『見えるか保己一』で第39回山本周五郎賞を受賞し、第175回直木賞では初めて候補となった小説家の蝉谷めぐ実さん。
江戸歌舞伎を舞台にした『化け者心中』『おんなの女房』『化け者手本』『万両役者の扇』を発表してきましたが、作家になるまでには大阪で過ごした学生時代と、早稲田大学で歌舞伎にのめり込んだ時間がありました。
- 祖父母を含む家族と暮らし、古典・歴史・漫画・児童文学が同じ家にある読書環境で育った。
- 大学:早稲田大学文学部
- 早稲田大学で三島由紀夫『真夏の死』を読み、本格的に小説を書き始めて作家を目指した。
大学卒業後もすぐ専業作家になったわけではなく、広告代理店の営業と早稲田大学職員を経験し、仕事のあとに図書館へ通いながら小説を書いていました。
現在の作品へつながる材料をたどっていくと、本に囲まれた家庭、内部進学をめぐる学校生活、演劇部、アイドルやお笑いを追いかけた時間まで、かなり違った場面が並んでいます。
蝉谷めぐ実の生い立ちと家族|大阪の本に囲まれた家で育つ
蝉谷めぐ実さんは1992年7月23日、大阪府豊中市生まれです。
大学進学で東京へ移るまで、幼いころの短い海外生活を除いて豊中で暮らし、祖父母を含む家族の中で育ちました。
2歳ごろ父の仕事でシカゴへ|祖父から届いた「ムーミン」と「ハイジ」
2歳ごろには父親の仕事の関係でアメリカ・シカゴへ一時的に移り住んでいます。
まだ幼かった蝉谷さんのため、日本にいた祖父は録画した『ムーミン』や『アルプスの少女ハイジ』などのアニメを送ってくれました。
大阪へ戻ってからは家の中で本を読む一方、外へ出れば虫取りや木登りをする子どもで、母親は後年、妹と弟が遊んでいる後ろで一人本を読んでいる姿を覚えていたといいます。
地元では祖父や妹と公園へ出かけることも多く、豊中市の本人エッセーには赤坂上池公園でセミを追いかけた記憶も残されています。
のちに使う「蝉谷」という名前にも、この幼いころのセミ取りの記憶が入っています。
祖父母と暮らした家には古典・歴史書・漫画が並んでいた
幼少期には祖父母とも同居しており、祖母は高校の古典教師、祖父は社会・歴史の教師、父親は医師でした。
家には祖母の古典文学や世界文学、祖父の歴史関係の本、父親の漫画までさまざまな本が置かれ、子どもの蝉谷さんはそれぞれの本棚を行き来していました。
祖父の本ではヨーロッパの城を断面図で見せる歴史図鑑などを眺め、祖母の棚からは夢枕獏さんの『陰陽師』を手に取っています。
父親の漫画には『うしおととら』や『ブラック・ジャック』があり、小学生のころには手塚治虫作品にも親しみました。
古典、歴史、漫画、児童文学が同じ家の中にある環境で、読むジャンルを一つに絞らず本を手に取っていたことが分かります。
祖母に連れられて京都の歌舞伎へ|大向こうをまねした小学生
小学校へ上がったばかりのころ、古典教師だった祖母に連れられて京都・南座などの歌舞伎を観るようになりました。
最初から演目を深く理解していたわけではなく、ある公演では客席から飛ぶ「大向こう」の掛け声を聞き、自分もまねして声を出しています。
すると祖母は血相を変え、蝉谷さんを客席の外へ連れ出しました。
このころは歌舞伎を将来の仕事へ結びつけていたわけではなく、普段とは違う場所へ出かけたことを学校で話すような、小学生としての観劇でした。
家族情報
公開情報で確認できている家族について、続柄・職業・補足・出典を整理しています。
国立の小中高で競争と演劇に熱中|高校進学ぎりぎりから演劇部へ
学校生活では、本を読むことと同じくらい内部進学をめぐる競争が身近にありました。
その一方、中学から高校にかけては演劇部へ入り、舞台に立つ側として脚本の言葉と向き合っています。
小学校受験で「目立たないと点がつかない」と感じた
