池田直人の生い立ちと家族|5歳から子役、高校漫才と日本映画大学を経てレインボーへ

池田直人
ひと目でわかるプロフィール 池田直人
出身地
大阪府
生まれ年代
1990年代生まれ
活動ジャンル
お笑い芸人
性別
男性
育った家庭
ひとりっ子として育ち、幼少期からお笑い好きの母の影響を強く受けた。
きょうだい構成
1人きょうだい・本人は1番目
キャリアの原点
小学2年生のころ、母が持ってきた『ダウンタウンのごっつええ感じ』を入院中に見たことなどから、自分で学校にお笑い部を作るほど芸人志向が強まった。

お笑いコンビ「レインボー」の池田直人さんは、男女の恋愛模様を描くコントで女性役を演じる一方、コスメやスキンケアにも詳しい芸人として活動しています。

メイクを施した女性役と、舞台で次々に人物を演じ分ける姿は、現在の池田さんを知るうえで欠かせないものになりました。

池田直人さんを理解する3つのポイント
  1. 母に梅田花月やなんばグランド花月へ連れて行ってもらい、幼いころからお笑いが身近にあった。5歳から子役として芸能活動も経験した。
  2. 小学2年生のころ、母が持ってきた『ダウンタウンのごっつええ感じ』を入院中に見たことなどから、自分で学校にお笑い部を作るほど芸人志向が強まった。
  3. 現在の道につながる原点:学生時代から活動

