ドラマ『波うららかに、めおと日和』の瀧昌役などで知られ、俳優として出演作を重ねている本田響矢さん。
1999年に福井県で生まれた本田さんは、子どものころから芸能界を目指していたわけではなく、幼少期に思い描いていた将来の夢は警察官でした。
- 名前の『響』は、父がドラムをしていたことに由来する。
- 現在の道につながる原点:コンテスト・公募
- 出身地:福井県
小学校3年生からは剣道を始め、中学では休日も練習や試合に出かけ、高校にもスポーツ推薦で進学しています。
その高校生活の途中、幼いころから一緒に剣道をしていた幼なじみから届いた連絡によって、それまで身近ではなかった芸能界への道が突然動き始めました。
本田響矢の生い立ち|福井で育った幼少期
本田響矢さんは1999年6月20日生まれ、福井県出身です。
現在の所属事務所A-PLUSのプロフィールには、身長175cm、血液型O型、特技は剣道初段と掲載されています。
両親のそばからすぐいなくなる子どもだった
福井県で生まれ育った本田さんは、幼少期について、気がつくと両親のそばから離れていなくなってしまうような子どもだったと振り返っています。
おとなしく両親の横について歩くというより、目に入ったものに興味を持つと自分から動いてしまう少年だったようです。
大人になっても覚えている幼稚園時代の思い出の一つが、クラスのみんなと参加した芋掘りでした。
掘った芋を焼き芋にして食べた場面が、昔の記憶として残っていると話しています。
「少し手のかかる少年だったそうです」
出典:大學新聞「第58号(令和5年4月30日発行)俳優・本田響矢さん」(2023年5月2日)
警察官に憧れていた少年時代
幼少期の本田さんが将来なりたいと思っていたのは、俳優でもモデルでもなく警察官でした。
人々の平和を守る仕事に格好よさを感じ、長く警察官への憧れを持っていたといいます。
芸能界へ入った後の2023年にもその夢を覚えていて、いつか警察官役を演じたいと話していました。
子どものころに目指していた職業は警察官でした。高校2年生でミスターコンに参加するまで、芸能界は本田響矢さんにとって身近な進路ではありませんでした。
本田響矢の家族|両親や弟と過ごした福井での生活
本田さんはインタビューの中で父親、母親、弟について話しており、福井を離れた後も家族とのつながりが続いています。
一方、両親の職業や弟の詳しいプロフィールなど、公に詳しく語られていない部分も多くあります。
小学生の剣道を支えた父親と母親
家族との関係が具体的に見えるのが、小学校3年生で剣道を始めたときの出来事です。
福井県立武道館で剣道の稽古を見た本田さんは、自分もやってみたいと思い、その場限りで終わらせず両親へ頼み込みました。
その希望を受けて剣道を習わせてもらい、そこから中学、高校まで続く生活が始まります。
本田さんの名前にも、両親にまつわる話があります。
父親が以前ドラムをしていたため「響」という漢字を名前に使いたいと考えており、「きょうすけ」「きょうた」「ひびや」など複数の候補があったそうです。
最後は母親が「響矢」という名前を考えました。
「父が昔ドラムをやっていたので、『響』という字を使いたかったみたい」
出典:non-no web「本田響矢『香りにドキッとする』注目の若手俳優の恋愛観を深掘り」(2023年5月19日)
福井を離れたあとも母から届いた作品の感想
家族との関係は、芸能活動のため福井を離れたあとも続いています。
母親は本田さんが作品へ出演するたびに連絡をくれ、「このシーンが良かった」と具体的な感想を伝えてきたそうです。
仕事の企画で母親から手紙を受け取ったこともあり、その手紙は後年になっても大切に保管していました。
2025年のインタビューでは、地元の福井には両親だけでなく祖母や親戚、友人もいると話しています。
東京で生活するようになるとすぐに会える距離ではなくなりましたが、母親は地元を離れる息子を送り出し、その後も出演作を見ながら連絡を続けていました。
「あの手紙は今でも僕の大切な宝物です」
出典:mi-mollet「本田響矢、“なつ美”芳根京子の迫真演技に…」(2025年6月11日)
弟がいる家族|公表されている範囲は多くない
本田さんには弟がいることも本人の過去の発信から知られています。
ただし、弟の名前や現在の職業など詳しいプロフィールは本人や所属先から広く公表されているわけではありません。
父親や母親についても同様で、一般人である家族の情報は、本田さん自身が話してきた思い出を中心に見ると家庭での様子が分かります。
本田響矢さんは1999年6月20日生まれ、福井県出身です。