幼稚園は箕面自由学園幼稚園へ通い、小学校は本人が豊中市のエッセーで大阪教育大学附属池田小学校だったことを明かしています。
その後の中学校・高校について、本人のロングインタビューでは「国立の小中高」に通っていたことまでは語られていますが、高校名そのものは明記されていません。
小学校の入学試験では子どもたちが遊ぶ様子を大人が見て採点する場面があり、幼い蝉谷さんは、目立たなければ点を付けてもらえないのではないかと考えて積極的に動いたそうです。
入学後も順位を意識しており、小学生時代に学年21位だったときの順位表を大切に取っていました。
低学年のころには高学年向けの本を選び、読めない漢字があると立ち上がって先生へ聞きに行くなど、周囲からどう見えるかまで考えながら本を読んでいた時期もありました。
中3夏に内部進学が厳しいと言われ、副教科へ力を注ぐ
通っていた学校では小学校から中学校、中学校から高校へ進む際に内部進学の選考があり、本人によると、それぞれおよそ3分の1がそのまま上へ進まない環境でした。
中学校へ上がると外部から成績の良い生徒も加わり、蝉谷さん自身の順位は次第に下がっていきます。
そして中学3年の夏ごろ、このままでは内部進学で高校へ上がるのが難しいと告げられました。
数学や英語で短期間に周囲へ追いつくのは難しいと考え、家庭科や美術といった副教科へ力を集中させ、最終的に高校へ進んでいます。
「私はもう本当にびりっけつで上がったんです」
WEB本の雑誌「作家の読書道」
高校進学が危うくなったところから副教科へ力の入れ方を変え、内部進学を果たしたというのが、中学3年から高校へ移る時期の具体的な経緯です。
卓球部から演劇部へ|高校では女子6〜7人で舞台に立つ
中学校では最初に卓球部へ入り、その途中から演劇部へ移り、高校でも演劇を続けました。
高校の演劇部は男子部員がおらず、女子6〜7人ほどで活動する小さな部でした。
蝉谷さんは演出ではなく演じる側で、台詞を覚えるのが苦手で怒られることもあったといいます。
本谷有希子さんの戯曲『遭難、』では主人公の里見先生を演じ、舞台上では一つの台詞も無駄にしないよう意識していました。
部員同士で脚本を書いて候補を出すこともありましたが、本人が書いた脚本は一度も選ばれなかったそうです。
のちに小説を書く仕事へ進むことを考えると意外な場面ですが、この時点では脚本を書く側より、舞台で台詞を受け取る側として演劇に関わっていました。
文化祭は全クラス演劇|今も続く友人と本を読み合った
高校の文化祭では全クラスが演劇に取り組み、そのうち上位3クラスだけが一般公開日に上演できる仕組みでした。
1学年は4クラスだったため3年生になると競争が激しく、演劇部の友人と「隣のクラスの大道具をどうしたら潰せるか」と冗談を言うほど熱が入っていたと振り返っています。
もちろん実際に壊したわけではありませんが、授業外の学校行事でもクラス単位で一本の芝居を作り上げる高校生活を送っていました。
同じ演劇部の友人とは本の話もよくしており、その友人から横山秀夫さんの『半落ち』を教えてもらうなど、読書の幅も広がっていきました。
この友人とは大人になったあとも交流が続いています。
進路を考えるころには出版社や演劇の裏方をぼんやり選択肢に置き、演劇の盛んな早稲田大学も候補に入りました。
古典教師の祖母に連れられて幼少期から歌舞伎を観た経験と、本に囲まれた家庭環境が、後の時代小説・歌舞伎作品へつながる原点の一つになった。
WEB本の雑誌|作家の読書道・蝉谷めぐ実蝉谷めぐ実さんは1992年7月23日、大阪府豊中市生まれです。
幼稚園は箕面自由学園幼稚園へ通い、小学校は本人が豊中市のエッセーで大阪教育大学附属池田小学校だったことを明かしています。
学校生活では、本を読むことと同じくらい内部進学をめぐる競争が身近にありました。
