2025年1月、『ゲーテはすべてを言った』で第172回芥川龍之介賞を受賞した小説家の鈴木結生さんは、当時23歳で、21世紀生まれでは初めての芥川賞受賞者となりました。
2026年8月現在は西南学院大学大学院を修了し、8月7日にはデビュー作を表題作とする作品集『人にはどれほどの本がいるか』も刊行しています。
- 1歳から11歳まで福島県郡山市で過ごした。
- 高校:福岡県立修猷館高校/学び:西南学院大学大学院在学中
- 現在の道につながる原点:コンテスト・公募
現在は若い芥川賞作家として知られていますが、2001年に福岡市で生まれ、1歳になる前から福島県郡山市の教会で育ち、子どものころには聖書から世界文学へと読む本を広げていました。
小学3年で東日本大震災を経験し、小学6年で福岡市へ移ったころから小説を書き続けていたため、作家として世に出るまでには10年以上の創作の時間がありました。
鈴木結生の生い立ちと家族|福岡に生まれ、牧師の父と郡山の教会で育つ
鈴木結生さんは2001年に福岡市で生まれ、父親の赴任に伴い、まだ1歳になる前に家族で福島県郡山市へ移りました。
父親はプロテスタントの牧師で、郡山市で暮らした約11年間は、教会と家庭がほとんど同じ場所にある環境で過ごしています。
1歳になる前に福島県郡山市へ|教会の2階が子ども時代の家だった
父親が郡山コスモス通りキリスト教会へ赴任すると、一家は教会の2階で暮らし始め、鈴木さんにとって礼拝堂や教会に集まる人々は日常生活のすぐそばにある存在になりました。
教会の信徒たちとは家族のように付き合い、子どものころには学校の友達を教会へ呼んで遊ぶこともあったと後年の取材で明かしています。
「家」と「教会」がきれいに分かれていない生活の中で、本棚にも聖書や神学関係の本が多く並んでいました。
「結生」という名前についても、後年の講演では新共同訳聖書のローマ書6章11節にある「結ばれて」と「生きている」の二つの言葉に由来すると紹介されています。
母の読み聞かせと父の本棚|小学1年で絵本を作った
家にはもともとたくさんの本があり、幼いころは母親が絵本を読み聞かせていたため、本を開くこと自体が特別な行為ではありませんでした。
小学1年の自由研究では動物が登場する絵本を自分で作り、それを見た両親が喜んで褒めてくれたことを覚えているそうです。
漫画を描いたり音楽に触れたりとさまざまな遊びを試す中でも、本人が後に一番楽しかったと振り返ったのは文章を書くことでした。
「その中でも文章を書くことが一番楽しかったです。」
福岡市 市政だより
まだこのころは文学賞を目指していたわけではありませんが、自分で作ったものを両親が喜んでくれる経験は、小説を書き始めた後にも別の形で続いていきます。
父が作った「木製DS」と、小学2年から始まった聖書の通読
小学1年ごろ、周囲の子どもたちがニンテンドーDSを持ち始めて自分も欲しいと父親に伝えると、返ってきたのはゲーム機ではなく、2枚の木の板を蝶番でつないだ手作りの「DS」でした。
画面もソフトもありませんでしたが、鈴木さんはその板を開き、頭の中でゲームの内容を考えながら遊んでいたそうです。
読書の幅が大きく広がったのは小学2年ごろで、教会にいた大人から「聖書は1日3章ずつ読めば1年で読み終えられる」と聞き、自分でも通読を始めました。
「きっかけは聖書です。」
好書好日
聖書に出てくる言葉や人物を調べるうちに関連する本へ手を伸ばし、小学生のうちにダンテの『神曲』まで読むようになりました。
教会学校でも聖書の物語は文字だけで教えられたわけではなく、マナを模した食べ物を口にしたり、大きな袋を使ってヨナの物語を体験したりと、身体を使う活動が取り入れられていました。
聖書から別の本へ、さらにその本から次の本へと読み進める習慣は、このころにはすでに始まっていました。
小学3年で東日本大震災を経験|小学6年の福岡転居から小説を書き始める
郡山での生活が大きく変わったのは、鈴木さんが小学3年生だった2011年3月11日でした。
東日本大震災と東京電力福島第一原発事故を経験し、一家はそれまでの日常から離れて避難生活へ入ります。
