『空芯手帳』で第36回太宰治賞を受賞し、海外でも作品が翻訳されている小説家の八木詠美さん。
2024年には『休館日の彼女たち』で第12回河合隼雄物語賞を受賞し、2026年には『アンチ・グッドモーニング』が第175回芥川龍之介賞の候補作になりました。
現在は小説家として知られていますが、学生のころから一直線に作家を目指していたわけではなく、大学卒業後は女性誌の編集者として働いています。
小説を書き始めた場所は、仕事を終えたあとに立ち寄っていた図書館でした。
子どものころには友達の作り方を自分なりに考え、高校では吹奏楽部の仲間たちと夜までコンビニに集まり、大人になってからは会社員として働きながら少しずつ小説を書く時間を作っていきます。
八木詠美の生い立ちと家族|自分の話を短くしていた子ども時代
八木詠美さんは1988年に長野県で生まれました。
大人になってから書いたエッセイには、父親や母親、母方の祖母との記憶に加え、小学生のころの友達関係や家の中でしていた少し変わった遊びまで残されています。
「友だちになって」と頼んでいた小学生時代
八木さんは、幼いころから友達が多い子どもではなかったと振り返っています。
小学2年生ごろまでは、友達になりたい相手に自分から「友だちになって」と伝えていました。
そうしなければ友達にはなれないと思っていたのは、ある絵本の影響でした。
物語の中で、けんかをした女の子たちが最後に「友だちになって」と約束する場面を読み、友達とはそのように関係を結ぶものだと受け取っていたそうです。
「友だちになって」
晶文社スクラップブック「喋る猫はいなくても」
小学校高学年から中学生になると、今度はクラスの中に自然にできる「グループ」が気になるようになります。
昼休みに誰とお弁当を食べるのか、遠足や修学旅行の班を誰と組むのか、文化祭で誰と一緒になるのか。
クラス替えの名簿が配られるたびに緊張していたという当時の感覚も、後年のエッセイに書かれています。
セーラームーンや『魔女の宅急便』で惹かれたのは「喋る猫」
子どものころに好きだった作品として八木さんが挙げているのが、『美少女戦士セーラームーン』と『魔女の宅急便』です。
ただ、強く惹かれていたのは変身や魔法そのものではありませんでした。
月野うさぎのそばにはルナがいて、キキのそばにはジジがいるように、主人公といつでも話せる猫がそばにいることが羨ましかったそうです。
「喋る猫がいたからだ」
晶文社スクラップブック「喋る猫はいなくても」
『魔女の宅急便』のジジのぬいぐるみも持っており、実家の自分の部屋の梁の上に飾っていました。
その後、八木さんが家を出ると、かつての自室は父親の寝室になりました。
久しぶりに実家へ帰ったときにもジジは梁の上に残っていて、父親はそのぬいぐるみに見守られるように眠っていたそうです。
わかめを育てながら「ハムスター」と答えていた
八木さんは小学校へ入る前後から、自分について尋ねられると、できるだけ短く、相手が返事に困らない答えを選ぶようになりました。
「ペットを飼っている?」と聞かれれば「ハムスター」、「好きな食べ物は?」と聞かれれば「クッキー」と答えていたそうです。
ところが当時、本当に家で育てていたものは瓶に入れたわかめでした。
味噌汁に入れた乾燥わかめが水を吸って大きくなるのを「成長」だと考え、古いジャム瓶に入れて飼っていたといいます。
一番好きだった食べ物もクッキーではなく、母方の祖母が作ってくれたあられ餅でした。
それでも、わかめよりハムスター、あられ餅よりクッキーの方が会話が収まりやすいと考え、そちらを口にしていました。
自分が本当に考えていることを全部話すより、相手が受け取りやすい言葉を先に選んでいた子どもでした。
八木詠美の中学・高校時代|女子校と吹奏楽部で過ごした6年間
中学・高校は女子校で過ごしました。
学校名は本人の公表資料では明らかにされていませんが、高校時代については本人のエッセイにかなり具体的な日常が残されています。