中学校では最初に卓球部へ入り、その途中から演劇部へ移り、高校でも演劇を続けました。
早稲田大学で歌舞伎と再会|小説家を目指し始める
高校卒業後は大阪を離れ、早稲田大学文学部へ進学しました。
ここで高校までの演劇経験、幼いころ祖母と観た歌舞伎、本を読む習慣が、別々の方向から一つの場所へ集まっていきます。
学生寮から文学部へ|劇団サークルを離れて講義に没頭
上京後は大学の学生寮で暮らし、同学年の学生たちと同じフロアで生活しました。
大学でも演劇を続けようと本格的な劇団系サークルへ体験参加しましたが、高校の部活動とは違う厳しい練習についていけず、ほどなく離れています。
そこで学生生活の中心になったのが講義で、文学部で興味を持った授業を次々に受け、のちに演劇映像コースを専攻しました。
三島由紀夫『真夏の死』を読み「一生かけて作家に」と決める
大学の講義で転機になった一冊が、三島由紀夫『真夏の死』でした。
授業で作品の一部を読み、その文章に強く惹かれたことから三島作品を読み進め、自分でも小説を書いてみようと考えるようになります。
「書くからには一生をかけてでも作家になろう」
WEB本の雑誌「作家の読書道」
大学時代に初めて本格的に小説を書き始め、その時点で作家を目指すと決めました。
最初は現代を舞台にした小説を何本も書いて新人賞へ送りましたが、結果はなかなか出ませんでした。
賞の過去の選評を読み、審査する側の好みに合わせて書こうとした時期もありましたが、その方法から離れ、改めて自分が好きだった時代小説へ向かいます。
児玉竜一教授の授業で江戸の役者の日常に引き込まれる
大学1年ごろ、軽い気持ちで受けた児玉竜一教授の歌舞伎研究の講義が、もう一つの大きな入口になりました。
授業では演目そのものだけでなく、江戸時代の役者が何を食べ、どのように暮らし、芸をどう作っていたのかまで扱われました。
特に興味を持ったのが女形が舞台を降りた日常生活でも女性として振る舞っていたという話でした。
高校まで演じる側だったため、役へ自分を近づける感覚には覚えがありましたが、それを日常生活にまで広げる役者たちの生き方は、それまで知らなかった世界でした。
さらに、小学生のころから順位や内部進学を意識していた自分の経験と重ね、江戸の役者たちが抱く野心や嫉妬にも関心を持つようになったと本人は語っています。
祖母と観た歌舞伎が、大学では「役者がどんな人間として暮らしたのか」を調べる対象に変わりました。
嵐・大野智やお笑いを追った経験が江戸の「贔屓」と重なる
歌舞伎研究とは別に、中学生のころから好きだったのが嵐で、特に大野智さんのファンでした。
大学で江戸の資料を読んでいると、好きな役者の紋を身に着ける当時の女性たちが登場し、現代のファンと変わらない部分を感じたといいます。
上京後には大野さんを一目見ようとドラマのエキストラへ2度応募し、1度目は別の俳優の場面、2度目は撮影自体が中止になったものの、その際に歩いていく大野さんを見ることができました。
お笑いも好きで、M-1の日にはテレビの前で正座し、和牛の公演にはプレゼントを持って劇場へ行ったり、地方公演まで出かけたりしていました。
本人は後年、こうした経験が『化け者心中』に出てくる役者の「贔屓」たちの気持ちを書く際に役立ったと思うと話しています。
図書館と演劇博物館を回り『化け者心中』の原型と卒論を書く
歌舞伎ゼミへ入ると、調べ物の範囲も一気に広がりました。
文学部の図書館、早稲田キャンパスの図書館、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館では置かれている資料が違うため、それぞれを回って歌舞伎関係の本を読み進めています。
「早稲田にある歌舞伎関係の本は全部読んだと思います」
WEB本の雑誌「作家の読書道」
