松本怜生の生い立ちと家族|小松高校の野球部、大阪の大学・TikTokから俳優になるまで

松本怜生
ひと目でわかるプロフィール 松本怜生
まつもとれお
出身地
愛媛県
生まれ年代
2000年代生まれ
活動ジャンル
男性俳優
性別
男性
キャリアの原点
インターネット発信

松本怜生さんは、NHK連続テレビ小説『おむすび』の風見亮介役を経て、2026年には大河ドラマ『豊臣兄弟!』で石田三成役を演じている俳優です。

現在はドラマや映画への出演が続いていますが、芸能界へ入る前は、愛媛県西条市で甲子園を目指して野球を続けた高校球児でした。

高校では膝の大けがを2度経験し、18歳でそれまで思い描いていた野球の道が途切れます。

その後は愛媛を離れて大阪へ進み、大学生活を送りながらTikTokを始め、自分を知ってもらうところから俳優への入口を作っていきました。

松本怜生の生い立ちと家族|愛媛・西条で野球を始めた子ども時代

松本怜生さんは2000年4月27日生まれで、愛媛県出身です。

地元は愛媛県西条市で、子ども時代は父・母・3歳上の姉と本人の4人家族で暮らしていました。

家族はもともとバスケットボールに縁がありましたが、怜生さんが長く打ち込むことになったのは野球でした。

父が買ってくれたバットから、6歳でリトルリーグへ

野球を始めたのは、小学校へ上がるころの6歳でした。

父がバットを買ってくれたことをきっかけに、リトルリーグへ入り、本格的に野球を始めます。

本人は後年、子どものころから高校まで約13年間、甲子園出場を目標に野球へ打ち込んできたと振り返っています。

小学生時代に所属していたクラブは保護者もコーチを務める環境で、野球は本人だけの予定ではなく、家族も一緒に関わる日常になっていました。

夜勤明けで試合へ来た父と、泥だらけのユニホームを洗った母

父は仕事で夜勤がある中、勤務を終えたその足で試合へ来てくれることもありました。

母は肌が弱く、洗い物で手が切れてしまうことがあるほどでしたが、野球から帰るたびに泥だらけになったユニホームを洗ってくれていたそうです。

子どものころには気付かなかった両親の支えについて、成人後には次のように語っています。

「両親には感謝の気持ちでいっぱいです」

東京すくすく

3歳上の姉と育った4人家族、小学生で自分のおむすびも作った

きょうだいは3歳上の姉が1人で、松本家では弟として育ちました。

野球に出かける前の食事にも、子ども時代の具体的な思い出が残っています。

人生で最初に覚えた料理はおむすびで、小学生のころには野球へ行く前に自分で握り、唐揚げなど好きな具を入れてオリジナルのおむすびを作ることもありました。

母に作ってもらった鮭のおむすびもよく食べており、野球とおむすびの組み合わせは高校へ進んでからも続いていきます。

中学から小松高校へ|甲子園を目指して続けた野球

小学校を卒業した後も野球を続け、目標は変わらず甲子園でした。

中学校を経て進学したのが、西条市にある愛媛県立小松高校です。

中学でも野球を続け、愛媛県立小松高校へ進学

中学校時代も野球を続けましたが、中学校名については本人や所属事務所から公表されておらず、公式に確認できる学校名は高校からです。

高校は愛媛県立小松高校へ進み、野球部に入りました。

小学生から続いていた野球は、このころには趣味というより、学校生活の中心を占める存在になっていました。

練習や試合だけでなく、上下関係の中で敬語やあいさつを覚え、後年には野球で身についたものとして礼儀を挙げています。

厳しい上下関係の中で覚えた礼儀と、米2合の食事ノルマ

小松高校の野球部では、体を作るために食事にも決まりがありました。

昼に米2合を食べ、さらに15時におむすびを2個食べるというノルマがあったと本人が明かしています。

母は当初、栄養を考えておむすびにさまざまな具を入れていましたが、怜生さんにとっては決められた量を食べ切るだけでも大仕事でした。

そこで、少しでも早く食べられるよう母へ頼んだのが、具を入れないおむすびでした。

「ぼくの希望で具なしにしてもらっていたんです」

女性セブンプラス

高校2年で膝を負傷、約1年かけて復帰を目指す

甲子園を目指して練習を続けていた高校時代に、それまでの生活を変える最初のけがが起きました。