本田さんの小学校から高校までを語るうえで欠かせないのが剣道です。
中学校へ進学すると剣道部に入り、平日は放課後に練習しました。
中学校を卒業した本田さんは、スポーツ推薦で地元・福井県の高校へ進学しました。
高校でも剣道部に入り、中学から続けてきた剣道に打ち込みました。
写真を渡してしばらくすると、書類審査を通過したという連絡が来ました。
2016年末のグランプリ受賞で、剣道中心だった高校生活に芸能活動が加わりました。
小学校3年生で剣道と出会い、中学では団体戦優勝
本田さんの小学校から高校までを語るうえで欠かせないのが剣道です。
現在の所属事務所プロフィールにも「剣道(初段)」が特技として残っています。
空手を見るつもりが剣道の竹刀に目を奪われた
剣道を始めたのは小学3年生のころでした。
最初から剣道を習うつもりだったわけではありません。
福井県立武道館で空手や柔道、剣道などが行われていることを知り、当初興味を持っていたのは空手でした。
ところが、せっかく武道館へ来たため剣道も見学してみると、竹刀を素早く振る姿が目に入ります。
そこで剣道をやりたいと思い、両親に頼み込んで習い始めました。
高校2年生になって芸能界への入口を作ってくれた幼なじみも、小学校から中学校にかけて一緒に剣道をしていた相手でした。
休日もほぼ休まず稽古した中学時代
中学校へ進学すると剣道部に入り、平日は放課後に練習しました。
土曜日、日曜日、祝日も稽古や試合があり、本人の表現では「ほぼ休みなく」剣道をする生活でした。
毎日のように竹刀を握った中学時代には、福井市で開かれた団体戦の大会で一度優勝しています。
団体戦では自分の一試合だけで勝敗が決まるわけではなく、仲間の結果も合わせてチームの勝敗が決まります。
本田さんは優勝したとき、剣道部の仲間と喜びを分かち合ったことを中学時代最大の思い出として挙げています。
「剣道部のみんなと喜びを分かち合った」
出典:大學新聞「第58号(令和5年4月30日発行)俳優・本田響矢さん」(2023年5月2日)
クラスの中心ではなく、得意科目は数学だった
学校での本田さんは、剣道部で過ごしている時間だけがすべてではありませんでした。
中学生のころのクラスでの立ち位置を、本人は静かなタイプでも中心的なタイプでもなかったと説明しています。
得意だった教科は数学で、反対に苦手だったのは英語でした。
また、中学生のころは今よりぽっちゃりしていて、本人によると当時は特にモテなかったそうです。
剣道の大会へ出ながら過ごしていた少年が、数年後に「日本一かっこいい男子高生」を決めるコンテストへ出場することになります。
本田響矢の高校は啓新高校|スポーツ推薦で剣道を続けた
中学校を卒業した本田さんは、スポーツ推薦で地元・福井県の高校へ進学しました。
母校の啓新高等学校も卒業生として本田さんを紹介しており、芸能活動の本格化によって後に全日制課程から通信制課程へ移ったことを公表しています。
スポーツ推薦で進学し高校でも剣道部へ
高校でも剣道部に入り、中学から続けてきた剣道に打ち込みました。
高校進学の時点では、芸能界へ入るために東京の学校を選んだわけでも、オーディションへ次々応募していたわけでもありません。
小学生で始めた剣道をそのまま高校でも続ける進路でした。
このころの本田さんにとって芸能界は、自分の生活からかなり離れた場所だったと後に振り返っています。
幼なじみから届いた「ミスターコンに出てみたら?」
高校2年生になったころ、生活の流れを変える連絡が届きました。
連絡してきたのは、小学生のころから一緒に剣道をしていた福井の女性の幼なじみでした。
内容は「男子高生ミスターコンというコンテストがあるから出てみたらどうか」というものでした。
周囲に芸能人やモデルの仕事をしている人はいなかったため、本田さん自身にはそれほど関心がありませんでした。
そのため、最初は誘いを断っています。
それでも幼なじみから「写真だけもらえれば、書類はこちらで作る」という話になり、本田さんは写真だけを渡しました。
自分で積極的に応募書類を書いたのではなく、剣道仲間だった幼なじみが手続きを進めたことが芸能界への入口になりました。
「元を辿れば、小学校から中学校にかけて一緒に剣道をしていた福井県の幼馴染」
出典:FAST「本田響矢 “日本一のイケメン高校生”俳優デビューから数年。」(2023年6月2日)
写真だけ渡した応募から「日本一のイケメン高校生」に
写真を渡してしばらくすると、書類審査を通過したという連絡が来ました。
そこから面接を受け、地域のオーディションも通過し、最終審査となる全国オーディションへ進みます。
