お笑いコンビ「紅しょうが」の稲田美紀さんは、熊元プロレスさんとともに2023年の「女芸人No.1決定戦 THE W」で優勝し、東京の劇場やテレビ、ラジオなどで活動しています。
1989年1月30日生まれで、出身は大阪府和泉市、吉本総合芸能学院ではNSC大阪33期にあたります。
- 家庭内に教育や学びが身近にある環境で育った。
- 現在の道につながる原点:養成・修業
- 出身地:大阪府
舞台では歯切れのよい言葉を返す稲田さんですが、子どものころの家庭ではバラエティ番組を見る機会が少なく、身近な大人には学校や塾で教える人が何人もいました。
その環境から関西外国語大学へ進み、大学4年では大学へ通いながらNSCにも通うという、それまで家族が想定していなかった進路へ足を踏み入れます。
稲田美紀の生い立ちと家族|教師に囲まれた和泉市での子ども時代
稲田美紀さんが育った大阪府和泉市の家庭では、教育にかかわる仕事がとても身近にありました。
ただ、後年になって当時の暮らしを振り返るまで、本人は自分の家を特別に厳しい家庭だとは考えていなかったそうです。
夕食は『クローズアップ現代』、クリスマスにはゲームより絵本
小さいころはアニメ『クレヨンしんちゃん』をほとんど見たことがなく、夕食の時間には家族でNHKの『クローズアップ現代』を見ていました。
食卓でバラエティ番組を見ることもあまりなく、本人は後から考えると娯楽は少なめだったかもしれないと振り返っています。
「『厳しい』という感覚はまったくなかったです」
CHANTO WEB
その家庭らしさがよく表れているのが、小学生のころのクリスマスプレゼントです。
ゲームを買ってもらう機会はあまりなく、「学びがあるもの」として絵本などを渡されることがあり、稲田さん自身はそれがかなり嫌だったそうです。
一方、2歳上の兄は周囲の友達が持っているという理由でスーパーファミコンを買ってもらったことがありました。
小学校教師の母と塾で教える父、兄と暮らした家庭
母親は小学校教師で、父親も高校受験を扱う学習塾で教える仕事をしていました。
さらに母方の祖母も教師で、稲田さんの身の回りには子どものころから教育関係者が多くいました。
両親はテストの点数を理由に強く怒るというよりも、先生への態度や挨拶、礼儀、一般常識について教えることが多かったそうです。
高校受験の学習塾で教えていた父は人の出身校をよく覚えており、芸能人を見ても学校名がすぐに出てくるほどでした。
家の中に学校や教育の話題が自然に存在する環境は、のちに稲田さんが大学卒業後の進路を決める場面でも再び登場します。
「稲田先生の娘」として過ごした小学生時代
母親が稲田さんの通っていた学校と同じ学区で勤務していた時期には、周囲から「稲田先生の娘さん」として見られることもありました。
それでも本人が気にしていたのは、教師の娘として窮屈かどうかということより、母が学校で「怖い先生」や「おもしろくない先生」だと思われていないかという点でした。
友人の姉が母親の担任クラスにいたため様子を聞くと、「柔らかい感じの人だった」と教えられ、家での母親と変わらないことがわかって安心したそうです。
授業参観では、自分の担任教師より母親のほうが年上だったため、担任が少し気まずそうに見えたことまで覚えています。
近所のスーパーでは母親の教え子の保護者から声をかけられる可能性もあり、稲田さんは自分から照れずに挨拶しようと考えていました。
これは両親からその場で命じられたものではなく、本人が生活のなかで自然に身につけていた振る舞いでした。
家族情報
公開情報で確認できている家族について、続柄・職業・補足・出典を整理しています。
中学から高校へ|お笑いに夢中になり始めた学生時代
家庭ではバラエティ番組を見る機会が多くなかった稲田さんに、中学生になると2歳上の兄がひとつのラジオ番組を教えます。
ここから、見る側としてのお笑いとの距離が急速に縮まっていきました。
中学生でブラックマヨネーズに夢中になった時期
中学3年のころ、兄からABCラジオの『ブラックマヨネーズのずぼりらじお』がおもしろいと教えられました。
稲田さんは放送をカセットテープに録音し、寝る前に何度も聴きながら、まだよく知らなかった2人の顔を想像していました。
実際の姿を見たときには想像との違いに驚いたものの、おもしろさへの興味は変わらず、今度は漫才を見るようになります。
やがてブラックマヨネーズの追っかけをするほど熱中し、グッズを集め、放送局のチャリティーオークションでは吉田敬さん関連の品を6万円で落札したこともありました。
