歌舞伎町「CRAZE」のオーナーとして知られ、Xでは短い動画や率直な語りで大きな反響を集めてきたカマたくさん。
現在はXやYouTube、書籍でも知られていますが、そこへたどり着くまでには福島で過ごした子ども時代、専門学校、焼き鳥店、建築会社での仕事がありました。
特に20代は、昼の仕事をしながら夜に配信する生活を経て、歌舞伎町の店へと仕事の場所が移っていきます。
現在の発信活動が始まる前に、焼き鳥店や建築会社の施工管理として働いていた時期があったことは、今の姿だけを知っていると少し意外です。
2026年には、幼いころから37歳までの写真を並べた投稿もXで公開しています。
カマたくの生い立ちと家族|福島で過ごした子ども時代
カマたくさんは1988年12月17日生まれ、福島県出身で、子どものころは両親と姉がいる家庭で育ちました。
のちにSNSで見せる明るい話し方からは分かりにくいものの、家の中では父親をめぐって落ち着かない時間も続いていました。
両親と姉の4人家族|父親の酒・ギャンブル・暴力が続いた家庭
家族は父親、母親、姉、カマたくさんの4人でした。
本人によると父親は酒やギャンブルを好み、酒が入ると母親へ怒鳴ったり手を上げたりすることがあり、その状況は一度きりではありませんでした。
母親だけでなく子どもたちへ向かうこともあり、カマたくさん自身も幼いころに父親から乱暴に扱われた出来事を覚えています。
家の中では、父親が怒り出すことが日常の一部になっていました。
一方で、福島にいた祖父母との時間には、この家庭内とは違った場面が残っています。
小学生のころに自分の性的指向を自然に意識する
小学生のころには、男性を好きになる自分について本人なりに認識していました。
テレビでおすぎとピーコを見たことなどもあり、自分だけが特別におかしいという捉え方ではなかったと後年に話しています。
「こういう人種もいるんだな、じゃあ俺はこれだ」
サイゾーウーマン
自分の性的指向を意識したのは、小学生のころまでさかのぼります。
祖父母宅ではおばあちゃんについて回り、一緒に花を育てた
福島の祖父母宅へ遊びに行くと、カマたくさんは祖母のあとをついて回る「おばあちゃんっ子」でした。
祖母と過ごす時間の中には、庭先などで花に触れる記憶も残っています。
「一緒にお花をいじったり、育てたりとか」
文春オンライン
この祖母とは、高校生になってからも一緒に働く機会があり、さらに30代では再び同じ家で暮らすことになります。
中学時代|13歳で父親をきっかけに生活が大きく変わる
中学生になると、家庭の問題はカマたくさん自身の生活にもさらに大きく入り込んできます。
本人が後年繰り返し語っているのが、中学1年生だった13歳の出来事です。
中学1年で金銭を伴う性的な行為へ巻き込まれる
13歳のある日、父親から友人の家へ行くような話をされて一緒に出かけたものの、着いた先でカマたくさんだけが成人男性と残され、父親はその場を離れました。
そこで金銭を伴う性的な行為へ巻き込まれたことが、その後長く続く仕事の始まりだったと本人は明かしています。
最初の出来事が起きたのは13歳の中学1年生で、きっかけを作ったのは父親でした。
2019年には、その経緯を自分で漫画風の動画にしてXへ投稿しています。
自分で稼ぐようになり、父親の借金とも向き合う
最初は父親がきっかけでしたが、その後はカマたくさん自身が当時の出会い系サイトなどを使って相手を探すようになりました。
本人によると、14歳のころには多い月で約180万円になった時期もあったものの、その金銭がすべて本人の手元に残ったわけではありません。
父親には多額の借金があり、稼いだ金を渡すことで借金の返済にも充てられていました。
父親へ金を渡すようになると、家庭内での暴力が目に見えて減ったとも本人は話しています。
母親は新しい持ち物を見て不思議に思うこともありましたが、カマたくさんは詳しい事情を話さず、この生活を続けていました。
学級会のような場で同級生に自分の性的指向を話した
家庭の外では、中学時代に自分の性的指向を同級生へ伝える場面もありました。
本人の記憶では、学級会のような場で自分は男女の両方を好きだと話しており、周囲に隠し続ける学校生活ではありませんでした。
からかわれることはあったものの、本人は後年、中学生の早い時期に周囲へ話したこともあって深刻な状況にはならなかったと振り返っています。
カマたくさんは1988年12月17日生まれ、福島県出身で、子どものころは両親と姉がいる家庭で育ちました。
中学生になると、家庭の問題はカマたくさん自身の生活にもさらに大きく入り込んできます。
高校生になると、学校外で働く場面が増えていきます。