原発事故で避難生活へ|電気がなくても読めた本
小学3年で東日本大震災と原発事故による避難を経験した鈴木さんは、一時は家族とともに埼玉県へ避難しました。
テレビやゲームなど電気を必要とする娯楽が使えない状況でも、手元にある本だけは開くことができ、避難生活の中で読むものになりました。
もともと教会や自宅で本に親しんでいましたが、この時期には「どこへでも持っていける本」という物としての性質も実際の生活の中で経験することになります。
電気が止まっても、一冊の本はそのまま持ち出して読むことができたという記憶は、後に本人が震災当時を語る際にも繰り返し登場しています。
支援に向かう父と避難所を回った子ども時代
一家はその後郡山へ戻り、父親は教会の活動として被災地への支援にも向かいました。
鈴木さん自身も父親に同行して岩手県や宮城県の避難所を回ったことがあり、その際には聖書や自分で描いた漫画などを大きなかばんに入れて持っていたと報じられています。
教会の2階で友達と遊んでいた生活から、避難先や被災地を行き来する生活へ変わった時期でした。
小学6年で郡山から福岡へ|東北の記憶を残すため小説を書いた
鈴木さんは11歳まで郡山市で育ち、小学6年生のときに家族で福岡市へ移りました。
長く暮らした福島を離れたあと、そこで過ごした時間や東日本大震災の記憶を形に残そうとして書き始めたのが小説でした。
「福島での思い出っていうのを形に残すために初めて小説を書いたんですよね。」
RKB毎日放送
最初に書いた小説は福島にいた友達や学校の先生にも送り、離れた土地にいる人たちが最初の読者になりました。
小学6年から始まった小説執筆は一時的なものでは終わらず、その後は中学生になっても長編を書き続けます。
鈴木結生さんは2001年に福岡市で生まれ、父親の赴任に伴い、まだ1歳になる前に家族で福島県郡山市へ移りました。
父親が郡山コスモス通りキリスト教会へ赴任すると、一家は教会の2階で暮らし始め、鈴木さんにとって礼拝堂や教会に集まる人々は日常生活のすぐそばにある存在になりました。
一家はその後郡山へ戻り、父親は教会の活動として被災地への支援にも向かいました。
福岡で迎えた中学時代には、すでに「小説を書くこと」が日常の中に入り込んでいました。
中学卒業後は福岡県立修猷館高校へ進み、2020年に同校を卒業しています。
鈴木結生の中学時代|500枚超の長編を書き、初めて文学賞へ送る
福岡で迎えた中学時代には、すでに「小説を書くこと」が日常の中に入り込んでいました。
完成した一本を何度も直すより、次の物語を書き始める形で作品数を増やしていきます。
毎年のように長編を書き、両親が作品を製本した
小学6年以降はほぼ毎年のように原稿用紙500枚を超える長編小説を書き、書き終えるたびに両親へ見せていました。
すると両親は原稿をそのまま保管するのではなく、一冊ずつ実際の本のように製本してくれました。
中学時代に書いた『The Innocent Times』も父親が製本した一冊として残っており、後年のインタビューでは実物が紹介されています。
小学1年で自作の絵本を褒められた家庭で、今度は数百枚の長編が手製の本になっていきました。
中学2年ですばる文学賞に落選|難解な作品へ向かった時期
中学2年になると、書いた長編を初めて外部の文学賞へ出そうと考え、すばる文学賞に応募しました。
ところが結果は一次選考を通過できず、自分の作品を広い読者へ届ける最初の挑戦はいったんそこで終わります。
そのあとに向かったのは分かりやすい小説を書くことではなく、むしろ誰にも読まれなくても構わないような難しい作品を書く方向でした。
読者へ届かなかった経験の直後に、さらに閉じた文章へ向かっていったところが、この時期の創作の特徴です。
小説だけでなく絵と音楽にも表現を広げた
中学から高校へ進むころには、文章だけにこだわらず、絵を描いたり音楽を作ったりする時間が増えていきました。
小説は数百枚を書かなければ一つの作品になりませんが、絵や数分の曲なら、もっと短い単位で次々と新しいものを作ることができます。