「結婚したいくらい吉田さんが好きでした」
デイリースポーツ
兄から教えてもらった深夜ラジオは、テレビをほとんど見ていなかった稲田さんがお笑いを追いかけ始める入口になりました。
泉北高校では女子ハンドボール部のマネージャーに
中学校を卒業すると、稲田さんは大阪府立泉北高等学校へ進みました。
高校では女子ハンドボール部の選手ではなく、マネージャーをしています。
その理由も少し変わっていて、ケンカが強い女子ハンドボール部でマネージャーをしていた先輩を見て、自分も同じ立場になりたいと頼み込んで入部したと本人が明かしています。
本人の言葉では、力のある部に入りながら「穏便に楽しく」高校生活を送っていたそうです。
後年には、本人の公式Xで高校時代の姿が写った写真も公開されています。
高校2年の初キスで帰宅が遅れ、玄関前で父に怒られる
高校2年生になると、稲田さんには初めての彼氏ができました。
初めてキスをした日は、その時間が楽しくなり、家へ帰ったのが夜11時ごろになってしまいます。
帰宅すると父親が玄関の外まで出てきており、そこで大きな声で怒られました。
稲田さんによると、家では成績よりもルールを守ることに厳しい面があり、この一件の後は門限をかなり意識するようになったそうです。
強く父親から怒られた記憶としては、この高校2年生の出来事が最後になりました。
稲田美紀さんが育った大阪府和泉市の家庭では、教育にかかわる仕事がとても身近にありました。
母親は小学校教師で、父親も高校受験を扱う学習塾で教える仕事をしていました。
家庭ではバラエティ番組を見る機会が多くなかった稲田さんに、中学生になると2歳上の兄がひとつのラジオ番組を教えます。
中学校を卒業すると、稲田さんは大阪府立泉北高等学校へ進みました。
高校2年生になると、稲田さんには初めての彼氏ができました。
母親が稲田さんの通っていた学校と同じ学区で勤務していた時期には、周囲から「稲田先生の娘さん」として見られることもありました。
関西外国語大学へ|親が望んだ教員の道とは違う進路を考え始める
泉北高校を卒業した稲田さんが次に進んだのは、関西外国語大学でした。
大学進学そのものは両親から求められていましたが、どの大学を受けるかは本人が選んでいます。
得意な英語を生かして関西外国語大学を選ぶ
稲田さんが関西外国語大学を選んだ理由は、当時の得意科目だった英語を生かして受験できたことでした。
本人は後年の公式Xでも、泉北高校から関西外国語大学穂谷学舎へ進んだ経歴や英検2級を持っていることを記しています。
両親からは大学の場所について細かな指定はなかったものの、大学へ行くことは必須という考えがあり、その先には教員になる進路が想定されていました。
母親だけでなく母方の祖母も教師だったため、家族の周りでは教員免許を取ることがごく自然な選択肢になっていました。
大学3年で「大学とNSCに通う」と家族へ伝える
一方、ブラックマヨネーズのラジオをきっかけにお笑いを追いかけていた稲田さんは、大学生活の途中で自分も芸人になる道を具体的に考えるようになります。
家族や親戚には芸能の仕事をする人がおらず、両親から教員になることを望まれていたため、芸人志望についてはなかなか言い出せませんでした。
それでも大学3年のとき、電話で家族に翌年からNSCへ通うことを伝えます。
「来年、大学通いながらNSC通うわ」
CHANTO WEB
両親からは「就活はしないのか」と強く反対され、芸能界に親戚もいないことから、どのような世界なのかわからないという心配も向けられました。
就職するのではなく大学とNSCを同時に進めるという選択が、ここで初めて家族の前に現れます。
母が本人の代わりに就職説明会へ行った大学4年
大学4年になるころにも、母親は娘に一般企業へ就職してほしいと考えていました。
その思いは強く、本人ではなく母親が就職説明会へ出向き、資料を持ち帰ったことまであったそうです。
2022年のインタビューで稲田さんは、大学在学中からNSCとのWスクールを決めていた一方、進路について誰かに相談した記憶はないとも語っています。
そして、NSCへ入ったらそこで相方を見つけようと考えていました。
NSC33期と「ブリの白子」|紅しょうが以前に過ごした4年間
大学4年時、稲田さんは予定していた通りNSC大阪校へ入りました。
吉本興業の公式プロフィールでは、2011年にNSC大阪33期を卒業したことが記録されています。
大学とNSCを掛け持ちして芸人の世界へ
大学の卒業を目指す時期と、芸人としてネタや舞台を学び始める時期が重なったことで、稲田さんの大学最後の一年は二つの学校へ通う生活になりました。
