豊田裕大さんは、俳優としてドラマや映画へ出演する一方、2026年現在も『MEN’S NON-NO』専属モデルとして活動しています。
2019年にモデルオーディションを通過し、2021年にはトップコートへ所属して俳優デビューしました。
- 週末に姉と兄のバスケットボールを見に行くことが自然な家庭環境だった。
- 姉と5歳上の兄の影響で3歳ごろからバスケットボールを始めた。
- 現在の道につながる原点:オーディション
現在の姿からは芸能活動へ一直線に進んできたようにも見えますが、3歳ごろから大学まで、生活の中心にあったのはバスケットボールでした。
地元の神奈川県小田原市を離れてバスケ強豪校の寮へ入り、高校ではそれまで経験してこなかった壁にぶつかり、大学へ進んでからようやく別の仕事を考え始めています。
しかもMEN’S NON-NOのモデルオーディションを受けていることは、ファイナリストになるまで両親へ話していませんでした。
豊田裕大の生い立ちと家族|小田原で兄と姉を追いかけた子ども時代
豊田裕大さんは1999年4月10日生まれで、本人によると生まれた場所は神奈川県小田原市です。
父親と母親のほか、8歳上の姉、5歳上の兄がいる3人きょうだいの末っ子として育ちました。
週末は体育館へ|兄姉の影響で3歳からバスケを始める
豊田さんがバスケットボールと出会ったきっかけは、先に競技をしていた姉と兄でした。
週末になると家族と体育館へ行き、兄姉がバスケをする姿を見ることが日常になっていました。
「兄と姉のマネをする形で始めて、3歳くらいからバスケが好きでした。」
テレ東プラス
3歳ごろにはボールに触れ始め、BEAMS SPORTSの紹介では7歳から本格的に競技をスタートし、小学生のころには神奈川県のベスト5にも選ばれたとされています。
本人が後年「始めたきっかけがあったというより、もうそこにあった」と表現するほど、幼いころからバスケが身近な環境でした。
5歳上の兄を超えたくて、小学生でプロを目指す
ただ兄姉について行くだけだった時期を過ぎると、豊田さんの中では5歳上の兄に勝ちたいという気持ちが強くなっていきました。
小学生になるころには、将来の目標としてプロバスケットボール選手を思い描いています。
遊びの延長で始まったバスケは、小学生のうちに将来を考えるほど大きな存在になっていました。
一方で、家では道端の石や鉱物にも興味を持ち、落ちている石を拾ったり、鉱物図鑑を買ってもらったりしていたそうです。
ジュースの前は牛乳|家族が作ったバスケ中心の生活
豊田家には、子どもがジュースを飲むときは先に牛乳を飲むというルールもありました。
牛乳を飲んだあとにジュースまで飲むため、本人はお腹が「たぷたぷ」になっていたと笑っています。
後年になって、身長や身体のことを考えて両親が牛乳を飲む習慣をつけてくれたのではないかと感じたそうで、バスケを続けやすい環境も家族が整えてくれていたと話しています。
父・母・8歳上の姉・5歳上の兄との5人家族
兄姉との年齢差については、2023年のインタビューで本人が明かしています。
「5つ上の兄と、8つ上の姉がいます。」
JUNON TV
上の2人が親に反抗して怒られる様子を見ていたため、自分は言うことを聞いておこうと考えることが多かったとも振り返っています。
中学校は小田原市立白山中学校の卒業生であることを同校が2023年に紹介しており、中学までのバスケでは本人が「メインで活躍できていた」と話しています。
家族情報
公開情報で確認できている家族について、続柄・職業・補足・出典を整理しています。
中学まで中心選手だった豊田裕大が、静岡のバスケ強豪校へ
地元でプレーしていたころとは環境が大きく変わったのが、高校進学でした。
バスケットボールの推薦で静岡県の藤枝明誠高校へ進み、小田原の家族と離れて寮生活を始めます。
中学まで活躍し、バスケ推薦で藤枝明誠高校へ進学
藤枝明誠高校には各地から選手が集まり、豊田さんにとって初めて「自分が中心ではない」バスケ生活が始まりました。
高校に入るまではレギュラーとして試合へ出ていたものの、強豪校ではベンチスタートのシックスマンとして出場する時期もあったと本人が説明しています。
2017年6月の東海高校総体の公式ボックススコアにも、藤枝明誠の背番号5・豊田裕大として名前が残っています。
中学まで当たり前のように試合の中心にいた選手が、全国から集まった選手の中で自分の立ち位置を探す生活へ変わりました。
神奈川を離れて寮生活|共同風呂とトイレに戸惑いホームシックに
競技面だけでなく、生活そのものも一変しています。
自宅では家族と暮らしていた豊田さんにとって、寮の共同風呂や共同トイレも最初は馴染めないものでした。