高校時代にできた友人との縁は、卒業後も続きました。
高校卒業が近づいても、カマたくさんには「これを職業にしたい」という明確な目標がありませんでした。
本人は、進学先について長く悩んで一つの夢へたどり着いたわけではなかったと話しています。
専門学校を卒業しても、学んだ分野へそのまま就職したわけではありませんでした。
専門学校を卒業したあと、たまたま声をかけられたことがきっかけで焼き鳥店へ就職しました。
高校時代|接客の仕事と祖母との夏休み
高校生になると、学校外で働く場面が増えていきます。
このころには接客のアルバイトを経験し、夏休みには祖母と同じ職場へ通ったこともありました。
17歳でフードコートの接客ランキング全国約4,000人中1位
17歳のころ、スーパーマーケットのフードコートで働いていました。
そこで実施されていた接客部門のランキングでは、本人によると全国の約4,000人のスタッフの中で1位になったことがあります。
17歳ですでに、約4,000人を対象とした接客ランキングで1位になった経験がありました。
接客中は客の注文もよく覚えており、後年には4年ぶりに来た客の「いつもの注文」まで覚えていたというエピソードも明かしています。
夏休みは祖母と選果場でトマトなどを箱詰め
高校時代の夏休みには、福島の祖母と一緒に選果場でも働いていました。
祖母と同じ職場へ通い、トマトなどの野菜を選別して箱へ詰める仕事をしていたといいます。
子どものころは祖母のあとをついて花を育てていましたが、高校生になると今度は同じ職場で一日を過ごす関係になっていました。
高校時代から続いた友人との関係
高校時代にできた友人との縁は、卒業後も続きました。
その中には、のちにカマたくさんへ「何かを発信したほうがいい」という趣旨の言葉をかける友人もいます。
ただ、この時点ではSNSで有名になる道へ進んだわけではなく、高校卒業後に選んだのはアニメを学ぶ専門学校でした。
高校卒業後|日本工学院へ進み、19歳ごろ父を見送る
高校卒業が近づいても、カマたくさんには「これを職業にしたい」という明確な目標がありませんでした。
そこで選んだ進路が、現在の発信内容からは少し意外なアニメの専門学校です。
「やりたいことがない」なか鉛筆を転がしてアニメ専門学校へ
本人は、進学先について長く悩んで一つの夢へたどり着いたわけではなかったと話しています。
「エンピツ転がして決めただけ」
20’s type
高校卒業後の進路は、強い志望からではなく、本人いわく鉛筆を転がして決めたものでした。
そのまま進学し、アニメやマンガに関わる専門教育を受ける学生生活へ入ります。
日本工学院マンガ・アニメーション科で学ぶ
進学先は日本工学院専門学校で、日本工学院もカマたくさんをマンガ・アニメーション科の卒業生として公式に紹介しています。
2026年に本人が公開した年齢別の写真では、22歳の写真を「専門卒業直後」としており、10代後半から20代前半にかけて専門学校で過ごしていた時期があったことが分かります。
後にX動画では企画、撮影、編集、出演まで自分で行うようになりますが、専門学校での学びと動画制作を本人が直接結び付けて語っているわけではありません。
19歳の夏ごろ父親にがんが判明|焼き鳥店のバイト中に届いた訃報
専門学校へ進んだあとの19歳の夏ごろ、父親にがんが見つかりました。
家庭内では長く暴力に悩まされていましたが、母親や姉と相談し、家族で父親を最期まで看ることになります。
父親が亡くなった日、カマたくさんは焼き鳥店でアルバイト中でした。
知らせを受けても店内の片付けを終えてから向かったため、父親の最期には間に合いませんでした。
葬儀では、それまで父親に対して抱いていた感情とは別に涙が出たといいます。
「やっぱり家族だったんだな」
サイゾーウーマン
専門学校卒業後の前職|焼き鳥店から建築会社の施工管理へ
専門学校を卒業しても、学んだ分野へそのまま就職したわけではありませんでした。
最初の就職先として本人が挙げているのは、学生時代にも経験していた焼き鳥店です。
誘われたことをきっかけに焼き鳥店へ就職
専門学校を卒業したあと、たまたま声をかけられたことがきっかけで焼き鳥店へ就職しました。
本人は、自分から強く望んで選んだ仕事はこれまでほとんどなかったと話しており、焼き鳥店も「誘われたから」という経緯だったと説明しています。
19歳ごろにも焼き鳥店でアルバイトしていましたが、卒業後に就職した店と同じ店舗だったかまでは本人の発言から特定されていません。
接客・呼び込みを続けた焼き鳥店時代
焼き鳥店では店内の仕事だけでなく、外で客へ声をかける呼び込みもしていました。
2020年には、10年以上前に焼き鳥店で実際にしていたという呼び込み方を再現した動画を本人がXへ投稿しています。
