畠山丑雄の生い立ちと家族|千里高校から京大、国語教師・公務員を経て芥川賞作家へ

畠山丑雄
ひと目でわかるプロフィール 畠山丑雄
はたけやまうしお
出身地
大阪府
生まれ年代
1990年代生まれ
活動ジャンル
小説家
性別
男性
キャリアの原点
コンテスト・公募

2026年1月、小説『叫び』で第174回芥川龍之介賞を受賞した畠山丑雄さん。

1992年に大阪府吹田市で生まれ、京都大学文学部在学中の2015年に「地の底の記憶」で文藝賞を受賞した小説家で、現在も地方公務員として働きながら作品を書いています。

大学時代から文学漬けだったようにも見えますが、高校までは小説をほとんど読まず、小中高とサッカーを続けていたという意外な学生時代を過ごしていました。

そこから浪人を経て京都大学へ進み、父に薦められた3冊をきっかけに猛然と本を読み始め、学生のうちに小説を書いて新人賞へ送り続けるようになります。

畠山丑雄の生い立ちと家族|吹田で育ったサッカー少年

畠山丑雄さんは1992年、大阪府吹田市に生まれました。

父方のルーツは宮城県石巻市にあり、大阪での日常とは別に、子どものころから石巻にも家族の記憶が積み重なっていました。

大阪府吹田市に生まれ、小中高でサッカーを続けた

子どものころから長く続けていたのがサッカーです。

小学校、中学校、高校までプレーを続け、大学でも京都大学のサッカー部へ入りました。

一方、このころの読書は後の芥川賞作家から想像するようなものではなく、読むものの中心は漫画でした。

藤子不二雄や手塚治虫の作品に加え、母や姉も漫画を読んでいたため、川原泉、大島弓子、よしながふみ、佐々木倫子らの少女漫画も身近にありました。

文学作品を読み込む少年ではなく、サッカーをして漫画を読む少年だったのが、10代までの畠山さんです。

国語教師の父は読書家、幼い息子には不思議な作り話もしていた

父親は国語教師で、現在まで続くほどの読書家でした。

ただ、幼い息子に文学を教え込んでいたわけではありません。

家に来た客を「椅子どろぼう」だと言ったり、テレビで相撲を見ながら、表には出てこない「黒ずもう」という集団がいると説明したり、意味のない作り話をたびたび聞かせていました。