「最初、寮生活が慣れなくて……。」
ENCOUNT
食事も家で食べていたものとは違い、入寮したころにはホームシックになりましたが、時間がたつにつれて寮生活そのものを楽しめるようになっていきました。
全国から集まった選手の中で、初めて「壁」が続く
小学生のころからプロを目標にしてきた豊田さんにとって、藤枝明誠でのバスケはそれまでとは違いました。
全国から集まった選手と一緒にプレーすると、自分が頑張っても次々に越えられない壁が現れたといいます。
本人が後に「人生最大の挫折」として話す経験は、この高校時代に起きています。
それでもすぐ競技を離れたわけではなく、部活動を続けたまま高校生活を終え、次の進路もバスケットボールを軸に選びました。
高校時代に父から届いた「不動心」の手紙
家族と離れて暮らしていた高校時代、父親から贈られた言葉が「不動心」でした。
現在のMEN’S NON-NO公式プロフィールでも好きな言葉として挙げており、高校時代に父から贈られて以来、事あるごとに思い出している言葉だと明かしています。
幼少期には身体づくりを支えていた家族が、離れて生活するようになった高校では手紙という形で登場します。
豊田裕大さんは1999年4月10日生まれで、本人によると生まれた場所は神奈川県小田原市です。
藤枝明誠高校には各地から選手が集まり、豊田さんにとって初めて「自分が中心ではない」バスケ生活が始まりました。
家族と離れて暮らしていた高校時代、父親から贈られた言葉が「不動心」でした。
高校で壁にぶつかったあとも、豊田さんはバスケ推薦で東京の大学へ進学しました。
大学へ入った時点でも部活動には加わりましたが、高校時代まで持っていたプロへの熱はすでに薄れていました。
高校でバスケに燃え尽き、大学で初めて自分の進路を考える
高校で壁にぶつかったあとも、豊田さんはバスケ推薦で東京の大学へ進学しました。
進学先は明星大学で、2018年4月には同大体育会男子籠球部の新入生として、藤枝明誠出身の豊田裕大さんが紹介されています。
プロを目指したバスケが、大学では将来の夢ではなくなる
大学へ入った時点でも部活動には加わりましたが、高校時代まで持っていたプロへの熱はすでに薄れていました。
幼いころは兄姉についてバスケを始め、その後は活躍を評価され、推薦で高校や大学へ進んできたため、立ち止まって将来を考えたのはこの時期でした。
大学へ進んだ豊田さんは、そこで初めて「自分は何をしたいのか」を考える時間を持つようになります。
サラリーマンとして働いている自分を想像できず、さまざまな選択肢を頭の中に並べるうちに「表現する仕事」が残りました。
大学生活で並べた選択肢の中から「役者」が残った
モデルになりたいから芸能界を考え始めたわけではなく、先に浮かんだ目標は俳優でした。
ただ、芝居の経験はなく、どうやって役者になればいいのかも分からなかったため、そのまま俳優オーディションへ向かったわけではありません。
芸能界で自分が通用するかを確かめるための入口として、豊田さんが目を向けたのがMEN’S NON-NO専属モデルオーディションでした。
「役者を本気で目指すなら、なんらかの確約というか保険が欲しくて。」
MEN’S NON-NO WEB
高校時代に見た『溺れるナイフ』と菅田将暉の芝居を思い出す
役者という選択肢を考える中で思い出した作品の一つが、高校生のころに見た映画『溺れるナイフ』でした。
「高校時代に観た映画『溺れるナイフ』(2016)です。」
STREAM
同作で菅田将暉さんの芝居を見て、喜びや痛み、切なさまで表現する姿に衝撃を受けたと後に話しています。
このころは、のちに自分が菅田将暉さんと同じトップコートへ所属することも、同じ映画に出演することもまだ決まっていませんでした。
俳優への「切符」を求めてMEN’S NON-NOを受ける
役者を目指す方針が決まると、大学生だった豊田さんはMEN’S NON-NOモデルになるための準備を始めました。
ここからはバスケで作ってきた身体まで変える、約5か月のオーディション期間に入ります。
美容室OLTAで髪を切った大学生が、先にヘアカタログへ載る
まず「モデルを目指すならおしゃれにならなければ」と考え、以前から憧れていた美容室OLTAで後藤泰さんにカットをお願いしました。
施術後にSNS用の写真を撮らせてほしいと言われ、そこでMEN’S NON-NOのモデルオーディションを目指していることを打ち明けます。
すると後藤さんからMEN’S NON-NOのヘアカタログモデルへ誘われ、オーディションを受ける前に誌面へ登場することになりました。