中高は女子校|グループを意識した中学生時代
小学校高学年から中学生のころには、クラスの中で自然にできる友達グループへ敏感になっていました。
一方、中高6年間を女子校で過ごしたことについて、後年のインタビューでは「のびのび」とした学校生活だったことも語っています。
この環境を出たあと、大学へ進学した八木さんは、男女の間にある違いを初めて強く意識することになります。
高校では吹奏楽部に入りマーチングに取り組む
高校では吹奏楽部に所属しました。
八木さんたちは演奏だけでなく、演奏しながら行進したり隊列を作ったりするマーチングにも取り組んでいました。
マーチングでは、誰がどの位置からどこへ移動するのかを示す「コマ表」が必要になります。
現在ならアプリで作れる作業も、当時は定規、分度器、コンパスを使って手書きしていました。
放課後のローソンで夜まで「コマ表」を作った
コマ表作りには時間がかかり、友人宅へ泊まり込んだり、ファミリーレストランで作業したりすることもありました。
やがて見つけたのが、学校の近くにあったローソンのイートインスペースでした。
学校は寄り道禁止だったそうですが、その店は通学路から少し外れていて先生にも見つかりにくく、部員たちの作業場所になっていきます。
長い日には17時ごろから22時ごろまで店に残り、コマ表を書いていました。
ただ黙って作業をしていたわけではありません。
大声で笑ったり、ときにはけんかをしたり、手が空けば翌日の小テストに向けて漢字を覚えたり、世界史の一問一答を読んだりしていました。
夏はアイスやゼリー、冬になると肉まんやおでんを買い、空腹を満たしながら作業を続けました。
ある冬、仲間の一人が、おでんの具ではなく「つゆ」だけを頼もうとした出来事まで八木さんの記憶に残っています。
「高校生のころ、わたしは異様にローソンにいた」
晶文社スクラップブック「青春はおでんのつゆ」
八木詠美さんは1988年に長野県で生まれました。
中学・高校は女子校で過ごしました。
高校では吹奏楽部に所属しました。
八木さんは、幼いころから友達が多い子どもではなかったと振り返っています。
小学校高学年から中学生のころには、クラスの中で自然にできる友達グループへ敏感になっていました。
高校卒業後は早稲田大学文化構想学部へ進学しました。
『空芯手帳』刊行時のインタビューでは、大学へ進んでから男女の間にある「溝」に気づいたと話しています。
雑誌の編集では、限られた誌面の中で、必要な情報を読者へ簡潔に伝える必要があります。
早稲田大学時代|女子校を出て初めて気づいた男女の「溝」
高校卒業後は早稲田大学文化構想学部へ進学しました。
それまで中高を女子校で過ごしていたため、大学生活は人間関係の環境も大きく変わります。
女子校から大学へ進み男女の違いを意識する
『空芯手帳』刊行時のインタビューでは、大学へ進んでから男女の間にある「溝」に気づいたと話しています。
中高の女子校では意識する必要がなかったことが、男女が同じ場所にいる大学や、その先の社会では違って見える場面がありました。
後に『空芯手帳』では、職場で女性に雑用が偏る状況から主人公が思い切った行動を取りますが、大学時代の経験だけをそのまま作品の原点と断定できるものではありません。
八木さん自身は、日常の中にある「大声で主張するまでもないちいさなこと」を重ねながら生活してきたと語っています。
紙の地図を握って歩いた就職活動
大学生活が終わりに近づくと、就職活動が始まりました。
八木さんはかなりの方向音痴だったそうで、スマートフォンの地図アプリが当たり前になる前の就職活動では、目的地へ行くだけでも準備が必要でした。
駅から会社までの地図だけでなく、目的のビルが分かるよう周囲を拡大した地図まで紙に印刷して持ち歩いていました。
それでも道に迷うと歩道橋へ上り、上から目印になりそうな建物を探しました。
方角を確認するため太陽を見ようとして、目が痛くなったこともあったといいます。