うねるような根を張った木を見たときには、重力が弱い場所では地球から振り落とされないように木が深く根を張るのだと、もっともらしく説明したこともあったそうです。

父方は代々漁師の家系で、父自身はそこから教師になった人物でした。

祖父から教師になることを聞かされた際には「勤め人か」と少し残念がられたという話も、後に畠山さんが家族について書いたエッセイに登場します。

宿題を出さなかった小中学校時代と2学年上の姉

父には学校の宿題についても独特の考えがあり、「したいならしてもいいが、する必要はない」という立場でした。

その言葉を素直に受け入れた畠山さんは、小学校でも中学校でも基本的に宿題を提出しなかったと後年のエッセイに記しています。

高校進学を前にすると、本人もさすがに「このままではまずいのでは」と思い、春休みの宿題へ取りかかりました。

ところが、同じ高校へ2年先に進学していた姉から「そんなことはしなくてよい」と言われると、安心して宿題をやめてしまったそうです。

父だけでなく、2学年上の姉まで同じ方向から背中を押してきたというのが、畠山家らしい小さな一幕でした。

石巻へ帰省し、漁師だった祖父の土地で家族と釣りをした

父の実家は宮城県石巻市にあり、畠山さんの戸籍も結婚前まで石巻に置かれていました。

祖父は漁師で、幼いころ石巻へ帰省すると、家族で防波堤へ釣りに出かけています。

ここでも父は、沖へ出れば石巻の海がエメラルドグリーンに変わり、天気のいい日には青い海の向こうにその色が見えるのだと話していました。

畠山さん自身は、防波堤の先まで行くとずいぶん遠くへ来たような気がして、鈍い色の海を見ながら寂しさを覚えていたそうです。

生活の中心は吹田にありながら、父や祖父母につながる石巻も、幼いころから繰り返し訪れる場所でした。

南千里中学校から千里高校へ|文学よりサッカーと漫画だった学生時代

小学校を卒業した後は吹田市立南千里中学校へ進みました。

南千里中学校も2026年の芥川賞受賞後、畠山さんを卒業生として紹介し、母校への講演依頼を行っています。

南千里中学校でもサッカーを続け、中学生のころにはプロへの距離を感じた

中学校でも中心にあったのはサッカーでした。

ただ、中学生になるころには、自分が将来プロになる選手やトップレベルへ進む選手ではないことも感じ始めていたといいます。

それでも、プロになれるかどうかを理由に競技をやめることはありませんでした。

後に本がなかなか出ない時期を振り返った際、畠山さんは、結果が見込めなくてもサッカーを続けた経験について触れています。

競技そのものをやりたいから続けるという感覚は、この時期からすでに身近にありました。

自転車で通える千里高校を選ぶと、サッカー部はインターハイ出場直後だった

高校は大阪府立千里高等学校へ進学しました。

本人が母校の同窓会向けに書いた文章によると、進学理由は非常に現実的で、家から最も近く、自転車で通えたからでした。

そこで中学までと同じようにサッカー部へ入ります。

ところが千里高校サッカー部は、畠山さんが入学する前年にインターハイへ出場していました。

さらに同学年にも力のある選手が集まり、1年生の早い段階で、自分は3年間試合に出られないだろうと考えるようになります。

好きで続けてきたサッカーなのに、入学直後から試合出場が遠く見える環境に入ったことになります。

試合に出られないと考え、高2の昼休みに図書館で『バガボンド』を読んだ

試合出場を早くから諦めかけたことで、練習への意欲も次第に下がっていきました。

高校2年の秋ごろ、サッカー部の同級生たちが昼休みに自主練習をしている一方で、畠山さんは図書館へ行き、井上雄彦さんの漫画『バガボンド』を読んでいました。

そこで上泉伊勢守が登場する場面を読み、自分はサッカーをすることより、周囲との競争ばかり考えていたのではないかと思うようになります。

その後は再び真剣に練習するようになり、昼休みの自主練習にも参加し、高校3年の11月に引退するまで部活動を続けました。

それでも最後まで試合に出ることはありませんでした。

留年寸前の成績でも父は可能性を信じ、大学受験では浪人することになった

部活動を続ける一方、学校の成績はかなり厳しい状態でした。

本人によれば、小学校から高校まで一貫して成績はよくなく、高校では本来なら留年となる水準だったものの、先生の判断によって進級できたといいます。

「私は小、中、高とずっと学校の成績の悪い子どもでした。」

畠山丑雄公式note「式のことなど」