実際にヘアカタログへ載った次の号からモデル募集が始まり、豊田さんはそのまま応募へ進みます。
73kgから62kgへ|約5か月をモデルオーディションに注ぐ
一方、バスケを長く続けてきた身体は、本人が「筋骨隆々」と表現するほど筋肉がついていました。
高校時代に少しかじっていた栄養学の知識も使い、たんぱく質の量を調整し、有酸素運動を増やして身体を絞っていきます。
体重は73kgから62kgまで、11kg落としました。
応募から結果発表までは約5か月あり、豊田さんは毎日のように合格者として自分の名前が呼ばれる場面を想像していたそうです。
一次、二次と審査を通過し、ついにファイナリストまで残りました。
モデル挑戦を両親に言えず、高級寿司店を予約する
ところがファイナリストになった時点で、豊田さんにはオーディションとは別の問題が残っていました。
バスケを辞めたことも、MEN’S NON-NOへ応募したことも両親へ伝えていなかったのです。
合格してからなら怒られにくいと考えていましたが、以前から相談していたOLTAの後藤さんに、応援してきた両親へ話したほうがいいと促されました。
そこで父親へ進路を話す場所として選んだのが、高級な寿司店でした。
「殴られないシチュエーションを考えて、高いお寿司屋さんを予約(笑)。」
MEN’S NON-NO WEB
二十歳まで育ててもらった感謝も伝えようと、ありったけの現金を持って店へ向かい、出せる限りの料理をお願いしたそうです。
父親はモデル挑戦を受け入れたものの、「まあ、どうせ落ちるだろう」と一言だけ返しました。

進路の話そのものより先に「どこなら怒られにくいか」を考えて寿司店を押さえるあたり、父へ報告する緊張感が場面ごと伝わってきます。
図書館で合格を知り叫ぶ|母も喜び、父から「がんばれよ」
結果発表の日、豊田さんが合格の連絡を受けた場所は図書館でした。
自分が図書館にいることも忘れて大声を上げ、そのまま両親へ電話をかけています。
母親は電話口で一緒に叫んで喜び、寿司店では「どうせ落ちる」と言っていた父親からは「がんばれよ」と声をかけられました。
2019年、第34回MEN’S NON-NO専属モデルオーディションでラボ シリーズ賞を受賞し、大学生だった豊田さんのモデル活動が始まりました。
MEN’S NON-NOモデルになり、本来の目標だった俳優へ動き出す
モデルになったことで、バスケットボールだけだった生活には撮影、洋服、ヘアメイクなど、それまで知らなかった仕事が次々に入ってきました。
それでもMEN’S NON-NO合格はゴールではなく、大学時代に最初に決めた目標はあくまで俳優になることでした。
モデルの仕事で初めて知った、バスケ以外の世界
2019年12月に公開された最初期のMEN’S NON-NOモデルブログでは、20歳の大学生として自己紹介し、兄姉の影響で続けてきたバスケやゲームの話を書いています。
撮影では表情のニュアンスやポージング、洋服をどう見せるかを一つずつ学び、本人はバスケしか知らなかったため新しいことを学ぶのが楽しかったと話しています。
モデルとして活動を始めて約1年たったころ、本来考えていた俳優への準備を本格的に始めました。
テレビで見たトップコートを思い出し、自分から所属を志望
事務所を探す中で思い出したのが、テレビ番組『プロフェッショナル 仕事の流儀』に出演していたトップコート代表・渡辺万由美さんでした。
過去には両親ともその番組を見ており、こういう会社で働けたらいいという話をしたこともあったそうです。
菅田将暉さんらが所属する事務所は本人にとって「雲の上」のような存在でしたが、自分からトップコートの門を叩きました。
面談ではわざと生意気に|所属まで約5か月考え抜く
最初の面談では、何でも言うことを聞く人だと思われたくないと考え、豊田さんはあえて少し生意気な態度を取ろうとしました。
ところが、その意図は担当者にすぐ見抜かれたそうです。
二次面談の連絡を受けてもすぐには答えを出さず、1か月待ってもらい、その後も検討を続けました。
最終的にトップコートへ所属すると決めるまで、約5か月かけています。
2021年5月、トップコートへの所属が決まり、モデルとして活動していた豊田さんが本格的に俳優のオーディションへ向かいました。
初めて受けたドラマオーディションで俳優デビューが決まる
事務所へ入れば、そのまま順調に俳優の仕事が決まったわけではありません。
ドラマの前にはCMオーディションを2回受けましたが、本人が「全然うまくいかなかった」と振り返る結果でした。
CMオーディションでは苦戦し、ドラマ審査で突然アドリブを求められる
続いて受けたのが、テレビ東京系ドラマ『じゃない方の彼女』のオーディションでした。
