お笑いコンビ「レインボー」のジャンボたかおさんは、コントで響く大きな声と183cmの大柄な体格、そして豪快に料理を食べる姿でも知られています。
2026年にはドラマ『マイ・フィクション』にも出演し、芸人だけでなく俳優としても活動の幅を広げています。
現在は吉本興業の公式プロフィールでも体重130kgと紹介されていますが、昔の写真を見ると印象はかなり違い、高校時代にはバレーボール部のユニホーム姿で現在よりずっと細いジャンボさんを見ることができます。
ただ、昔をたどっていくと面白いのは見た目の変化だけではなく、少年野球、手作り漫画、中学野球、高校バレー、学生お笑い、大学での番組制作と、現在の活動につながる材料がかなり早い時期から並んでいることです。
本人は2026年のインタビューで、子どものころからお笑い番組を録画して繰り返し見るほどのお笑い好きだったと明かしています。
「お笑い番組を全部録画して擦り切れるぐらい見ていた」
anan
ジャンボたかおの生い立ちと家族|千葉で過ごした子ども時代
ジャンボたかおさんは1989年6月25日生まれで、吉本興業の公式プロフィールでは千葉県千葉市出身とされています。
本名は實方孝生(じつかた・たかお)で、現在の芸名になる前は実方孝生名義で芸人活動をしていました。
小学生ですでに大柄だったが、少年野球ではベンチにいることが多かった
ジャンボさんの小学生時代をかなり具体的に覚えている人物が、後に『六人の嘘つきな大学生』などで知られる小説家となる浅倉秋成さんです。
2人は小学4年生のころからの友人で、小学4年・5年・6年と同じ少年野球チームで過ごしました。
「小4からですね。4、5、6年と一緒の野球部に入っていました」
WEB本の雑誌「作家の読書道」
浅倉さんによると、このころからジャンボさんは非常に背が高く、小学生ですでに170cmほどあったといいます。
それだけの体格があればグラウンドでも目立ちそうですが、試合では浅倉さんのほうが出場し、ジャンボさんはベンチにいることが多かったそうです。
ジャンボさん自身も後年、小学生時代について「体はデカいんですけど、運動神経がない。球技センスがない」と振り返り、少年野球についても「下手だった」と話しています。
一方で、小学5年生のころにはチームのキャプテンを務めており、野球の技術とは別のところで役割を任されていました。
本人によれば、試合では思うようにいかなくても、人が集まれば自分が中心になって盛り上げることがあったそうです。
プレーでは悩みながら、みんなが集まった場所では盛り上げ役になるという小学生時代でした。
幼なじみ・浅倉秋成と漫画を作って遊んでいた
少年野球とはまったく違う遊びもしていました。
小学5年生のころ、ジャンボさんや浅倉さんたちはA4用紙を半分に折ってホチキスで留めた手作り漫画雑誌を作っていました。
「何ページから何ページは誰が描く」と担当を決め、それぞれが自分のページを描いて一冊にしていたと浅倉さんは振り返っています。
浅倉さんは当時の2人について、スポーツをしていた一方で「本質は文化系」だったと表現しています。
現在のジャンボさんはコントの設定を考え、小説まで書いていますが、小学生のころにはすでに友達と紙を束ねて「作る遊び」をしていました。
兄から入ってきた漫画文化と、よく食べる実家の記憶
浅倉さんの回想には、ジャンボさんの4歳ほど年上の兄も登場します。
兄が持ち込んでくる漫画などの文化は年下の2人には格好よく映り、ジャンボさんと浅倉さんは『とっても!ラッキーマン』などを一緒に楽しんでいました。
兄弟姉妹について公にまとまった家族構成が詳しく紹介されているわけではありませんが、少なくとも年上の兄がいたことは幼なじみの証言から確認できます。
一方、現在まで頻繁に本人の発信に登場するのは父親と母親です。
特に食卓に関する話は多く、2023年にはジャンボさん自身が「実家がめちゃくちゃ飯を食わせる実家」で、1日に米を10合炊くことがあると話しています。
そのとき母親についても、一人で3合ほど食べることがあると紹介しており、後に人気になる「実家飯」は突然作られた設定ではなく、家で実際に続いてきた食事風景が土台になっています。
中学時代|野球部のキャプテンになり「面白いこと」が教室に広がった
小学校を卒業すると、野球での立場にも大きな変化がありました。
ジャンボさん本人の過去の投稿から、通っていた中学校は千葉市立幕張本郷中学校と確認できます。
小学生のころとは逆転し、野球部でキャプテンを務めた
小学生ではベンチにいることが多かったジャンボさんですが、中学校では試合に出る側になりました。
浅倉さんによると、中学生になると立場が逆転し、ジャンボさんが活躍してキャプテンになり、今度は浅倉さんがベンチに回ったそうです。
本人も2021年、自分のバッティング映像とともに、幕張本郷中学校で4番を打っていたことを明かしています。
体格だけが先に大きくなっていた小学生時代から、中学では4番・キャプテンを任されるところまで状況が変わりました。
ダウンタウンが好きで、友達にも“持ち芸”が生まれていった
中学校の教室では、野球とは別の意味でジャンボさんの存在感が大きくなっていました。
浅倉さんによると、当時のジャンボさんはダウンタウンが好きで、周囲にも面白いことを求めていたそうです。
その結果、友達はそれぞれ自分なりの「持ち芸」のようなものを作り、教室に「面白いことが正義」のような空気ができていました。
浅倉さん自身も、中学3年生の作文でわざと文豪のような書き方をして笑わせ、その文章についてジャンボさんは大人になってからも覚えていたといいます。
小学校では漫画を共同制作し、中学校では友達同士で笑いを作るようになり、遊び方が少しずつ現在のお笑いに近づいていきました。
ジャンボたかおさんは1989年6月25日生まれで、吉本興業の公式プロフィールでは千葉県千葉市出身とされています。
小学校を卒業すると、野球での立場にも大きな変化がありました。
高校では、続けてきた野球から離れてバレーボールへ競技を変えます。
その3年間の中で、本人の記憶に強く残っているのが高校3年生で関東大会出場を決めた瞬間です。
高校3年生になると、バレーとは別の場所でも大きな出来事がありました。
ジャンボさんは子どものころから芸人への憧れを持っていましたが、好きだからこそ「自分が芸人になれるわけがない」とも考えていたそうです。
食の活動が広がる一方で、大学時代に続けていた「物語を作ること」も別の形で表に出ました。
『おもしろ荘』優勝後もしばらくは実方孝生の名前で活動していました。
高校時代|バレー部の厳しい練習と、関東大会までの3年間
高校では、続けてきた野球から離れてバレーボールへ競技を変えます。
進学したのは八千代松陰高等学校で、ここでも部活動の中でキャプテンを務めました。
野球からバレーボールへ移り、再びキャプテンになった
ジャンボさんは後年、「中高大」でキャプテンや会長など人をまとめる立場を経験したと学生時代を振り返っています。
高校で入ったバレーボール部は本人が「めちゃくちゃ強い」と表現するほどのチームで、楽しみたいと思って始めたバレーは、次第に厳しい練習の毎日になりました。
2025年には当時のユニホーム姿を自身のXで公開しており、現在とはかなり違う痩せていた高校時代の姿も確認できます。
投稿では顧問について、練習が非常に厳しく、当時は何度も悪口を言ってしまったと率直に振り返っています。
現在の体格との比較で「昔は痩せていた」と注目されることが多い写真ですが、そのころ本人が実際にしていたのは、強豪バレー部で関東大会を目指す生活でした。
厳しかった顧問と練習、高校3年でつかんだ関東大会
その3年間の中で、本人の記憶に強く残っているのが高校3年生で関東大会出場を決めた瞬間です。
「関東大会に出られることになって、嬉しくてみんなで抱き合って喜びました」
ABCマガジン
ジャンボさんは、この瞬間を境に、それまで苦しかった練習の記憶が不思議なほど薄れたとも話しています。
厳しい練習が続いた高校生活の最後に、仲間と関東大会出場を決めました。
痩せていた頃の写真と、高校時代に始まっていたお笑い
高校3年生になると、バレーとは別の場所でも大きな出来事がありました。
相手は小学校から付き合いが続いていた浅倉秋成さんです。
2人は受験を終えたあと、思い出作りとしてコンビを組み、当時の高校生お笑い大会「M-1甲子園」の予選へ出場しました。
「受験が終わったから思い出づくりに何かやる?ってM-1甲子園に出ました」
ch FILES
ジャンボさんによると、その日のネタは会場でかなりウケ、ほかの出場者が楽屋へあいさつに来るほどの反応だったそうです。
ところが千葉県代表には選ばれませんでした。
本人は後から振り返って、内容がテレビ向けではなかったのではないかと考えています。
高校の最後には、スポーツの関東大会だけでなく、お笑いの舞台にも実際に立っていました。
浅倉さんはその後、安定した進路から外れて芸人になる覚悟を持てなかったと振り返っていますが、ジャンボさんのほうは大学を経て本当にお笑いの世界へ進んでいきます。
國學院大學時代|アナウンス研究会で番組と物語を作るように
高校卒業後は國學院大學へ進学しました。
ここで選んだ活動は野球部でもバレー部でもなく、アナウンス研究会でした。
KAC51代会長になり、ラジオドラマやDJ番組を制作した
ジャンボさんは國學院大學のアナウンス研究会で活動し、後に自身のXで「KAC51代会長 実方孝生」だったことを明かしています。
活動の中には「番組発表会」があり、そこでラジオドラマや15分のDJ番組を制作していました。
さらに映像作品やミニドラマも作っており、人前でしゃべるだけではなく、構成を考えて一本の作品にする側にも回っていました。
中学・高校ではスポーツチームをまとめ、大学では番組を作るサークルの会長として活動するようになりました。
ミニドラマ作りの中で「物語を考える癖」がついた
この大学時代について、ジャンボさんは2023年、小説家としてデビューした際のインタビューで振り返っています。
「物語を考えるという癖みたいなものがついたかもしれません」
マイナビニュース
小学生では友達と漫画を作り、大学ではラジオドラマや映像、ミニドラマを作るようになっていました。
この時点ではまだレインボーは存在していませんが、後のコントや小説と同じように、人物と状況を考えて物語にする作業を繰り返していました。
大学時代のお笑いへの思いから、卒業後のNSCへ
ジャンボさんは子どものころから芸人への憧れを持っていましたが、好きだからこそ「自分が芸人になれるわけがない」とも考えていたそうです。
一時は放送作家やディレクターになる方法を考えていたことも、2026年のインタビューで明かしています。
それでも大学卒業が近づく中で芸人の道を捨てきれず、卒業後の進路として吉本興業の養成所・NSC東京校を選びました。
本人が後に自伝的なnoteで書いた言葉からは、このころにはかなり腹を決めていた様子が伝わります。
「お笑いやるのに吉本選ばないのは、逃げっしょ?」
レインボージャンボたかお note「NSC首席卒業の悲劇。」
NSCからレインボー結成へ|「実方孝生」として舞台に立った時代
大学を卒業して入ったのはNSC東京校18期でした。
ここから、お笑いを好きな学生だった實方孝生さんが、職業として舞台に立つ生活へ入ります。
東京NSC18期で芸人生活をスタート
NSCでは森川涼太さんと出会い、コンビ「感動ピスト」を結成しました。
吉本興業が2013年に伝えたところによると、テレビっ子で芸人に憧れていた實方さんが、高校卒業後に一人で上京してきた森川さんを見て「やる気があるに違いない」と声をかけたのが結成の始まりでした。
コンビ名は、實方さんが笑いと同じくらい感動することが好きだったことと、森川さんが乗っていたピスト自転車を組み合わせて付けられました。
そして2013年2月、感動ピストは「NSC大LIVE 2013 TOKYO」で優勝します。
東京NSCの卒業生の頂点となり、18期を首席で卒業しました。
ただ、本人は後年、首席になると実力以上のものを求められ、「面白いんだろ」と見られることがしんどかった時期もあったと話しています。
旧コンビでの活動を経て、池田直人とレインボーを結成
感動ピストとして卒業後も活動を続けましたが、2015年10月、實方さんはコンビを解散することを発表しました。
主なコンビ活動を11月で止め、すでに決まっていた仕事を翌年2月まで行った後、感動ピストとしての活動は終了しています。
同じころ、同期の池田直人さんも、おばたのお兄さんと組んでいた「ひので」を解散していました。
それぞれがピンになったところで2人が組み、2016年2月に現在の「レインボー」を結成します。
初舞台は2016年2月28日のヨシモト∞ホールで、最初に作ったのは、夢破れた女性と駅員が出会う物語性の強いコントでした。
ジャンボさんによると、池田さんと深夜のファミリーレストランへ集まり、2人で楽しみながら作ったネタでしたが、初舞台ではほとんどウケませんでした。
先輩のダンビラムーチョ・大原優一さんからも「実方と池田が組んで、あんなにスベる?」と心配されたほどだったと、本人は後年のnoteに書いています。
NSC首席だった實方さんと、同期の池田さんが組んでも、最初から順調だったわけではありませんでした。
2018年『おもしろ荘』優勝で一気に名前が広がった
結成から約2年後の2018年1月1日、大きな転機が訪れます。
日本テレビ系『ぐるナイ おもしろ荘』に出演したレインボーは、池田さんが女性を演じ、實方さんが相手役を務めるドラマチックなコントを披露しました。
そこでレインボーは優勝し、「キレイだ!」というフレーズとともにコンビ名が広く知られるようになります。
ただ、その直後から何もかも順調に売れ続けたわけではなく、周囲の同世代芸人が次々と注目される中で、レインボーには思うように仕事が増えない時期もありました。
その間も2人はコントを作り続け、後にYouTubeへ大量の新作コントを公開するスタイルへ進んでいきます。
「ジャンボたかお」へ改名|コントとYouTubeで現在の姿へ
『おもしろ荘』優勝後もしばらくは実方孝生の名前で活動していました。
現在定着している「ジャンボたかお」という名前が生まれたのは、その翌年です。
2019年、「実方孝生」からジャンボたかおへ
2019年5月17日、フジテレビ系『ネタパレ』の企画で新しい芸名を決めることになりました。
NEWSの増田貴久さんが考案した候補から視聴者投票が行われ、「ジャンボたかお」へ改名します。
小学時代から周囲より大きかった体格と、レインボーのコントに登場していた「ジャンボ」というキャラクター名が、ここで本人の芸名になりました。
本名の實方孝生でNSC首席を取り、レインボーを結成して『おもしろ荘』に優勝した後に、現在知られている名前が付いたことになります。
食への関心が「食うチャンネル」と実家飯企画に広がった
その後、ジャンボさんの活動でコントと並ぶ大きな柱になったのが「食」でした。
自身のYouTubeチャンネル「レインボー ジャンボたかおの食うチャンネル」では、店で食べる動画だけでなく、実家で母親が料理を振る舞う「実家飯」が繰り返し登場します。
2022年に公開した池田さんとの実家飯動画では、エビチリ、カキフライ、刺身、肉じゃが、複数のサラダなどが食卓に並び、途中からさらにカツ丼やカレーまで登場しました。
母親のエビチリは特に反響が大きく、2022年9月には「母から送られてきた長文のエビチリレシピ」を本人がXで公開しています。
2026年1月にも実家へ帰って母親の料理を食べたことを発信しており、エビチリやスパゲティサラダは変わらず食卓に並んでいました。
さらに2026年8月には、ドラマ『マイ・フィクション』で共演した玉森裕太さんを実家へ招き、母親の料理を食べる動画も公開しています。
動画では大量の料理が並び、玉森さんを迎えるために米も多く用意されていました。
子どものころから身近にあった家族の食卓が、大人になって本人の人気コンテンツの一つになりました。
大学時代の物語作りが、コントから小説へ広がった
食の活動が広がる一方で、大学時代に続けていた「物語を作ること」も別の形で表に出ました。
レインボーのYouTubeでは、日常の男女関係や人間関係を細かく切り取ったコントを大量に制作し、テレビ出演が多くない時期にも視聴者を増やしていきました。
ジャンボさん自身もコント作りが好きだと公言し、2020年にはnoteでレインボーの結成後やネタが生まれた過程を書き始めています。
そして2023年9月13日、KADOKAWAから『説教男と不倫女と今日、旦那を殺すことにした女』を発売し、小説家としてデビューしました。
その本へ推薦コメントを寄せたのは、小学4年生から一緒に野球をし、小学生では漫画を作り、高校では一緒にM-1甲子園へ出た浅倉秋成さんでした。
小学生だった2人が紙を折って漫画本を作ってから長い時間がたち、一人は小説家になり、もう一人は芸人として活動しながら小説を書き、その新刊に昔の友人が言葉を寄せるところまで来ました。
ジャンボさんが大学のアナウンス研究会で作っていたラジオドラマやミニドラマも、コントと小説の間にそのまま残っています。
千葉で少年野球をしていたころは試合に出られないこともありましたが、中学では4番とキャプテンを任され、高校ではバレー部で関東大会へ進みました。
その一方で続いていた漫画やお笑い、大学での番組作りは、NSC、レインボーのコント、YouTube、そして小説へと形を変えています。
現在の「ジャンボたかお」という名前が付くよりずっと前から、人が集まる場所で盛り上げ、友達と何かを作り、物語を考える時間が続いていました。
ジャンボたかおと似た生い立ちの人物は?
出身地・年代・人生の原点などの共通点から探せます。












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