ところが昔へたどっていくと、美容よりずっと先に、子役とお笑いに夢中になった子ども時代が見えてきます。

テレビの現場を経験したあと、自分で学校に「お笑い部」を作り、高校では漫才大会へ出場し、上京後は日本映画大学とNSCへ同時に通いました。

そこから前のコンビ「ひので」の解散、レインボーの結成、芸人を辞めようかと考えた時期を通り、現在のコントと美容の仕事へ進んでいます。

池田直人の生い立ちと家族|大阪・吹田で5歳から子役に

池田直人さんは1993年9月19日、大阪府吹田市出身で、ひとりっ子として育ちました。

お笑い好きの母に連れられ梅田花月やNGKへ通った

池田さんにとって、お笑いはテレビの中だけにあるものではなく、幼いころから母親と一緒に足を運ぶ身近な娯楽でした。

母親がお笑い好きで、梅田花月やなんばグランド花月へよく連れて行ってもらっていたと本人が明かしています。

「小さな頃からずっと自分はお笑い芸人になるものだと思ってました。」

ESSEonline

小学2年生のころには、吉本新喜劇で藤井隆さんを見て「この人みたいになりたい」と思い、芸人を具体的な将来の仕事として考えるようになっていました。

本人は後年、自分を「ひとりっ子&お母さん子」とも表現しており、子ども時代の趣味やお笑いとの接点には母親の存在がたびたび登場します。

5歳から高校2年まで子役|主戦場はドラマよりバラエティ

劇場へ通っていた一方で、池田さん自身も5歳から子役として芸能の現場に入っていました。

「5歳から高2までやっていました。おもにバラエティです。」

日本映画大学 FULLSIZE

本人によると、ドラマのオーディションにはなかなか受からず、子ども番組の料理コーナーやムシキングのCMなど、バラエティ寄りの仕事を経験していました。

当時は現在よりふっくらした体形で、「おにぎり食べたいなぁ」というような一言でも笑いが起こる子どもだったと振り返っています。

俳優としてドラマへ次々出演したという経歴ではなく、テレビで笑いが起こる感覚を子どものうちから経験していたというのが池田さんの子役時代でした。

小学2年の入院中に『ごっつええ感じ』を見て「お笑い部」を思いつく

小学2年生のときには、扁桃腺とアデノイドの手術を受けるため入院しました。

入院中、お笑い好きの母親が持ってきたのが『ダウンタウンのごっつええ感じ』の映像でした。

それを見た池田さんは、退院したら学校でお笑いをやろうと考え、実際に学校で「お笑い部」を作りました。

そこではピン芸、一発ギャグ、エピソードトークなどを披露し、見る側ではなく、自分で笑わせる側へ少しずつ進んでいきます。

小6で「石博士」になるも無口すぎてひな壇から消えた

子役の仕事では、小学6年生の夏休みの宿題から思わぬキャラクターが生まれたこともありました。

石を集めて亀を作ったことを事務所へ話すと、スタッフから「石博士」というキャラクターで売り出す案が出たのです。

ところが池田さんは「博士なら寡黙だろう」と考え、『ポケモン』のタケシのようなしゃべらない人物像を自分で設定しました。

その結果、テレビのひな壇にいるのにほとんどしゃべらず、ほどなくそのポジションからいなくなったと本人は笑いながら振り返っています。

家族情報

公開情報で確認できている家族について、続柄・職業・補足・出典を整理しています。

母 池田由美子

お笑い好きで、幼少期から劇場へ連れて行くなど本人の芸人志向に大きな影響を与えた。

信頼できる媒体 出典を見る
父 池田恵治

高校2年ごろに47歳で死去したことを本人記事で確認。

信頼できる媒体 出典を見る

小学校から中学校へ|「おもしろい子」が通用しなくなった

小学校では、自分から人前へ出て笑わせる時間が日常になっていましたが、中学校へ進むと周囲の顔ぶれが変わります。

休み時間はクラスを回ってギャグ、落語も一本暗記した

小学校時代の池田さんは、休み時間になると別のクラスを回ってギャグを披露していました。

落語を一本丸ごと暗記して人前で披露したこともあり、応援団長を務めた経験もあります。

教室の中だけで仲のいい友達を笑わせるというより、自分から人がいる場所へ出ていく学校生活を送っていました。

中学では「どこがおもしろいの?」と言われた

中学校では二つの小学校区の生徒が一緒になり、池田さんを以前から知る友達が「こいつ、おもろいねん」と紹介してくれても、初めて会う生徒からは「どこが?」という反応が返ってきました。