大学受験が近づくと、三者面談では担任から志望校のランクを下げ、現実を見るように言われていました。

そこで反論していたのが父でした。

成績は悪くても息子にはまだ表に出ていない能力があるというのが父の考えで、志望校を下げる方向には同意しなかったそうです。

現役での大学受験には失敗しましたが、父はそこで考えを変えることもなく、1年あるのなら志望校を上げてもいいのではないかとまで話しました。

こうして高校卒業後は1年間の浪人生活に入ります。

人生年表 畠山丑雄さんの歩み
幼少期
畠山丑雄の生い立ちと家族|吹田で育ったサッカー少年

畠山丑雄さんは1992年、大阪府吹田市に生まれました。

中学校
宿題を出さなかった小中学校時代と2学年上の姉

父には学校の宿題についても独特の考えがあり、「したいならしてもいいが、する必要はない」という立場でした。

中学校
南千里中学校から千里高校へ|文学よりサッカーと漫画だった学生時代

小学校を卒業した後は吹田市立南千里中学校へ進みました。

中学校
南千里中学校でもサッカーを続け、中学生のころにはプロへの距離を感じた

中学校でも中心にあったのはサッカーでした。

高校
自転車で通える千里高校を選ぶと、サッカー部はインターハイ出場直後だった

高校は大阪府立千里高等学校へ進学しました。

学生時代
留年寸前の成績でも父は可能性を信じ、大学受験では浪人することになった

部活動を続ける一方、学校の成績はかなり厳しい状態でした。

学生時代
浪人を経て京都大学へ|文学部で初めて本を読み始めた

浪人時代にも、後から家族の間で語られる出来事がありました。

学生時代
京都大学合格の日、帰宅するとテレビに石巻の津波が映っていた

合格発表の日の帰り道、畠山さんはサンボマスターのアルバムを聴きながら北大阪急行に乗っていました。

浪人を経て京都大学へ|文学部で初めて本を読み始めた

浪人時代にも、後から家族の間で語られる出来事がありました。

そして1年後、第一志望だった京都大学文学部への合格をつかみます。

浪人中の「寿司事件」で母が京都から大阪へ駆けつけた

浪人中、畠山さんは一人カラオケにはまっていました。

ある日、歌うことに熱が入りすぎて過呼吸を起こし、店を出た後も呼吸が戻らないまま、近くのマクドナルドでコーラだけを頼んで突っ伏していたことがあります。

手足がしびれ、初めての過呼吸に慌てた畠山さんは母へ連絡しました。

そのとき両親は京都で寿司と酒を楽しんでいましたが、母はすぐに大阪まで駆けつけました。

一方、父は京都に残って寿司を食べ続けていたことまで、後年に結婚式で読んだ両親への手紙へ盛り込まれています。

浪人生活の終わりには第一志望へ合格し、発表当日は同じ浪人仲間たちと夜通しカラオケをした後、友人宅でゲームをし、昼過ぎまで一緒に過ごしました。

京都大学合格の日、帰宅するとテレビに石巻の津波が映っていた

合格発表の日の帰り道、畠山さんはサンボマスターのアルバムを聴きながら北大阪急行に乗っていました。

自宅へ戻ると、父がリビングでテレビを見ており、画面には津波にのみ込まれる石巻が映っていました。

父方の祖母とは約1週間連絡が取れず、家族は海外のニュースやインターネットまで追いながら安否を探しましたが、祖母は生存していました。

畠山さんが本格的に読書を始めるのは時系列ではこの直後ですが、本人は震災を自分の文学の「きっかけ」として結びつけることを明確に避けています。

大学進学によって生活環境が変わったことと、震災は同時期に起きた別々の出来事として本人の中に置かれています。

文化人類学を学ぶつもりで京大文学部へ入り、進路の思い違いに気づく

京都大学文学部を選んだ当初、畠山さんが強く興味を持っていたのは文化人類学でした。

ところが入学後、自分が思い描いていた学びの中心は総合人間学部の方にあると知ります。

そこで「文学部なのだから文学を読んでみよう」と方向を変えました。

「だったら自分で小説を書いてみよう、と思ったのです。」

ザッツ・京大

ただし、いきなり書くことから始まったのではありません。

まずは、それまでほとんど触れていなかった本を大量に読む生活が始まりました。

父に薦められた3冊をきっかけに、朝から夕方まで本を読む生活へ

文学を読み始めようとした畠山さんが頼ったのが、読書家だった父でした。

父から最初に薦められたのは、クロード・レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』、ローレンス・ヴァン・デル・ポスト『影の獄にて』、そして『エリック・ホッファー自伝』の3冊です。