高校2年のころ、膝の前十字靱帯を損傷する大けがを負い、手術を受けています。

すぐにグラウンドへ戻れる状態ではなく、手術後には歩く練習からリハビリを始めました。

回復までにはおよそ1年がかかり、それまで毎日のように続けていた野球から長期間離れることになります。

それでも復帰を目指してリハビリを続け、高校生活の終盤には再びプレーできるところまで戻りました。

人生年表 松本怜生さんの歩み
幼少期
松本怜生の生い立ちと家族|愛媛・西条で野球を始めた子ども時代

松本怜生さんは2000年4月27日生まれで、愛媛県出身です。

高校
中学から小松高校へ|甲子園を目指して続けた野球

小学校を卒業した後も野球を続け、目標は変わらず甲子園でした。

高校
中学でも野球を続け、愛媛県立小松高校へ進学

中学校時代も野球を続けましたが、中学校名については本人や所属事務所から公表されておらず、公式に確認できる学校名は高校からです。

高校
高校2年で膝を負傷、約1年かけて復帰を目指す

甲子園を目指して練習を続けていた高校時代に、それまでの生活を変える最初のけがが起きました。

高校
高校最後の夏に2度目の大けが|18歳で俳優という進路が生まれた

長いリハビリを経てグラウンドへ戻った後、今度こそ最後の夏を迎えようとしていました。

学生時代
大阪の大学へ進学|一人暮らしとTikTokで俳優への入口を作る

高校を卒業すると、地元の愛媛から離れて大阪へ向かいました。

学生時代
大学名は公表せず、「大阪の大学」へ進んだと本人が明かしている

松本怜生さんが進学先について本人のインタビューで明かしているのは、「大阪の大学」へ進学したというところまでです。

学生時代
大学の友人との約束からTikTokを始め、日没前に走って帰って撮影

大学1年のころ、芸能事務所へ近づくための具体的な行動につながったのが、大学で出会った友人との会話でした。

高校最後の夏に2度目の大けが|18歳で俳優という進路が生まれた

長いリハビリを経てグラウンドへ戻った後、今度こそ最後の夏を迎えようとしていました。

しかし高校3年でも、同じ膝に大きなけがが起きます。

復帰直後、夏の大会2か月前に再び靱帯を負傷

2度目の負傷は、甲子園につながる予選を目前にした時期でした。

夏の大会のおよそ2か月前、膝の靱帯を再び切ってしまいます。

13年ほど追い続けてきた甲子園が最も近くにあった高校最後の時期に、2度目の大けがで野球を続けることが難しくなりました。

後年のインタビューでは、高校時代に前十字靱帯断裂を2回経験したことを振り返り、このころを自身の俳優人生の出発点として語っています。

病院へ向かう車で泣く母を見て、自分も涙が止まらなかった

2度目のけがをした試合には、母も応援に来ていました。

膝を傷めた怜生さんはベース上から立ち上がれなくなり、その後、母が運転する車で病院へ向かいます。

助手席から運転席を見ると、母も泣いていました。

「僕も涙が止まりませんでした」

東京すくすく

小学生のころから試合や洗濯で野球を支えてくれていた母の前で、最後の大会へ向かう途中の野球生活が止まりました。

入院中に映画やドラマを見続け、初めて俳優を考えた

再び入院生活へ入ると、それまで野球に使っていた時間が大きく空きました。

そこで映画やドラマを次々に見るようになり、『溺れるナイフ』『恋空』など、自分が過ごしてきた高校生活とは異なる青春を描いた作品にも触れています。

修学旅行にも行けなかったことから、俳優になれば役として自分が経験できなかった高校生活を生きられるのではないか、と考えるようになりました。

地元・愛媛を舞台にした映画『ディストラクション・ベイビーズ』も印象に残り、見慣れた場所が映像の中ではまったく違って見えることに驚いたと語っています。

甲子園以外の進路をほとんど考えていなかった18歳の病室で、初めて「俳優になりたい」という新しい目標が生まれました。

「僕の俳優人生は18歳の絶望から始まっています」

ViVi

大阪の大学へ進学|一人暮らしとTikTokで俳優への入口を作る

高校を卒業すると、地元の愛媛から離れて大阪へ向かいました。

まだ俳優になれる見通しがあったわけではなく、まず大学へ通いながら芸能界へ近づく方法を探す生活が始まります。