授業中の振る舞いについて「自分、うるさいのわかってる?」と注意されたこともあったそうです。

「中1、中2は生き方、ムズかったです。」

日本映画大学 FULLSIZE

小学校で自然に受け入れられていた笑いが、新しい人間関係ではそのまま通じない時期がやってきました。

中学3年で早くもNSCを受けるが入学できなかった

それでも芸人になりたいという進路は変わらず、中学3年生になると吉本総合芸能学院「NSC」を受験しました。

周囲には年上の受験者が並ぶ中、中学生だった池田さんもその輪へ入りました。

本人によれば、このときは「中学生と組むヤツはいない」という理由で入学には至りませんでした。

それでも、中学生のうちに一度NSCの門をたたいていたほど、芸人になる時期を早くしたいと考えていました。

人生年表 池田直人さんの歩み
幼少期
池田直人の生い立ちと家族|大阪・吹田で5歳から子役に

池田直人さんは1993年9月19日、大阪府吹田市出身で、ひとりっ子として育ちました。

小学校
小学校から中学校へ|「おもしろい子」が通用しなくなった

小学校では、自分から人前へ出て笑わせる時間が日常になっていましたが、中学校へ進むと周囲の顔ぶれが変わります。

高校
5歳から高校2年まで子役|主戦場はドラマよりバラエティ

劇場へ通っていた一方で、池田さん自身も5歳から子役として芸能の現場に入っていました。

高校
高校時代|STAND BOXでハイスクールマンザイ近畿代表へ

高校へ進むと、子役としてテレビの現場に立つ一方で、自分でネタを作って舞台へ出る道が具体的になっていきました。

高校
高校1年で友人に誘われ漫才大会へ出場

高校1年生のとき、友人から誘われたことをきっかけにハイスクールマンザイへ出場します。

原点
現在の道へ進んだきっかけ

小学2年生のころ、母が持ってきた『ダウンタウンのごっつええ感じ』を入院中に見たことなどから、自分で学校にお笑い部を作るほど芸人志向が強まった。

ESSEonline|レインボー池田直人インタビュー

高校時代|STAND BOXでハイスクールマンザイ近畿代表へ

高校へ進むと、子役としてテレビの現場に立つ一方で、自分でネタを作って舞台へ出る道が具体的になっていきました。

高校1年で友人に誘われ漫才大会へ出場

高校1年生のとき、友人から誘われたことをきっかけにハイスクールマンザイへ出場します。

コンビ名は「STAND BOX」で、子役として与えられた役を演じる仕事とは違い、自分たちで笑いを作って競う舞台でした。

学校でも、クラスメートが元素の周期表をなかなか覚えられないのを見て、自分で歌と踊りを作って教えたことがありました。

クラスメートは笑いながら元素を覚え、テストで点が取れるようになり、先生からも感謝されたと池田さんは話しています。

高2で近畿地区を勝ち抜き全国決勝へ

2010年8月、STAND BOXはハイスクールマンザイ近畿地区で優勝し、全国大会へ進みました。

吉本興業の公式プロフィールにも、近畿地区優勝と全国6位という結果が記録されています。

池田さんは後年、この大会について、子役を経験していたぶん人前に立つ度胸はあったと振り返っています。

子役のオーディションでは思うようにいかないことがあった一方、自分たちの漫才では近畿を勝ち上がりました。

https://twitter.com/ikenao0919/status/1076538047645118464

芸人が撮った映画に夢中になり東京では浅草寺を訪ねた

高校時代には、お笑いだけでなく芸人が手がけた映画にも強く惹かれていました。

北野武さんの作品をはじめ、松本人志さん、内村光良さん、劇団ひとりさん、品川ヒロシさんらが手がけた映画を見ていました。

ハイスクールマンザイの決勝で東京へ行ったときには、北野武さんに縁のある場所を巡り、浅草寺にも足を運びました。

のちに映画を学ぶ大学を進路に選ぶ池田さんにとって、高校時代にはすでに「芸人」と「映画」が同じ視界に入っていました。

高校2年のころ父が47歳で亡くなった

漫才で近畿地区を勝ち抜いた高校2年のころ、家庭では大きな出来事も起きました。

福岡へ単身赴任していた父・恵治さんが、47歳で脳梗塞のため亡くなりました。

母・由美子さんは当時、父親の荷物を処分しており、池田さんの手元には父の形見と呼べるものがほとんど残りませんでした。

このときにはまだ、父親が仕事で作っていたものを、10年以上あとになって自分で探すことになるとは分かっていませんでした。

40万円を持って上京|日本映画大学とNSCを同時に始める

高校を出るころには芸人になる方針を固めていましたが、上京するには生活を始めるためのお金も必要でした。

すし店のアルバイトで貯めた40万円を手に東京へ

池田さんは卒業前後にすし店でアルバイトをし、上京資金を貯めました。

手元に用意したのは40万円で、そのお金を持って東京へ向かいました。

中学3年生で一度入れなかったNSCへもう一度進むと同時に、もう一つの進路として大学生活も始まります。

祖母の一言から日本映画大学へ進学した

芸人を目指していた池田さんが大学へ進んだ背景には、祖母との会話がありました。

「うちの家系には大学を卒業した人がいない」

日本映画大学 FULLSIZE

池田さんは東京へ行きたいと考えており、さらに高校時代から映画にも興味を持っていたため、芸人にも役立つ学びができる場所として日本映画大学を選びました。

祖母に進学を説明し、学費も出してもらったと本人は話しています。

大学と東京NSC18期のダブルスクール

上京後は、日本映画大学に通いながら東京NSC18期として芸人の養成所にも通いました。

NSCは1年間で、その後は大学2年、3年、4年の時期と、芸人としての1年目、2年目、3年目が重なっていきます。

大学生でありながら、すでに芸人としてライブの舞台にも立つ生活になっていました。

大学時代には母親も上京して一緒に暮らしており、池田さんは家賃として月3万円ほどを入れていたと後年明かしています。

脚本コースで「プロットを作れば書ける」と知った

映画大学では、自分以外の学生がそれぞれ映画の得意分野を持っているのを見て、池田さんはモンティ・パイソンのDVDをまとめて購入し、コメディ映画を自分の領域にしようとしました。