「就職活動のときは駅からの道のりがわかる地図」を印刷していた
晶文社スクラップブック「ここではない、青い丸」
女性誌編集者時代|「短く分かりやすく」伝える仕事の中で芽生えた小説
早稲田大学を卒業した八木さんは、そのまま小説家になったわけではありません。
就職し、女性向け雑誌の編集者として働き始めました。
大学卒業後は女性誌編集者として働く
雑誌の編集では、限られた誌面の中で、必要な情報を読者へ簡潔に伝える必要があります。
取材した内容を整理し、文章を短くし、分かりやすい形へ整えることも仕事の一つでした。
八木さんは後の太宰治賞受賞挨拶で、普段の仕事では「情報をいかに簡潔に、わかりやすく」届けるかに腐心していたと話しています。
それ自体は必要な仕事でしたが、働くうちに別の文章を書いてみたいという気持ちが出てきます。
簡単には白黒をつけられないことを書きたくなった
雑誌では情報を分かりやすく整理して伝える一方、人の生活には短い言葉では片付けられないことがあります。
何の役に立つのかすぐには分からないことや、簡単に白黒をつけられないこともあります。
八木さんは、そうしたものを一度「小説」の形で書いてみようと考えました。
「わかりにくいこと、簡単に白黒つけられない」
筑摩書房 第36回太宰治賞 贈呈式
会社帰りの図書館で書き始め、2作目『空芯手帳』で太宰治賞へ
小説を書こうと思っても、八木さんには会社員としての生活がありました。
結婚後、夫と暮らしていたマンションには、自分だけで使える部屋もありませんでした。
仕事と家の間にある図書館が執筆場所になった
そこで選んだのが、会社から自宅へ帰る途中にある図書館でした。
仕事が終わるとそのまま家へ戻らず、図書館へ寄って文章を書きました。
雑誌編集者として過ごす会社と、夫と暮らす家との間に、小説を書くための時間を作っていたことになります。
作家になるために仕事を辞めたのではなく、会社員生活の途中へ執筆時間を差し込むように小説を書き始めました。
「会社と家の間に自分の時間があり」
好書好日 八木詠美『空芯手帳』インタビュー
最初の小説は誰にも見せるつもりがなかった
最初から文学賞へ応募することを目的にしていたわけでもありませんでした。
書き方もよく分からないまま小説を書き進め、仕事や家庭で起きたことへのもやもやが、書いている間は晴れていくように感じたといいます。
誰かに作品を見せることも、賞へ送ることも当初は考えていませんでした。
ただ、小説を書くことそのものは続けたいと感じるようになります。
2作目『空芯手帳』を応募し第36回太宰治賞を受賞
その後に書いた2作目が『空芯手帳』でした。
作品を太宰治賞へ応募すると、2020年、第36回太宰治賞を受賞しました。
主人公の柴田は職場で女性だからという理由で雑用を押しつけられ、「妊娠している」とうそをつくことで、その環境から少しずつ距離を取っていきます。
八木さんが小説を書き始めてから、まだ約2年ほどの時期での受賞でした。
『空芯手帳』は2020年11月に筑摩書房から単行本化され、八木さんは作家としてデビューします。
2022年8月には英語版『Diary of a Void』が刊行され、その後も翻訳が広がり、筑摩書房の2026年時点のプロフィールでは世界26カ国語で翻訳が進行しています。
図書館が閉まったコロナ禍|『休館日の彼女たち』までの3年間
『空芯手帳』でデビューしたあとも、八木さんは会社員として働きながら次の作品を書いていました。
ところが、長く利用してきた執筆場所を突然使えなくなります。
いつもの執筆場所を失い小説が進まなくなる
新型コロナウイルスの感染拡大によって、いつも小説を書いていた図書館が閉鎖されました。
それまで会社帰りに図書館へ寄ることで作っていた執筆のリズムも崩れてしまいます。
当時、夫と暮らす部屋ではうまく書けなかったため、別の執筆場所を探す時期が続きました。
場所を探していたころには、一時的に不眠症になったことも本人が明かしています。
