空中で6回転半する「2340」を世界で初めて成功させ、X Gamesの男子ビッグエアで2連覇を果たしたプロスノーボーダーの荻原大翔(おぎわら・ひろと)さん。
2005年7月19日生まれで、全日本スキー・スノーボード連盟のプロフィールでは茨城県牛久市出身と紹介されています。
- 3歳の冬からスノーボードを始め、幼少期は父が楽しさを優先しながら継続的に滑る環境を整えた。
- 大学:仙台大学
- 3歳の冬から家族とスノーボードを始め、幼少期から継続的に競技環境へ触れたことが原点。
2026年にはミラノ・コルティナ冬季オリンピックへ初出場し、スノーボード男子ビッグエアで決勝まで進みました。
現在は「スピンマスター」と呼ばれるほど高回転の技を得意としていますが、その始まりは3歳の冬、父親にロープで支えてもらいながら横滑りしていた時期までさかのぼります。
しかも、育ったのは冬になると雪に囲まれる山間部ではなく、雪がめったに積もらない茨城県牛久市でした。
荻原大翔の生い立ちと家族|3歳で父とスノーボードを始めた
荻原大翔さんが育った家庭では、スノーボードが子どもだけの特別な競技ではなく、もともと両親が楽しんでいた身近なスポーツでした。
なかでも大翔さんと長い時間をともにしてきたのが、父親の荻原崇之さんです。
両親がスノーボーダーだった家庭で育つ
2015年にDMK Snowboardのインタビューを受けた崇之さんは、17歳でスノーボードを始め、自身もハーフパイプの大会や海外キャンプを経験したことを明かしています。
母親も長くスノーボードを続けており、大翔さんが生まれたころから夫婦には「いつか親子で一緒に滑れたら」という思いがありました。
大翔さんが1〜2歳だったころには、両親が滑っているあいだスキー場の託児所で過ごすこともあったそうです。
その環境の中で迎えた3歳の冬、大翔さん自身も初めてボードへ乗りました。
「大翔は、3歳の冬から始めました。」
DMK Snowboard
3歳はロープで横滑り、4歳から毎週末スキー場へ
3歳のころはまだ、ロープで補助してもらいながらサイドスリップと呼ばれる横滑りをする段階で、滑走日数も年間10日ほどでした。
シーズンの後半になると、緩い斜面で転びながら左右のターンができるようになり、雪のない時期にはカムイ龍ヶ崎へ月1回ほど遊びに行っています。
4歳になると過ごし方が変わり、毎週末のように家族でさまざまなスキー場へ出かける生活になりました。
このころにはジャンプ台やレールなどが設置されたパークにも入り始めています。
崇之さんが幼い息子に最初から厳しい練習を課したわけではなく、3〜5歳ごろは「スノーボードを嫌いにさせない」ことを優先していました。
滑りに行く日は好きなDVDを借りられるようにし、ポケットにはお菓子を入れ、まだ小さいうちはできるだけ天気の良いスキー場を選んでいました。
5〜6歳で一年中スノーボードをする生活になる
5歳になると冬は毎週末滑り、オフシーズンにもカムイ龍ヶ崎や長野県の小布施へ月2日ほど通うようになりました。
さらに6歳のとき、ジャンプの練習施設千葉キングスがオープンすると、家族は毎週のように足を運びます。
6歳以降は学校行事などがない限り、季節を問わず毎週末スノーボードをする生活が続きました。
特定のスクールへ通い続けたわけではなく、父親のほか、千葉キングスのスタッフやそこで出会ったライダー、ローカルのスノーボーダーたちからアドバイスを受けながら技を増やしていきました。
家族情報
公開情報で確認できている家族について、続柄・職業・補足・出典を整理しています。
荻原大翔の小学校時代|9歳で3回転し世界へ映像が広がる
週末になるとボードを積んだ車で練習へ向かっていた大翔さんですが、平日まで一日中競技だけをしていたわけではありません。
牛久市で過ごした小学校時代には、同年代の子どもらしい日常もありました。
平日は自転車とサッカー、週末は雪山へ
9歳当時の父親の話では、平日は自転車で走り回ったり、公園でサッカーをしたりして過ごしていました。
滑走するのは基本的に父親が休みになる週末の2日間で、雪上以外の本格的なフィジカルトレーニングを大量に行っていたわけでもありません。