最終候補者たちは一定期間、歌やダンス、演技などのレッスンを受けました。
それまで剣道に打ち込んできた高校生にとって、急に始まった歌唱やダンス、演技のレッスンはそれまでとは違う世界でした。
本田さんは周囲を見て、自分より立ち居振る舞いが格好いいと感じる参加者が多く、グランプリは難しいだろうと思っていたそうです。
ところが最終ステージで呼ばれた名前は「本田響矢」でした。
2016年12月、「男子高生ミスターコン2016」でグランプリを受賞しました。
本人は名前を呼ばれた瞬間、喜ぶより先に自分なのかと驚いたと振り返っています。
コンテストを自分から探していたわけではなかった高校生が、この受賞を境に芸能界へ進むことになりました。
芸能活動のため全日制から通信制へ転籍
グランプリを取った後も、高校生活そのものがその場で終わったわけではありません。
啓新高校によると、本田さんは在学中に「イケメン高校生日本一」となった後、芸能活動に専念するため全日制課程から通信制課程へ移りました。
その後、啓新高校の通信制課程を卒業しています。
本田響矢さんの母校は啓新高校です。母校は、全日制課程から通信制課程へ移籍したのち卒業したことを公式に紹介しています。大学については、本人や所属先が進学先を公式プロフィールとして公表している事実は確認されていません。
高校生で芸能界へ|モデルと俳優の仕事が始まる
2016年末のグランプリ受賞で、剣道中心だった高校生活に芸能活動が加わりました。
ただし、「日本一のイケメン高校生」と呼ばれるようになったからといって、本人の中ですぐに芸能人としての自信が生まれたわけではありません。
グランプリ後も学校の先輩たちが応援してくれた
グランプリ受賞後、本田さんには肩書きに対するプレッシャーがありました。
学校へ戻れば「グランプリを取った」といじられたり、周囲との関係が変わったりするのではないかという不安もあったそうです。
実際の学校では想像していたような反応はなく、一学年上の先輩を含め、祝福してくれる人が多くいました。
高校で普段から顔を合わせていた人たちが温かく声をかけてくれたことで、これから頑張ろうと思えたと本人は話しています。
「温かい声で応援してもらっていたんです」
出典:FAST「本田響矢 “日本一のイケメン高校生”俳優デビューから数年。」(2023年6月2日)
遠い世界だった芸能界で新しい環境に必死だった
コンテストを経て芸能界へ入った本田さんですが、当時は芸能界をかなり遠い場所だと感じていました。
ミスターコンを受ける前まで剣道中心の生活を送り、身近に芸能関係の仕事をする人もいませんでした。
そのため仕事が始まってからは、毎日のように現れる新しい環境へ順応することに必死だったといいます。
2023年のインタビューでは、芸能界へ入った当初の感覚について、思い描いていた成功のレールを順調に進んだという話ではなく、正解がない中で「これで合っているのか」という不安が続いていたと明かしました。
「毎日新しい環境に順応するのに必死」
出典:GINGER「本田響矢は胸キュンメーカー♡ 素の部分を根掘り葉掘り」(2023年4月3日)
Popteenモデルを経て2017年に俳優デビュー
ミスターコン受賞後はモデルとしても活動し、2017年からファッション誌『Popteen』に登場するようになりました。
同じ2017年には、テレビ東京系ドラマ『セトウツミ』で俳優としてもデビューします。
剣道部で高校生活を送っていた時期から、およそ一年の間にモデル撮影やドラマ撮影が日常へ入ってきました。
それでも、この段階で「俳優として生きていく」という気持ちまで完全に固まっていたわけではありませんでした。
10代のオーディションと、俳優を続ける気持ちの変化
俳優デビュー後は作品へ出演する一方で、オーディションを受けて落ちる経験も重なっていきました。
ミスターコンで全国グランプリを取ったことと、その後の俳優人生が順調に決まり続けることは別でした。
落選すると合格者を調べて悔しがっていた10代
10代の本田さんには、同世代の俳優に対するライバル意識がありました。
オーディションへ行って不合格になると、その役に誰が決まったのかを自分で調べることもあったそうです。
そこで別の俳優の名前を知り、悔しい気持ちになるという時間を過ごしていました。
経験を重ねるうち、ほかの俳優と自分を比べることより、自分だから出せる表情や芝居をどう磨くかへ意識が移っていきます。
すぐ結果が出なくても目の前の仕事とオーディションを続け、モデルとして始まった活動の中で俳優として過ごす時間が増えていきました。