大学名は公表せず、「大阪の大学」へ進んだと本人が明かしている

松本怜生さんが進学先について本人のインタビューで明かしているのは、「大阪の大学」へ進学したというところまでです。

大学名そのものは公表されていません。

当時は、いきなり俳優になりたいと家族を説得する自信がなく、勉強をするため大阪へ行きたいと伝えて進学を認めてもらったと話しています。

愛媛を出て初めての一人暮らしでは、生活面でも知らないことがありました。

ある日、部屋の照明が切れると、管理会社なら家の困りごとを解決してくれると思い込み、「照明が切れたので変えてください」と電話したことがあります。

管理会社から自分で交換するものだと教えられ、本人も後になって「世間知らずすぎた」ころの出来事として笑いながら話しています。

大学の友人との約束からTikTokを始め、日没前に走って帰って撮影

大学1年のころ、芸能事務所へ近づくための具体的な行動につながったのが、大学で出会った友人との会話でした。

その友人から、TikTokを始めて1か月でフォロワーが1万人になったらプレゼントを買うという話を持ちかけられ、実際に投稿を始めます。

松本怜生さんには、その時点ですでにSNSで知名度を上げ、芸能事務所から声をかけてもらうという狙いがありました。

「知名度を上げて、事務所からスカウトされるために」

WEBザテレビジョン

当時のTikTokでは自然光を使った映像が流行していたため、大学の授業が終わると日が沈む前に家へ走って帰り、撮影して投稿する生活を繰り返していました。

タピオカ店で働きながら自己プロデュース、キャンディが約1000本に

動画を投稿するだけではなく、自分が画面の中でどう見えるかも考えていました。

少しやんちゃな雰囲気を出すために選んだ小道具が棒付きキャンディで、キャンディをくわえた姿で動画を撮るようになります。

そのころはタピオカ店でアルバイトもしており、店で働きながら大学とTikTokを続けていました。

動画で使っていたキャンディをファンから差し入れてもらうようになり、多いときには手元に約1000本あったそうです。

フォロワーが増えて大学を辞め、事務所を選んで東京へ

TikTokのフォロワーが増えると、考えていた通り複数の芸能事務所から声がかかるようになりました。

そこで大学は卒業まで通わず、途中で辞めたと本人が明言しています。

大学を辞め、声をかけてくれた複数の事務所から現在の事務所を選んだことで、病室で思い浮かべた俳優という進路が具体的な仕事へ近づきました。

本人によると、「俳優をやりたい」と考え始めてから実際に芸能界へ入るまでにはおよそ3年かかっています。

2021年から芸能活動へ|『彼とオオカミちゃんには騙されない』で「レオ」として注目

芸能活動は2021年に始まり、活動拠点を東京へ移す段階では、もう一度家族と進路をめぐる話をすることになりました。

幼いころに野球を始めるきっかけを作った父は、今度は俳優という選択にすぐ賛成したわけではありませんでした。

父の反対、母と姉の後押しを受けて21歳で上京

東京で挑戦したいと家族へ伝えると、父はそれまで積み上げてきたものを手放すことになるとして強く反対しました。

一方、母は俳優を目指す息子の背中を押し、父にも二人で見守ろうと話してくれたそうです。

3歳上の姉も弟の選択を支持し、東京へ進む話をする場には母と姉がいました。

「二人があの場にいなかったら、東京へ来られていなかったかもしれないです」

FAST

21歳で上京し、愛媛の野球少年だったころとは生活も仕事も大きく変わっていきます。

2022年『彼とオオカミちゃんには騙されない』へ出演

名前が広く知られるきっかけの一つになったのが、2022年のABEMA『彼とオオカミちゃんには騙されない』への出演でした。

番組では「レオ」として参加し、当時はTikTokのフォロワーが30万人を超える存在として紹介されています。

高校時代まで野球中心だった松本怜生さんが、TikTokを経て21歳で恋愛番組の参加メンバーとして画面に登場しました。

『パパとムスメの7日間』などで俳優として作品へ進む

同じ2022年にはドラマ『不幸くんはキスするしかない!』へ出演し、俳優として映像作品へ進み始めました。