この3冊が非常に面白く、それまで読んでこなかった時間を取り戻すかのように本を読み始めました。

実家から京都大学までは片道約2時間あり、電車では本を読み、駅を降りると江守徹さんらによる近代文学の朗読をウォークマンで聞きながら大学へ向かったといいます。

朝9時ごろに大学図書館へ入り、夕方17時40分ごろにサッカー部が始まるまで読み続け、帰りの電車でもまた本を開きました。

高校まで小説をほとんど読まなかった人が、大学では一日の大部分を読書へ使うようになったのです。

若島正の授業と出会い、読む側から小説を書く側へ進んだ

文学部ではいくつもの研究室や授業をのぞきましたが、研究そのものにはなかなか自分の進みたい方向を見つけられませんでした。

その中で印象に残ったのが、アメリカ文学者の若島正さんによる授業でした。

若島さんの圧倒的な読書量や知識、熱のこもった講義に触れ、畠山さんはアメリカ文学を専攻します。

同じころ、スタンダール『パルムの僧院』を読んでも最初は面白さが分からず、登場人物が何をしたのかを場面ごとに書き出してみました。

すると短い中にも大量の出来事が詰め込まれていることが見え、作品によって異なる「面白がり方」があることに気づきます。

小説をもっと面白く読むため、自分でも書いてみるようになりました。

「読めば読むほど書くのが面白くなって、書けば書くほど読むのが面白くなっていく」

好書好日

京都大学で小説を書き始める|サッカー部と新人賞応募の日々

大学で小説を書き始めると、読むだけだった生活に新人賞への応募が加わりました。

授業への出席は減っていきますが、大学には通い、本を読み、文章を書き、夕方になるとサッカーへ向かう日々が続きます。

3回生で初めて長編を応募し、すばる文学賞3次選考へ

最初に新人賞へ作品を送ったのは大学3回生のときでした。

父から薦められて読んだ『影の獄にて』を元にした長編を書き、すばる文学賞へ応募しています。

初応募ながら3次選考まで残りました。

そこからは年間4~5本ほど小説を書き、主要な文芸誌の新人賞へ継続して送るようになります。

作品が完成するたびに次へ進み、学生生活そのものが少しずつ執筆中心へ変わっていきました。

4回生では家族を題材にした長編を書き、合宿中も原稿を推敲した

4回生になると、マルセル・プルースト『失われた時を求めて』に夢中になっていました。

その文体を意識しながら家族を主題にした長編を書き、文藝賞へ応募すると4次選考まで進みます。

このころもサッカー部は続けており、夏合宿には応募原稿を持ち込み、合宿中にも推敲していました。

大学のサッカー部は強豪ではなく、プロを目指す部員が集まる環境でもありませんでしたが、毎日の練習には真剣に取り組んでいたと京都大学のインタビューで語っています。

サッカーの合宿と新人賞の締め切りが、同じ学生生活の中に並んでいた時期でした。

5回生で「地の底の記憶」が文藝賞、丑雄という筆名を選んだ

翌2015年、大学5回生で書いた「地の底の記憶」が第52回文藝賞を受賞します。

400字詰め原稿用紙換算で320枚に及ぶ作品で、京都大学文学部在学中、23歳でのデビューでした。

ここで初めて「畠山丑雄」という筆名をつけました。

「丑雄」は、夏目漱石が若い芥川龍之介へ送った手紙にある、功名を急いで馬のようになるより、牛のようにゆっくり進むという趣旨の言葉に由来しています。

当時、自分の作風は文芸界の流行から外れており、すぐに評価されるものではないだろうと考えていたため、自分のペースで進む意味も込めたそうです。

なお、「畠山丑雄」はペンネームであることを本人や母校が明らかにしていますが、戸籍上の名前は公表されていません。

母校へ教育実習に戻ると、カフカ『変身』のザムザを熱く語った

京都大学在学中には、国語科の教育実習生として千里高校にも戻っています。

高校時代には図書館で漫画を読んでいた畠山さんが、数年後には教える側として文学を携えて母校へ戻ったことになります。

千里高校は芥川賞受賞後の公式発信で、教育実習中の畠山さんがフランツ・カフカ『変身』の主人公グレゴール・ザムザについて熱く語っていたことを、今も覚えていると紹介しています。