17歳のフードコートに続き、専門学校卒業後も接客の現場で働く生活が続いていました。
焼き鳥店を辞め、建築会社で施工管理の仕事に就く
その後、焼き鳥店を辞めて建築会社へ移ります。
そこで担当したのが、工事現場の進行や現場を管理する施工管理の仕事でした。
歌舞伎町の接客業やSNSとは離れた昼の仕事をしながら、20代半ばになると夜の時間に別の活動を始めます。
25歳ごろの転機|昼は施工管理、夜はツイキャス
建築会社で働いていた20代半ば、カマたくさんの生活にライブ配信が加わります。
始めたのは25歳ごろで、30歳という年齢も少しずつ意識するようになっていました。
「30歳までには」と考え、いつか店を持つため配信を始める
本人には、30歳までには自分の人生をある程度決めたいという漠然とした考えがありました。
同時に、将来について一つだけ考えていたのが自分の店を持つことでした。
「いつか自分の店を持ちたいな〜」
20’s type
ツイキャスで人に知ってもらうことが、いつか店を持つときの基盤になるかもしれないと考えました。
25歳ごろに始めたツイキャスを、本人は後に自分の「ターニングポイント」として挙げています。
高校時代からの友人に「何か発信したほうがいい」と勧められる
配信を始めた背景には、友人からの勧めもありました。
その人物は高校時代から付き合いのある友人で、カマたくさんが店などで話していた内容を知り、「何かを発信したほうがいい」という趣旨の言葉をかけました。
カマたくさん自身は、それまで何かを世の中へ向けて自発的に発信するタイプではなかったと話しています。
現在のSNS活動も、最初からインフルエンサーを目指して始めたものではありませんでした。
仕事と配信を並行した20代の生活
当時は朝から昼にかけて建築会社で施工管理をし、仕事が終わると夜にツイキャスを配信していました。
さらに夜間には別の仕事も続けていたため、本人は当時についてほとんど寝る時間がなかったと振り返っています。
施工管理だけ、配信だけという生活ではなく、複数の仕事が同時進行していた時期でした。
2017年からCRAZEへ|2018年のX動画で状況が一変
配信を始めたあと、仕事の場所は建築現場から歌舞伎町へ移ります。
ここで現在まで名前と結び付いているCRAZEが登場します。
2017年、歌舞伎町のCRAZEで働き始める
2017年、カマたくさんは歌舞伎町のゲイバー「CRAZE」で店員として働き始めました。
日本工学院の公式プロフィールでも、2017年からCRAZEに従事し、その後Xへの投稿を本格化させた経歴が紹介されています。
2025年に母校が紹介した時点では、カマたくさんはCRAZEのオーナーとなっています。
ヴァネッサに勧められ、2018年9月に初めてX動画を投稿
CRAZEで働き始めた翌年の2018年9月、さらに大きな変化が起きます。
友人のヴァネッサから動画を投稿してみるよう勧められ、Xで本格的に動画を公開しました。
最初の動画で取り上げたのは、中学1年から長く続けていた金銭を伴う性的な仕事についてでした。
動画は企画だけを本人が考えたのではなく、撮影、編集、出演まで一人で担当し、制作にはiPhoneを使っていました。
2018年9月に投稿した最初の動画が、その一発目から大きく拡散しました。
一晩でフォロワー約3万人増|店の客が急増する
投稿後、本人が眠っている間にも動画は広がり続けました。
「寝て起きたら3万人くらい増えてて」
サイゾーウーマン
変わったのはSNS上の数字だけではなく、CRAZEの店内でした。
それまでカマたくさんを目当てに訪れる客は1日に4〜5組ほどでしたが、動画が広がった翌日には約40組まで増えたといいます。
一晩のバズによって、翌日から実際の店の客数まで大きく変わりました。
当時の店はオーナーとカマたくさんの2人ほどで回しており、客が増えたことで3時間待ちになる日も出てきました。
週6日の営業が続き、ストレス性肝炎で入院
客が急増したあとも、混雑は短期間では終わりませんでした。
カマたくさんは週6日ほど店へ出る生活を続け、急に増えた仕事へ対応していました。
本人はアルコールにアレルギーがあるため店でも酒を飲まずに働いていましたが、その後ストレス性肝炎で入院します。
Xで注目された直後は、知名度だけでなく働き方まで急激に変わった時期でした。
2020年以降|本とYouTubeへ活動が広がる
XとCRAZEで知られるようになると、活動は店と短い動画の外へも広がります。
2020年代に入ると書籍とYouTubeが新たに加わりました。
2020年に初エッセイを出版