実習でコメディ要素のある演出が必要になると、周囲から相談を受けることも増えていきます。

大学2年からは脚本コースへ進みましたが、最初は書き始めても続きを思いつかず、文章を最後まで形にできませんでした。

そこで先にプロットを作り、それに沿って書く方法を教わると、パソコンを使って脚本を書けるようになりました。

このとき覚えた脚本の組み立て方は、のちに舞台の脚本やレインボーのコントを書くときにも使われることになります。

大学・ライブ・深夜バイトを行き来した生活

芸人として舞台へ出始めると、大学だけでもNSCだけでもない一日が続くようになりました。

アルバイトは居酒屋、漫画喫茶、カラオケなど、ライブが終わったあとでも働ける深夜帯の仕事を選んでいました。

当時住んでいたのは新百合ヶ丘で、大学へ行き、午後5時半ごろからライブに出演し、午後9時ごろに終わるとそのままアルバイトへ向かっていました。

「朝5時に始発で帰ってきてちょっと寝て、また大学に……。」

日本映画大学 FULLSIZE

大学、芸人のライブ、深夜アルバイトが一日の中でつながる生活を続け、卒業には4年半かかりました。

おばたのお兄さんと「ひので」|1年目で劇場上位へ

NSCを卒業すると、学生生活を続けながら芸人としての活動が本格化し、現在のおばたのお兄さんとコンビを組みました。

NSC卒業後にひのでとして活動を始める

コンビ名は「ひので」で、NSC卒業後の若手時代から早いペースで劇場内の順位を上げていきました。

池田さんによれば、卒業から1年ほどでヨシモト∞ホールのランキング最上位へ進み、同期の中でも早い時期に単独ライブを開催しています。

20歳のころには出待ちのファンが列を作るほどで、芸歴の浅いうちから目に見える人気が出ていました。

早くから人気が出る一方でコンビ仲が悪化した

劇場で順位を上げても、賞レースでは思うような結果が出ず、池田さんには別の感覚が残るようになりました。

前方にいる自分たちのファンは笑ってくれても、舞台袖で見ている芸人には届いていないように感じたと話しています。

2年目、3年目と進むにつれて、このまま現在の人気だけで終わるのではないかという焦りが出始め、コンビ仲も悪くなりました。

おばたのお兄さんも後年、ひのでは結成1年目から劇場の上位へ進んだ一方、二人の関係は悪化していたと振り返っています。

2016年1月に解散し卒業制作にも向き合った

2016年1月、ひのでは解散します。

1月31日のライブを最後に活動を終え、池田さんは公式Xで応援してくれた人や元相方への感謝を伝えました。

大学では卒業制作の長編実習の単位が残っていたため、解散後は制作へ比重を置き、本人は後年、半年ほど卒業制作に集中したと説明しています。

一方で、翌2月には新しいコンビ「レインボー」の結成を公表しており、新コンビの立ち上げと大学を卒業するための制作が重なる時期でもありました。

レインボー結成後も売れなかった|『おはスタ』から『おもしろ荘』へ

ひのでを終えた池田さんが次の相方として声をかけたのは、NSC東京18期の同期だった現在のジャンボたかおさんでした。

ジャンボたかおを誘い2016年2月にレインボーを結成

吉本興業の公式プロフィールでは、レインボーは2016年2月結成と記録されています。

池田さん自身も2016年2月23日、当時「実方孝生」の名前で活動していたジャンボさんとレインボーを組んだことをXで発表しました。

ただ、結成したからといってすぐ客席の反応が変わったわけではなく、池田さんは「次がダメなら芸人をやめよう」と考えていました。

舞台袖にいる芸人を笑わせたいという感覚は以前より手応えがあっても、客席の反応はなかなかついてきませんでした。

元相方のブレイクで「自分が全部間違っていた」と感じた