NSC講師として当時を知る漫才作家の本多正識さんは、稲田さんについて入学当初からしゃべりが達者で、演技も含めて安定していたと後年振り返っています。
ただ、本多さんの記憶では、何でも一定以上にできる一方で当時は突出した個性が見えにくく、どのように持ち味が出てくるのか気にかけていたそうです。
稲田さん自身はNSCへ入る前から、相方はNSCの中で探すつもりでいました。
同期の國松恵と「ブリの白子」を結成
そこでコンビを組んだのが、同期の國松恵さんでした。
コンビ名は「ブリの白子」で、稲田さんは紅しょうがを結成する前に、このコンビで約4年間活動しています。
2012年の本人公式Xにも、「ブリの白子 稲田美紀」として活動していた当時の投稿が残っています。
現在の紅しょうがだけを見ると熊元プロレスさんとのコンビ歴が長く感じられますが、その前にはNSC入学直後から続いた別の相方との時間がありました。
相方の東京行きで解散、稲田美紀は大阪に残る
「ブリの白子」は、2014年3月27日をもって解散しました。
解散後も2人とも芸人活動は継続しますが、國松さんは東京へ向かい、稲田さんは大阪に残るという別々の道を選びます。
稲田さんは公式Xで、コンビとして過ごした約4年を「めちゃくちゃ楽しい4年間」だったと記しながら、それぞれが活動を続けることを報告しました。
熊元プロレスとの出会い|2014年に紅しょうがを結成
ブリの白子を解散した稲田さんは、大阪で芸人を続けながら次の相方を探し始めます。
ちょうどそのころ、2期下の熊元プロレスさんもそれまでのコンビを解散して相方を探していました。
ゆりやんレトリィバァを介して次の相方候補と出会う
稲田さんが相方探しで声をかけた相手の一人が、熊元さんとNSC同期のゆりやんレトリィバァさんでした。
「ゆりやんレトリィバァに『いい子おる?』って聞いたら」
ラジトピ ラジオ関西トピックス
そこで名前が挙がったのが熊元プロレスさんで、稲田さんはTwitterのダイレクトメッセージから「ご飯行こう!」と連絡しました。
ほぼ初対面の先輩から突然食事に誘われた熊元さんは、相方候補として声をかけられていることをすぐ察したそうです。
しかも当時の稲田さんは熊元さんのネタをほとんど見ておらず、熊元さん側には「自分のことを知らないのに大丈夫なのか」という警戒もありました。
先輩後輩だった2人が紅しょうがとして動き始める
初めて2人で食事へ行った場所は、相方探しの話し合いとしては少し珍しい本格的なインドカレー店でした。
ところが熊元さんは辛いものが苦手で、先輩の前で残すのもまずいと思いながらカレーを食べていたところ、稲田さんからコンビを組もうと持ちかけられます。
熊元さんはその場で承諾し、2人は2014年10月に「紅しょうが」を結成しました。
ブリの白子解散から約半年後、新しいコンビでの活動が始まったことになります。
熊元さんは当時の稲田さんについて、脱色した金髪で目つきが鋭く、地べたに座っていることも多かったため、最初はかなり強そうな先輩に見えていたと話しています。
実際にしゃべると印象は違ったものの、NSC講師の本多正識さんから見ても、結成当初は熊元さんが2期先輩の稲田さんに気を使っている様子があったそうです。
舞台を重ねるうちにその距離は薄れ、外から見ても互いに対等に言い合える関係へ変わっていきました。
大阪で舞台を重ねTHE W決勝へ進むまで
紅しょうがは大阪を拠点に舞台へ立ち続け、結成4年後の2018年に「女芸人No.1決定戦 THE W」で初めて決勝へ進みました。
熊元さんによると、THE Wへの出場をきっかけにコンビを知ってもらう機会が増え、舞台に立つ本数も以前より増えていったそうです。
2019年には今宮戎マンザイ新人コンクール新人漫才奨励賞を受賞し、2020年のTHE Wでは準優勝まで進みます。
その翌年の2021年、地元の和泉市で開催した「紅しょうがまつり」では、まだ集客に不安があった会場へ母親が友人を連れてきました。
その人数は約30人で、小学校教師として地域で長く働いてきた母親の人脈が、今度は娘のライブの客席へつながりました。
紅しょうがは2021年、2022年もTHE W決勝へ進み、優勝に届かないまま決勝の常連となっていきました。
上京とTHE W優勝|長く活動した大阪から東京へ
大阪で仕事を重ねていた2人に次の大きな変化が起きたのは、2022年のTHE Wが終わった直後でした。
もともと2人は「THE Wで優勝したら東京へ行く」と考えていましたが、その年も決勝で敗れます。