準備できることはして会場へ向かったものの、審査中に監督から予定になかったアドリブを求められます。
「え? 聞いてないんですけど!」
MEN’S NON-NO WEB
その場では自分の感覚で対応したものの、本人は終わった時点で「次を頑張ろう」と落選を想定していました。
ところが、初めて受けたドラマオーディションで後川誠役を獲得し、そのまま俳優デビューが決まりました。

モデルの審査では5か月かけて準備したのに、俳優の入口ではいきなり予定外のアドリブだったというのが対照的です。
『じゃない方の彼女』の現場で、監督から一人でテストを繰り返すよう教わる
2021年の撮影現場へ入ると、今度はキャストとスタッフの人数の多さや「バミリ」などの業界用語に戸惑いました。
撮影2日目ごろ、状況をつかめずにいた豊田さんを見た監督が、新人のうちは共演者と話している時間ではなく、一人でテストを繰り返すよう伝えます。
台詞ごとの感情を考え、表情や佇まいまで再現できるよう一人で確認するという、撮影現場での過ごし方をそこで教わりました。
放送後には昔の友人からも連絡が届き、初めてテレビドラマへ出演した反響を実感しています。
大学4年、学業・モデル・芝居を並行して1日1本映画を見る
俳優デビューした2021年は大学4年生でもあり、卒業に向けた学業、MEN’S NON-NOの撮影、ドラマの仕事が同じ時期に重なりました。
仕事へ100%時間を使えない中でも、芝居の勉強として1日1本映画を見ることを決め、移動時間にも作品を見ていたそうです。
2022年3月には、本人のInstagramで大学を卒業したことを報告しました。
バスケ推薦で始まった大学生活の4年間で、進路はバスケットボールからモデル、さらに俳優へと変わっていました。
モデルを入口にした豊田裕大が、俳優として仕事を重ねるまで
大学を卒業したころには、芸能活動と学業を並行する時期も終わり、俳優として複数の作品へ出演するようになりました。
ここから先も出演歴を増やすだけではなく、高校や大学時代に選んだものと再びつながる出来事が起きています。
『銀河鉄道の父』で菅田将暉の弟役|高校時代に見ていた俳優と同じ現場へ
2023年公開の映画『銀河鉄道の父』では、菅田将暉さんが演じる宮沢賢治の弟・宮沢清六を演じました。
大学で役者という進路を考えたとき、高校時代に見た『溺れるナイフ』で菅田さんから受けた衝撃を思い出していた豊田さんが、今度は同じ作品の現場へ入っています。
撮影後には、菅田さんをはじめとした共演者から、役や作品への向き合い方、現場での立ち居振る舞いを学んだと話しました。
なお、豊田裕大さんと菅田将暉さんは実の兄弟ではなく、この映画では宮沢賢治と清六という兄弟役で共演しています。
モデルの「見せ方」と芝居の「表情」が互いの仕事へ行き来する
俳優を始めてからは、ドラマでさまざまな感情を表現する練習をしたことで、モデル撮影でも一つの表情に複数のバリエーションを出せるようになったと感じるようになりました。
反対にモデルの現場で身につけた佇まい、身体の角度、服を美しく見せる方法は、カメラの前で芝居をするときにも使われています。
俳優への入口として選んだモデル経験が、俳優になったあとも別の形で仕事に残りました。
2019年から6年後、MEN’S NON-NO初ソロ表紙で小田原近くへ戻る
MEN’S NON-NOモデルになって6年後の2025年、豊田さんは同誌7月号で念願だった初の単独表紙を飾りました。
カバーストーリーのロケ地に選ばれたのは、地元の小田原にほど近い箱根付近でした。
大学生だった2019年には「俳優になるための切符」として受けたMEN’S NON-NOについて、6年後にはこう話しています。
「メンズノンノは僕にとって始まりの場所だし、その一方で、昔から変わらず憧れている場所でもあるんです」
MEN’S NON-NO WEB
翌2026年にはMEN’S NON-NO7月号で1年ぶり2度目の単独カバーも務め、専属モデルとしての活動を続けています。
小田原で兄と姉を追いかけて始めたバスケットボールは、高校で初めて大きな壁にぶつかるまで、豊田裕大さんの進路そのものでした。
大学でその道を離れたあと、自分で選んだMEN’S NON-NOのオーディションからモデルになり、さらに当初の目標だった俳優の仕事へ進んでいます。
現在は俳優とモデルの両方を続けながら、高校時代に父から贈られた「不動心」も、今なお公式プロフィールに残る大切な言葉になっています。
豊田裕大と似た生い立ちの人物は?
出身地・年代・人生の原点などの共通点から探せます。











