました。

ところが、野球推薦で進んだ大学で初めて、生活の中心から野球が外れていきます。

別の運動系サークルに入るわけでもなく、大学時代は仙台で一人暮らしをしながら、アルバイトへ行くか、大学へ行くか、家にいるかという日々になりました。

バイト・大学・家の日々で、ダイアンのラジオとお笑いDVDに夢中になる

野球部へ行かなくなったことで、佐々木さんにはそれまでより多くの空き時間ができました。

その時間に見るようになったのがお笑いです。

特によく聴いていたのがダイアンのラジオで、テレビ番組『にけつッ!!』にもハマりました。

レンタルショップのゲオでお笑いDVDを次々に借り、家ではDVDを流しながらゲームをすることもあったそうです。

子どものころからお笑い自体は好きでしたが、大学3年生ごろになると「自分も芸人になろうかな」と考え始めました。

野球の練習が占めていた場所へ、ラジオや漫才を見る時間が入ってきました。

就活をしないまま大学4年へ|芸人という進路が現実になる

大学3年生ごろには芸人という仕事を考えるようになっていたため、周囲が就職活動を始めても、佐々木さんは就活へ積極的には動きませんでした。

4年生になると、周りの友人たちは次々に内定を得ていきます。

一方の佐々木さんには、決まった就職先がありませんでした。

「本当に芸人になるしかないな」

FASHIONSNAP「あの人の東京1年目」

最初から強い覚悟を固めて一直線に芸人を目指したというより、就職しないまま時間が進むほど、その選択が現実になっていったと本人は振り返っています。

大学卒業後に上京|NSC東京21期で町田和樹と出会う

大学卒業が近づくころ、佐々木さんは吉本興業の養成所NSC東京校へ進むことを決めます。

野球とは違い、家族にとっても簡単に先の見える進路ではありませんでした。

父が母を説得し、宮城から東京へ送り出した

芸人になることを家族へ伝えた際、母親は当初反対していました。

『かのおが便利軒』で母親が明かしたところによると、その母親を説得したのが父親でした。

父親の後押しもあり、野球を続けてきた宮城を離れて東京へ向かいます。

東北工業大学で佐々木さんを知っていた教員も、後に大学公式サイトで、4年生だった佐々木さんからNSC東京校へ入ると聞いた際には驚いたと記しています。

元芸人の不動産屋に勧められ、上石神井で暮らし始める

東京で住む場所を探したときにも、佐々木さんらしい偶然がありました。

部屋探しを担当した不動産会社のスタッフが元芸人だったのです。

そのスタッフから、芸人をするなら家賃が比較的安く、新宿へ一本で行ける西武新宿線沿いがいいと勧められ、佐々木さんは上石神井で暮らし始めました。

大学時代から仙台で一人暮らしをしていたため、生活そのものにはある程度慣れていましたが、東京については遠く離れた都会へ来た感覚があったそうです。

上京してすぐには歌舞伎町の漫画喫茶でアルバイトを始めています。

最初の相方が1回で辞め、代わりに紹介されたのが町田和樹だった

NSCへ入った時点では、現在の相方町田和樹さんとコンビを組んでいたわけではありません。

授業内の「相方探しの会」で別の人物と知り合い、まずはその人と試しにコンビを組んでネタ見せへ出ました。

佐々木さんの感触では、その日のネタ見せでかなりウケていました。

ところが相方は、その一度のネタ見せを最後に芸人を辞めると言い出します。

急に辞める代わりに友人を紹介すると連れてきた人物が、町田さんでした。

しかも佐々木さんは、同じ日のネタ見せで町田さんが組んでいたコンビを見ており、一番スベっていた人という印象を持っていたそうです。

最初の相方がすぐに辞めなければ、町田さんとは知り合っていなかった可能性が高いと本人自身が語っています。

エバース結成後の下積み|評価されなかった漫才が変わるまで

町田さんと出会ったからといって、すぐに結果が出たわけではありません。

吉本興業の公式プロフィールでは、エバースの結成年月は2016年4月、2人とも東京NSC21期とされています。

NSCでは選抜入りできず、同期にもほとんど知られていなかった

町田さんとの漫才を自分たちでは面白いと思っていましたが、NSCではなかなか評価されませんでした。

選抜クラスに一度も入れず、同期にもあまり知られていなかったと佐々木さんは振り返っています。

卒業後もしばらく、どうすれば客席に届く漫才になるのか分からないまま新ネタを作り続けました。