大学に入るまで小説をほぼ読んでいなかった学生の変化を、母校側の記憶からも確認できるエピソードです。

7回生まで本を読み書きし、放校寸前で京都大学を卒業した

文藝賞を受賞しても、大学生活はすぐには終わりませんでした。

授業より読書と執筆へ時間を使った結果、畠山さんは7回生まで京都大学に在籍します。

本人は8回生まで在学できると思っていたところ、大学事務の職員から、7回生までで、このままでは放校になると教えられました。

在籍できるぎりぎりのところで必要な単位をそろえ、京都大学を卒業しています。

サッカー部では卒業式に4年生を時計台前で胴上げする習慣があり、本人によれば「4年生」を4回経験したため、計4回胴上げされた珍しい部員にもなったそうです。

国語教師から地方公務員へ|仕事をしながら小説を書く道を選んだ

京都大学を卒業すると、学生のまま書き続ける生活から、仕事と執筆を並行する生活へ移ります。

最初に選んだ職業は、父と同じ国語教師でした。

卒業後は国語教師になるも、執筆時間が取れず1年で退職した

教員免許を持っていた畠山さんは、卒業後に国語教師として働き始めました。

教師の仕事そのものにはやりがいを感じていた一方、小説を書く時間がほとんど取れなくなります。

大学では授業を減らしてでも読み書きの時間を確保していた生活から、仕事の予定を自分だけで動かせない毎日へ変わりました。

教師は1年で退職し、その後は公務員へ転職しました。

市職員へ転職し、ケースワーカーとしてさまざまな人と接した

転職後は地方公務員として働き、現在も市職員と作家を兼業しています。

一時期はケースワーカーを担当し、生活に困っているさまざまな人と直接接する仕事も経験しました。

『叫び』には生活保護を受給する人物も登場しますが、畠山さん自身もケースワーカー時代に幅広い背景を持つ人と接した経験が、小説を書く際に役立ったと話しています。

2026年時点で茨木市在住であることと、地方公務員として勤務していることは公表されていますが、勤務先の自治体名や所属部署は公的なプロフィールでは明示されていません。