2020年4月30日、初エッセイ『頑張らなくても意外と死なないからざっくり生きてこ』がKADOKAWAから刊行されました。
これまでSNSや配信、店で話してきた生い立ちや仕事、本人の考えを一冊にまとめた本です。
翌2021年3月には、2冊目となる『お前のために生きてないから大丈夫です カマたくの人生ざっくり相談室』も刊行されました。
2021年に「3人勘女@カマたく」のYouTube配信を開始
2021年にはYouTubeでの配信も始まりました。
公式チャンネルでは、カマたくさんに加えてりょうさん、ゆーじさんが登場し、SNSの短い動画とは違う長さで会話や企画を見せるようになります。
こうして発信場所はXだけでなく、書籍や長尺動画へも広がっていきました。
2022年以降の家族|祖母の在宅介護から現在へ
活動の場が広がっていた一方、2022年には家族の生活にも大きな変化が起きました。
子どものころから親しかった祖母に認知症の症状が見られるようになり、母親とカマたくさんが介護に関わることになります。
2022年、母親と祖母との3人暮らしへ
祖母はもともと一人で生活していましたが、免許を返納したころから同じ内容の電話を何度もかけてくるなど、以前とは違う様子が増えていきました。
家を訪ねると洗濯機にカビが広がっているなど、日常生活の管理にも変化が見えるようになります。
2022年春には祖母との同居を考えていることを公表し、同年9月から当時90歳だった祖母の在宅介護が始まりました。
母親、祖母、カマたくさんの3人で暮らしながら介護する生活へ変わりました。
同居直後には普段どおりに会話できることもありましたが、寝起きなどにカマたくさんが誰なのか分からなくなることも出てきました。
子どものころから知る祖母と、介護する家族として再び同じ家で暮らすことになりました。
約1年の在宅介護を経て祖母が施設へ
認知症の症状が進むにつれて、家族だけで対応することが難しい場面が増えていきました。
デイケアやショートステイを使いながら施設を探し、申し込み先では当初、入所まで半年から2年ほど待つ可能性があると伝えられたといいます。
その後、空きが出たことで予定より早く話が進み、祖母は2023年5月に介護施設へ入所しました。
施設からは環境へ慣れるまで面会を控えるよう伝えられ、カマたくさんは約半年間、祖母と会わない期間を過ごします。
半年ほどして再会した際、祖母は目の前にいるカマたくさんが誰なのか分からなくなっていました。
一方、施設から送られてくる写真では、祖母がほかの入所者と話したり過ごしたりする様子も見られました。
2025年、卒業生として日本工学院の特別講座に登壇
祖母が施設へ移ったあとも仕事や発信を続け、2025年には学生時代を過ごした場所へ戻る機会がありました。
2025年3月2日、日本工学院専門学校の卒業展で行われた特別公開講座に、卒業生として登壇しています。
高校卒業時には鉛筆を転がして進路を決めたと話していた学校へ、今度は在校生の質問へ答えるゲストとして足を運びました。
かつて学生として通った日本工学院へ、2025年には卒業生ゲストとして戻っています。
2026年、祖母との介護経験を『施設がそんなにダメですか?』にまとめる
2026年4月には、祖母との在宅介護を扱った『施設がそんなにダメですか? ~認知症になった祖母の地獄の在宅介護~』がブックマン社から刊行されました。
もとになったのは、介護中にXへ投稿していた「おばぁちゃん日誌」です。
母親と祖母を支えた日常や、在宅介護から施設入所へ切り替えた時期の出来事が一冊にまとめられています。
幼いころから長く続いてきた祖母との時間が、2026年にはカマたくさんの4冊目の著書になりました。
2026年7月、祖母を94歳で見送る
本の刊行から約3か月後、家族の時間にはもう一つ大きな出来事がありました。
祖母は2026年7月17日に94歳で亡くなりました。
カマたくさんは7月20日にXで報告し、祖母が好きだった着物を掛け、好きだった花で棺をいっぱいにして親族で見送ったことを伝えています。
福島の家族の中で始まったカマたくさんの時間は、20代半ばの配信と2018年のX動画を境に、歌舞伎町の店と多くの視聴者へつながっていきました。
その後は書籍やYouTubeへ活動を広げながら、2022年からは祖母の介護という家族の時間も重なりました。
2026年にはその介護の日々を本にし、同年7月に祖母を見送ったあとも、カマたくさんの発信は続いています。
カマたくと似た生い立ちの人物は?
出身地・年代・人生の原点などの共通点から探せます。




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