芝居との出会い直しで「この仕事で食べていきたい」へ
俳優を続ける気持ちが大きく変わった出来事として、本田さんはABEMAのドラマ『私が獣になった夜』と、その作品のプロデューサーとの出会いを挙げています。
役と一つになるように芝居をする面白さを知り、芝居への考え方や向き合い方が変わったといいます。
そこで初めて「この仕事で食べていきたい」と腹が決まった感覚があったと話しています。
高校2年生のミスターコン受賞は芸能界へ入る出来事でしたが、俳優として仕事を続けたいという気持ちは、その後の現場や人との出会いの中で固まっていきました。
福井を離れても母から届き続けた作品の感想
仕事が増え、福井から離れて暮らすようになってからも、地元との関係がなくなったわけではありません。
地元の友人とは時間を決めてオンラインゲームをすることがあり、離れた場所から一緒に遊んでいると話したこともあります。
家族では母親が出演作を見続け、作品ごとに感想を送っていました。
企画で受け取った母からの手紙を読んだときには、離れて暮らすようになっても応援が続いていたことを改めて感じたそうです。
高校生で福井の日常から芸能界へ入った本田さんにとって、地元の家族や友人は東京で仕事を始めた後も交流の続く相手でした。
剣道少年だった経験を抱えて俳優として次の舞台へ
俳優として出演作が増えた後、本田さんが学生時代の剣道について語る機会もありました。
そこで話しているのは、剣道をしていたというプロフィールだけではなく、毎日続いた厳しい稽古の記憶です。
仕事の壁でも「まず自分で考える」
2025年のインタビューで本田さんは、学生時代の剣道には苦しい瞬間もあった一方、それを越えたときの達成感が好きだったと話しています。
俳優の仕事で課題へぶつかったときも、すぐ誰かに答えを聞くのではなく、まず自分で方法を考えるようになりました。
別の演じ方はないか、先輩はどうしているかと考え、勉強になった場面をメモしてから試します。
質問をするときにも、自分なりに答えを考えたうえで先輩に尋ね、そこで新しいヒントを受け取るやり方をしているそうです。
「壁に直面したときの対処法は、ひたすら考える」
出典:BAILA「本田響矢インタビュー『2025年は自分にとって大事なターニングポイント』」(2025年12月21日)
2025年の転機から日曜劇場『GIFT』へ
2025年、本田さんは『波うららかに、めおと日和』で瀧昌を演じ、それまで以上に幅広い世代から声をかけられるようになったと振り返っています。
同年には音楽劇『エノケン』にも出演し、本人が「役者人生においても、自分の人生においても大きな変化があった年」と表現する一年になりました。
翌2026年には、TBS日曜劇場『GIFT』へ朝谷圭二郎役で出演しました。
日曜劇場への出演は本田さんにとって初めてで、車いすラグビーを題材とした作品で新たな役を演じています。
高校時代に芸能界を「遠い存在」と感じていた本田さんは、2026年には日曜劇場の主要キャストとして作品に参加しました。
地元・福井が舞台の主演作と『めおと日和』続編へ
2026年3月には、本田さんの出身地である福井県を舞台にしたFODオリジナルドラマで主演することも発表されました。
FODとA-PLUSの縦型ドラマレーベル「FANFARE」が共同制作する作品で、横画面と縦画面の両方で展開される企画です。
小学校から高校まで剣道に通い、ミスターコンへ応募するきっかけとなった幼なじみもいた福井が、今度は主演ドラマの舞台になりました。
さらに2026年秋には、『波うららかに、めおと日和』の続編で瀧昌役を再び演じます。
フジテレビは2026年10月15日22時から続編を放送すると発表しており、芳根京子さん演じるなつ美との物語は昭和12年へ進みます。
2026年8月時点では、『波うららかに、めおと日和』続編の初回放送日は2026年10月15日と発表されています。未来の予定のため、放送状況は今後変更される可能性があります。
福井で育った本田響矢さんは、小学校3年生から始めた剣道に打ち込み、スポーツ推薦で進んだ高校でも竹刀を握っていました。
高校2年生で剣道仲間の幼なじみからミスターコンを勧められたことで生活が変わり、モデル、俳優の仕事を続ける中で芝居を職業として選ぶ気持ちを固めていきました。
2026年には日曜劇場『GIFT』への出演や福井を舞台にした主演作が決まり、10月15日からは『波うららかに、めおと日和』続編で再び瀧昌を演じる予定です。
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