大学を卒業して学生という立場が終わったあと、池田さんにとってさらに大きかったのが元相方・おばたのお兄さんのブレイクでした。

「元相方が売れるって、全部自分が間違っていたように感じるんです。」

日本映画大学 FULLSIZE

ひのででは池田さんがネタを担当していたため、自分が相方に合うネタを書けていなかったのではないかと考えるようになりました。

劇場でおばたのお兄さんが注目される光景を見ること自体がつらくなり、吉本を離れることまで考えた時期がありました。

芸人を辞めようと考える中『おはスタ』が続いていた

そのころ池田さんに残っていたテレビの仕事の一つが、テレビ東京系『おはスタ』の木曜レギュラーでした。

アルバイトをしながら芸人を続ける中でも、木曜日にはテレビへ出演できるという時間がありました。

番組で子ども向けのおもちゃを紹介していた際、仕事を説明するメーカーの担当者を見て「こんな仕事をしたい」と思ったことさえあったと話しています。

それでも、ジャンボさんは自分から誘った相方であり、自分だけが途中で辞めるわけにはいかないという思いもありました。

2018年『おもしろ荘』優勝でようやくアルバイトを辞める

次に狙ったのが、日本テレビ系『ぐるぐるナインティナイン』内の「おもしろ荘」でした。

2018年、レインボーは同企画で優勝します。

この結果をきっかけに仕事が増え、池田さんはそれまで続けていたアルバイトを辞めることができました。

子どものころから目指していた芸人という仕事だけで生活するところまで、上京してからも数年を要しました。

女性役のコントから美容へ|20代前半まで化粧水も使わなかった

現在の池田さんには美容のイメージがありますが、それは子どものころから続いてきた趣味ではありませんでした。

「20代前半は化粧水すら使わないほど、美容に全く興味はありませんでした。」

DEPACO

当時は肌が荒れたときに母親のコスメを借りる程度で、自分から化粧品を追いかける生活ではなかったそうです。

劇場の女性役で自分でメイクする必要が出てきた

美容へ入るきっかけになったのは、レインボーのコントで女性役を演じるようになったことでした。

テレビ収録ならヘアメイク担当者にお願いできますが、劇場では自分で準備しなければなりません。

そのため自分でコスメを使い始め、女性のキャラクターを舞台へ出せる状態まで仕上げる方法を調べるようになりました。

「女性役を演じるための作業」が、美容を調べる入口になったのです。

役のリアリティーを求めて脱毛やスキンケアまで調べ始める

レインボーでは、池田さんが相方を惚れさせる女性や、見た目のきれいな女性を演じるコントが増えていきました。

続けているうちに、ひげやすね毛が見えると役としてのリアリティーが弱くなると感じ、メイクだけでなく脱毛や肌の状態にも意識が向くようになります。

ウィッグや女性用の衣装も役柄ごとに用意し、黒髪、茶髪、金髪など種類が増え、一時はウィッグだけで約50個残っていたと話したこともあります。

自分の服より女性役用の衣装が多くなるほど、コントを作る作業と見た目を作る作業が近づいていきました。

肌荒れを経験しながら美容発信とYouTubeへ広がった

女性役を始めて数年たったころ、強く日焼けした肌へいつものようにメイクをしても、ファンデーションが浮いてうまく仕上がらない経験がありました。

そこから日焼け対策やスキンケアにも目を向け、水分の取り方やビタミン、美容家電なども試すようになっていきます。

肌荒れに悩んだ時期もあり、その後は日本化粧品検定1級など美容に関する知識も深めました。

2019年には個人YouTube「レインボー池田直人の美しちゃんねる」を開設し、メイクやスキンケアを発信する仕事もコントの隣に並ぶようになりました。

父の仕事を追った2021年から現在へ|コントと美容が二つの仕事に