その代わり、道端の縁石を見ればジブの動きを想像し、人形を回してトリックを考えるなど、遊びの中にもスノーボードの動きが入り込んでいました。
9歳でBS1080を成功させた動画が海外でも話題に
小学3年生だった9歳のころ、大翔さんは空中で横に3回転する1080を成功させます。
FS1080やBS1080を決める9歳のライディング映像は海外のスノーボードメディアにも広がりました。
この時点で父親は、世界のトップ選手が今後どこまで回転数を伸ばすかを想像しながら、数年後に必要になる技から逆算してその年の練習内容を考えていました。
一方、大翔さん本人が口にしていた将来の舞台にはX Gamesとオリンピックが入っていました。
10歳のときに「20歳の自分」へ書いた手紙にも、将来はオリンピックへ出場しているはずだという内容を残しており、まだ小学生だったころから競技の先に五輪を置いていました。
自宅の庭でもボードを回した牛久での練習
高回転の土台になった場所はスキー場だけではなく、牛久市の自宅の庭にもありました。
父・崇之さんは、ジャンプ施設のスタート台に敷かれている人工芝の上で行っていた動きを見て、自宅でも同じような練習ができないかと考えます。
庭に人工芝を用意すると、大翔さんは学校から帰宅したあともボードを履いて地面の上で何度も回りました。
後年、日本代表の西田崇コーチはこの方法について、地上で練習することで頭の位置をぶらさず回転する動きにつながっていると説明しています。
雪がめったに降らない牛久市の庭が、高回転を磨くもう一つの練習場所になっていました。
荻原大翔さんが育った家庭では、スノーボードが子どもだけの特別な競技ではなく、もともと両親が楽しんでいた身近なスポーツでした。
週末になるとボードを積んだ車で練習へ向かっていた大翔さんですが、平日まで一日中競技だけをしていたわけではありません。
小学生のころから映像で名前を知られるようになった大翔さんは、中学生になるころには競技者として次の段階へ進んでいました。
中学校を卒業した大翔さんは、千葉県柏市にある日本体育大学柏高等学校へ進みました。
荻原大翔の中学時代|12歳でプロになっても「学校が大好き」
小学生のころから映像で名前を知られるようになった大翔さんは、中学生になるころには競技者として次の段階へ進んでいました。
それでも本人が2018年のインタビューで楽しそうに話していたのは、大会だけではなく学校で過ごす時間でした。
中学生でプロ資格を取得し公式大会へ進む
大翔さんは12歳でプロ資格を取得し、その後は国内外の大会へ本格的に出場するようになります。
冬には大会日程のため学校を休まなければならない日がありましたが、学校生活そのものから離れたいわけではありませんでした。
「友達もたくさんいるし、学校が大好きなので。」
DMK Snowboard
本人はスノーボードの練習を「部活の代わり」と考えており、友達と遊ぶ時間も持っていました。
友達と遊びながら平日は週5日ジャンプ練習
学校が終わったあとの競技生活はかなり濃く、13歳だった2018年夏には、茨城県内のFlyhillで週5日ほどジャンプやジブを練習していました。
残りの日には自宅でできるトレーニングを行い、その年のジャンプのテーマには「全体的に回転数を上げること」を挙げています。
春にはBurtonのチームトリップで米国マンモスマウンテンへ渡り、宮澤悠太郎さん、大塚健さん、村瀬心椛さんらと滑る経験もしました。
一方で、当時スノーボード以外に夢中になっていたのはスマートフォンゲームの「荒野行動」で、遊びすぎて学校の成績が下がり、スマートフォンを取り上げられたことも本人が明かしています。
その後、成績が上がるとスマートフォンは返してもらいました。
13歳で語っていたX Gamesとオリンピックの夢
父・崇之さんは撮影や遠征のサポートを続けており、中学生になった大翔さんは父親が自分にとってどんな存在なのかを聞かれています。
「友達?コーチ?カメラマン?かな。」
DMK Snowboard
撮影する人、教える人、そして一緒に滑る人という複数の役割を、父親がすでに担っていました。
13歳の時点でも目標は変わらず、X Gamesとオリンピックでした。
「オリンピックで活躍してスノーボードをもっと広めたい」という目標を、中学1年生の時点で具体的に語っています。
荻原大翔の高校時代|日体大柏から世界初2160へ
中学校を卒業した大翔さんは、千葉県柏市にある日本体育大学柏高等学校へ進みました。
高校生活の時期から、国内の年代別選手という枠を越えて世界の大会で戦う機会が増えていきます。
日本体育大学柏高校へ進み全日本選手権を連覇
2021年には全日本ジュニア選手権や全日本選手権で結果を残し、翌2022年にも全日本スキー選手権スノーボード競技のビッグエアで優勝しました。
高校の公式サイトには、ビッグエアの2連覇に加えてスロープスタイルでも優勝したことが記録されています。
高校では2022年6月、こうした成績を受けて教育支援会から表彰されました。
国内大会へ出る一方で、練習や大会のため海外へ向かう日も増えていました。
World Rookie Finalsで世界の同世代と戦う
2021年にはオーストリアで開かれたWorld Rookie Finalsのスロープスタイルへ出場し、世界各国の若手選手を相手に優勝しました。
翌2022年にも同大会を制し、World Rookie Finalsを2年連続で優勝しています。
9歳で国内外に動画が広がった少年が、高校生になると実際に海外へ渡り、同世代のトップ選手と競う位置まで進んでいました。
2022年に世界初BS2160を成功させる
高校時代の大きな転機が、2022年4月にスイスで開催されたセッションイベントThe Ninesでした。
このイベントで大翔さんが挑んだのは、横に6回転する「2160」に縦方向の回転を組み合わせたBSクイントコーク2160です。
大翔さんはこのBS2160を世界で初めて成功させました。
9歳のころに成功していた1080のちょうど倍にあたる回転数です。
幼いころ父親が「将来は5回転、6回転へ進むだろう」と考えながら練習内容を組み立てていた時期から約7年がたっていました。
荻原大翔が仙台大学へ|宮城を拠点に世界トップへ
2024年春、日本体育大学柏高校を卒業した大翔さんは仙台大学へ進学しました。
仙台大学では体育学科に在籍しながら、宮城県内のスキー・スノーボード練習施設東北クエストでもジャンプを磨いていきます。
仙台大学体育学科へ進学し東北クエストを練習拠点に
仙台大学が2024年12月に公開した記事では、大翔さんは体育学科1年として紹介されています。
記事の取材場所も、宮城県村田町にある東北クエストでした。
東北クエストには雪の代わりにエアマットへ着地できるジャンプ設備があり、現在も高回転の技を試す重要な場所になっています。
牛久市の自宅で人工芝の上を回っていた少年時代から、大学生になると本格的な大型ジャンプで世界トップレベルの回転を繰り返し試す日々へ進んでいました。
2023年のW杯初優勝から北京大会優勝へ
大学進学より少し前の2023年10月には、スイス・クールで開催されたFISワールドカップのビッグエアでW杯初優勝を果たします。
2024年12月には北京で行われたワールドカップのビッグエアでも優勝し、169.50点を記録しました。
仙台大学の取材では、2024-25シーズンからオリンピックの選考レースが始まっている中で早い段階に優勝できたことを喜んでいます。
高校時代に「世界初」を記録したあとも大会で安定して結果を残し、初めてのオリンピックが現実的な距離へ近づいていました。
父との二人三脚は成人後も続いた
成人して仙台大学へ進んだあとも、父・崇之さんとの関係は続いています。
2026年のテレビ朝日の取材では、崇之さんが車を運転し、約6時間かけて練習場まで送ることもあったと紹介されました。
海外遠征へ父親が同行しない場合にも、電話で技について話すことがありました。
大翔さん自身も、親と長く一緒にスノーボードを続けられていることについて良い関係だと話しています。
3歳の横滑りを支えた父親は、20歳になったあとも技を相談する相手でした。
荻原大翔が世界初2340を成功|9歳の3回転から6回転半へ
世界初2160から約3年後、大翔さんはさらに半回転を加えます。
舞台になったのは、小学生のころから目標として名前を挙げていたX Gamesでした。
X Games初出場で6回転半を決めて優勝