「今まで小説を書いていた図書館が閉鎖されて」
小説丸 八木詠美『休館日の彼女たち』インタビュー
引っ越しを経て自宅で書けるようになる
その後、引っ越しをしたことで、自宅でも小説を書ける環境ができました。
次の長編を書く間には、コロナ禍の人が少ないデパートで、服を着せられていないマネキンを目にしたこともありました。
八木さんはそのマネキンを見ながら、もし自分がこの存在だったら何を話すだろうと考えます。
そこから発想が広がり、美術館のヴィーナス像とラテン語で話すアルバイトを描いた『休館日の彼女たち』が生まれました。
『休館日の彼女たち』で河合隼雄物語賞を受賞
『休館日の彼女たち』は2023年3月に筑摩書房から刊行されました。
そして2024年、第12回河合隼雄物語賞を受賞します。
『空芯手帳』から次の長編までには約3年かかりましたが、その間には海外翻訳の広がりと、図書館閉鎖による執筆環境の変化が重なっていました。
会社帰りの図書館で始まった執筆生活は、ここで一度大きく形を変えることになります。
エッセイで自身の昔を書き、2026年の新作へ
小説では架空の人物を書いてきた八木さんですが、2023年からは晶文社のWeb連載で、自分自身の生活や過去を書くようになります。
それがエッセイ連載「膝の皿を金継ぎ」です。
自分自身を書く連載が『喋る猫はいなくても』になる
八木さんにとって、エッセイを書くことは簡単ではありませんでした。
子どものころから、自分について長く話すことを避け、相手が困らないような答えを選んできたからです。
2025年に連載最終回を書いたときにも、自由に自分の生活を書くという依頼を最初は断ろうと思っていたことを明かしています。
それでも書き続けたことで、わかめを飼っていた小学生時代、高校のローソン、会社での出来事、夫との生活、猫との暮らしなど、それまで作品の外側にあった八木さん自身の日常が文章になりました。
その連載をまとめた初のエッセイ集『喋る猫はいなくても』が2026年2月に刊行されています。
『アンチ・グッドモーニング』で初の芥川賞候補に
2026年1月発売の『文藝』春季号には、新作長編『アンチ・グッドモーニング』が掲載されました。
主人公は、長期間眠れない状態が続いている会社員の女性です。
周囲から「健康的な生活」や前向きな行動を勧められる一方で、本人の生活は少しずつ追い詰められていきます。
同作は2026年6月29日に河出書房新社から単行本として刊行され、第175回芥川龍之介賞の候補作に選ばれました。
八木さんにとって芥川賞は初候補でしたが、受賞作は小砂川チトさんの『ゾンビ回収婦』で、『アンチ・グッドモーニング』は受賞作ではありません。
太宰治賞でデビューしてから6年、会社員の女性を描いた作品で再び大きな文学賞の候補に入りました。
『ささやかな、あるいは取り返しがつかないもの』まで続く現在
さらに2026年8月には、筑摩書房から初の中編集『ささやかな、あるいは取り返しがつかないもの』が刊行されました。
『空芯手帳』を書き始めたころには、誰かに見せることすら考えていなかった小説は、その後、海外へ翻訳され、長編、短編、エッセイへと広がっています。
一方で、八木さんの文章には、高校時代に友人たちと過ごしたローソンや、会社帰りに寄った図書館、家の中で交わされる会話といった日常の小さな場面が繰り返し登場します。
長野県で育ち、自分の話を短くしようとしていた子ども時代を経て、女性誌編集者として働くなかで小説を書き始めた八木詠美さん。
会社と家の途中にあった図書館で書いた2作目が太宰治賞を受賞し、作家としての道が始まりました。
2026年現在も、小説とエッセイの両方で、日常の中に残っている簡単には整理できないものを書き続けています。
八木詠美と似た生い立ちの人物は?
出身地・年代・人生の原点などの共通点から探せます。












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