続いてTBS『パパとムスメの7日間』では小関智弘役を演じ、連続ドラマで初めてレギュラー出演を果たします。

SNSでは自分自身をどう見せるかを考えていた時期から、作品の中で別の人物として見られる仕事へ移っていきました。

『下剋上球児』『おむすび』へ|野球少年だった過去と重なる仕事

俳優として作品を重ねる中で、かつて長い時間を過ごした野球と接点のある仕事も巡ってきました。

出演作を増やしていた2023年から2024年にかけて、高校時代までの経験を思い出させる作品が続きます。

2023年『下剋上球児』で高校球児を演じる

2023年、TBS日曜劇場『下剋上球児』第6話から椎野陽大役で出演しました。

椎野は五十鈴高校野球部の投手で、所属事務所のプロフィールでも特技に野球を掲げる松本怜生さんが、ドラマの中でも高校球児を演じることになりました。

高校最後の負傷から数年後、今度は俳優として野球のユニホームを着て作品へ参加しています。

2024年、家族も喜んだ朝ドラ『おむすび』出演

2024年度後期のNHK連続テレビ小説『おむすび』では、ヒロイン・結が憧れる書道部の先輩、風見亮介役を演じました。

朝ドラ出演は本人が以前から持っていた目標の一つで、決まったときには地元の家族も喜んでくれたと明かしています。

作品名にちなみ好きなおむすびを聞かれ、「塩むすび」と答えたところ、母から「手抜きみたいやん」と言われたというやり取りもありました。

風見は書道部のエースという役でしたが、松本怜生さん自身が本格的に書道をするのは小学生以来で、役作りでは半紙を約400枚用意して自宅でも練習しました。

野球部を応援する横断幕へ「一致団結」と書く撮影では、実際に本人が筆を持っています。

故郷へ戻った写真集から大河『豊臣兄弟!』へ

俳優として東京で活動するようになった後も、愛媛県西条市とのつながりが消えたわけではありませんでした。

2025年には仕事で故郷へ戻り、幼いころから高校まで過ごした場所そのものが作品になります。

2025年、写真集で小学校・小松高校・野球をした河川敷を再訪

2025年4月25日、初の写真集『Re : Ø』を発売しました。

撮影は全編、故郷の愛媛県で行われています。

ロケ地には、実際に通った小学校、野球部で過ごした小松高校、時間を忘れて野球を練習していた河川敷が選ばれました。

タイトルの「Re」と「Ø」には再び原点へ戻る「原点回帰」という意味が込められています。

6歳で野球を始めた土地を離れて俳優になり、数年後には撮影のために同じ学校や河川敷へ帰ってきました。

かつて反対した父と大河のオーディション台本を練習

同じころ、家族との関係にも子ども時代とは違う場面が生まれていました。

俳優を目指して東京へ出ようとしたときには反対していた父も、出演作を見るようになり、感想を母を通して伝えるようになったそうです。

そして大河ドラマ『豊臣兄弟!』のオーディション前に帰省した際には、父がせりふの練習相手になりました。

父は台本を見ながら、受かるとしたら石田三成ではないかと予想していたといいます。

出演が決まり両親へ電話すると、母が驚く声の横で、父は自分の予想通りだったという反応を返しました。

2026年『豊臣兄弟!』石田三成役へ

そして2026年、NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』で石田三成役を演じています。

2026年5月放送の第18回で石田三成が初登場し、松本怜生さんにとって初めての大河ドラマ出演となりました。

愛媛県西条市で父からバットを受け取り、甲子園を目指した野球生活は、高校最後の負傷を境に終わることになりました。

病室で見つけた俳優という進路を、大阪の大学とTikTokを経て現実の仕事へ変え、2025年には写真集の撮影で小学校や高校、野球をしていた河川敷へ戻っています。

2026年に大河ドラマで石田三成を演じる現在までをたどると、その出発点には西条で続けた野球と、すぐそばで生活を支えていた家族の姿があります。

参考・出典 この記事で参照した主な資料

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