2025年1月、19歳だった大翔さんは米国コロラド州アスペンで開催されたX Games Aspen 2025へ初出場しました。
男子ビッグエアで挑んだのが、横方向に6回転半するBS2340です。
大翔さんは2340を世界で初めて成功させ、97.33点を記録してそのまま金メダルを獲得しました。
「本当に最高な瞬間。全部のエネルギーを使い切った感じがした」
CNN.co.jp
初めてX Gamesへ出た日に、9歳のころから目標としていた大会で世界初の技を決める結果になりました。
消しゴムやスマホまで使う独特の回転イメージ
2340まで回転数が増えても、大翔さんのイメージトレーニングには小学生時代から続くような身近な道具が登場します。
2026年のテレビ朝日の取材では、開いた教科書をジャンプ台に見立て、その上で消しゴムを回して技の動きを確認する様子を説明しました。
スマートフォンもスノーボードに似た形として利用し、手の中で回転させながら実際のジャンプをイメージしています。
5回転ほどになると空中で景色を見て回数を確認しているわけではなく、本人によるとほとんど感覚で回転数を把握する領域に入っています。
「自分の強みはやっぱり回転力なんじゃないかなと思います」
テレビ朝日
同じ取材では、牛久市の実家で続けてきた人工芝の回転練習も改めて紹介され、日本代表の西田崇コーチが高回転につながる身体の使い方を解説しています。
2026年X Games連覇、初めてのオリンピックへ
2026年1月、大翔さんは再びアスペンのX Gamesへ出場します。
男子ビッグエアで前年に世界初成功させた2340を再び決め、93.66点で優勝しました。
X Games男子ビッグエアを2大会連続で制した状態で、20歳の大翔さんは初めてオリンピックへ向かいました。
9歳のとき父親に話していた「X Games」と「オリンピック」という二つの舞台に、この時点でどちらも実際に出場することになります。
荻原大翔の現在|五輪を経験し、さらに高い回転数へ
2026年2月、ミラノ・コルティナ冬季オリンピックのスノーボード競技が始まりました。
大翔さんは男子ビッグエアとスロープスタイルの日本代表として初めて五輪のスタートリストへ名前を載せました。
ミラノ・コルティナ五輪はビッグエア12位
男子ビッグエア予選では178.50点を記録し、日本勢トップとなる1位で決勝へ進出しました。
決勝では思うように得点を重ねられず、最終順位は12位でした。
もう一つの出場種目だった男子スロープスタイルは、JOCとFISの公式記録でDNS(棄権)となっています。
小学生のころから目標にしてきた初めてのオリンピックは、メダルではなくビッグエア12位という結果で終わりました。
大会後もシーズンは続き、2026年3月のワールドカップ・フラッハウ大会ではスロープスタイルで3位に入りました。
牛久の母校へ戻り後輩の前で競技人生を語る
オリンピックから約5か月後の2026年7月、大翔さんは地元・牛久市へ戻りました。
訪れたのは母校の牛久市立向台小学校です。
後輩の小学生を前に、世界大会での経験や、目標へ向かうときには具体的な小さな目標を決めていたことを話しました。
10歳だったころには「20歳になった自分はオリンピックへ出ている」と手紙に書き、その20歳で実際に五輪へ出場したあと、今度は自分が通っていた小学校の子どもたちへ競技生活を話す側になっていました。
2340の先についても、大翔さんはすでに2520、横7回転を次の世界初の候補として挙げています。
3回転だった9歳から6回転、6回転半へ進んだ回転数は、まだ本人の中で上限とは決まっていません。
父親にロープで支えてもらった3歳の冬から始まり、週末のスキー場、自宅の人工芝、学校生活と海外大会を重ねながら、大翔さんは高回転の技を増やしてきました。
高校時代の世界初2160を経て、19歳では世界初2340、20歳では子どものころから目標にしていたオリンピックへ初出場しています。
五輪を終えた現在も競技は続き、牛久の庭から始まった回転数は次の2520まで視野に入っています。
荻原大翔と似た生い立ちの人物は?
出身地・年代・人生の原点などの共通点から探せます。