この時点では小説家への一直線の道を進んでいたわけではなく、文章、絵、音楽の間を行き来しながら自分で作品を作り続けていた時期でした。
修猷館高校時代|3年間の図書委員と「1日1曲」の音楽制作
中学卒業後は福岡県立修猷館高校へ進み、2020年に同校を卒業しています。
高校でも本を読む時間は減らず、学校生活の中では図書館と音楽制作が大きな場所を占めるようになります。
図書委員・広報班長として過ごした修猷館高校
修猷館高校では3年間にわたって図書委員を務め、広報を担当する活動にも関わっていました。
当時作った図書館の壁新聞には和紙を使うなど、文章を並べるだけではなく、見た目や紙面そのものにも工夫を加えていたことが学校関係者の証言から伝えられています。
後に大学で文学パンフレットを自作するときにも、文章だけでなく絵やデザインまで自分で手掛けますが、その前から「読むための紙面を作る」経験をしていました。
受験前にも世界文学を樹形図にした「鈴木ワールド」
高校2、3年時の担任だった国語科の先生が印象に残っているのは、受験勉強の時期にも鈴木さんが自分の読書で得た知識を使い、世界文学を樹形図のように整理していた姿です。
作家や作品の関係を自分なりにつなげたその図は、先生から「鈴木ワールド」と呼ばれるほど独自の広がりを持っていました。
試験に必要な範囲だけを覚えるのではなく、読んだ文学を互いに結び付けて一つの地図のようにしていた高校生でした。
毎日1曲を作り、CDにして友達へ渡していた
文章とは別に続けていた音楽では、高校時代に「1日1曲」を自分へ課すほど制作量を増やしました。
作った曲はパソコンの中だけに置かず、まとめてCDにして学校の友人へ渡していました。
小説なら何百枚も書いてようやく一作になりますが、音楽なら短い時間で一つの作品を完成させられるため、毎日のように制作を重ねることができました。
この高校時代にも小説家としてデビューする話はまだ現実になっておらず、次に進学した大学でもしばらくは文学を別の形で表現しようとします。
西南学院大学時代|英文学を学びながら「読まれる小説」へ方向転換
2020年に修猷館高校を卒業すると、鈴木さんは西南学院大学外国語学部へ進学しました。
ここでも読書と創作は続きますが、大学時代には「自分の好きなものを作る」段階から、「それを誰かにどう読んでもらうか」という問題にぶつかります。
外国語学部へ進学|図書館と文学に浸った大学生活
大学では外国語と文学を学び、特に英文学を研究するようになりました。
授業以外でも大学図書館を日常的に利用し、学生のレポート作成を支援する仕事にも関わるなど、本を読む側だけでなく、ほかの学生の文章を見る側にも回っています。
後に大学院へ進んでからも図書館で研究と執筆を続けており、西南学院大学の図書館は学生生活から作家活動まで長く使う場所になりました。
文学パンフレットを自作|「難しすぎる」と言われて考えを変える
小説から少し離れていた時期には、自分が面白いと思った文学を紹介する一枚もののパンフレットを作り、大学図書館に置いていました。
文章を書くのはもちろん、絵やデザインも自分で担当し、小さな記事のために何日もかけてデータを集めるなど、一枚の紙へ情報を詰め込んでいました。
ところが内容が難しくなりすぎ、図書館側からそのまま続けるのは難しいと伝えられたことで、今度は別の方法で読者へ届くものを作ろうと考えます。
「小説で読まれるものを書かなくては」
好書好日
中学時代には難解な方向へ向かっていた小説を、今度は「読まれるもの」に変えようとしたのが大学時代の転換点になりました。
大学3年で漱石の続編コンテストに挑みグランプリ
大学3年では、夏目漱石の作品の続きを創作する「SOSEKIチャレンジングアワード」に応募しました。
それまで自分の長編を文学賞へ出した経験は中学時代の落選が大きなものでしたが、このコンテストでは学生の部でグランプリを受賞します。
大学3年で外部のコンテストから初めて明確な評価を得たあと、翌年には本格的な新人文学賞へもう一度作品を送ることになります。
両親との食事で見つけたゲーテの言葉が後の小説の種になる
大学生のころ、両親の結婚記念日に家族で福岡のイタリア料理店へ食事に行った際、父親が注文したミントティーのタグにゲーテの言葉が印刷されていました。
父親からその言葉がどういう意味なのか尋ねられましたが、文学を学んでいた鈴木さんにも答えが分からず、調べようと思っているうちに元のタグはなくなってしまいます。
このときすぐ作品を書いたわけではなく、正確な言葉も分からないまま、「ゲーテの言葉をめぐる記憶」だけが手元に残りました。
その小さな出来事が小説になるのは、大学4年で最初の文学賞を受賞した後です。
大学4年で作家デビュー|『人にはどれほどの本がいるか』が林芙美子文学賞佳作に
大学4年になるころ、鈴木さんは大学で文学研究を続けながら、もう一度自作の小説を外へ送るようになります。
幼いころから本を出すことへの憧れはありましたが、大学院で研究を続ける道も視野にあり、まだ小説だけで生きていくことが決まっていたわけではありませんでした。
進路を考えた大学4年|研究の道か小説家か
大学3年のコンテストで受賞したことで作品を外へ出す感覚をつかむと、4年の夏休みには次に応募できる文学賞を探しました。
そこで目に入ったのが、北九州市が主催し朝日新聞出版が協力する林芙美子文学賞でした。
本人によれば、数ある賞の中から選んだ理由の一つは締め切りが近かったことで、長く計画して狙った賞というより、その時点で書き上げられる場所へ作品を送る形で挑戦が始まっています。
夏休みに林芙美子文学賞へ応募|450作品の中から佳作に
応募した作品が『人にはどれほどの本がいるか』で、第10回林芙美子文学賞には全国から450編が寄せられました。
2024年1月26日の最終選考で同作は佳作に選ばれ、作品が『小説トリッパー』へ掲載されることが決まりました。
大学4年で受賞したこの作品が、そのまま小説家としてのデビュー作になりました。
小学6年から両親に製本してもらっていた小説が、ここで初めて出版社を通して読者へ届く作品になりました。
『放浪記』を聴きながら福岡を歩いた結果発表の日
結果が出る日、鈴木さんは林芙美子の『放浪記』をAudibleで聴きながら福岡の街を歩き、連絡を待っていました。
両親やパートナーとは結果にかかわらず食事をする予定にしており、いったん自宅へ戻って店へ向かう車の中で受賞を知らせる電話が入ります。
「佳作」と聞いたときには作品が雑誌へ載らないのではないかと心配したほど、鈴木さんにとって重要だったのは賞の名前以上に自分の作品が本の形で読者へ届くことでした。
2024年春、『人にはどれほどの本がいるか』が掲載され、鈴木結生さんは小説家としてデビューしました。
大学院進学後の2作目『ゲーテはすべてを言った』で芥川賞へ
大学卒業後の2024年、鈴木さんは西南学院大学大学院外国語学研究科へ進み、英文学の研究を続けました。
同時に、デビュー作に続く小説として取り出したのが、大学時代のイタリア料理店で父親と見たゲーテの言葉でした。
林芙美子文学賞を機に、温めていたゲーテの物語を書き始める
林芙美子文学賞の受賞後、次の作品を考える中で、答えられないままになっていたミントティーのタグの言葉を小説の中心に置くことにしました。
『ゲーテはすべてを言った』では、ゲーテ研究者の主人公がレストランで目にした出典不明の言葉を追いかけますが、その最初の着想には家族での食事という実体験がありました。
ただし、実際のタグに何と書いてあったのかは本人にも分からなくなっていたため、記憶をそのまま再現するのではなく、小説を書くための調査がここから始まります。
春休み1カ月でゲーテ全集を読み、丸谷才一を書き写す
ドイツ文学を専門に研究していたわけではなかったため、鈴木さんは大学院進学前後の春休みを使ってゲーテを集中的に読みました。
「春休みの1カ月間を利用して『ゲーテ全集』を全て読みました。」
福岡市 市政だより
さらに文体を整えるため、影響を受けた丸谷才一の『樹影譚』を全文書き写す作業まで行っています。
パソコンで執筆するときには章ごとに文字色を変え、黒い文字を読んでいる場合と別の色を見ながら書く場合で文章の感覚が変わるかまで試しました。
