お笑いコンビ「エバース」でツッコミを担当する町田和樹さんは、1992年4月24日生まれ、神奈川県大和市出身の芸人です。
M-1グランプリでは2024年に初めて決勝へ進んで4位となり、2025年には2年連続で決勝へ進出してファーストラウンドを1位で通過しました。
舞台では佐々木隆史さんが繰り出す話に次々と返していく町田さんですが、子どものころから芸人を目指していたわけではありません。
高校を卒業せず、交通事故による入院と自動車ディーラーでの会社員生活を経て、23歳になる年に東京NSCへ入りました。
芸人になってからもすぐに注目されたわけではなく、佐々木さんと組んでもNSCの選抜クラスに入れず、コンビを結成してから何年も結果が出ない時期が続きます。
町田和樹の生い立ちと家族|教師の両親のもと大和市で育つ
町田さんの人生のスタート地点は、現在も出身地として公式プロフィールに記載されている神奈川県大和市です。
家庭では学校教育がかなり身近な存在で、後年になって本人は父親と母親がともに高校教師だったことを明かしています。
両親はともに高校教師|子どものころは芸人志望ではなかった
現在は漫才を仕事にしているものの、幼いころからテレビのお笑いを研究していたような少年ではありませんでした。
2026年のQuick Japanのインタビューでは、子どものころは芸人になりたいという気持ちはあまりなく、一般的なバラエティ番組を見る程度だったと語っています。
お笑いを意識するきっかけの一つになったのが、クリスマスイブに見たブラックマヨネーズのM-1グランプリでした。
「自分がやろうとはまだなってなかったですね」
QJWeb
「漫才はおもしろい」と感じても、その時点で自分の職業として芸人を考えていたわけではありません。
学校の先生である両親のもとで育ちながら、のちに自分は高校を途中で離れ、その後さらに芸人の道を選ぶことになります。
弟と育った家庭|芸人になると伝えた母の返事
町田さんには弟が1人おり、両親と兄弟のいる家庭で育ったと紹介されています。
両親が教師という家庭で本人が高校を中退したことは、家族にとっても小さな出来事ではありませんでした。
さらに就職したあと芸人になることを伝えると、母親から返ってきた言葉は、強い反対というより戸惑いがそのまま出たようなものでした。
「あなた、もうちょっと意味不明ですね」
マイナビニュース
一方で父親からは「頑張れば良いじゃないか」という言葉をもらったと町田さんは話しています。
町田和樹の中学時代|つきみ野中で野球を続ける
小学校を終えた町田さんは、大和市にある大和市立つきみ野中学校へ進みました。
この学校が本人の母校であることは、ずっと後の2026年にエバースとして学校を訪れたことで改めて確認されています。
大和市立つきみ野中学校へ|野球をして過ごした時期
学生時代の町田さんには、現在のプロフィールからは少し想像しにくい野球をしていた時期があります。
野球は中学まで続けており、芸人になってからも野球企画に参加する姿が見られています。
ただし、相方の佐々木さんのように高校・大学まで野球の競技歴を積み上げたわけではなく、町田さんの野球生活はいったん中学で区切られました。
中学時代には家を離れて公園で寝たことも
中学生になったころには家庭から離れて行動する時期もあり、後年のテレビ出演では、家出をして近所の公園などで寝ていたことを本人が明かしています。
修学旅行の時期にも家へ戻らず、公園から修学旅行へ向かい、帰ってから再び公園へ戻ったというエピソードまで語られました。
このころには、教師である両親のもとで過ごした子ども時代とは生活の様子がかなり変わっていました。
それでも芸人になることはまだ現実的な進路ではなく、中学の同級生がのちにNSCへ入ったと知ったときも、本人にとっては「そういう場所があるのか」と感じる程度だったそうです。
町田さんの人生のスタート地点は、現在も出身地として公式プロフィールに記載されている神奈川県大和市です。
小学校を終えた町田さんは、大和市にある大和市立つきみ野中学校へ進みました。
学生時代の町田さんには、現在のプロフィールからは少し想像しにくい野球をしていた時期があります。
中学生になったころには家庭から離れて行動する時期もあり、後年のテレビ出演では、家出をして近所の公園などで寝ていたことを本人が明かしています。
現在は漫才を仕事にしているものの、幼いころからテレビのお笑いを研究していたような少年ではありませんでした。
中学校を卒業すると町田さんは高校へ進学しましたが、ここで最終学歴につながる大きな変化が起きます。
高校中退の直接的な理由は、次の学年へ進級できなかったことでした。
高校2年の終わりで学校を離れた直後、町田さんはバイクで接触事故に遭いました。
町田和樹は高校2年で中退|進級できず学校を離れる
中学校を卒業すると町田さんは高校へ進学しましたが、ここで最終学歴につながる大きな変化が起きます。
本人は通っていた学校について進学校だったと振り返っており、高校2年の終わりで中退しました。
進学校へ入学するも、卒業までは進めなかった
町田さんの高校については神奈川県内の特定の学校名が広く挙げられていますが、本人や吉本興業の公式プロフィールでは学校名を公表していません。
一方、本人自身が進学校へ通っていたことと、卒業せず中退したことは複数のインタビューで明確に語っています。
高校を辞めた理由についても、自分から別の夢を追うために退学したという話ではありません。
「辞めるしかなくなった」高校2年の終わりで中退
高校中退の直接的な理由は、次の学年へ進級できなかったことでした。
「辞めたくて辞めたというより、辞めるしかなくなって」
QJWeb
高校教師の両親がいる家庭で、自分は高校を最後まで卒業しないという状況になりました。
ここで次の仕事や学校がすでに決まっていたわけでもなく、本人が「どうしようかな」と考え始めた直後、別の出来事が起こります。
高校中退直後にバイク事故|約半年歩けない生活へ
高校2年の終わりで学校を離れた直後、町田さんはバイクで接触事故に遭いました。
ケガは軽いものではなく、太ももの骨が折れ、入院と長い療養生活が始まります。
進路を考え始めた直後に起きた接触事故
Number Webでは本人が、高校2年の終わりで中退したあと事故に遭い、約1カ月半入院したと説明しています。
事故では太ももの骨が大きく折れ、その後は半年ほど歩けない状態が続きました。
高校を離れて間もない時期に、仕事を始めるより先に長期の療養が必要になったのです。
太ももの骨折で入院|本人が「終わった」と思った時期
事故を振り返った町田さんの言葉は短く、そのときの状況がよく伝わります。
「終わったな、人生」
QJWeb
ところが、事故をきっかけに突然芸人を志したわけでもありません。
退院後に町田さんがまず選んだのは、芸能界とは離れた自動車関係の仕事でした。
後年、NSCで評価されない時期について町田さんは、事故で「終わった」と感じたころに比べればまだましで、「まだ伝わっていないだけ」と考えられたとも話しています。
町田和樹の前職は自動車ディーラー|約3年間の営業マン生活
療養を終えた町田さんは就職し、自動車ディーラーの営業として働き始めました。
この会社員生活は短期間のつなぎではなく、およそ3年間続いています。
事故後に就職|車の営業で「そこそこ売れた」
自動車ディーラーでは客に車を販売する営業を担当し、本人によると成績は悪くありませんでした。
「僕、車そこそこ売れたんですよ」
Number Web
芸人として何も経験していない段階で仕事を捨てて勝負に出たのではなく、一度営業として働き、自分で車を売った経験があったことが町田さんのNSC入りの前提になっていました。
本人は後年、社会人時代には販売のノルマがあり、苦手な営業も自分からしなければならなかったと振り返っています。
芸人以外の将来を考えたときには、営業を続ければどこまで稼げるか、配達系の仕事が自分に向いているかと考えたこともありました。
夜の遊びで周囲を笑わせ、お笑いを仕事にする選択肢が浮かぶ
会社員になった町田さんは、大学生だった同年代より自由に使えるお金があり、仕事のあとに飲みに出る機会も増えていきました。
そのころよく行っていた場所の一つがキャバクラで、そこで会話をして周囲が笑ってくれたことが、お笑いを仕事として試してみる直接的なきっかけになりました。
本人自身はこれを「自分がおもしろいと勘違いした」と表現しています。
もし芸人としてうまくいかなければ、また車を売る仕事へ戻ればいい。
すでに一度仕事を経験していたことが、芸人を何年か試してみるという選択につながりました。
23歳で東京NSCへ|佐々木隆史との出会いからエバース結成
会社員生活を約3年続けた町田さんは、同年代が大学を卒業するころに東京NSC21期へ入りました。
現在の相方である佐々木隆史さんとの出会いは、その養成所時代に訪れます。
大学卒業世代に年齢を合わせてNSC21期へ
町田さんがNSCへ入る時期には、少し変わった計算がありました。
高校を中退してすぐ養成所へ向かうと同年代とは入学時期がずれますが、会社員として働き、同級生たちが大学を卒業するタイミングに合わせればNSCにも同い年が多いと考えたのです。
その読みどおり、同じ1992年生まれの佐々木さんも東京NSC21期に入っていました。
ただし、入学した町田さんはすぐ養成所で高く評価されたわけではありません。
本人は当時について、すごい人が大勢いて厳しかったと話し、選抜クラスにも入れませんでした。
最初は別コンビ|「一番スベっていた町田」と佐々木が出会う
NSCへ入った時点では、町田さんと佐々木さんはそれぞれ別の相手とコンビを組んでいました。
町田さんは最初のコンビでボケを担当していましたが、早い段階で「自分はボケではない」と感じるようになります。
一方の佐々木さんは最初に組んだ相方がNSCを辞めることになり、その元相方から新しい相方候補として町田さんを紹介されました。
待ち合わせ場所は新宿駅でしたが、佐々木さんには町田さんの顔に見覚えがありました。
ネタ見せの授業で、佐々木さんの最初のコンビはその日もっともウケたと感じるほど反応がよく、町田さんのコンビは反対にかなりスベっていたからです。
町田さんからすると紹介された相手は「あの授業で一番ウケていた人」であり、佐々木さんからすると「一番スベっていた人」が自分の前に現れました。
ボケからツッコミへ|2016年にエバースとしてスタート
佐々木さんと組んだ町田さんは、それまで担当していたボケをやめ、現在と同じツッコミを担当するようになりました。
学生時代から無茶ぶりに返したり、先輩からいじられた場面で返しを褒められたりした経験があり、本人も何かに反応して返すほうが向いていると感じていたそうです。
2016年4月1日、佐々木隆史さんと町田和樹さんは「エバース」を結成しました。
しかし、コンビ名が決まりツッコミという自分の役割も見つかったからといって、その先が順調に進んだわけではありません。
結果が出なかった20代|ファミレスと劇場で漫才を続ける
エバースはNSCを卒業して芸人として活動を始めましたが、同期の中で早くから注目される存在にはなりませんでした。
むしろ20代の多くは、結果が見えないままライブへ出演し続ける時間になりました。
NSCの選抜にも入れず、同期にも知られていなかった
結成当初のエバースはNSCの選抜クラスに入った経験もなく、同期にもあまり知られていないコンビだったと二人は振り返っています。
町田さん自身も、調子がよい時期があったという感覚はなく、目の前にずっと壁があったようだったと話しています。
それでも町田さんには、自動車ディーラー時代へ戻るという選択肢が頭の片隅にありながら、実際には芸人を続ける時間が積み重なっていきました。
2026年のインタビューで当時を振り返った町田さんは、事故で人生が終わったと思ったころと比べれば、ライブで評価されないこともまだ小さいと感じられたと語っています。
「まだ伝わってないだけ」
QJWeb
ネタ合わせのはずが雑談ばかりだったファミレスの時間
結果が出ていなかったころも、二人はネタを出し合うために会っていました。
ところが実際にファミレスへ集まると、ネタの話をほとんどせず、そのまま雑談をして帰る日も珍しくなかったそうです。
佐々木さんによると、そこで話していたのは恋愛や昔の話を含むごく普通の雑談でした。
その時間の中で、「この話題なら町田はこんな方向へ返すとおもしろい」という感覚を佐々木さんが少しずつつかんでいきました。
町田さん自身も20代を、自分が何を言えばウケて、何を言えばウケないのか探していた時期だったと振り返っています。
「町田を面白くする」方向へネタ作りが変わる
コンビを組んで3〜4年目ごろまで、佐々木さんは「どうすればウケるのか」を十分につかめないままネタを作っていました。
そこで作家の山田ナビスコさんから、当時のネタは町田さんでなくてもツッコミが成立すると指摘されます。
さらに佐々木さんへ向けられたのが、「町田がどういうときにおもしろいのかを考える」という課題でした。
佐々木さんは、町田さんがいじられたとき、困ったとき、追い詰められたときの反応へ目を向け、それまでのネタを作り直します。
佐々木さん自身のボケを見せる漫才から、町田さんの反応まで含めておもしろくする漫才へ形が変わりました。
新しい方向で作ったネタが客席で大きくウケたことで、二人はその形を続けていきます。
現在のエバースで、佐々木さんが現実から少しだけずれた提案を真顔で持ち込み、町田さんが当事者として嫌がったり訂正したりする形は、この時期の試行錯誤の先で固まっていきました。
コロナ禍の共同生活からM-1へ|町田和樹の現在
芸歴が5〜6年目に入ったころ、新型コロナウイルスの流行で劇場やライブの環境が大きく変わりました。
町田さんはこのころも神奈川県の実家から都内へ通っていましたが、仕事と生活の変化から佐々木さんの家に泊まる日が増えていきます。
実家と都内を往復する生活から佐々木との同居へ
コロナ禍で芸人の仕事が減り、アルバイト収入が必要になる中、町田さんはUber Eatsの仕事をするため都内へ出ることが増えました。
そのまま佐々木さんの家でネタ合わせをし、泊まって翌日のライブへ向かう日が続くようになります。
佐々木さんから、これだけ家にいるなら家賃を半分払ってほしいと言われると、町田さんも半分払うなら毎日いたほうがいいと考え、半同棲のような状態から共同生活が始まりました。
同じ家で暮らしても食事や外出は別々で、仕事先が同じでも家を出る時間までそろえていたわけではありません。
一方でネタ合わせのためにわざわざ集合する必要はなくなり、結果が出ない時期から長く一緒にいた二人が生活の拠点まで共有することになりました。
2023年M-1敗者復活戦で全国へ|その後の賞レース躍進
エバースの名前が広く知られる転機の一つになったのが、M-1グランプリ2023の敗者復活戦でした。
決勝進出には届かなかったものの、この舞台をきっかけに漫才が全国の視聴者へ届き、翌2024年には劇場でも結果が続きます。
2024年3月には神保町よしもと漫才劇場のJimbochoグランプリで総合優勝し、同年12月にはM-1グランプリで初めて決勝へ進出しました。
M-1グランプリ2024では848点を獲得し、3位の真空ジェシカとわずか1点差の4位。
決勝で披露した漫才では、会社員経験のある町田さんが発した「末締め」という言葉も大きな反応を集めました。
2025年6月には第46回ABCお笑いグランプリで優勝し、エバースは若手漫才師として大きなタイトルも手にします。
その年のM-1でも2年連続の決勝進出を決めました。
2025年の決勝ではファーストラウンドで870点を獲得して1位となり、初めて最終決戦へ進出しています。
最終順位は3位となり、2024年の4位からさらに一つ順位を上げました。
2026年、つきみ野中学校へ漫才師として凱旋
2026年2月20日、町田さんはエバースとして大和市立つきみ野中学校を訪れました。
「M-1ファイナリスト母校凱旋」としてPTAが企画したもので、二人は全校生徒を前に漫才を披露しています。
中学生のころに過ごした学校へ、今度は漫才師として相方と戻り、後輩たちからの質問にも答えました。
高校を卒業せず、事故と会社員生活を経て入った芸人の世界で、母校へ呼ばれるところまで時間が進みました。
翌3月にはテレビ朝日の企画で町田さんの実家を訪れるロケも行われ、芸人になると伝えたころには「意味不明」と言われた両親の前で、エバースとして漫才を披露しています。
番組では数学教師だった父親から授業を受ける場面もあり、大人になった町田さんと両親が同じ画面に並びました。
2026年8月時点では、エバースはM-1グランプリ2026にもエントリーし、前年の成績によるシードで1回戦を通過しています。
高校を離れた直後には次の進路も定まらず、事故で長く歩けない時期を過ごした町田さんは、その後自動車ディーラーで働き、23歳になる年に初めて芸人の養成所へ入りました。
そこで最初のネタ見せでは対照的な評価を受けていた佐々木さんと出会い、何年も結果が出ない劇場やファミレスでの時間を経て、二人の漫才の形が作られていきました。
現在はM-1の決勝や全国の劇場へ立つ一方、つきみ野中学校や実家へ戻る機会も生まれ、町田さんが大和市で過ごしたころから続く時間が、芸人としての現在までつながっています。
町田和樹と似た生い立ちの人物は?
出身地・年代・人生の原点などの共通点から探せます。












コメントを残す