活動拠点を東京へ移した理由
大会翌日、新大阪から劇場へ向かうタクシーの中で、2人は優勝を待ってから上京する考えを切り替えました。
「負けたけどお互い東京に行こうという気持ちになっていたので、今だと思い重い腰をあげさせていただきました」
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2022年の敗退が、東京進出を先送りする理由ではなく、逆に今動くきっかけになったのでした。
2023年2月には本人の公式Xで、同年4月から紅しょうがが東京へ活動拠点を移すことを発表しています。
吉本興業の公式プロフィールでも、2023年4月から東京を活動拠点とし、渋谷よしもと漫才劇場の所属メンバーとして活動を始めたことが確認できます。
5度目のTHE W決勝で2023年に優勝
東京へ移って約8か月後の2023年12月9日、紅しょうがは再びTHE Wの決勝へ進みました。
2018年の初決勝から数えて、これが5度目の決勝でした。
最終決戦ではスパイク、エルフと争い、審査員から4票を集めて「女芸人No.1決定戦 THE W 2023」優勝を決めます。
結果が決まった瞬間、稲田さんは涙を見せました。
「一等賞を取れたことが本当にうれしいですし、一緒にやってきてくれてありがとう」
TVガイドWeb
大学4年でNSCへ入り、最初のコンビを約4年続け、その解散後に出会った熊元さんとのコンビは、結成から約9年で初めて大きな賞レースの一等賞を手にしました。
THE W優勝後の現在|写真展で学生時代の友人と再びつながる
THE Wでの優勝後、稲田さんは賞金をテレビ出演や生活の話題だけで終わらせず、自分を被写体にした企画にも使いました。
2024年には、これまでの芸人活動とは少し違う場所で本人を見せる写真展『MARRY MIKI』が開かれます。
THE Wの賞金から写真展『MARRY MIKI』を開催
『MARRY MIKI』は「新しい婚活」をテーマにした写真展で、稲田さん自身を被写体にしたセミヌードを含む作品が展示されました。
2024年10月に東京・渋谷で開いた会場には、4日間で4,000人以上が訪れています。
THE Wの賞金を使う企画だったことから、稲田さんは入場料を取ると賞金を使う意味が薄れるとして、写真展を無料で開催しました。
東京開催への反響を受け、同年12月14日から17日には大阪・南堀江でも開催され、東京と大阪を合わせた累計来場者数は8,500人を超えました。
大阪会場に小中高大の友人が集まった
大阪会場の初日だけでも約1,200人が訪れ、その中には芸人になってから知り合った人だけでなく、ずっと昔から稲田さんを知る人たちもいました。
「小中高大の友達がたくさん来てくれて、それだけでもう大阪でやって良かったと思いましたね」
MARZEL
高校時代に仲のよかった友人の中には子育て中の人も多く、夫に子どもを預けて久しぶりに仲間同士で集まった人もいました。
友人からは、写真展が久しぶりにみんなで集まれる場所になったことを喜ばれ、学生時代の感覚で楽しんでくれたと稲田さんは話しています。
芸人の仕事を心配していた両親との現在
大学時代にNSC行きを反対した両親は、稲田さんが芸人になった後もしばらく「就職したらどうか」「教員免許を取ったらどうか」と話していました。
THE Wの決勝へ進むようになった後にも就職の話は続きましたが、本人が生活できるだけの収入を得ていることが家族にもわかるようになり、2025年のインタビューでは、数年前から言われなくなったと明かしています。
父親はいまも芸人という仕事を完全には理解しきれていないそうで、娘のネタを見た感想も、勉強の成績以上に厳しいことがあります。
2023年のTHE W決勝では、両親は自宅の1階と2階に分かれて放送を見ていたそうです。
芸人を進路として想像できなかった家庭から始まり、親が娘の賞レースを何度もテレビで見守るところまで、家族との関係も時間とともに変わってきました。
大阪府和泉市で教育の仕事が身近な家庭に育った稲田美紀さんは、大学在学中に自分でNSCへ進む道を選びました。
最初のコンビとの4年間を経て熊元プロレスさんと出会い、紅しょうがとして大阪から東京へ活動の場所を広げています。
THE W優勝後には写真展の大阪会場へ学生時代の友人たちも集まり、昔から続く人間関係が現在の活動の中にも再び姿を見せています。
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