そのため、茨木市に住んでいることだけを根拠に、勤務先を茨木市役所と断定することはできません。

デビュー後も単行本が出ない時期に作品を書き続けた

2015年に文藝賞を受賞して作家デビューした後も、順調に本が出続けたわけではありません。

小説を書いて編集者へ送り、返事が来ないこともあり、作品が雑誌へ載るのは数年に一度という時期が続きました。

2024年に『改元』が刊行されるまで、自分の単行本が約9年間出ない期間がありました。

それでも専業になるため仕事を辞めるという選択はせず、市職員として働きながら書き続けました。

「小説以外の縛りがあったほうが、書けるんだ」

好書好日

大学でサッカー部を引退し、小説へ100%時間を使えると思ったとき、かえって思うように書けなかった経験もあったそうです。

定収入のある生活を残したまま、書く時間を積み重ねるという形が、その後の執筆生活になりました。

2023年に茨木へ移り、『改元』で再び動き出した作家人生

単行本が長く出ない時期を経て、作家としての状況が大きく変わり始めたのが2023年です。

この年は作品「改元」の発表だけでなく、生活する土地にも変化がありました。

「改元」に手応えを感じ、初めて小説家としてXを始めた

「改元」は『群像』2023年3月号に掲載されました。

本人には「いいものが書けた」という手応えがありましたが、発表後に文学賞候補へ入ることも、単行本化の話が来ることもありませんでした。

そこで、それまで積極的に使っていなかったXのアカウントを作り、小説家・畠山丑雄として発信を始めます。

すると、ある女性から「夫が高校サッカー部の同期ではないか」という内容のDMが届きました。

実際にその夫婦と食事へ行くと、そこから「ひとり出版社」である石原書房の石原将希さんを紹介されます。

高校時代のサッカー部の縁が、卒業から長い時間を経て次の単行本へつながりました。

同じ2023年、妻と暮らす場所として茨木市を選んだ

同じ2023年には、妻と大阪府茨木市で暮らし始めました。

妻とは京都大学の学部も学年も同じでしたが、学生時代には互いの存在を知りませんでした。

畠山さんはサッカー部と読書・執筆に時間を使い、授業にもほとんど出ていなかったためです。

茨木を選んだのも、どちらかに昔から土地との縁があったためではなく、二人の職場からの距離を考えた結果でした。

結婚に伴って新しい戸籍も茨木へ置き、それまで父の実家があった石巻に置かれていた戸籍から移しています。

このときはまだ、偶然選んだ茨木の郷土史が次の大きな作品の材料になるとは決まっていませんでした。

2024年『改元』刊行、2025年に三島由紀夫賞候補となった

石原書房との出会いを経て、2024年に『改元』が単行本として刊行されました。

2015年のデビュー作以来、約9年ぶりとなる単著でした。

翌2025年には『改元』が第38回三島由紀夫賞候補に選ばれます。

作品自体は2023年に発表されていたため、畠山さんは最初、候補入りの知らせを間違いではないかと思ったそうですが、単行本の刊行年が対象となっていました。

「ほんまに。ツイッターやってよかったです」

好書好日

雑誌掲載だけでは単行本にならなかった作品が、人とのつながりを経て本になり、翌年には文学賞候補へ進んだことになります。

茨木での暮らしから『叫び』へ|公務員作家が芥川賞を受賞するまで

茨木で暮らし続けるうち、今度はその土地自体が小説へ入り始めます。

次に生まれたのが、2025年に文芸誌『新潮』へ発表する「叫び」でした。

散歩から銅鐸・阿片・茨木の郷土史を調べ始めた

畠山さんにはもともと散歩をする習慣がありました。

縁のなかった茨木へ住むようになってから、近所に郷土史へ触れられる場所がないか歩いていると、銅鐸や阿片にまつわる歴史など、興味を引く出来事が次々と見つかります。

そこから資料を調べ、過去と現在をつなぐ方法を考える中で、『叫び』の形が少しずつできていきました。

作品には茨木市のおにクル、安威川、銅鐸など、実際の土地に結びつく言葉も登場します。

職場との距離だけで選んだ街を歩いたことが、次作の具体的な舞台へ変わっていったのです。

第一子が生まれた直後も『叫び』を何度も書き直した

『叫び』の執筆が終盤へ入ったころ、家庭でも大きな出来事がありました。

編集部へ第4稿を送って返事を待っていた時期に、第一子が誕生します。

里帰り出産に付き添って妻の実家へ滞在していると、義母と義弟が大阪・関西万博へ行き、天皇陛下が訪れていたという話をしました。

その会話から、作中へ天皇陛下の万博視察に関する場面を加えることを思いつきます。

赤ちゃんが生まれた4日後には第5稿を送り、11日後にはその場面を追加しました。

締め切り6日前には妻からまだ面白くないと言われて口論になりましたが、その4日後に別の場面を加えると評価が変わり、第8稿を送っています。

さらに深夜3時に編集部から返事が届けば翌朝9時に第9稿を送り、締め切り当日の深夜2時まで改稿を続けました。

その間、赤ちゃんは約3時間おきに泣いており、その夜泣きから「叫び」というタイトルが自然に出てきたと本人は明かしています。

2026年『叫び』で第174回芥川龍之介賞を受賞した

「叫び」は『新潮』2025年12月号へ掲載され、2026年1月に単行本化されました。

そして2026年1月14日、鳥山まことさんの「時の家」とともに第174回芥川龍之介賞を受賞します。

2015年の文藝賞から約11年、本が出ない時期にも書き続けた末の芥川賞でした。

本人は受賞できた理由を、10年間書き続けてきたことにあると振り返っています。

中学生のころ、プロにはなれないと分かっても続けたサッカーと同じように、作品がすぐ本になるかどうかとは別に、書くこと自体をやめませんでした。

高校サッカーでも、デビュー後の執筆でも、「結果が出るまで」ではなく、その先まで続けた時間がありました。

受賞後も公務員として働き、次の小説を書いている

芥川賞受賞後も、公務員の仕事を辞めて専業作家へ転じたわけではありません。

2026年4月に茨木市が公表したプロフィールでも、地方公務員として勤務しながら執筆を続けていると紹介されています。

同年には、茨木を舞台にした『叫び』での受賞を受け、茨木市の市民栄誉賞も贈られました。

京都大学を再訪したインタビューでは、現在執筆している作品を仕上げた後、これまで本格的には取り組めなかった長編小説にも挑戦したいと話しています。

「私にとっては、書くことをやめるより続けるほうが楽なんです。」

ザッツ・京大

吹田でサッカーと漫画に囲まれていた少年時代から始まり、京都大学で突然のように本を読み、小説を書き始めた畠山丑雄さん。

文藝賞でデビューした後には国語教師、公務員という仕事を続けながら、本が出ない年月にも原稿を書き、その途中で『改元』と石原書房との出会いがありました。

そして偶然暮らし始めた茨木の土地から『叫び』が生まれ、芥川賞を受賞した現在も、仕事のある日常の中で次の作品を書き続けています。

参考・出典 この記事で参照した主な資料

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