卒業論文では文化・文政期の大阪の役者と江戸の役者の違いをテーマにし、小説のために集めた資料も卒論へ生かしました。
一方、小説では大学在学中に『化け者心中』の原型となる時代小説を書いています。
卒論と小説を同じ時代の歌舞伎資料から並行して作るほど、大学後半の生活は江戸歌舞伎の調査に深く入り込んでいました。
ただし、この原稿がそのままデビュー作になったわけではなく、大学卒業時には一度手元へ置いたまま社会人になります。
卒業後は広告代理店へ|書く時間を求めて早稲田大学職員に転職
早稲田大学を卒業したあとは、小説一本で生活する道ではなく広告代理店へ就職しました。
社会人になっても小説を書くことはやめず、仕事と執筆をどう両立させるかが次の課題になります。
図書館へ通いやすいことも広告代理店を選んだ理由だった
広告代理店では営業職として働いていました。
就職先を決めるときには仕事内容だけでなく、卒業後も早稲田大学の図書館へ通えることを考えていました。
「早稲田に近いのもその会社を選んだ理由の一つでした」
WEB本の雑誌「作家の読書道」
卒業生にも図書館の利用資格があったため、小説を書くための資料へアクセスしやすい場所を就職の段階から意識していたことになります。
仕事が忙しく執筆時間が足りず、大学職員へ転職
職場の人たちには恵まれていたと本人は話していますが、広告代理店の仕事は忙しく、次第に小説を書く時間を十分確保できなくなりました。
そこで退職し、次に選んだのが早稲田大学の職員でした。
大学職員なら卒業生として図書館を利用するだけでなく本を借りることもでき、仕事後にそのまま資料のある場所へ移れます。
勤め先を変えたことで、仕事と資料調査と執筆を同じ大学の中でつなげられる生活へ移りました。
広告代理店から早稲田大学職員への転職は、『化け者心中』を書き上げる直前の大きな環境の変化でした。
仕事後はそのまま図書館へ|夜10時まで原稿を書く
大学職員になってからは、仕事を終えるとそのまま図書館へ向かい、学生たちに交じって原稿を書く日々が始まります。
大阪市のインタビューでは、当時の生活について17時に仕事を終え、17時30分ごろから22時まで図書館で書くという過ごし方を明かしています。
土日にも図書館へ通い、職場では同僚から執筆を応援してもらっていました。
この時期に大学時代へ一度置いてきた『化け者心中』の原型を再び取り出し、書き直していきます。
2020年『化け者心中』でデビュー|「蝉谷魚ト」から蝉谷めぐ実へ
大学時代に書いた原稿を社会人になってから掘り起こし、何度も形を変えた末に完成したのが『化け者心中』でした。
ここで大学の図書館から続いてきた長い執筆生活が、初めて一冊の本になります。
大学時代の原型を掘り起こし、440作の新人賞を突破
大学時代の原型は、刊行された作品よりも「あやかし」の要素が強い内容でした。
その後、歌舞伎役者を主人公にした別の作品も書きましたが結果につながらず、もう一度昔の原稿を取り出して書き直します。
そして2020年、応募440作品の第11回小説 野性時代 新人賞で『化け者心中』が受賞作に選ばれました。
大学で最初に書いた時代小説を、就職と転職を挟んで数年後に作り直した作品がデビュー作になりました。
初めて完成した自分の本が届いたときには表紙を何度も触り、離れるのが惜しくてトイレにまで本を持っていったと、豊中市のエッセーで振り返っています。
受賞時のペンネームは「蝉谷魚ト」|刊行時には蝉谷めぐ実へ
新人賞の受賞発表時に使っていた名前は、現在とは異なる「蝉谷魚ト(せみたに・とと)」でした。
KADOKAWAの当時の受賞発表では「蝉谷魚ト」についてペンネームと明記され、その後の公式受賞者一覧では「蝉谷めぐ実(蝉谷魚ト改め)」と記録されています。
さらに本人は豊中市のインタビューで、現在の「蝉谷めぐ実」も本名ではないとはっきり答えています。
蝉谷めぐ実さんの本名そのものは、公表された本人・公式資料では確認できません。
現在の姓に入っている「蝉」は、豊中で幼いころにセミを捕って遊んだ記憶から選ばれています。
「蝉谷魚ト」も「蝉谷めぐ実」も活動上の名前であり、旧名を本名と取り違えないことがポイントです。
『おんなの女房』『化け者手本』『万両役者の扇』へ歌舞伎小説を重ねる
デビュー後は、江戸歌舞伎を異なる立場から描く作品を続けて発表しました。
2022年の『おんなの女房』では、日常でも女性として暮らす女形の妻を主人公にし、野村胡堂文学賞や吉川英治文学新人賞につながりました。
2023年には『化け者心中』の世界へ再び入った『化け者手本』を刊行し、2024年には役者の芸と競争を描く『万両役者の扇』を発表して山田風太郎賞を受賞しています。
大学職員と作家を並行した期間もありましたが、約3年間の兼業を経たのち、現在は専業作家として執筆しています。
歌舞伎を書き切った先で塙保己一へ|『見えるか保己一』につながる
デビューから4作にわたって歌舞伎を題材にしてきたあと、作品の方向は初めて大きく変わります。
その入口は次の小説の主人公を探すための取材ではなく、別の時代について学ぼうと参加した講座でした。
『万両役者の扇』のあと平安装束を学びに行く
『万両役者の扇』を書き終えたところで、本人は歌舞伎について書きたいことを「いったん出し切った」と感じていました。
次は平安時代を舞台にした作品を書いてみようと考え、平安装束の着付けを学ぶ講座へ参加します。
ところが、その講座で耳にした人物は平安時代の人ではなく、江戸時代に『群書類従』を編纂した全盲の国学者塙保己一でした。
平安時代を書くために出かけた講座が、次の主人公を塙保己一へ変えるきっかけになります。
講座で塙保己一を知り、初めて実在人物を主人公にする
講座では『枕草子』や『源氏物語』などの文献が後世へ正しい形で伝わる背景に、保己一の仕事があることを知りました。
講師が、大きな仕事を成し遂げた人物なのにあまり知られておらず、世の中へ伝えてくれる人がいればと話したとき、蝉谷さんの中で次の作品が動き始めます。
「私の役目では」
好書好日
これまで架空の歌舞伎役者たちを中心に書いてきた蝉谷さんにとって、実在した人物を主人公にするのは初めてでした。
保己一について調べる中では、自分が無意識に抱いていた視覚障害へのイメージも見直し、一人称の場面から視覚に基づく慣用表現を取り除くなど推敲を重ねています。
2026年に山本周五郎賞受賞|直木賞初候補となった現在
こうして完成した『見えるか保己一』は、2026年3月13日にKADOKAWAから刊行されました。
歌舞伎以外を中心題材にした初めての長編となり、同年5月には第39回山本周五郎賞を受賞しました。
続いて6月には第175回直木賞の候補作に選ばれ、蝉谷さんにとって初めての直木賞候補となります。
7月15日に行われた選考では朝倉かすみさんの『けんぐゎい』が第175回直木賞を受賞し、『見えるか保己一』は候補作という結果でした。
幼いころから親しんだ歌舞伎を4作書いたあと、初めて別の題材へ踏み出した作品が山本周五郎賞受賞と直木賞初候補につながりました。
豊中の家に並ぶ本を手に取り、国立校で順位を気にしながら演劇部の舞台に立っていた時期を経て、早稲田大学では図書館と演劇博物館を回る学生になりました。
卒業後も広告代理店と大学職員の仕事を挟みながら書く時間を作り、大学時代に眠らせた原稿を『化け者心中』として世に送り出しています。
歌舞伎から始まった作家生活は『見えるか保己一』で新しい題材へ進み、現在は専業作家として次の作品を書くところまで続いています。
蝉谷めぐ実と似た生い立ちの人物は?
出身地・年代・人生の原点などの共通点から探せます。