ゲーテ全集を読むだけでなく、既存作品の筆写や文字色の変更まで試しながら一作を組み立てたことが、『ゲーテはすべてを言った』の制作過程から分かります。
完成した作品は『小説トリッパー』2024年秋季号に発表され、デビュー作に続く2作目となりました。
2025年1月、21世紀生まれ初の芥川賞受賞者になる
2024年12月、『ゲーテはすべてを言った』が第172回芥川龍之介賞の候補作に選ばれました。
候補入りしたあと、家族はかつて父親が飲んだものと同じミントティーを買い、毎日のようにタグを確認して元のゲーテの言葉を探しましたが、結局同じ言葉は見つかりませんでした。
そして2025年1月15日の選考会で安堂ホセさんの『DTOPIA』とともに受賞作へ選ばれ、鈴木さんは初候補で芥川賞を受賞しました。
2001年生まれの鈴木さんは、21世紀生まれでは初めて芥川賞を受賞した作家となりました。
小学6年から書いてきた長編、中学での文学賞落選、高校での音楽制作、大学でのパンフレット作りを経て、商業誌に発表した2作目での受賞でした。
芥川賞受賞後から現在|大学院修了、『携帯遺産』と次の作品へ
芥川賞を受賞したあとも鈴木さんは大学院での研究を続けながら、新しい小説を発表していきました。
ブレイク後に創作方法が一つに固まったわけではなく、本の形や文章の制約そのものを使った実験も続けています。
2025年『携帯遺産』、2026年には新たな実験作へ
芥川賞後の2025年には、チャールズ・ディケンズを題材にした『携帯遺産』を発表し、同年6月に朝日新聞出版から単行本が刊行されました。
子どものころの避難生活では持ち運べる本を身近に感じ、大学では一枚の紙へ文学を詰め込み、『ゲーテはすべてを言った』では膨大な文学情報を一つの作品へ収めていました。
2026年にはさらに、雑誌『広告』の企画で冒頭から最後の句点までを一文だけで書く小説《一行》に挑戦しています。
一文という制限に合わせて、最初は14行詩の形で作った文章を一文へ組み替え、本文だけでなく手書き原稿や注釈の見せ方まで設計しました。
2026年に大学院を修了し、作品集『人にはどれほどの本がいるか』を刊行
2026年には西南学院大学大学院を修了し、学生・大学院生として続いてきた西南学院大学での生活にも一区切りが付きました。
同年5月には日本聖書協会の記念講演会へ登壇し、牧師の家庭で育ったことや震災後の避難生活、聖書を読み込んだ子ども時代をあらためて語っています。
講演では新作『猫にバイブル』の創作についても話し、幼少期から身近にあった聖書が、25歳になった現在の作品にも登場しました。
さらに2026年8月7日には、デビュー作を表題作にした作品集『人にはどれほどの本がいるか』が朝日新聞出版から刊行されました。
同書には表題作のほか『猫にバイブル』と書き下ろし短編『完壁な辞書』が収録され、小学6年から書き続けてきた鈴木さんにとって新たな一冊が加わっています。
幼いころから身近だった「本を読むこと」と、自分で「本を作ること」の両方を続けたまま大学院修了後の創作へ進んでいます。
今も残る「福島をいつか小説にする」というテーマ
作家デビュー前には、最初に小説を書く理由にもなった福島を題材に何度か作品を書こうとしていました。
ただ、本人が納得できる小説にはならず、林芙美子文学賞へ応募する前に書いた福島を扱う作品も世に出していません。
芥川賞を受賞した後も、幼少期から震災までを過ごした郡山は、すでに書き終えた過去ではなく、これから小説へする題材として残っています。
「やっぱり福島が僕の原風景なので、いつか必ず書きたいです」
好書好日
郡山の教会で本に囲まれて育ち、震災と福岡への転居を経て始めた小説は、中学・高校・大学と形を変えながら書き継がれました。
大学4年の林芙美子文学賞が作家デビューにつながり、その次の『ゲーテはすべてを言った』で芥川賞へ進みました。
大学院を修了した現在も新しい書き方を試しながら、最初の小説を書くきっかけになった福島は、これから書く作品の中に残されています。
鈴木結生と似た生い立ちの人物は?
出身地・年代・人生の原点などの共通点から探せます。