レインボーとしてテレビやYouTubeでの活動が広がったあと、池田さんは高校2年のときに亡くなった父について、長く分からないままだった仕事の記憶をたどります。

『探偵!ナイトスクープ』で父が作った車の部品を探す

2021年に車の免許を取得した池田さんは、初めて買う車を考えているとき、父親との昔の会話を思い出しました。

父親は車関係の仕事をしており、以前、池田さんに「自分が作った部品が必ず入っている車がある」という趣旨の話をしていました。

ところが父親の死後、その車種が何だったのか確かめることはできず、池田さんはABCテレビ『探偵!ナイトスクープ』へ調査を依頼します。

番組の調査で父親が関わった工場へたどり着き、そこで働く人から父親の仕事ぶりや、池田さんが父親に似ていることを聞きました。

母とレクサスに試乗し父の“形見”として購入した

調査の結果、父親が作った金型による部品はレクサスCT200hに使われていることが分かりました。

場所は運転席側のフロントピラーに関わる部品で、池田さんは母・由美子さんと中古車店へ向かいます。

二人で2011年式の車へ試乗したあと、池田さんは父親の仕事が残るレクサスを自身の最初の車として購入しました。

高校時代にはほとんど残らなかった父親の形見が、27歳になって一台の車として加わりました。

2023年にmakeumorを立ち上げる

父親の車を見つけたあともレインボーの活動を続ける一方、美容の仕事は発信だけではなく商品作りへ進みます。

2023年12月には、池田さんプロデュースのビューティーブランド「makeumor(メキュモア)」が始動しました。

ブランド名には「make humor」と「make u more」を重ね、メイクとユーモアを組み合わせた商品を展開しています。

舞台で女性役をきれいに見せるために自分で調べ始めたメイクが、自分のブランドを作る仕事まで広がりました。

大学で学んだ脚本を生かしコントを作り続ける

美容活動が大きくなっても、レインボーの軸にはコントがあります。

日本映画大学で学んだ、先にプロットを作ってから脚本へ進む方法は、その後のネタ作りにも使われました。

池田さんは吉本坂46の舞台脚本なども手がけ、レインボーではYouTubeの「レインボーコントチャンネル」で数多くの人物や人間関係を題材にしたコントを発表しています。

小学校の休み時間にクラスを回っていたころとは場所も規模も変わりましたが、「自分で作ったものを人前へ出す」という行動は続いています。

2025年キングオブコント3位を経て現在へ

レインボーは2025年、結成時から目標に掲げていた「キングオブコント」で初めて決勝へ進みました。

結果は3位で、吉本興業の公式プロフィールにも受賞歴として記録されています。

池田さん個人では美容やブランドの仕事を持ちながら、コンビではコントを作り、舞台や映像へ出す活動を続けています。

2026年8月には、元読売テレビアナウンサーの佐藤佳奈さんとの結婚も発表しました。

母に連れられてお笑い劇場へ通い、子役としてテレビの現場を経験した池田直人さんは、高校で自分の漫才を作り、東京へ出ました。

日本映画大学とNSC、ひのでの解散、レインボーの低迷を通り、コントから生まれた美容も現在ではもう一つの仕事になっています。

小学生のころから続けてきた「人を笑わせること」は、コントの舞台とYouTube、そして新しい活動へ形を変えながら現在まで続いています。

参考・出典 この記事で参照した主な資料
正本DB確認日:2026-09-15

池田直人と似た生い立ちの人物は?

出身地・年代・人生の原点などの共通点から探せます。

似た人物を探す →
最近見た人物・保存一覧を見る →

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA