土岡哲朗の生い立ちと家族|高校で友達0人、青学落研と3年ニートを経て芸人になるまで

土岡哲朗
ひと目でわかるプロフィール 土岡哲朗
つちおかてつろう
出身地
栃木県
生まれ年代
1990年代生まれ
活動ジャンル
お笑い芸人
性別
男性
キャリアの原点
学生時代から活動

お笑いコンビ「春とヒコーキ」でネタ作りやツッコミを担い、「バキ童チャンネル」でも独特の存在感を見せている土岡哲朗さん。

雑誌『anan』ではぐんぴぃさんとともにバックカバーを飾り、テレビやYouTubeだけで知った人には、昔から人前に立つことが得意だったようにも見えるかもしれません。

ところが実際には、幼稚園ではよくしゃべる子だったのに、高校では友達ができず、大学卒業後には3年間のニート生活を送っています。

そこから青山学院大学の落語研究会で出会ったぐんぴぃさんとコンビを組み、自分から芸人の道へ進むことを持ちかけました。

土岡哲朗の生い立ちと家族|宇都宮でお笑いと映画に囲まれた幼少期

土岡哲朗さんは1992年2月21日、栃木県宇都宮市出身で、本人は両親について「正しく優しい両親」と表現しています。

子どものころの話をたどると、母親、父親、姉がそれぞれ違った形で、後に長く好きになるお笑いや映画との入口を作っていました。

幼稚園ではおしゃべり|母と見たドリフとMr.ビーン

幼稚園のころ、家では母親が録画していた『ドリフ大爆笑』や『Mr.ビーン』を見ていました。

まだ幼かった土岡さんには分かりにくい場面もあり、母親は映像を一緒に見ながら「今はこういうことをしている」と内容を説明してくれたそうです。

ただテレビをつけてもらったのではなく、母親の説明を聞きながら笑う時間があったことを、土岡さん自身が後年のnoteで振り返っています。

母親は落語も好きで、特に五代目三遊亭圓楽の『中村仲蔵』を好んでおり、この記憶も後に大学で落語研究会を選ぶ際に出てきます。

父と映画館で見たスター・ウォーズが映画好きの入口に

映画の入口になったのは、父親が好きだった『スター・ウォーズ』でした。

1999年に『エピソード1/ファントム・メナス』が公開されたころ、金曜ロードショーで旧作を見ていると、父親が登場人物や時系列を横で説明してくれました。

父親は学生時代に最初の『スター・ウォーズ』を見ていた世代で、新三部作が公開されると土岡さんを映画館へ連れていきました。

『エピソード3/シスの復讐』を見るころには、土岡さん自身が「ちゃんとストーリーを把握したい」と思うようになり、父親が買ってきたDVDを何度も見返して新作に備えています。

父親に連れていってもらった一本のシリーズが、やがて1,000本を超える映画鑑賞へ続く入口になりました。

宇都宮には当時、駅前の小さな映画館や後にできたシネコンがあり、母親と『もののけ姫』を見に行ったときには途中から入場し、エンドロールをまたいでもう一度同じ場面まで見た記憶も残っています。

大ヒットしていた『千と千尋の神隠し』では満席の劇場で階段に座って見たこともあり、映画館そのものが子ども時代の風景の一部になっていました。

中学3年、姉が借りてきたラーメンズのDVDに衝撃を受ける

中学3年生になると、今度は姉が友人から借りてきたラーメンズのDVDが家にやってきました。

それまでにもお笑い番組は見ていましたが、ラーメンズのコントを見た土岡さんは、笑いでこんな表現までできるのかと驚き、その流れでバナナマンにも夢中になります。

同じころ、偶然テレビで第1回を見た『働くおっさん劇場』も毎週見るようになり、母親から「またこの変な番組見てる……」と反応されるほどでした。

母親からドリフや落語、父親から映画、姉からラーメンズと、家族の中から別々のカルチャーが入ってきた子ども時代でした。

土岡哲朗の小中高校時代|おしゃべりな子が学校でほとんど話さなくなるまで

家では好きな作品を次々見つけていた一方、人との話し方は成長するにつれて大きく変わっていきました。

「幼稚園の頃はめちゃくちゃおしゃべりな子でした。」

お笑いナタリー

本人によると、小学校、中学校と進むにつれて徐々に静かになり、その変化が最も大きく表れたのが高校でした。

小学校・中学校で少しずつ静かになっていった

小学校高学年から中学生になるころには映画への興味が強くなり、中学では映画雑誌『SCREEN』か『ロードショー』を毎月買っていました。

学校ではいわゆる目立つグループではなかったものの、映画やお笑いの話ができる友人がおり、一緒に映画館へ行くこともあったそうです。

新作情報にも詳しく、公開前の『ダークナイト』について友人へ話すと、「なんで知ってるの」と驚かれるような役回りになっていました。

土岡さん自身もNEOWNのインタビューで、中学時代には友人と映画やお笑いの話をして楽しく過ごしていたと話しています。

小学校・中学校の具体的な校名については本人や所属事務所が公表していませんが、少なくとも学校生活そのものが最初から一貫して孤立していたわけではありません。

高校では友達ができず、帰宅後はネットを見る毎日に

高校へ進むと、それまでとは状況が変わりました。

本人が繰り返し語っているのは、高校3年間で友達が1人もできなかったということです。

学校ではほとんどしゃべらず、授業が終わると家に帰ってネットを見る生活になりました。

中学では友人と映画館へ行き、新作映画の話までしていたのに、高校では会話そのものがほとんどなくなりました。

後年、土岡さんはCREAで当時を振り返り、「友達がいなかった」とはいっても、誰とも一言も話さなかったわけではないことにも触れています。

それでも本人の記憶の中で、高校時代が人との会話が極端に少なくなった時期だったことは変わりません。

高校時代からニコニコ動画を見始める

人と話す時間が減った高校時代、自宅ではネットに触れる時間が増えていました。

土岡さんは後年、ニコニコ動画を高校時代から「ちらちら」と見始めていたと話しています。

特に好きだったのは、普通の動画に見せかけたサムネイルやタイトルから予想外の映像へ飛ばされる、いわゆる「釣り動画」のようなネット特有の遊びでした。

学校での会話は減る一方で、映画、お笑い、ネット上の奇妙な動画を見る時間は増えていきました。

このニコニコ動画との付き合いは、大学でぐんぴぃさんと出会ってからさらに深くなっていきます。

人生年表 土岡哲朗さんの歩み
幼少期
土岡哲朗の生い立ちと家族|宇都宮でお笑いと映画に囲まれた幼少期

土岡哲朗さんは1992年2月21日、栃木県宇都宮市出身で、本人は両親について「正しく優しい両親」と表現しています。

小学校
小学校・中学校で少しずつ静かになっていった

小学校高学年から中学生になるころには映画への興味が強くなり、中学では映画雑誌『SCREEN』か『ロードショー』を毎月買っていました。

高校
土岡哲朗の小中高校時代|おしゃべりな子が学校でほとんど話さなくなるまで

家では好きな作品を次々見つけていた一方、人との話し方は成長するにつれて大きく変わっていきました。

高校
高校では友達ができず、帰宅後はネットを見る毎日に

高校へ進むと、それまでとは状況が変わりました。

高校
高校時代からニコニコ動画を見始める

人と話す時間が減った高校時代、自宅ではネットに触れる時間が増えていました。

学生時代
青山学院大学へ|落研でぐんぴぃと出会い人と話す生活が戻る

高校卒業後、土岡さんは青山学院大学文学部日本文学科へ進み、東京で大学生活を始めます。

学生時代
就活で約30社不採用|大学卒業と同時に3年間のニート生活へ

大学でお笑いの仲間ができても、この時点では芸人になることを当然の進路と考えていたわけではありません。

学生時代
学生時代の自分が楽しめるものから、さらに広い場所へ

現在のコンテンツ作りについて、土岡さんは自分の昔の年代を一つずつさかのぼるような目標を話しています。

青山学院大学へ|落研でぐんぴぃと出会い人と話す生活が戻る

高校卒業後、土岡さんは青山学院大学文学部日本文学科へ進み、東京で大学生活を始めます。

青学へ入れば自然にあか抜けるものだと思っていたものの、入学初日にキャンパス内をスケートボードで走る学生を目撃し、「そもそもの人間性が違う」と感じたというエピソードも残っています。

「リハビリ」で入った落語研究会

大学で選んだのが落語研究会でした。

母親が落語好きだったこと、ラーメンズが大学の落研出身だったことに加え、お笑いそのものが好きだったことも入部理由になっています。

「リハビリで落研に入りました。」

anan web

高校時代にほとんど人と話していなかったため、後年には落研へ入った理由を「人と話すリハビリ」とも表現しています。

新歓のブースで声をかけてきた先輩の一人が、後に相方となるぐんぴぃさんでした。

ただし土岡さんは、実際に会う前からぐんぴぃさんの存在を知っていました。

ぐんぴぃさんはブランドバッグを持つ青学生への対抗心から教科書を紙袋に入れて通学しており、学生向けネット掲示板で「紙袋おじさん」として知られていたからです。

ぐんぴぃとの肝試しを境に距離が縮まる

ぐんぴぃさんは、入部したばかりの土岡さんを「一番暗い人間だった」と覚えていました。

ところが半年ほどして久しぶりに落研へ顔を出した際、周囲から土岡さんが「誰よりも笑いをとってる」と聞かされて驚いたそうです。

二人の距離が縮んだころには、帰り道に肝試しのようなことをしながら歩いた夜もありました。

途中で土岡さんの姿が見えなくなり、ぐんぴぃさんが探していると、物陰から突然現れて「へっへっへ、やあ山口くん!」と声をかけたそうです。

それまで「山口さん」と呼んでいた相手を、その日を境に「山口くん」と呼ぶようになりました。

高校時代にはほとんど会話がなかった土岡さんが、大学ではこうした遊びをする友人を作っていました。

歌舞家窓馬として学生落語全国大会で準優勝

落研では「歌舞家窓馬(かぶや・そうば)」という高座名を使っていました。

タイタンの公式資料にもこの高座名が残っており、「第4回てんしき杯学生落語トーナメント」で準優勝しています。

落語家への弟子入りを考えていたわけではなく、古典落語に強い憧れがあって入部したわけでもありませんでした。

それでも自分でネタを作り替えながら高座へ上がり、全国大会で結果を残すところまで続けています。

部室でのお笑い談義とネタ作りが楽しくなる

当時の落研には約30人の部員がいましたが、ぐんぴぃさんによると、土岡さん以外はほぼ全員がボケたがるタイプでした。

自由にボケる部員たちの中で土岡さんがツッコミを入れると場がまとまり、周囲から重宝されるようになります。

本人は後からその構図を聞き、「ラッキーだったなぁ」と笑っていますが、大学の部室では「ツッコミをする人」という役割が自然にできていました。

「部室で楽しくしゃべっていた延長をこの先もずっとやっていたい」

お笑いナタリー

高校で友達ができなかった時期を経て、お笑いの話ができる仲間が増え、自分で作ったものを人前で披露する時間も増えていきました。

就活で約30社不採用|大学卒業と同時に3年間のニート生活へ

大学でお笑いの仲間ができても、この時点では芸人になることを当然の進路と考えていたわけではありません。

卒業が近づくと、土岡さんも一般企業へ就職するために就職活動を始めました。

会社員になるつもりで就活するも内定が取れなかった

就職活動では面接がうまくいかず、ほとんどの企業で一次面接から先へ進めませんでした。

受けた企業は約30社にのぼりましたが、内定は0社でした。

何度面接を経験しても手応えが変わらず、土岡さんは「就職留年」をすることにします。

ちょうど必修科目の試験にも寝坊して受けられなかったため、そのまま単位を落として大学に残れると思っていました。

ところが後日、届いたのは留年の知らせではなく卒業通知でした。

就職先が決まっていると思った教授が単位を認めてくれたようで、慌てて大学の事務局へ電話したものの、留年希望の締め切りはすでに過ぎていました。

事務局から「卒業おめでとうございます!」と電話を切られ、大学卒業と同時に無職になりました。

卒業後約1か月でぐんぴぃに「芸人やりません?」と誘う

卒業後は東京に残り、両親に家賃などを支えてもらいながら生活しました。

アルバイトもしておらず、朝起きても予定が何もない日が続きます。

求人情報のフリーペーパーを開いて働き口を探しても、いざ応募しようとすると電話をかけられず、就職することへのハードルが上がっていきました。

「どちらも怖いならば、いっそ芸人になってしまおう!」

MEN’S NON-NO WEB

就職と芸人になることが同じくらい遠い選択肢になったところで、好きだったお笑いを選びます。

大学卒業から約1か月後、当時ブックオフで働いていたぐんぴぃさんへ「芸人やりません?」と自分から連絡しました。

相方にぐんぴぃさんを選んだ理由は、大学時代に最も自分を笑わせた人であり、自分にはない社交性やハプニングを呼び込むところも含め、ほかの選択肢を考えなかったからでした。

ぐんぴぃさんも誘いには応じましたが、当時は仕事が順調だったため、すぐには会社を辞めませんでした。

芸人開始を待つ3年間、映画館へ通い続ける

ぐんぴぃさんの退職を待つ間、土岡さんのニート生活は約3年間続きました。

時間がある中で増えていったのが映画鑑賞で、映画館だけでも年間50〜60本ほど見るようになります。

大学時代からExcelへ映画のタイトルや感想を記録していたため、見た本数が増えても記録を続け、年末には2〜3人の友人へ向けてツイキャスで年間映画ランキングを話すこともありました。

仕事をしていなかった3年間に、後の映画発信につながる鑑賞本数と記録が積み上がっていきました。

2026年には、この時期の経験を題材にした本人著の冊子『内定0から始めるニート入門』も制作しています。

2017年に春とヒコーキ結成|アマチュア活動からタイタンの学校へ

ぐんぴぃさんはブックオフで店長を務め、売上を伸ばす時期を経験したあと、会社を退職します。

土岡さんが誘ってから約3年が経った2017年4月、二人は「春とヒコーキ」として活動を始めました。

ぐんぴぃの退職を待ってようやくコンビ活動が始まる

結成直後から芸能事務所へ所属できたわけではなく、最初の約2年間はフリーで活動しました。

芸人仲間のライブへ出してもらいながら、複数の事務所オーディションを受けます。

あるライブ形式のオーディションでは、ほかのコンビが「ツッコミが弱い」など具体的な講評を受ける中、春とヒコーキに告げられた感想は「気持ち悪かったなぁ」の一言だけでした。

その後も所属先は決まらず、二人はフリーでライブ出演を続けます。

2019年4月、養成所入学前日に街頭インタビューが拡散

転機になった出来事の一つが、2019年4月9日にぐんぴぃさんが受けたABEMA NEWSの街頭インタビューでした。

日本人男性の性交渉経験について取材していたスタッフに声をかけられ、ぐんぴぃさんが「バキバキ童貞です」と答えた映像がSNSで急速に拡散します。

翌朝には、ぐんぴぃさん、土岡さん、もう一人の友人がいるLINEグループで街頭インタビューの話になり、友人がTwitterを検索して大きく拡散していることを知らせました。

土岡さんもその広がり方を目の当たりにしており、芸人としてネタで知られるより先に、相方が一般人として受けた街頭インタビューで全国へ知られる事態になりました。

しかもこの出来事が起きたのは、二人がタイタンの学校へ入る直前でした。

タイタンの学校で観客投票MVP、2020年に正式所属

2019年、二人はタイタンの学校2期生として養成所へ入ります。

当時27歳と29歳で、年齢制限が25歳前後の養成所もある中、幅広い年代を受け入れていたタイタンの学校を選びました。

同年9月の定期ライブ「Dragonfly」では、観客投票で「対決ダンス」と並んで最優秀芸人に選ばれ、「TITAN LIVE Rhea」への出演権を獲得しています。

学校修了後は約1年間の「預かり」期間を経て、2020年5月にタイタンへ正式所属となりました。

大学卒業時に無職になった土岡さんは、ここで初めてお笑いを所属事務所のある仕事として続ける立場になります。

YouTubeと「バキ童」が広げた春とヒコーキの活動

正式所属となった2020年には、2019年の街頭インタビューから続いていた「バキ童」という呼び名が、別の形で動き始めます。

舞台のネタだけでなく、土岡さんが高校・大学時代から親しんできたネット文化も仕事の中へ入っていきました。

2020年、「バキ童チャンネル」が始まる

ぐんぴぃさんの街頭インタビューが長く拡散され続ける中、セクシー女優・唯井まひろさんのYouTubeへ出演した動画も大きく再生されました。

それを見たタイタンのマネージャーから「バキ童でチャンネル始めたら」と提案され、大学の後輩からもYouTubeを勧められます。

ぐんぴぃさん本人は当初乗り気ではなかったものの、イベントの客席でマネージャーと後輩が話を進め、2020年11月に「バキ童チャンネル」が始まりました。

土岡さんも出演するだけでなく企画を担当し、コンビとは別の大きな活動の場になっていきます。

ネット文化・映画・食べ物まで昔から好きだったものが企画になる

高校時代からニコニコ動画を見ていた土岡さんは、大学でぐんぴぃさんと出会ってからネット動画をさらに深く見るようになっていました。

バキ童チャンネルでは、ネットミーム、奇妙な動画、漫画、アニメ、映画、食べ物など、二人が昔から触れてきた題材が次々と企画になります。

土岡さん自身が企画者としてクレジットされる動画も多く、ネタを書く春とヒコーキとは別に、長尺のYouTube企画を考える仕事も増えました。

高校時代に家で見ていたネット動画の文化が、十数年後には自分が作る側の仕事場になっています。

学生時代の自分が楽しめるものから、さらに広い場所へ

現在のコンテンツ作りについて、土岡さんは自分の昔の年代を一つずつさかのぼるような目標を話しています。

「最終的には、子供の頃の自分が楽しめるような番組が作れたら。」

anan web

まず大学生だった自分、その次は中学生だった自分へ届くものを作り、さらに子どものころの自分へ広げていくという考えです。

母親とドリフを見ていた幼稚園児、ラーメンズのDVDに驚いた中学生、ネットを見続けていた高校生の時期が、現在の企画の外側にあるわけではありません。

映画や地元・栃木へ|昔好きだったものと現在の仕事が交わる

YouTubeの活動が広がったあとも、土岡さんが長く続けてきた映画鑑賞は別の仕事へ展開しています。

子ども時代に父親から教わった『スター・ウォーズ』から始まった映画との付き合いは、大学、ニート時代、芸人生活を通して途切れませんでした。

1,000本以上の映画鑑賞が映画の仕事へ

大学へ入った土岡さんは、一人暮らしで自由に使える時間ができたとき、「とにかく映画を見ることにたくさん時間を使おう」と決めました。

入学直後の授業でExcelを覚えると、鑑賞日、作品名、出演者などを表に入力し、やがて短いメモだったものを詳しいレビューへ変えていきます。

その記録は誰にも見せないまま13年間続き、レビューは約1,200本分まで増えました。

後にマネージャーから映画レビューサービス「Filmarks」への投稿を勧められ、パソコンの中に置いていた文章を外へ出すようになります。

さらに映画を語るYouTube「映画の話をドガチャガ」も始まり、好きなシーンを3つ選んで整理すると話しやすいことなど、長く続けた記録が動画で話す方法にも使われるようになりました。

大学で自分のためだけに始めたExcelの映画記録が、十数年後には公開レビューや映画を語る仕事へ変わりました。

『怪獣ヤロウ!』出演をきっかけに地元・栃木を見直す

2025年には、春とヒコーキのマネージャーでもある八木順一朗監督の映画『怪獣ヤロウ!』が全国公開されました。

主演はぐんぴぃさんで、土岡さんも劇中へ出演しています。

監督から「ぐんぴぃが主演の映画を撮るから土岡くんも出てよ」と言われ、役どころを尋ねると、ぐんぴぃさんがテレビに映っているのを見ながらうどんを食べる人だと説明されたそうです。

長年映画を見てきた土岡さんが、今度は相方主演の映画の画面内へ入ることになりました。

ご当地映画として岐阜県関市を描いた作品に関わったことで、自分の地元である栃木についても、もっときちんと知りたいという気持ちを語るようになります。

2026年には地元・栃木のCRT栃木放送「タイタンの学校Presents TCCサタデーキャンパス」でMCを務め、芸人として栃木と接する仕事も生まれています。

高校時代に憧れたラーメンズの片桐仁と同じ席で話すまで

中学3年で姉が借りてきたDVDから夢中になったラーメンズとは、さらに時間が進んだあとにも接点が生まれました。

ぐんぴぃさんがドラマ『新空港占拠』で片桐仁さんと共演し、相方の土岡さんがラーメンズの大ファンだったことを本人へ伝えます。

その後、土岡さんは片桐さんを含む4人で飲む機会を得ました。

しかも片桐さんは、バキ童チャンネルで公開されていた土岡さんの人生を振り返る動画まで見ていたそうです。

「そんな日が来るとは思わなかった。」

ワラパー

中学生のころ自宅でDVDを見ていた相手と、芸人になったあと同じテーブルで話すところまで時間が進みました。

宇都宮で過ごした子ども時代から、青学の落研、卒業後の空白期間を経て、土岡さんの時間は2017年の春とヒコーキ結成へ進みました。

現在は舞台のネタ作りだけでなく、YouTubeや映画についての発信、地元・栃木での仕事にも活動が広がっています。

昔から見続けてきたお笑い、映画、ネット文化が、そのまま現在の仕事の中に何度も姿を見せています。

参考・出典 この記事で参照した主な資料

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