2019年にはM-1グランプリ3回戦で敗退したことを本人がXで報告し、周囲との力の差を感じたことも書いていました。

上石神井の公園とびっくりドンキーで続けたネタ合わせ

駆け出しのころ、ネタ合わせの場所になっていたのが上石神井の自宅近くにある公園でした。

人が少なく話しやすかったため、丸い背もたれの椅子が2人の定位置になっていました。

すぐ近くのびっくりドンキーで食事をし、そのまま店内でネタ合わせをすることもありました。

現在もエバースのネタは佐々木さんが作っていますが、本人によれば漫才を完成した台本にして町田さんへ渡すのではなく、口頭で説明していく形を取っています。

仕事が少ない時期には、新しいネタを作ることが結果を出すための数少ない方法でした。

「町田を面白くしろ」でネタ作りを変更する

佐々木さんによれば、芸歴3〜4年目ごろまでは、何をすればウケるのかをはっきりつかめない状態が続きました。

そのころ、構成作家の山田ナビスコさんからネタについて指摘を受けます。

当時の漫才は佐々木さんの大喜利的なボケが中心で、ツッコミ役が町田さんでなくても成立する内容になっていました。

山田さんから町田さんをもっと面白くするよう言われ、佐々木さんは初めて「町田がどんな状態のときに一番面白いのか」を考えます。

いじられているとき、困っているとき、追い詰められているときに町田さんの面白さが出ると考え、ネタの作り方を大きく変更しました。

新しい考え方で一から作り直したネタが、それまでより大きくウケました。

佐々木さん一人のボケを見せる漫才から、町田さん自身が面白く見える漫才へと発想が変わった時期でした。

野球しかなかった少年時代が、現在のエバースへ続いている

漫才の形が固まってからも、佐々木さんの中から野球が消えたわけではありません。

吉本興業のプロフィールには今も趣味として野球が載り、漫才にも野球に関する題材や選手名が登場します。

長年の野球経験が、佐々木隆史の笑いの題材になる

2026年のインタビューでは、長く続けてきた野球についてなら、ほかの話題より強い熱量を持って話せるという趣旨の発言をしています。

野球選手の名前をネタに入れることにもこだわりがあり、自分の知っているものを漫才へ自然に持ち込んでいます。

学生時代の野球部で経験した人間関係も、現在の芸人仲間との付き合い方に残っています。

野球部時代、仲のいい後輩を遊びに呼ぶと、最初は楽しそうに参加していた後輩が次第に電話へ出なくなったことがあったそうです。

そこで先輩から誘われた後輩は断りづらいのだと気づき、芸人になってからは自分から後輩へ必要以上に踏み込まないようになりました。

芸人として登米へ帰り、とめふるさと大使・みやぎ絆大使へ

エバースはその後、M-1グランプリで2024年、2025年と2年連続で決勝へ進出し、佐々木さんの名前を知る人も大きく増えました。

仕事で宮城へ戻る機会も増え、2024年5月には登米市シティプロモーションサポーターになりました。

さらに2025年6月28日、地元・登米市から「とめふるさと大使」を委嘱されています。

任期は2028年6月27日までで、登米市は公式サイトで佐々木さんを豊里町出身として紹介しています。

2026年2月には、相方の町田さんとそろって宮城県の「みやぎ絆大使」にも就任しました。

大学の母校にも約10年ぶりに仕事で訪れ、2025年9月には東北工業大学がその様子を公式に紹介しています。

家族との付き合いも続いており、M-1決勝前などには願掛けとして母親に髪を切ってもらうことがあるそうです。

かつて芸人になる進路に反対していた母親のいる実家へ、M-1を前に髪を切ってもらうため帰るようになりました。

宮城県登米市で兄を追って野球を始めた佐々木隆史さんは、甲子園を目指し、大学まで長く野球を続けました。

野球推薦で進んだ大学で部活から離れた時間にお笑いを見るようになり、そのままNSCへ進んで町田和樹さんと出会います。

現在は漫才のネタを作りながら、野球や宮城との関わりも持ち続け、芸人としてかつて過ごした場所へ戻る機会が増えています。

参考・出典 この記事で参照した主な資料
正本DB確認日:2026-09-15

エバース佐々木隆史と似た生い立ちの人物は?

出身地・年代・人生の原点などの共通点から探せます。

似た人物を探す →
最近見た人物・保存一覧を見る →

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA